魔術師
神戸 茜
魔術師
怒鳴り声を聞いた後、声が耳に残って頭の中に響いている。
いつもより少し早い帰り道。
まだ日が高い。
家に帰りたくない。
行き交う人達は、みんな家に帰るところだろうか。
帰る家があるだけ幸せだと思いたい。
私の安らぐ場所など何処にもない。
うつむいていればいくらか楽だけれど、人とすれ違うときには顔を上げ、相手に敵意があるかどうか確認しながら歩く。
どうしてみんな生きていられるのだろう。苦しいだけなのに。
歩けば歩くほど、家が近付いてくる。
そこの角を曲がって、坂を登ると家に帰り着く。
足取りが重くなり、ますますうつむいて、前に進めなくなる。
そのとき、視界の端でガラスが光った。道沿いに数件の店が並んでいる中で、重たい木のドアにステンドグラスがはまり込んでいて、店内の様子が全く見えないお店があった。こんな店が、昨日まであっただろうか。しかし、今光ったのはこのドアのガラスに違いない。
私はその店内の様子を見たいと思った。家のすぐ近くに、私好みの店を見つけたかもしれない。そうであれば、重苦しいこの道を乗り切る糧になるかもしれない。
一縷の望みをかけて、店のドアに手をかけた。
分厚い木のドアを押すと、予想外にすんなり開いた。手応えがないことに驚いたために、全開しそうなドアを体に引き寄せてブレーキをかけたほどだ。
店内は薄暗い。両側に建物があるせいか、外の光が入っていない。
ドアノブに手をかけたまま、そこから踏み出すか、それとも、出て行くか迷った。
迷いながらドアの方を振り返ったら、突然、ドアノブが手から滑り出てドアが閉まった。大きな音が立ったので、びっくりして、同時に、お店の人に睨まれること恐れて店の奥に目を凝らした。
徐々に目が慣れて、店内の様子が見えてきた。
奥にカウンターがある。
その手前は暗い色の絨毯が敷き詰められていて、ビリヤード台が3台置いてある。
カウンターの奥をよく見ると、人影が動いた。
なんとなく恐ろしくなって引き返そうとすると、食べ物のいい匂いが漂ってきた。
「どうせ死ぬんだから。」
私の頭の中で声がした。
カウンターに向かって歩き出した。
ずんずん進んでいくと、数歩でカウンター席にたどり着いた。重そうな木の椅子が並んでいる。
カウンターだと思ったところは、鉄板兼テーブルになっていた。
入口に立っていたときには、そうは見えなかったけれど、ここは、鉄板焼き屋だったのだ。
何か、美味しそうなものを焼いている。
その手元を見ると、男の人の手だった。料理中だというのに腕まくりもしていないワイシャツの袖口が白い。
そこから辿るようにして、その人の肩までを見た。シャツ一枚越しの腕は硬い生地に隠されているが、肩の厚さは分かる。
襟の鋭く尖った形が私を不安にさせる。顔を見てはいけないと言う気持ちが湧く一方で、自分の興味を押し殺さずに解放してやりたくなった。
肌の光る喉元から、首を伝って視線を這い上がらせる。
まだ引き返せる。
そう思っても無駄だった。私はついにその人の顔を見てしまった。
顎、唇、鼻筋。
トロンとして濡れた瞳。
その目が私の顔を見た。
「これ、食べるでしょ。」
その人が言った。
私はその時、財布の中身が僅かだと思い出した。
食べてしまったら、払えない。
「どうせ死ぬんだから。」
それは、確かに私の頭の中の声だった。しかし、同時に、その人の呟きでもあるような気がした。
はっと気づくと、焼きたての料理は私の口元に寄せられていた。
その人が、一口大に切って菜箸でつまんだものである。
「ほら、食べてご覧。僕は魔術師だから、僕の作る料理は美味しいよ。」
魔術師は箸の先で唇をかすかに触れて刺激する。
魔術師と目が合っていると、怖くて体が動かなくなるのに、ずっとこのままでいたいような感情が込み上げてくる。
箸の先をぬめぬめと伝った汁の味が口腔内に侵入して、その味を知ってしまった。
抵抗のために食いしばっていた奥歯の力を抜いて、魔術師の差し出す食べ物を受け入れた。
口に含んだ瞬間に旨味が溢れて、舌の上でとろけるような食感である。じゅわじゅわと咀嚼して楽しんだ。
魔術師は鉄板の上に箸を向けて、もう一つ、つまみ上げた。
その、美味しいものを早く入れて欲しくて、私の口は自然と開いた。
魔術師は失笑した。
私はショックを受けて口を閉じた。欲しがってはいけないとうつむいたが、箸が鉄板にあたる音に反応して顔を上げてしまう。
自分の卑しさが悲しくなって、涙がこみ上げた。それでも、我慢ができなくなってて、急かすように魔術師の顔を見た。
視線を感じた魔術師は目を動かして、私の両目をじろじろ覗き込んだ。
「ダメだよ。まだ、待って。まだ、我慢して。もう少し。」
私は口をだらしなく開けて、目では「欲しい」と訴えた。
魔術師が真剣な顔になって、手首を動かしながら、手元と私の顔を交互に見た。
そうして、今だというタイミングを捉えて、箸を私の口に押し入れた。少し苦しい。箸にこじ開けられた唇が閉じずに喘ぎながら咀嚼した。旨味の滲み出た汁が、唇からこぼれてしまう。
もったいない。全部飲んで味わいたいのに。
夢中になって飲み込むと、あっという間になくなってしまった。
こってりと美味しい食べ物なのに後味が全く残らない。おかしいぞ。まるで夢の中ようだ。
そう考えた時、私の視線は空をさまよった。
それに気づいた魔術師は、まだ私の口の中に入れたままだった箸を左右に振って私の気を引いた後、引き抜いた。
それから、箸をシンクに放って、空いた両手で私の顔を挟んだ。
つめたくも、あたたかくもない掌が私の両の頰を覆っている。
「余計なことを考えたね。」
魔術師の顔が目の前に迫る。
目をそらせずに、心臓が早鐘のように鳴った。
「いいだろう、どうせ死ぬんだから。」
胃がぎゅっと痛くなって、喉に、何か苦い味がこみ上げた。慣れ親しんだ味である。
その味のおかげで、少し気がそれて、私は魔術師から目をそらすことに成功した。
魔術師がいる場所のずっと奥の方に、小さいすりガラスの窓があって、そこから光が入り込んでいる。
その手前に、私は美しい少年の像を発見した。
ぎゅっと顔が圧迫されて、私は再び魔術師の顔を見た。
「願いを叶えてやる。」
魔術師の言う、願いとは何のことだろう。
私の願い、それは、今の辛いことが全部終わることだ。苦しい気持ちが消えることだ。
魔術師には、それが叶えられるのだろうか。
考えていたら、頭がぼんやりとして視界の中心には、さっきの少年の像が戻った。
「きれいな男の子。」
私は、魔術師の存在さえ忘れかけて呟いた。
魔術師の手は私の顔から離れた。鉄板の向こうから、こちら側に回ってきた魔術師が私の襟首を掴んだ。
あまりに激しく引っ張るので、床に倒れた衝撃で頭がガンガン痛む。
魔術師は起き上がることもままらない私の二の腕を掴み、床の上をずるずる引きずった。
ビリヤード台の角に、何度も体がぶつかって痛い。
「恩知らずめが。」
怒りを抑えきれない様子の魔術師の、低く響く声だった。
片手で私の二の腕を掴んだまま、もう片方の手でドアを開けて、私を外に投げ出した。
外の明るさに目が眩んだ。
眩しすぎて何度も瞬きをした。
傷だらけで道に座り込む私を避けて、人が通り過ぎていく。
誰も助けてはくれない。
太陽の白い光がきんきんと頭を刺激する。
足にたくさん怪我をしたせいで、ふくらはぎが硬くなって熱を持っている。
頭痛はさっきよりもひどくなっている。
かっと焼けるような胃の痛みに目を覚ました。頭が痛い。
二の腕に指が食い込むほど、自分の体を抱きしめる姿勢で眠っていた。
死のうと思ったのだ。
毎日を、つらい毎日を乗り切るために飲んでいる苦い味の痛み止めを、今夜はたくさん飲み込んで眠ったのだ。
だけど、本当は、死ぬとは思っていなかった。死ぬほど眠りたかったのだ。もっと深く眠って、何もかも忘れたかっただけだ。
「どうせ死ぬんだから。」
そう考えていれば、耐えられる気がした。
「どうせ死ぬんだから。」
その言葉を支えにして、やっと、今日一日を終えたのだ。
それでも、明日の朝は、また起きて一日を過ごす。
本当に耐えられなかったら、死んでしまおう。そうすれば、終わらせることができる。
その前に、もう一度魔術師に会いたい。
魔術師 神戸 茜 @A_kanbe
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