ハイド・バイパー

SKY

第1話 はじまり

 秋月雅也(あきづきまさや)が自分を見つめる視線に気が付いたのはほんの1時間前のことだった。最初は気のせいだと思っていた。しかし高校から帰る途中でコンビニに寄った後も、その視線は執拗に付いて回り、雅也は気味が悪いと同時にその視線の主は一体何者なんだろうと気になった。振り返って見ても自分を見ているような人はいないし、どこにでもいるような平凡な男子高校生の自分をずっと見ているような酔狂な人がいるとも思えない。雅也はわざとショーウィンドーの前で立ち止まってみたり、本屋の万引き防止用のミラーをちらちら見上げてみたりしたが、結局その視線の主を見つけることができずに家まで帰ってきてしまった。

 両親は共働きでまだ家に帰ってくる時間ではない。雅也は鍵を開けて家に入り、そのまま2階にある自分の部屋へと向かった。

 部屋のドアを開けて中に入った雅也は、一瞬自分の眼を疑った。ベッドの上に男が腰を下ろしていたのだ。

「おかえり、雅也」

 男は静かにそう言った。

 全身黒ずくめの恰好をし、御丁寧に黒いサングラスに黒い革の手袋までしている男は、どう見ても胡散臭いとしか思えなかったが、その口調は柔らかく、白い顔の口元は微笑んでいた。

「あ、あんた、誰!?なんで俺の部屋にいるんだよ!?か、鍵は!?」

 雅也は後ずさり、部屋のドアに勢いよく背中をぶつけた。

 男はくくっというような笑い声をたて、立ち上がった。身長は165センチの雅也よりもかなり高く、黒い服装のせいか、全体的にほっそりして見えた。そして、座っていた時には気付かなかったが、長いさらりとした黒髪が腰の辺りまであった。

 男はゆっくり雅也に近付くと、雅也の眉間に手袋のまま右手の人差し指を当てた。

「わぁ!な、何!?」

 雅也はぎょっとしてその手を掴んだ。誰だか分からない変な男がいきなり現れて何も言わないまま眉間に触れてきたのだ、何をされるかわからない。こわごわとその手を払いのけた。

「そう怖がるな。別にきみに危害を加えるつもりはない」

 男は笑った。

「ただちょっとだけ、きみに思い出してほしいことがある」

「はぁ!?」

 雅也は面喰った。思い出す?何を?

「で、それにはこうするのが手っ取り早いだけだ」

 そう言って、男は再び雅也の眉間に指を伸ばそうとする。

「ちょ!ちょっと待ってよ!大体あんた誰なんだよ!?勝手に人の家にあがりこんで何なんだ!?」

 雅也の反論に男は溜息を吐いた。

「それをいちいち説明するのが面倒だから、思い出してほしいと言っている」

 男はふん、と鼻を鳴らし、それからゆっくりとベッドに戻った。

「仕方ない。……きみも落ち着いてそこの椅子にかけたらどうだ?」

 顎で雅也の勉強机の椅子を示す。雅也はなんとなくほっとしながら椅子を引き出し、背もたれを前にしてまたがった。

 男は口元に笑みを浮かべると、長い脚を組みそれから淡々と話しだした。

「では自己紹介しよう。私に名前はない。名前がないときみも呼びにくいだろうから、そうだな、仮にガイとでもしておくか。今後はガイと呼んでくれ」

「は?名前が……ないって……何だよそれ……」

 雅也はますます面喰った。

「人間は何にでもすぐ名前を付けたがるからな。しかし名前がないものもたくさんある。私もその中の一つにすぎない」

 ガイはまるで自分が人間ではないもののようなことを言った。

「きみの名前にしても、それは単にきみを他の個体と区別するための記号のようなものだ。 ……名前の話はどうでもいい。私の目的は、きみに接触し、きみの記憶を引き出すことだ。きみはある事情で記憶を全て剥奪され、この家で育てられた。そして、記憶を取り戻した時、きみの本来の姿も戻るだろう。しかし、それ以降のきみにはこの安穏な生活は保障されない」

「はぁ!?」

 ガイの言葉は雅也には訳が分からないことだらけだった。記憶を剥奪?誰に?何で俺が?

「あんた頭おかしいんじゃないの?何を言ってるのかさっぱりわかんないよ」

 雅也は反論した。

「……だから私は説明するのが面倒だと言っている。人間というものは本当に厄介な生き物だな」

 ガイは呆れたように呟いた。

「では、きみは吸血鬼というものは知っているか?」

「きゅ、吸血鬼!?」

 何を言い出すかと思えば今度は吸血鬼?

「映画とか小説にある、血を吸って永遠に生きるとかいう……?」

 雅也はあっけにとられながらも答える。

「そうだ。尤もあれは人間が創造した作り話にすぎないが、あれに似たものは本当に存在する。血ではなく人間の生気のようなもの……イドを吸いとり、永遠の生を生きるものだ。我々はそれをバイパーと呼んでいる」

「……バイパー?」

 雅也はおうむ返しに呟いた。なんとなくその言葉に聞き覚えがあった。

「バイパーは古来から人間の中に紛れ、人間を餌としながら生き続けている。イドを吸われた人間は気が狂うか、あっさり死ぬかのどちらかだ。死んでも外傷もなければ何の変化もないから、誰も何も疑わない。映画のゾンビなどと違って死んだ者が生き返ることもないし、他人に伝染するということもない。……以前はバイパーもその存在を疑われないよう寿命の短かそうな老人だけを狙っていたのだが、今では誰彼構わず襲うようになった。確かに、イドは若い者の方が強くて旨いからな」

「……う、旨い!?」

 雅也はぎょっとしてガイを見た。

「あ、あんたもそのイドってのを吸うのか!?」

 ガイは口の端をきゅっと上げた。

「……食指が動けば。だが我々の主食は人間と同じものだ。イドは言ってみればおやつのようなもので、勿論人間に害を与えることもない。我々は人間と共存する立場であって、バイパーとは違う」


 雅也はガイの話にだんだん引き込まれていくのを感じていた。 荒唐無稽だ、と思いつつも、先程から雅也の胸の中で何かがざわざわという音を立て蠢いている感じがした。

「それで……その……バイパーと俺に何の関係があるんだ?……俺の記憶って、バイパーについてのことなのか?」

「簡単に言えば……きみはバイパーを倒すために生まれた。だが、今のきみにはバイパーを倒す力はない。きみの失われた記憶を取り戻すことがその力をも取り戻すことになる。しかし、剥奪された全ての記憶を取り戻すのは簡単なことではなない。私ができるのはきみの記憶の断片を戻すことだけで、あくまでもきみ自身が記憶を取り戻したいと熱望しなければそれは永遠に失われたままだ。そしてバイパーも、永遠にこの地で生き続けることになる……人間の累々たる死骸の上に」

「ちょ、ちょっと待ってよ、俺がバイパーを倒す?俺一人で?そんなの無理!!絶対ムリっ!!普通の高校生だよ?なんで俺がそんな怖そうなもんと戦わないといけないわけ?あんたがやっつければいいんじゃん?それともこれってドッキリカメラかなんか?俺をかついでる?俺なんか騙しても何にもならないよ?」

 雅也は半分笑いながら、半分は戸惑いながら口にした。本当だったら嫌だ、というのが正直な気持ちだった。

「信じなければそれでもいい。ただこれだけは言っておく。きみが記憶を取り戻さない限り、バイパーは増え続け、そのうちきみの両親や友達も死ぬことになるだろう。もしかしたら力のないきみも殺されるかもしれない。……イドを吸われるのは人間にとっては耐え難い苦痛らしいから、そうならないよう充分気を付けることだな」

 ガイはそう言ってくくっと笑った。

「気を付けろと言っても、無理か。バイパーは見た目は人間と変わらない……今の私のようにな」

「そ、それじゃあ、どうやってそいつらと戦うんだよ?人間と変わらない格好してたら、分からないじゃないか!」

 雅也は椅子の背もたれを握り締めた。ガイの言い方では死ぬのが当然のように聞こえる。

「そうだな……見分け方だけは教えておこう」

 ガイは言い、おもむろにサングラスを外した。色の白い、細面の端正な顔をしていた。

「この眼だ。バイパーもこういう眼をしている。もちろん虹彩の色はまちまちだが」

雅也はまじまじとガイの眼を見た。

 その眼は金色で、黒い瞳孔が大きく丸く開いていた。ガイは立ち上がり窓の傍に近寄った。そしてまた雅也の前に戻ってくると、背を屈めて雅也の前に顔を突き出した。

「どうだ?」

 金色の眼の中の黒い瞳孔が今度はぎゅっと縦長に細くなっている。それはまるで猫の眼のようだった。

 ガイは再びサングラスをかけ、ベッドに腰を下ろした。

「他にも違いはあるが服を着ていれば分からないから、その違いについてはそのうち教えてやろう」

 雅也は、ガイの話が本当のことのように思えてきた。実際に、今目の前にいるこの男は猫のような眼をしていて、自ら人間ではないと告げているのだ。しかしあまりにも非現実すぎて雅也の頭の中は混乱し、全くと言っていいほど論理的な思考が出来なかった。

「……記憶が戻ったら、俺はどうなるんだ?さっきあんたはこの生活は続けられないって言っただろ?」

 雅也は少し躊躇いながら聞いた。

「正確に言うなら、生活を続けられないと言うより、違う生活が待っているということになる。秋月雅也という高校生は、この世に存在しなくなるのだ」

「はぁ!?」

 また訳の分からないことを言い出した。

「俺は俺だろ?存在しないって……どういうことだよ?俺は死ぬってこと?」

「きみの名前はきみを表す記号だと言ったはずだ。きみは存在するが、秋月雅也は存在しない」

「全っ然、分からない!!もっと分かるように説明してくれよ!」

 雅也の言葉にガイは頭を振って溜息を吐いた。

「いいか?秋月雅也というのはきみの名前であってきみ自身じゃない。きみが生きているということも、きみが秋月雅也として生活してきたことも、全ては周りの人間がそう思っているだけのことなんだ。もちろんきみ自身もそう思って今まで生活してきた訳だが……。周りの人間がきみを秋月雅也だと認識していなければどうだ?……きみを見ても誰も何も思わない、きみのことは誰も知らない、きみという人間は存在しないことになる。両親だろうと、親友であろうと、きみが秋月雅也であることの証明にはならない。つまり、きみが記憶を取り戻した時には、きみは全く別の存在になるということだ。きみであって、秋月雅也ではない存在になるということだ」

 雅也はますます頭が混乱した。

「……母さんも父さんも、俺が分からなくなるってこと?だって中学の卒業証書とか、出生届だってある訳だろ?俺がいたことの証明なんていくらでもあるじゃないか!?」

 雅也は椅子から立ち上がり、勉強机の上の本棚に向かった。分厚いアルバムを手に取りガイへ突きつける。

「ほら、写真だってある!生まれた時からの写真だ!これだって俺の証明じゃないのか!?」

 ガイはアルバムを受け取りぱらぱらと頁をめくった。

「確かに、これはきみの写真だ。だが、きみが秋月雅也だという証拠にはならない。同じように出生届があっても、それが確かにきみだ、という証拠はどこにもない。きみの両親もきみを知らないと言えば、きみはきみであって秋月雅也ではない」

「なんで?俺は母さんと父さんの子だよ?なんで俺を知らないなんて言うんだよ?」

「だから何度も言っているように、両親は秋月雅也の両親で、きみはきみなんだ。きみの両親は確かに秋月雅也を知っているだろうが、それはきみじゃない」

 雅也は髪の毛を掻きむしり、いやいやをするように頭を振った。

「…… そんなの嘘だ!誰も俺のことを知らない?そんなのありえないだろ?なあ、俺を騙してるだけなんだろ?何だよ、全然訳がわかんないよ!俺は俺で、じゃあ秋月雅也は誰なんだよ?俺が二人いるの?いい加減にしてくれよ!!あんたの話を聞いてるとこっちまで頭が変になる!」

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