第33話 紫吹 肇という存在 ⑤


「夏向っ!」



 夏向を求めて渋谷中を探し回ったが見つからず、僕は菊地原プロダクションの事務所へと帰ってきた。道中雨に降られ体はビショビショに濡れてしまうが、そんなことは些細な問題だった。



「あら蕗村さん、お帰りなさい。どうしたの、そんなに濡れて息まで切らしちゃって……」


「秦泉寺さん、夏向は? 夏向は帰ってきていませんかっ!?」



 事務所の中にいたのは、秦泉寺さんと社長だけだった。他のマネージャーさんや女の子達は仕事なのか、何処にも見当たらない。



「おやおや、そんなに濡れていては風邪を引いてしまう。秦泉寺くん、早く彼女にタオルを」


「はい、社長。すぐに用意します」


「夏向は、戻ってきていないんですか!?」



 濡れている事なんてどうでもいい、僕の知りたい事は夏向がここにいるかどうかだ。脇目も振らず、僕は秦泉寺さんの元へ駆けよった。



「ちょっ、蕗村さん。パソコンだってあるんだから、濡れたまま体のまま入ってこないで」


「夏向は、何処ですか!」


「なんなの、もう。私は見てないけど、二人は一緒だったんじゃないの?」


「バレちゃったんです、夏向に僕の事が! 僕が、男だって事が!」


「なんですって!」



 目を大きく見開き、秦泉寺さんは化粧が崩れる程に大量な汗を流す。

 枢木夏向が真実を知った――、これは僕にとってだけではくマネージャーである秦泉寺さんにとっても一大事なのだ。



「……秦泉寺くん、聞き間違いかな? 蕗村くんはさっき、自分が【男】と口にしたように聞こえたのだが……どういう事か説明してくれるかね?」



 社長の表情も窓の向こうに見える空同様に曇っている、この真実は世界で僕とお母さんと秦泉寺さんの三人だけ(今となっては夏向と琴美の二人も足して五人)が知っている真実なのだ。

 僕は喫茶店で起こった事を、包み隠さず秦泉寺さんと社長に伝える。自分が女ではなく男であることから始まり、喫茶店で起こった悲劇に至るまで。

 

 夏向は何も持たず出て行ってしまったことで、彼女の所持品は全て僕が持っていた。携帯もここにあるので連絡を取るには秦泉寺さんに頼むしか方法が無く、僕は事務所へと戻ってきたのである。



「ダメね、夏向の家に連絡したけど帰ってないみたい……」


「夏向の家を教えてください! 僕、夏向が帰って来るまで待っています!」


「……今のあなたが行っても、きっと夏向を悪い方へ刺激するだけになるわ」


「でも!」


「とにかく、この件は私と社長に任せてあなたは寮に帰りなさい。いいわね」


「……わかりました……」



 秦泉寺さんに全てを託した僕は、膝を折ってその場に崩れ落ちた。



「しかし、蕗村くんが男の子だったとは……。長年沢山のアイドルを見てきたが、今日ほど驚いたことはない」


「申し訳ありません、社長。時機を見てお話をするつもりではいたんですが……」


「いや、君に枢木くんのプロデュースを任せると言ったのはワタシだ。君が責任を持ってやろうとしたことに、今更ワタシから咎めるつもりはない」


「……ありがとうございます……」


「しかし、枢木くんをこのまま終わらすには惜しいアイドルだ。真実を知った上でどんな結論を出すのか、ワタシはそれを待つことにするよ。それに蕗村くん、君も……ね」


「はい……、わかりました……」



 後悔してもしきれない感情に胸が詰まり、嗚咽を漏らす。

 泣き叫んで去っていった夏向の姿が、脳裏に焼きついて離れなかった……。


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