修羅の焔
雨
第1章
第1話 アーケードにて
雨が 音を立てて降っている。
黒い雲が空を覆っているせいで、太陽がまだ沈んでいない時間帯だというのに、辺りはすっかり暗い。
そんな中、傘もささずに 錆びついた空き家や古いビルの狭い路地を歩く少年がいた。
彼の着ているパーカーどころか 下のジャージすらも、全身 雨でびしょ濡れだ。
しかし少年は構う様子も見せず、パーカーのポケットに両手を突っ込んで歩いている。
路地を抜ければ、アーケードのある元商店街に出た。
ここにあった商店は寂れ、いつしかこの場所は歓楽街の一角へと変わった。
アーケードには人がいたが、雨でびしょ濡れの彼には見向きもしない。
強いて言えば、黒いスーツの男がすれ違いざまに一瞥をくれただけだ。
己の仕事をこなす者、己の腹を満たす者、己の快楽を貪る者 など様々な大人、もしくは未成年者が各々の欲を満たしていく場所。
少年は周りには目もくれず、一つの場所を目指していた。
アーケードの隅に向かって歩いていく ————
◇◇◇◇◇◇◇◇
雨は止む様子がない、むしろ勢いは増してきた。
大通りまで続くアーケードの端。
その自販機の前で、2人の学生が雨をしのいでいた。
1人は、高校のブレザーを着崩しており、何個か耳にピアスを開けている青年だ。
もう1人は少女、と呼ぶには少し大人びている女子だが、セーラー服を身に纏っている。
青年は真剣な表情で少女を見ている。
「オレ達、やり直さないか? 」
そう言われた少女は缶コーヒーのプルタブを開けようとした手を止めた。
「また その話? 」
長い黒髪を耳にかけながら、切れ長の目を青年に向ける。
スレンダーな身体つきの少女は 平均的な女性と比べても身長は高い。
青年とさほど変わらない背丈だ。
彼女は色あせた赤いベンチから立ち上がった。
「何回も言ってるでしょう。嫌よ。試しに1回付き合ったけど、私アンタのこと 好きになれないの」
「一体、オレの何がダメなんだ? ダメなところは直すからさ……」
「そーいうところよ」
彼女は
「アンタの気持ち重たいし」と言葉を零した。
「なんだよ……。オレはただ、お前のことが好きなだけなのに……。なんでわかってくれないんだよ!! 」
ものすごい形相で青年は 彼女の両肩を掴む。
「だから、何度も言わせないで。わた ————」
その言葉は最後まで言えなかった。
青年が少女の頬を打ったからだ。
少しの間の後、少女は青年を見る。
青年は怒りを露わにした。
「なんで オレの言うこと聞いてくんねぇんだよ! オレはこんなにお前のこと好きで、頑張ってんのに!! 」
なんで 好きになってくれねぇんだよ、と青年の語気は弱まったが、怒りはくすぶったままのようだ。
少女はため息を一つ。
「そう、わかった」
そして、冷めた表情で言い放った。
「アンタとは、もう二度と付き合わない。彼女としても、友人としても、もう二度と付き合わないから! 」
少女は、彼を突き飛ばした。それと同時に缶コーヒーは宙を舞い、すぐ近くにある自販機へと転がった。
彼女は、青年に向けて鼻を鳴らした。
「もう 私に関わらないで」
すると、青年は自分のバッグに手をかける。
そのバックの中から取り出したのは、1本の刃物だった。
「なんでだよ。なんでオレのこと好きになってくれねぇんだよ。オレはこんなに頑張ってるのに。なんで……」
青年はぶつぶつと言いながら、立ち上がった。その様子に彼女は身を固くする。
「なぁ、頼むよ。オレと付き合ってくれよ。そうしてくれれば、何もしないから」
青年はそう言って笑った。その笑顔は狂ってはいるが、決して理性が消えたわけではない。
助けを求められるのか、少女は周りを見た。人通りは少ない。しかも ただならぬことになっているのに、周囲の人達は自分とは関係が無いと無視を決め込んでいるようだ。
誰もこちらに視線を送らず、ただ通り過ぎていく。
「そうね」
それを青年は返答だと理解して顔が綻んだ。しかし彼女は言葉を続ける。
「そんな刃物向けられたら、誰でもそう言うしかないよね。それをわかって アンタは今こうしてる。アンタがそんな最低最悪な男だとは思わなかった」
青年の顔から徐々から笑みが消えていくのを見ながら、彼女はスクールバッグを肩から外す。
「この最低最悪蛆虫男! 」
青年は叫び声を上げながら、少女へ刃物を向けた。
少女はスクールバッグを青年に向けて思いっきり投げた。
その隙に彼女はアーケード内にある交番へ向かおうと走り出す。この辺りにある交番は、それただ一つだからだ。
しかし、投げたバッグはあまり効果はなかった。青年は怒りのまま、彼女へ刃物を突き立てようとする。
彼女は両手で刃物を持つ手首を掴み 抑え込もうとした。
しかし2人には力の差がありすぎる。
少女が自販機に叩きつけられる形になった。
なんとか両手で勢いを殺しているが、徐々に刃物が迫る。
もうすぐ突き立てられるであろう刃物に、少女は顔を背けた。
「邪魔」
青年は 声のする方へ顔を向けると、驚いた。
なぜなら、一歩距離を置いたところに、少年がいたからだ。その身長は青年の肩あたりしかない。
青年が驚いて力が抜けた隙に、少女は彼を突き飛ばした。
突き飛ばしたといえ、青年は立っている状態だ。少女は息が上がったまま、青年を凝視する。
「邪魔なんだけど」
パーカーを被り、下はジャージという格好の少年は微動だにせず、呑気な声で言った。
青年に目を向ける様子もない。
それに青年は激昂し、少年の顔面に刃物を突き立てた。
突き立てた筈だった。
青年が 空を切った切っ先を見るのが早いか、少年が彼の後ろに回り青年の襟を掴むのが早いか、青年の体制が後ろへ傾くと その首に己の腕を巻きつけ、締め上げる。
たった一瞬で、青年が脱力した。
それと同時に少年は腕の力を緩め、青年は重い音を立てて地面へと落下した。
少女はその様子を固まったまま見ている。
少年は、倒した男をまたいで、少女の元へと近づいていった。
「邪魔」
「え? 」
少年は少女の後ろを指差した。
「自販機」
なんのことか分からずにいる少女を見て、彼は眉間に皺を寄せた。
構わず少年が近づいてきたので反射的に少女は避けた。
そんな彼女に興味はないようで、少年は自販機の前に立つ。
すると、難しい顔で飲料を選び始めた。
自販機で飲み物を買いたかったのか、と彼女は理解した。
少女は彼がびしょ濡れであることに気づく。
少年は小銭を出そうとポケットを探るが、彼は舌打ちをした。
「ない」
すると、先ほど首を絞めて気絶させた青年のところに向かい、座り込んで何かごそごそとし始めた。
彼のポケットを探っている動作だ。
「ちょちょちょ ちょっと!」
少年は少女を見上げる。
「ダメだから! 人の
そう言って彼女は、自分の財布から千円札を出した。
「これ 使って」
少年は その千円札をじっと見ているが、受け取る気配はない。
「助けられたお礼、よ」
彼が少女を助けたわけではないことは 彼女もわかっているが そう言った。
少年は少女に一瞥をくれた後、千円札に手を伸ばす。
彼が自販機で飲料を買っている様子を見ながら、彼女は訊ねた。
「あの、死んだわけじゃないよね? 」
「死んでない」
死んではない という事を少年から確認して、やっと少女の身体から力が抜ける。
本当は青年が呼吸しているかを確認するものだが、今の彼女には それをする勇気はなかった。
少女は飲料を買っている少年を横から見る。
150センチほどの小柄な体格。雨で濡れた癖毛を顔に張り付けたまま、三白眼の瞳で自販機内にある飲料を模したサンプルを真剣に見定めている。
少女は 違和感を覚えた。
何故か、この少年の顔に見覚えがあるような気がしてきたからだ。
買い終えた彼は片手で缶コーヒーを取り、もう一方の手でお釣りを手にした。
少年はお金を握った手を少女へ向けた。
お釣りは返す、という意味らしい。
少女は受け取ろうと両手を差し出した時に、気づいた。
「あー!! 」
お金をうまく受け取れず、小銭が落ちる。
彼女は落ちた小銭を拾おうとしゃがんだが、少年はそれを手伝う素振りを見せない。
平然とパーカーのポケットに缶コーヒーを入れ、その場を後にしようと踵を返した。
「待ちなさいよ。
彼は驚き、振り向く。
少女はその様子に確信を持った。
「
彼女はしたり顔でそう言った。
少年は少女を睨む。
「
彼女は怯みながらも、答えた。
「いや、同じ中学に通う クラスメートなんだけど」
佐藤 剛は少女をじろりと見る。
彼女の服を見て、同じ中学の生徒だと気づいたようだ。
すると、佐藤の顔が気抜けした表情変わり、そのまま踵を返した。
「ちょっと 待ちなさいよ! 」
少女は佐藤へと駆け寄って並ぶ。
その様子に佐藤は足を止めた。
「お前、本当に俺と一緒のクラスなのか」
「本当だけど……」
疑わしげに佐藤は少女を見ている。その様子に少女は理解したようだ。
「アンタ、クラスメートの顔 覚えてないの?」
その問いに佐藤は頷いた。彼女は落胆したように大きく息を吐いた後、バッグから学生証を取り出し佐藤に渡す。
「
佐藤は 持ち主である少女、原川 静香の学生証に記載されている個人情報を確認し始める。
彼女は聞く。
「私の名前くらいは聞いたことあるでしょ」
「ない」
即答だった。
原川はそのルックスや とある事情から、学校内外でもそれなりに有名人なのだが、本当に知らないようだ。
しかし、学校ではいつも独り、クラスメートの顔もわからないほど 人に興味がなさそうな佐藤なら、それ程おかしな話ではないかもしれない、と原川は思った。
「ん」
確認し終えたのか佐藤は学生証を原川へ差し出す。
しかし、原川は両手を使って二つの輪を作り、目に当てた。
「普段はデッカい眼鏡してるから、わからなかったよ」
「体育の時は病欠してるくせに、めっちゃ強いじゃん」
大袈裟なジェスチャーを解いて、原川は訊いた。
「格闘技でも習ってるの?」
佐藤は何も答えない。
無表情で学生証を差し出しているだけだ。
返答がないことに原川はむくれた様子になった。
「少しは質問に答えてくれてもいいじゃん」
原川がそう言い終えるのと同時に、佐藤は学生証から手を離した。
「わっ」地面へと落ちる学生証を原川はなんとかキャッチする。
「と、何すんのよ! 佐……」
原川は顔を上げる。しかし、目の前にいたはずの佐藤はいなかった。
彼女は周囲を見回して探したが、佐藤はいない。
「なんなのよ」
不満げな言葉を吐く。しかし、その顔は笑みを湛えていた。
雨は、まだ降り続いている。
◇◇◇◇◇◇◇◇
だいぶ小雨になったな、と佐藤は思った。
雨音が 先程よりも小さくなったこと、身体にかかる雨が弱くなったことでそう理解したようだ。
寂れた住宅街の中にある自宅に佐藤は着いた。
その自宅は二階建てのアパートだ。外壁は汚れ 手摺や階段が錆びれていることから、かなり年季の入った建物だということがわかる。
カン、カンと高い音を立てながら、佐藤は階段を上る。
彼は部屋に着くと、古びた鍵を持ちドアを開錠した。
ドアノブを回すと、軋んだ音を立てて、開く。
静まり返った部屋へ、佐藤は言った。
「ただいま、父さん」
パーカーのポケットから、温みの消えた缶コーヒーを取り出した。
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