晩夏の花と目覚めのとき
なるゆら
晩夏の花と目覚めのとき
ガラガラと音がする。玄関の引き戸がレールの砂利を噛んでいる。
いつの間に眠ってしまったんだろう。目が覚めるとは、どの瞬間を指す言葉なのか。意識が戻った瞬間だろうか。眼を開いたときなのか。それとも現実と繋がったと感じるときに使う言葉なのか。
わたしはなにかを思い出して身体を起こした。布団をはねのけて飛び出すと、隣の土間でひっくり返っている履き物の上にジャンプして着地した。
「ゆっき、起きた?」
「うーん」
「おはよう」
ここに住んでいるおばちゃんだ。祖父の姉にあたる。わたしは目が覚めていることを確かめるように挨拶を返す。
「おはよう!」
かまどの右側には火が入っていてパチパチと音がする。屋内には少し煙がたまっている気がするけれど、窓は全開になってたし慣れてしまったので煙たいとは思わない。
「もうすぐおばあちゃんが出かけるよ」
「はーい」
スリッパをはき直すとわたしはそのまま玄関を潜って外に出た。日の当たらないこの辺りでは、朝のうちはもう寒さを感じるようになっていた。庭に祖母の自動車はまだ停まっていた。出かける前のようだ。
紫の花。少し元気がなくなった気がする千日紅が植わった花壇の前を駆け抜けて、母屋へ坂を上った。
母屋の玄関は空いていて、中の方から大きな鞄を肩から下げた祖母が出てくる。これから今日も出勤だ。
「おはよう!」
「おはよう。お見送り? 元気出た?」
「うん!」
どうして元気がなかったのかは思い出せないけれど、わたしは元気だ。こんなにも身体が軽いんだから。取り寄せてもらった雑誌が届いていると連絡をもらったのが昨日だったか。
「ねぇ、帰ったら、ブーケ取りに床屋さん行こ?」
「そうだね~、今日は遅くなりそうだから……」
「じゃあ、ひとりで行ってくる!」
「だめ。おばちゃんと行っておいで」
「大丈夫だって!」
床屋さんは、もう散髪はやってない。日用品を取り扱っている小さなお店だ。橋を越えて表通りに出たすぐのところにある。何度も行ってるから大丈夫だ。
じっと祖母の顔を見つめる。祖母は「うーん」とうなって、観念したのか苦笑する。
「車に気をつけて。道路に出たらだめだからね」
「うん!」
祖母が乗り込んだシルバーの丸い車は、エンジンがかかると、大きな音でぐいんと一度空回りする。手動の窓が開いて祖母の顔が覗く。
「気をつけて。おばちゃんに言ってから行くんだよ」
「うん、大丈夫!」
祖母はこちらに手を振ると、車をガタガタといわせながら職場へと出て行った。わたしは道の前まで出て、祖母の車が神社の前を通って見えなくなるのを見送ったあと、おばちゃんの家へ引き返す。玄関を開けるとまたガラガラと音がする。
かまどの前に散らかった柴のくずを掃き集めていたおばちゃんは手を止めてこちらを見た。
「おばちゃん! ブーケ取りに行ってくる!」
「そんなにあわてて……。まだ、お店は開いてないよ」
「大丈夫!」
いつもお世話になっているから、行けば開けてくれることを知っている。スリッパを脱ぎ散らかすように座敷にあがると、たんすの上のショルダーポーチをつかんで、また飛び降りた。踏み潰されたスリッパがぐにゃりとよじれた。
おばちゃんが呆れた顔で座敷の下から運動靴を出してくれた。
「ちゃんと、して?」
「はーい……」
わたしは寝間着を脱いで
「道に出たらだめ」
「はーい」
「川に降りるのもだめ。まっすぐ帰ってくるんだよ」
おばちゃんも祖母と同じようなことを言う。けれど、ひとりで行かせてくれるのだから、信用はしてもらえているようだ。十分注意して、用事が終わったらすぐ帰ってこよう。まだ、朝のご飯も食べていないんだから。
家を出て、今は使われていない古い郵便局の建物の前を通り過ぎる。すぐに橋が見えてくる。谷川にかかっている小さな橋だけれど、子供にとっては十分、危険な場所だ。よそ見をして歩いていれば欄干の間から落下してしまうかもしれない。かといって道の真ん中を歩いていれば後ろから自動車がとんでくるかもしれない。端と真ん中の間くらいをそーっと通り抜ける。
ふと視界に赤が飛び込んできた。鮮やかな真っ赤だ。それは小川の両脇に咲いた花。川辺に咲き乱れる彼岸花の色だった。
「うわぁー……」
川下に向かってずっと赤が続いている。
降りてはいけないと今、言われたばかりではなかったか。けれど、わたしは端の脇にある急な下り階段を壁につたいながら川へと降りていた。実は何度も上り下りはしている。だからこそ注意もされるのだが。
川へと降りると、ごうごうと川の流れる音が近くなる。両側がコンクリートで固められた絶壁になっていて背景がシンプルになったためか、より赤が際立って見える。間近で見ると眼に刺さるくらいにいっそう鮮やかな色だった。
彼岸花にはたくさんの別名がある。曼珠沙華が有名だけれど、狐に例えて呼ぶ名前もあった。そういえば……。
違和感を感じた。今の季節はいつだ。今日は何月の何日だっただろうか。
思い出したもうひとつの彼岸花の別名。――捨て子花。
茎からぼとりと落ちる花は、子供の方か、親なのか。
彼岸花の赤を残して、目の前の光景から色が抜け落ちていく感覚がした。谷川を一陣の風が通り過ぎて、赤い花が真っ白になる。風に温度を奪われて、凍り付いたようだ。花が茎から次々に落ちていった。白黒だけになった視界に、高揚していた気分が急速に冷めていくのを感じた。ようやく理解する。
――これは、夢だ。
起きなくてはいけない。白黒の風景が焼き付いた眼はひらいている。けれど、見ているのは夢。わたしは、ひらくまぶたのイメージを夢の中の自分に重ねていく。
細く眼を開くと、視界にはテーブルの白。横目には見覚えのある光景が映った。スチールとプラスチックでできた味気ないワードローブに、販促カレンダーをかけたアイボリーホワイトの壁。今のわたしが暮らしている部屋だ。
「まあ、そりゃそうだよね……」
思わず自嘲する。
なんでもない毎日。わたしが毎日を最良だったと感じられる日々。その後、過ごした一日を良かったと振り返ることがなくなって、思うことも少しずつ許されなくなっていく。
与えられなかったものや失ったものに、誰かが価値をつけていった。「あなたはとても大切なものを持っていないのだ」と。「あなたが得られなかったものは、かけがえのないものなのだ」と。わたし自身が欠けているのだと感じるようになり毎日がより辛いものになっていった。
たとえば、親が子供を育てることは当たり前か。子供を育てない親が当たり前ではいけないのか。言われなくてもできることが正常で、できないことは異常なのか。わたしに価値を教えた人たちやものは、違う価値観をくれただけでわたしに何かをしたわけでもない。刷り込まれたわたし自身が、人生をより辛く惨めなものにしてしまったのだと思う。
グラスに千日紅の花。懐かしく思ってさしてみたけれど、夢を見たのは記憶の中に同じ花があったからなのかもしれない。――豊かな感情を忘れない。変わらない愛情。花には言葉があるそうで、たしかそんなふうだった。当時は花が持つ意味も、名前だってわからなかったに違いない。
最良の夢から覚めて戻ってきた現実は、わたしにとって最悪なのだろうか。
「そうじゃないよね、きっと」
振り返ってみれば最良だったというだけ。当時はそんなことを考えることすらなかったはずだ。なにが最良の記憶にさせているのかを考えてみて、今なら探り当てられる気がする。
当時は自分の身が安全だと感じられたから。食べるものや着るもの、居てもいい場所に困ることがなかったから。それだけではないのだと思う。あるべき形やものの名前がなくても、心地よいことや不快なものを感じることができた。テレビで話題になるような出来事や、高価で立派な食事や衣装がなくても、心地よい記憶がたくさん残っている。だから、最良だったと感じるのではないか。
要領よく、良い感じに。そんなふうに言われてすべきことや理由がわからなければ、尋ねたらいいのだと思う。答えることが面倒だと返ってくれば、わたしにはないものを求める人なのだと考えることにした。わたしにだって面倒な付き合いはある。縁を切らずとも、距離をおけばいいだけだ。
それに、小さかったあの頃に比べたら、知っていることや出来ることがわたしにもたくさん増えているはずだ。「記憶の中で最も良かった」という記録を塗り替えられるかもしれない。価値の有る無しでいえば、自分史上最高だ。
そうに考えて眠ることにすれば、いつか最高の目覚めを体験できるかもしれない。
今年もまた彼岸花が咲く。思い出した堤防は一面が鮮やかな赤に染まっている。
彼岸花にも花言葉はある。悲しいものもあるけれど、「情熱」に「独立」といった言葉も並んでいる。言葉に生き方を縛られようとは思わないけれど、わたしに必要なものを教えてくれているのだとしたら、応えてみたいと思ってしまう。応えなければと感じてしまう。それはどこからやってきた気持ちなのだろう。
わたしは何を望んでいて、望んでみたいのだろう。そろそろ追いかけてみてもいい気がした。
晩夏の花と目覚めのとき なるゆら @yurai-narusawa
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