第32話 紫吹 肇という存在 ④
「はぁ、はぁ……人の多いところであんな事しちゃマズイってわかってくれた?」
「はぁ、はぁ……う……うん。これからは気をつける……」
009を出た僕達は、建物の陰に身を顰め荒くなった息を整えた。シュンとなってしまった夏向の様子に、本気で反省しているようだと息を吐く。
「今頃、009の中は大騒ぎだろうねぇ……。これじゃ、とてもショッピングどころじゃないや」
「咲ぃ~、とにかくどこかお店に入ろぉ~。暑くて……倒れそうだよぉ……」
「うん、そうしようか……」
一応の警戒はしつつ周囲を見渡して、僕と夏向は歩き出した。日陰に身を寄せながら進むと、ようやく見つけた喫茶店へ吸い込まれるように入る。
お店の中は天国だった、冷房があるだけでこんなにも違うものなのか……。
「いらっしゃいませぇー、二名様でよろしいですか?」
「あ、はい」
「畏まりました。では、お席へご案内します」
女性の店員さんはそう言って微笑むと、踵を返し歩き始める。
僕と夏向は彼女の後ろをついていくが、「あの、できれば窓から離れた奥の席に座りたいんですけど……空いてますか?」という注文に対し、「でしたら、丁度良いお席が空いております」と顔色一つ変えずに言って案内してくれた。
「咲、どうしてわざわざ奥の席に座ろうと思ったの?」
「窓の無い奥の席なら、窓の外から人目に触れる心配も無いと思ったから」
「あ、そっかー。咲、頭良い! 学校でも成績優秀だったんじゃない?」
「いやいや、そんなことないってば」
一応期末考査ではクラスで一番を取ったけど……、まさかこれくらいの事で夏向から秀才扱いされるとは思いもよらなかった。
その後、店員さんに冷たい飲み物とホットケーキを頼んだ僕と夏向は、テーブルに手を乗せて一息ついた。
「一時はどうなる事かと思ったけど、なんとかなったね」
「咲が居てくれてよかったぁ、私一人だったら今頃大変なことになってたと思う」
「でも、結局ショッピングは出来なかったね。せっかく夏向が服を選んでくれてたのに……帰りにまたどこか別のお店に行って探してみる?」
「ううん、もうショッピングのことはいいよ。だって、私の洋服は、咲が作ってくれるもん」
そう言って、夏向は顔を赤くして僕に微笑みかけてくる。彼女のその笑顔に、僕もたまらず耳朶をつまんでしまった。
「ねぇ、咲。私、あなたの事をもっと知りたいの! 教えてくれないかな?」
「わ、私のこと?」
店員さんが持ってきたジュースを飲んだ僕に、夏向はそんなことを訊いてきた。
「私のプロフィール、一通り見てもらった通りなんだけど……」
「そうじゃなくて、これまで咲が歩んできた道というか思い出っていうか……先週の電話の件もあるしとにかく私は気になるの! 咲のこと、もっと知りたい!」
僕のことを知りたい、そう訴える夏向の表情は真剣だった。
そんな純粋な瞳で見つめられて、僕はまた自己嫌悪に陥る。こんなにも無垢で優しい女の子を、ずっと騙してしまっているのだから……。
「アイドルの夏向からしてみれば、あんまり面白い話じゃないと思うけど……」
「いいから、いいから。咲のことならなんでもいいの!」
「じゃ、じゃあ……私の生い立ちの話とか……」
「うんうん! 聞かせて聞かせて!」
僕は自分が男であることを秘匿し、話せる範囲内のことを夏向に伝えた。
夏向のことを知ったのはテレビの番組だったこと。
御空宇津保という裁縫のうまい先輩のこと。
面倒見は良いけど、おっちょこちょいの幼馴染みが居ること。
シークレットライブに行くことをお母さんが許してくれなかったこと。
そしてライブへ行くために、テストで一番をとったこと等々。
「テストで一番取ったなんて、すごいことだよ! 私、勉強なんて全然できないから……そうだ! 今度、私に勉強教えてよ」
「えぇっ!」
「咲先生、私英語と国語は悪くないんだけど……数学が苦手で……」
まさか、あの妄想が現実化する時が来るなんて思いもしなかった。
二人で勉強って、今から考えただけでも心が躍るっ!
「やっぱりあなたは……肇ちゃん、なんだね」
ドクンっと胸が大きく鼓動した。
肇、それは久しく聞いていなかった僕の名前だった。それを「ちゃん」付けで呼ぶのは、僕の知る限り一人しかいなかった。
夏向と話をしている僕の横へ現れた、女の人。薄い銀色フレームのメガネに肩まで伸びた黒髪、肌は少し日焼けしているようで褐色めいていたが間違いない。
この女の人は、僕の幼馴染み……渡良瀬琴美だ!
「……咲、この人と知り合い?」
「ひ、人違いじゃ……ないかな?」
「人違いなんかじゃない! さっきからずっと、二人の話を聞いてたんだから!」
証拠を突きつけられ、僕は言葉を失う。あの話を聞かれてしまっている以上、もう言い逃れはできない。
「あなた、枢木夏向でしょ! さっき『009』に居たっていう。SNSで出回ってる服装と髪型が一緒だし!」
と、琴美は携帯を取り出し、SNSに投稿されている写真を僕と夏向に見せつけてきた。
「そ、それは……」
「肇ちゃんがお父さんの所へ行ったっていうのは聞いていたし、おばさんにも確認したから嘘じゃないんだろうなぁ~って思ってた。だから私、お母さんが仕事で東京に行く用事があるから、肇ちゃんに会えると思って一緒につい来たの……」
そこまで言うと、琴美は僕の顔を食い入るようにジッと見つめてきた。
目を逸らそうとしても、その眼力に気圧されて身動きが取れない。
「最近、蕗村咲って人がテレビに出ているのを見て、私は身近にいる人物に心当たりを覚えた……。小さい頃からずっと肇ちゃんを傍で見ていたからわかる、緊張したら瞬きが多くなることも、照れたら右耳の耳朶を触るく癖も私は知っているから。あなたは紫吹肇、私の幼馴染の男の子! そうでしょ!」
バンっとテーブルを叩き、琴美は僕が男であることを堂々と宣言した。
「違う! 僕は、ぼく……いや私はっ!」
「紫吹……肇……、男……」
その言葉は夏向の口から、ボソッと呟かれた。
それを耳にしたとき、僕は体全身から血の気が引いていくのを感じた。
「夏向違うの、私は!」
「嘘……ついていたの? 今までずっと、私を騙していたの?」
「そ、それは……」
震える声で僕に問いかけてくる夏向に、返す言葉もなかった。
知られてしまったのだ、絶対に知られてはいけない人に……。
「いや……、いやあああああああああああああっ!」
夏向は声を上げて、喫茶店を飛び出していってしまった。
「夏向、待って!」
「目を覚まして、肇ちゃん! 肇ちゃんは男の子なんだよ! 女の子の格好をしてテレビに出て、それが本当に肇ちゃんのやりたいことなの!?」
追いかけようとした僕の前に、琴美が立ちはだかる。
「琴美は何もわかってないから、そんなことが言えるんだよ! 夏向が事務所のアイドルから、どんなに辛い目に遭っているのか……」
「そんなの知らないよ! だって私は、アイドルじゃないもん!」
「じゃあ僕に関わらないでよ! これは僕が選んだ道だ! 枢木夏向を守るのが、僕の役目なんだ! 僕にしかできないことなんだ!」
夏向の荷物を手に取ると、僕は席を立った。そして目の前に立つ琴美を避けてレジにお金を置き、喫茶店の出入り口戸に手をかける。
「……枢木夏向って、本当にアイドルなの?」
「琴美、今……なんて……?」
琴美の口から信じられない言葉を聞いた気がして、僕は扉にかけた手を止めた。
「枢木夏向が本当にアイドルなのかって言ったの! さっきから聞いてれば、肇ちゃんがいなくちゃダメ? 枢木夏向を守る? そんな弱い人なの、アイドルって!」
「そんな訳無いだろ! 枢木夏向はすごいアイドルだ! 誰よりも強くて、純粋で……優しい心を持ったアイドルなんだよ!」
夏向を責めるような言葉を吐く琴美に怒りを覚え、僕も大声で反発する。琴美が、あんな心無いことを言う人だったなんて思わなかったというショックを抱きつつ、僕は夏向を追って店を飛び出した。
曇天の渋谷の街を、僕は一人駆け抜けた――。
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