金の亡者と呼ばれた男の英雄譚
鹿嶋おびに
第1話 脅迫風告白
「お前が頷きさえすれば孤児院は潰れなくて済むのだぞ?」
男、ミリオン・フォン・ヌーマロウム子爵は誰もが羨む眉目秀麗な顔をこれでもかと歪ませながら、修道女サーティス・プーラへと詰め寄った。
孤児院の一室、修道女であるサーティスが普段生活する為に与えられたその部屋には、簡素なベッドと、代々孤児院で受け継がれてきたのであろう年季を感じる机が置かれているのみだ。
机の引き出しは獲物を前にした猛獣のようにだらしなく開きっぱなしになっていて、引き出しの中には羽根が付いたペンや質の悪そうな数枚の紙が几帳面に並べられていた。その几帳面さから部屋の主であるサーティスが、机の引き出しを開けっぱなしにしたのではなく、単純に引き出しのしまりが悪くなっているのだろうと伺えた。
そんな絵に描いたような清貧を漂わせるこの部屋にはもちろん、灯りなんて上等なものがあるはずもなく、サーティスのごくごく平均的な女性の身長よりかなり上にある小窓から、夕暮れ時の淡い太陽の光が差し込むのみで、秋特有のその夕暮れの赤は部屋の白い壁紙を焔のように染め上げた。
その小窓の向かいの壁際で男ミリオンは、サーティスを壁を背にさせて逃げ場がない様に追い詰めていた。
ミリオンの身長と同じくらいの位置にある小窓から差す夕暮れの光は、壁と同様にミリオンのこともまた染め上げ、そのつやつやとした暗い赤褐色の髪色を艶やかな血を連想させるような赤に染め、夜の商売をするような女のようにくっきりとした目鼻立ちのミリオンの顔にわずかに影を差した。
「頷きさえすれば、今の貧しい生活ともおさらばだ。 綺麗なドレス、砂糖たっぷりのお菓子、大陸中の美食、優雅な香りと果実味にあふれた最高級のワイン……、好きなだけ堪能できるぞ。お前が俺のものになればな 」
ミリオンは自分の悪魔のようなささやきに対して、数秒の後にごくりとつばを飲み込む音を確かに聞いた。
この音はミリオンが今まで何度となく聞いてきたどこまでも下品で卑しい音だ。圧倒的な財力を前にすると、どんな人間だってこの音を奏でてしまうとミリオンは信じている。
公平公正と言われているそれしか取り柄のないような男だって、ドレスと一緒に見合わないプライドを着飾った女だって、後に名君と謳われるとある国の王だって、家族思いの純粋な幼い子ですら、財力を前には自らの持てるものをかなぐり捨て、その頭を垂れてしまう。
目の前にいるこの女だってそうだ。いくら敬虔やら聖女やら周りに囃し立てられていても、今の状況とはかけ離れた満ち足りた生活が送れるのならば、自然と頭を縦に振ってしまうように人間は出来ているのだ。
ミリオンはそう、信じていた。
唾を飲み込む音を聞いて、あと少しでサーティスが陥落できると手ごたえを感じたミリオンは、さらに甘言を述べようとする。
甘い誘惑でその豊満な体を溺れさせてみせよう、この女を財力の……、自分の虜にしてみせよう。
そんな思いを胸に新たな誘惑の言葉を駆使しようとするが、何故かミリオンの口からは、思うように誘惑の言葉が出てこない。いつもだったなら、泉のように次々と沸いてくる誘惑の言葉が、だ。
口を開こうとすると、口内は乾いたパンを食べたときのように水分の一滴も残さないくらいに渇き、言葉を考えるための頭は高熱を出したと時と同じように中身が何処か別の場所に飛んで行ってしまったあのようだった。
他に異変はないかと、ミリオンは自分の身体を探るため神経を体中に駆け巡らすと、手先までプルプルと震えていた。
まるで自分より圧倒的に権力を持つ者と、数年前に一度だけ経験した自分の生殺与奪権が握られた状況でする緊張の交渉のようだと頭の片隅が分析した。
そしてミリオンはどうやらそれが一番しっくりくるようであると気付いた。
孤児院といえど自分が恋焦がれる女の部屋で自分とその女、ミリオンとサーティスは二人きり。
しかも二人の距離は近く、サーティスはミリオンによって壁際に追いやられている。
当然、ミリオンの眼前にはサーティスの姿しかない。正確にはその視界の端で老朽化で砂のようにこぼれ落ちる白壁の一部が見えていたが、ミリオンの目にはサーティスの姿しか映らなかった。
ミリオンの目がまず捉えているのは、サーティスの修道服の上からでもわかる、いや修道服を着ているからこそ強調されている胸のふくらみである。ミリオンはそこまでサーティスが働く教会の熱心な信徒ではないが、これが神の神秘だと言うのならば、ミリオンは今日にでも修道士になるために少し長い茶色の髪を切って、教会で修行を始めることであろう。それほどサーティスの胸は簡素な黒の修道服の中にパンパンと詰まっていた。
もちろんミリオンはその胸にだけ惹かれたのではない。胸が神秘であるのならばその存在もまた神秘だ。
首筋から顔にかけてのわずかに露出した肌は、市で目を引ん剝くほどの値段をつける陶磁器のように白く、社交界で見かけるような夫の稼ぎの半分以上を使って肌のケアに余念がない貴婦人をあざ笑うかのようにつやつやとしていた。修道女であるサーティスは、肌のケアをするような余分な財など持ち得るはずもなく、これが天然のものなのだ。
なんて神は残酷なのだと、一度、修道士になろうかと考えたミリオンの考えを改めさせるには十分なほどの美しさであった。
さらにはその修道服にわずかにかかる金色の髪もまた、丁寧に紡がれた金糸のように美しく、肩にかかった毛先はまるで有名な職人の手による刺繍のように輝きを放ち、それらは頭頂部から、一切よどみのないしなやかな線を描いている。瞳もまた海の青が空の青を映し出していると信じられていたようにこの世界を青く映し出し、力強くこの世界を見据えようとしている。
何よりもミリオンはサーティスに近づいたことで、仄かに鼻腔に香ってくるミルクのような甘い匂いに頭をくらりとやられていた。いくら色々言おうと人の本能は魅力的な匂いには逆らえない。何処かに行ってしまったと錯覚していた頭の中身はどうやらこのミルクで煮られていたようだった。
こうなって初めて、ミリオンは自分の口の中が渇いている理由にも気づいた。
簡単な話だ、唾を飲み込んだのはサーティスではなく、ミリオンの方だったのだ。ミリオンは自分が唾を飲み込んだ音をサーティスのものと勘違いして、悦に入っていたのであった。
「子爵様、何度も申し上げているように私は決して貴方の者にはなりません」
サーティスはそんなミリオンを青の2つの瞳で睨みつけ、きっぱりと告げる。
瞳には目の前の男への嫌悪の炎が籠っていたが、その炎はミリオンへの憐みの心でわずかにゆらゆらと揺らいでいる。
しかしミリオンはそんなサーティスの神の信徒としての一面に気付くことは無く、嫌悪にのみびくりと身を震わせた。
自分はサーティスに金を与えようとしているはずである。潰れかけている孤児院を救い、サーティスに今とは比較できないほどの贅沢な暮らしを自分の傍らで死ぬまで保証すると誘いの言葉をかけているのだ。
であるならば、サーティスから返ってくるのは好意の視線のはずなのだ。金を前にした多くの人々がするような卑しさや媚びへつらう感情がその視線にわずかに混ざったとしても、自分はサーティスからの好意の視線で迎えられるはずだったのだ。
「な、ならば、こ、孤児院はどうするのだ? 」
だからこそ、何故自分が嫌悪の視線を向けられているか、ミリオンには微塵も理解できない。ミリオンの心臓はこれまでの人生の中でも一番強く打ち、額に汗をかき、ミリオンが自分が口にするつもりなど毛頭もなかった言葉がもはや意思とは関係なく、口から溢れ出ていく。
「こ、子供たちは路頭に迷うことになるぞ? ある程度の年齢の子供は大丈夫かもしれないが……、小さい子供たちはどうなるのだろうな? ……も、もう一度言おう、お前が頷きさえすれば孤児院は助かるのだ 」
「……」
ミリオンのそんな玩具の前で駄々をこねる幼子のような一言にサーティスはうつむいた。
サーティスの肩の上の美しい刺繍は崩れ、毛先は行き場を失って揺れ動く。
サ―ティスはさらに唇をぎゅっと噛んだ。拳にも力が入った。唇に歯先が食い込み、手のひらに爪先が食い込み、血が出るほどの力が入ってるにも係わらず、悔しさで感覚はなかった。願うことならば、その悔しさが目の前の男に悟られないようにという思いだけが胸中を渦巻いた。
だからこそ、サーティスは戸惑うことなく、あっさりと決断することができた。
ゆっくりと顔をあげて、サーティスは再び両の瞳でミリオンを睨みつける。その青の瞳からはもはや嫌悪の炎は消え去り、代わりに他人のための決意という美しき炎が燃え盛っていた。
「……私が頷けば、子供たちは助かるのですね?」
数秒うつむいたかと思ったら、顔を上げてこちらを見据えるサーティスの様子にミリオンは僅かに首をかしげる。ミリオンの目にはサーティスの決意の表情は穏やかなものとして映っていた。あれだけの強い嫌悪は数秒で収まるものではない。それがどうなったのか、ミリオンは不思議でならない。
「そうだ、お前もついにその気になったか?」
だがそのサーティスの口から出た言葉は、ついに自分のものになると決めたものだと思えたので、ミリオンはやっと平静を取り戻した。
そして自分のものになるというサーティスの宣言をどのように受け取ろうか考えていると、サーティスから自分の予想とは異なる言葉が投げかけられる。
「裏を返せばそもそもあなたや私がいなければ、孤児院が潰れる理由も無くなるということですよね? 」
「えっ?」
サーティスはぐっと両手でミリオンを突き飛ばす。突然の行動にミリオンはそのまま仰向けに倒れ込みそうになり、慌てて両手で体を支えようとした。
結果、ミリオンは頭や背中を地面に強く打ち付けることだけは避けることが出来たが、その視界は真上を見上げた。
「愛と誇りはお金では買えないんですよ、哀れな子爵様」
何をされたかと、どういう状況なのかと、どうすべきなのかとミリオンが考える前に頭上のサーティスから、次の言葉がミリオンに投げかけられる。
そしてミリオンはその視界にどこから取り出したのか、果物用であろう小さな包丁をその手にぎゅっと握るサーティスの姿を捉えた。
「ひっ……」
ミリオンの喉の奥から小さな悲鳴が漏れた。下腹部がきゅっと縮み上がるような感覚がミリオンを支配した。
ミリオンは必死に今の状況をどうにかすべく考える。
するとミリオンの頭脳はサーティスがしている小さな誤解を気づかせた。確かに、もしミリオンがサーティス欲しさに孤児院を潰そうとしていたなら、ミリオンが居なくなれば、サーティスがミリオン殺しの罪で捕まっても孤児院を潰す理由はなくなるだろう。いやサーティスのことだ、ミリオンを殺したならば自分で自分の命を絶つはずだ。
サーティスのそんな計画に気づいたミリオンは、そこに一部誤解があるとサーティスに伝えようと試みる。実はミリオンが死のうと孤児院は潰れてしまうのだ。いやむしろ自分が居なくなることで孤児院は潰れてしまうのだと。
だがサーティスが握る包丁のきらめきが、夕日で赤く染まるのを見てしまったミリオンからとっさに出てきたのは弁解の言葉ではなく、
「ちょ、ちょっと待て、か、金ならいくらでもあるぞ……、いくらだ、いくら欲しいんだ!?」
といった、今までの人生ですっかり言い慣れてしまった誘惑のための言葉であった。
そんな事情を知る由もないサーティスは、すっかり腰が抜け、目に涙を浮かべながら必死に命乞いをするミリオンの姿を見る。死への恐怖からか、ミリオンの額からは汗が止まらず、水浴びをした後のように茶色い髪がびっしょりと濡れ、襟元がじんわりと水気を帯びていた。
「本当に哀れな方ですね、あなたは……」
サーティスは自分がこれからすることを考えると、ミリオンがこんな風になるとはかけらも予想していなかった。
だが冷静になってみると、ミリオンがこうなるのも納得である。そんな認識のズレに少しだけ愉快さを感じつつ、サーティスは包丁を片手に持ったまま器用に神に祈りを捧げた。
「主よ、主に与えたもうたこの命を自らの手で捨てるる不義を許し給え」
そう言うとサーティスは右手で自らの首元に包丁の短い刃を沿わせる。経験か本能か、そこは命を絶つには一番適した箇所であった。
「子爵様、あなたにもきっといつか神の救いがあるよう、お祈りいたします」
最後の瞬間、サーティスは目の前の男にも祈りを捧げた。そうして、サーティスの手に力が籠る。
自分が死ねば、孤児院が助かると信じて。
「ね、ネイア、ネイア!! いるか!? 早く止めろおおおおおぉおおお!!」
「かしこまりました、坊ちゃん」
その瞬間、ミリオンの決死の叫びに反応して、どこからかメイド服を着た銀髪の女性が現れる。それと同時にサーティスが力を失い、くらりと倒れかけた。
目の前にいたミリオンは立ち上がり、サーティスが地面に倒れてしまう前に慌ててその身を抱きかかえる。
ミリオンの胸の内にずしりとサーティスの命の重みがのしかかった。
平時であればサーティスのぬくもりに冷静でいられない状況であるのだが、今のミリオンは別の意味で冷静でいられるはずがない。思い人の命がかかった状況なのだ。
「えっ、ちょっと、もしかして間に合わなかったのか!? 」
突然倒れて、ミリオンの腕の中にだらりと全身を預けるサーティスの様子にミリオンは万が一を疑って、自分の従者である銀髪メイドのネイアに尋ねる。
「気絶させただけですよ」
ネイアはその鮮やかな宝石を思わせる緑の瞳で主人であるミリオンを見ると、サーティスの手から奪った髪色と同じ色の包丁を掌の上でくるりと回して遊ばせた。
ミリオンの想像よりも呑気なその態度にミリオンは逆に不安を募らせる。
ミリオンとネイアはそこそこ付き合いが長いが、ネイアは深刻な状況ほどおどけて見せるのだ。
「ほ、本当か? 」
「嘘ついてどうするんですか……」
今回も主人を安心させるためのネイアの態度だと思ったミリオンは再度尋ねるが、ネイアは呆れたようにするばかりだ。
「こ、このまま起きないってことは? 」
「2時間もすれば起きるんじゃないんですか? 」
さらに聞くとネイアはさらに呆れたようにする。ミリオンはこれにいてもたっても居られなくなり、ついにはネイアに大声で指示を出した。
「い、いや、もしかしたら万が一ってこともあるかもしれん。王都からメディスを今すぐ呼び寄せろ!! 」
「メディス様は先月から宮廷付きの侍医になりましたけど? 」
「構わん、金さえ払えばどうとでもなるだろう!」
「それに今すぐ呼び寄せるとなると……」
「転移屋かヒポグリフ便の店先に金貨の袋でも放り投げてやれ!! 」
「はぁ……、かしこまりました」
主人の頭の中ではもう結論が出ているようだから、もう好きなようにさせようとネイアは指示を遂行すべく動き出すのであった。
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