考えるゾンビ

高梯子 旧弥

第1話

 日常生活を送っていると、ふと考えてしまうことがある。

 僕はこうやって毎日起きては仕事に行き、帰って眠る。そんな繰り返しを当たり前のように送っているが、もし眠りから覚めなければどうなるのだろうか。

 つまり永眠ということであり、即ち死ぬということなのだろうが、いまいちピンと来なかった。

 それは僕がまだ二十代という若さから来る慢心なのかもしれない。死なんてものは年齢に関わらず誰にでも来るものだというのに。

 もちろん、高齢の人のほうが死へのリスクが高いのかもしれないが、だからといって若人が死なないわけではないのはわかっているつもりだが実感は湧かなかった。

 そもそも死ぬのがこわいとか嫌だとかそういう感情すらあまり持っていない。まだ体験したことのない死に対してこわいと思っていたら何かするときに委縮してしまって、なかなか踏み出せなくなりそうだし、嫌だと思うほど生に執着があるわけでもない。

 ではなぜ生きているのか。そう聞かれると返答には困る。今はまだ生きてこれがやりたいというのはないけれど、じゃあ死ぬかと言って人生を終わらせるのも躊躇われる。

 それは結局死ぬのが嫌だということなのではないかと言われたらそうなのかもしれないが、僕は違うと思う。

 僕が死なない理由は、道徳やら倫理観やら知らないが死ぬのはいけないことと洗脳されてしまったことだと思う。

 誰もが一度は耳にした、あるいは言われたことがあるだろう「死んではいけない」という魔の言葉。

 理由を訊けば多くの人が違った意見を言っており、そのどれもが説得力に欠けているように思えた。

 けれども何度も根拠無き「死ぬのはいけない」を聞いているうちに自然とそれが正しいかもわからないけれど、周りがそう言うならそうなのだろうと流されてしまう。

 その結果が僕みたいな哲学的ゾンビに似た意識を持たずに人間のふりをしたような人間が生まれてしまった気がする。

「こう言われているのならそうだろう」とか「こうされたらこう思うものなのか」みたく、自分で考えて行動するというよりは「皆はこうやってる」からこのような行動を取るようになる。これではプログラミングされたコンピュータとさして変わらない。

 もはや本当の意味で自分が考えて起こした行動というのはどれなのだろうか。そもそも存在するのか不安になる。

 しかしこうやって不安に思っているのも一般的にこういう考えをすれば不安になるという前提があるからそう思っているだけで、自分では考えていないのではないかと堂々巡りになってしまう。

 しかしそれを言っていたらキリがないのもわかっている。人はどこかで区切りをつけて自分で考えたと思い込んで生きていかねばいけないのだろう。

 たぶん死に関しても同じで、何で死んではいけないのか理由は明確ではないけれど、死んではいけないと思い込むことによって生を全うするのだろう。そう思い込んでいるからこそ死ぬのはこわいし、誰かが死んだら悲しいと思うことができる。

 こんな僕でも死んだら悲しむ人がいるのかなと思うと変な話かもしれないが少し嬉しい気持ちになる。

 ならば死なずに生を満喫しようと心に決めて僕は眠りにつく。

 明日、最高の目覚めを得られると信じて。

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