第二十八話『イーヤの迷い』

 時刻は正午を回ったところ、曇り空の下でイーヤはいつも眺めていた川辺を歩いていた。


 突然言い渡されたのは待ちに待った旅への誘いの言葉。しかしそれを許されたのは自分一人だけだった。イーヤはその事を受け入れられずに怒りに身を任せて飛び出したのだ。


「私、一人で皆を置いていけないよ」


 思えば彼女がこの世界にやって来たとき、誰も話が通じる人なんて居なかった。そこに手を差しのべてくれたのがスティーブだった。


「お前イーヤっていうのか? 俺はアメリカ人でお前はロシア人らしいが、この世界にそんな国境は関係無いから、お前も俺らのグループに入れよ」


 自分と同じ日本人ではない彼は、同じ境遇のプレイヤーで集まって旅に出る計画を立てていたのだ。そして拠点として借りていた小さな家にいたのは自分たちよりも小さな四人だった。


 全員自分よりも年下でレベルもスティーブを含めてイーヤが一番高かった。そんなグループの皆で旅について話している時の表情はすごく嬉しそうで、彼女にとっては現実世界とは違う心地よさを味わっていた。


「折角ゲームに没頭できるんだし、皆で早く旅に出たいよなぁ」


「そうだよね。周りは帰れないって心配しているようだけど、裏を返せばゲームらしく毎日を楽しめるよね」


 他のプレイヤーらの不安さをこのグループで感じることは無かった。皆レベルは自分よりも低くて初心者なのに、こんな訳の分からない時でも、笑って楽しく計画を立てている光景にイーヤも次第に馴染んでいった。


 しかしその計画はこの町のプレイヤーの代表である領主が就任することで脆くも崩れさってしまうことになる。


「済まないが初心者の皆には中級者へのサポートの為に動いてくれないか? 無理強いはしないし、相応の報酬は支払う。だから低レベルの初心者には今は我慢してほしい」


 領主となった黒髪の綺麗な女性騎士は自分たち初心者に生産の仕事を依頼してきたのだ。数少ない英語を話せるプレイヤーがそれを伝えに来たとき、スティーブは真っ先に反論したが返答は冷酷なものだった。


「嫌ならここから出ていけ。我々も君たちを止めないが、何か困っても助けはしないぞ」


 トップの女性からの言葉ではなく、説明に来たプレイヤーのものではあったのだが、その言葉は初心者だけで構成された外国人グループにはあまりにも突き刺さる言葉だった。


 もし八方塞がりになっても助けはしない。このゲームでの空腹感といった生命維持に関わる部分ですらかなりのストレスとなるこのゲーム内で、スティーブたちが逆らうための力は到底足りなかったのだ。


「何であいつらに強制されないといけないんだよ! 身勝手じゃないかそんなの!」


 そういった不満がグループの中で溢れるなか、イーヤは小さな拳を固めてグループの皆に決意した。


「私は皆でこの広い世界を旅する為に強くなる。皆があんなに楽しそうにしていた、旅をするという夢を絶対に叶えるから、今は我慢しようよ。私とスティーブが皆を外に連れていくから」


 その日からイーヤは努力した。一日の生産ノルマを人よりも早く終わらせては監視の目を潜り抜けて、近くの森でHPが限界になるまでレベリングを続けていた。全ては、彼女自身で皆を旅へと連れ出すその日の為に……。


 たった五日間でも森のモンスター程度ならば軽く捻れるくらいのレベルと戦う術を身に付け、彼女は一月あれば旅に出られると踏んで、ひたすらに特訓を続けていた。


 だからこそ、彼女は旅に出られるのが自分だけだと聞いた瞬間に外から来たプレイヤーに強い言葉で反論し、無理だと判断した瞬間に飛び出したのだ。


 皆を置いて旅に出ることなどできない。彼女にとっては皆と共に旅をすることを譲ることなど微塵も譲歩できないのだ。


「……セイリアなら分かってくれるのかな?」


 あの場にいた同じ初心者の彼ならばきっと自分の気持ちを理解してくれる。イーヤはそんな仄かな期待を胸に、夏本番を前にした日差しの下、川縁を一人下流に向けて足を進める。


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


「スティーブ、皆、私どうしたらいいのかな……」


 そう呟くイーヤは気がつくと街を囲むモンスター避けの高い壁の前に立っていた。向こう側は北に大河と湿地帯、南には初心者用のレベリングに適した小さな森、そのまた向こうには土属性のヒューマン族の領地だ。


 自らを閉じ込める石造りの檻に手を触れて彼女は目を閉じる。


「イーヤ!」


 声に振り向くと、そこには萌木色のコートを羽織った少年、初めての日本人の友達であるセイリアとロシア語の分かるフーリエが先に出たイーヤの仲間たちよりも速く追いかけてきたのだ。


「セイリア……」


 イーヤが話せる数少ない日本語の名前。それを呟くと、隣にロシア語が分かる人がいることが分かっていた彼女は大きく二人に思いをぶつけた。


「私は皆と旅に出たいの! 一人だけ抜け駆けなんて出来ないよ! だから……だから……」


 全力で言葉を振り絞った。自然と目から零れていたものも気にせずに口から溢れる感情を伝えている。


 フーリエもその意味をセイリアに伝えるが返事は帰ってこない。顔を背けて言葉を選んでいるのか、彼の表情も苦しそうだった。きっと気持ちがわかる部分もあるはずだが、目の前の現実に抗う術を見つけられていないのだろう。


 ――ああ、私の願いは届かないんだ。折角ここで出会えた大切な仲間たちと共に歩むことはできないんだね……。


 胸の前で手を組み、喉から漏れる嗚咽を堪えて必死に心の奥に燃え盛る希望を消し去ろうとうずくまる。


 そして再び顔を上げるも目を潤ませたままの彼女がその場を立ち去ろうとセイリアらに背を向ける形で壁沿いに向き直ると、聞きなれた声が呼び止めた。


「待ってくれイーヤ!」


 スティーブの声だった。声のした方向を見てみると、セイリア達が来た方向からスティーブだけじゃなく、仲間の皆が走って来るのが見える。


「俺ら、イーヤに旅に出てほしいんだ!」


 肩で息をしているスティーブがイーヤに向けて放つ言葉は彼女の想いとは違うものだった。自分を受け入れ、そして慕ってくれたみんながこんなことを言ったことにイーヤは理解ができずに、ただ立ち尽くしている。


「どう……して?」


「俺らだけじゃ旅に出たってすぐにモンスターにやられる。けどさ、この人たちならお前を守ってくれるだろ?」


「でも……私は皆と一緒に旅をしたいの。そのために……」


「俺ら知ってるよ」


 スティーブの言葉に反論するイーヤだが、彼はイーヤの肩を力強く掴む。突然の事に驚くイーヤにスティーブが、そして仲間たちが口々に彼女に気持ちを伝えた。


「お前はいつも仕事のノルマを終わらせてから、特訓の為に勝手に外に行ってたよな? 俺だけじゃない、ここにいる皆が知ってる。全て俺らを広い世界に連れ出すために頑張ってたんだろ?」


「何で? どうしてその事を……」


「姉ちゃんは僕たちの為に毎日料理作ってくれたよね? すっごく美味しかったよ! でも姉ちゃんが居なくたって、僕も料理は出来るから心配しないでくれよ」


 イーヤとスティーブの次に年上であるマイクが頭を掻きながらうつむく。それがやせ我慢だと彼女が見抜くのは容易いことだった。


「私は皆と居たいんだよ? そんなこと言わないでよ……」


 すると勝ち気だが、人一倍寂しがり屋なアンナがうつむきながらイーヤにしがみついた。


「あたしが夜に寂しくて泣いてたときにイーヤ姉が頭なでなでしてくれたけど、もうあたし泣かないもん! 一人で眠れるくらいに強くなるもん! だから行ってきてよ……もっと強くなったイーヤ姉が見たいよ」


「あなたまで……」


 それに続いて双子の兄妹のノエルとアンリが左右の袖口を両手で力一杯握りしめた。


「お姉ちゃんさ、俺たちの事守らないとって思ってるけど俺たちだって姉ちゃんがしたいことくらいさせてあげたいんだよ」


「そうだよお姉さん、せっかくのチャンス捨てちゃうの?」


「…………」


 イーヤには直接ロシア語を話せるスティーブ以外の子たちの言葉は通訳無しでは理解はできない。


 それなのに皆の言葉はスティーブにロシア語を教わったのかたどたどしいものではあったが聞き取れるし、その言葉がどれだけ自分の事を大切にしてくれているのかひしひしと伝わってくる。


「みんなどうしてそこまで私の事を大切にしてくれるの?」


「それが俺たちの気持ちなんだよ」


「……え?」


 スティーブがイーヤをまっすぐ見つめる。その瞳にはたった一週間程度の付き合いであっても、彼女が大切にしてきた仲間から託された想いが込められていた。


「お前はこの中で一番の姉貴分だ。皆が慕っていたし、もちろん俺も信頼を置いている。誰よりも一生懸命だし、誰よりも仲間を大切にする人間だ。昨日のサハギンからも身を呈して守ってくれたから、誰も犠牲にならなかったんだ」


 スティーブの口にする信頼と感謝の言葉。そんな彼からのメッセージにイーヤは目を瞑り、顔を背ける。胸に込み上げるものが溢れてしまいそうだったからだ。


「それなのにあいつらと一緒に旅立つことにはここにいる誰も反対なんかないさ。お前も皆の言葉を聞いたろ? あれはさっきウンディーネの奴がお前に話したことを伝えたときに、イーヤに伝えてくれって頼まれた事を俺が教えたんだ。嘘でもないし、大げさに伝えてもいない。皆の純粋な気持ちさ」


「でも私は……」


 口ごもるイーヤの肩をスティーブは更に力強く掴むと、彼女の顔を近づけて声を荒げる。


「もうこれ以上悩むなよ! 俺たち皆が君に旅に出てほしいって言っているんだ。正直に外に行きたいって言ってくれよ……」


 突然のスティーブの真剣な表情に気圧されたのか、驚きに体を震わせるイーヤ。セイリアらが見ている中、彼は更に続きを口にした。


「だから後は俺に任せろ。お前が帰ってくる場所は俺が絶対に守ってみせるし、元々ここのリーダーは俺だ。お前が帰ってくるときには、皆を纏めて驚くくらいには強くなってやるさ」


 その言葉によって、スティーブから背中を押されたかのような感覚を得たイーヤはついに溢れるものを抑えられなくなった。


「もう、スティーブって……強いんだね……」


 必死になって塞き止めていた感情が涙となって零れ落ちる。しかし彼女の胸の中に悲しみは微塵も無かった。吹き抜けるのは夏の熱気を含んだ風。そして彼女の顔には笑みが溢れていた。


「あの子たちも強いのね。私皆のこと甘く見てたよ」


「当たり前だろ。ゲームだからって、年下だからって、あいつらは決して弱くないぞ」


「本当……ほんの一週間なのに、皆にすごく勇気付けられちゃったな」


 頬を伝わる涙を拭くこともなく、嗚咽と笑い声が同居したままイーヤは自分を信頼してくれたこの世界の弟と妹たちを両腕で抱き寄せる。


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


「それでは旅の無事を祈るぞフーリエ」


「三日間だけど、本当に助かったよセシリア」


 ウォルリーネの門にはセシリアさんやイーヤがお世話になった仲間たちが見送りに来ていた。


 イーヤの仲間たちが泣くまいと必死になっている姿にイーヤの表情もあまり晴れやかではなかったが、オレ達が町を出る直前にスティーブは皆の後ろに立って何やら合図をすると、小さな子達が文字が書かれた旗を掲げる。


 そこにあったのは、思いのこもっていることがはっきりとわかるプレゼントだった。


『お姉ちゃん頑張ってね!』


 というエールを込めたロシア語と皆で描いたお世辞にも上手いと言えないが、心がしっかりとこもったイーヤの似顔絵だ。


「ああ……もう……」


 皆の声を聞いて振り返ったイーヤは表情が一瞬だけ歪むが、一つ深呼吸すると涙を流すことなく大きな声で仲間たちの思いに応えた。


「うん! 皆がびっくりするくらいに私強くなってくるね!」


 夏色に染められた風に銀色の髪を揺らめかせ、イーヤは弾けるような笑顔で手を振り、ウォルリーネの全景が見えなくなるまで彼女の腕は休まず振り続けていた。

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