#168:無音な(あるいは、愛然、からの使者)

 僕も翼も、お互い疲弊しきっていた。体に気怠さが覆い被さっているかのようだ。どっちもどっちの、身内の安い挑発にムキになって、平常心なんてとっくに手放していたわけで。


 平常心乖離しっぱなしだと、15秒おきにランダムクラッシュが入るってリアちゃんが言っていたけど、またしてもそんなこと聞いてなはぁぁい状態で、僕ら二人の対局は最終局面を迎えつつある。


「……」


 僕に残っているプロテクターは右手と左手それだけ。気をつけをするように、吊り輪で体を固定するように、身体の脇で手を伸ばして把手を掴んでおけば、何とか直立状態を保って滑落は免れそうだ。でも片方が吹っ飛ばされたら確実にやばい。呼吸を整えろ。コイツには、まだ言いたいことはあるんだっ!!


 <ムロト:平常心乖離率:48%>


 一方の翼は、左手そして右足だけが残っている。固定を外された左足を微妙に後ろに引いた絶妙のバランスで足場に何事もなく立っているけど、その顔はどんな感情によるものなのか、無表情と半笑いの中間のような微妙な感じで固まっている。


 <ミリィ:平常心乖離率:27%>


 おそらくお互いこれが最後。最後に言いたいことは何だ? 言わなくちゃいけないことは何だ?


「……ムロトっ!!」


 その時だった。足場の左下の方から、僕の名前を呼ぶ声。随分と懐かしい、その声の主は……


「落ち着いて。でも平常心を乖離することも恐れないで」


 紫の猫覆面はさすがに脱いだんですね……サエさん。胸の開いた紫のボディスーツはさっきのままで、僕に気合いを入れに来てくれたんでしょうか。対局場の下から僕を見上げてくるその心配そうな目と目が合う。でも……よし、吹っ切れたぞ。僕は精一杯の笑みを返すと、改めて視線を戻す。


「大丈夫です。決着を……つけます!」


 そう自分に言い聞かせるかのように言い放ち、僕は翼の顔を見据える。お前の哀しみを痛みを、苦悩を、全部まとめて共有して、分裂させて、揮発させて、そして拡散させてやる!!


「……つ」


 口を開いた、正にその瞬間だった。


「……ば」


 いきなり、久しく忘れかけていた感覚が僕の体にのしかかってくる。え? こ、こんな時に、こんな時に何で。自問も虚しく、顔に脂汗が滲んできたのと同時に、股の間からどろりとしたものが流れ出始めたのを自覚した。


「さ」


 何てこった。始まってしまうなんて。全く予期してなかった。ここ一年くらいはホルモン打ってたから来ないのが当たり前になってたけど、一か月打ってなかったら来るんだ。


 ちくしょう。落ち着け落ち着け、こんなことで平常心乱されてどうすんだよ!! こんな中途半端で終わっていいのかよ? 何てことないさ、不意打ちだったからびっくりしただけ。平常心……平常心になれって!!


「う……うう」


 必死で落ち着こうとしてるのに、思考も身体も言うこと聞いてくれない。僕は内股になって、泣き出す一歩手前のくしゃくしゃの顔で、そこから何も言えなくなってしまう。

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