第19話 書きかけのメッセージ
一花とアパートに帰ると、着信があった。その小さく光る青い点を無機質に見つめていた。
「どうしたの? 着信?」
「ああ、そう」
ベッドに腰かけて、スマホのロックを外す。澪からのメッセージを心のどこかで待っている自分に気がついていた。
『今日はありがとうございました。松倉さんとじっくりお話ができてすごくうれしかったです』
たったそれだけのメッセージだったけど。それを打った時の澪の顔が目に浮かぶ。彼女は無邪気で素直な人だ。少なくとも、僕にとって。
『澪が元気になれたんならいいと思う。最近、元気がなくて心配してたから』
『心配してくれてたなんて書かれると、本気にしちゃいますよ? 気をつけてください』
即レスが来て驚く。画面の向こうに澪がいることを強く意識する。あの、今日、重なった手で澪はスマホを打っている……。
『心配は心配だよ。澪だってこんなことしてたら、田代に合わせる顔がなくなるよ』
『遼くんとは別れるってもう決めたから。松倉さんが相談に乗ってくれたから、スパッと決められちゃった。ありがとうございます』
頭がついていかない。昨日までは僕を「お兄ちゃん」と呼んでいた彼女が、今日はこんなに変わるなんて。世の中は予測不可能なことで満ちている。
「松倉」
廊下で田代に呼び止められる。僕は次の講義に急いでいるところだった。
「ごめん、移動しないといけないんだ」
「じゃあ、歩きながら」
一定の距離で離れず僕について来る田代は、正直、不気味だった。何を考えているのか読めずにいた。僕が二人の別れに関与したことがバレたのか……いや、それより二人は本当に別れたのか。
「実は、澪に別れたいって言われちゃって。松倉、何か聞いてる?」
「……ああ、少し」
「俺、なんか悪いとこあったかな?」
「そういう詳しいことは当人同士の問題じゃないかな?」
「そっか……」
田代は僕について歩いたまま、何も喋らなくなった。いたたまれなくなって僕は余計かもしれない一言を落とした。
「澪じゃない子と遊んでるの?」
「え? ……澪が?」
「澪よりも好きな子がいるの?」
田代はまたしても黙った。今度はなんとか見てくれのいい言葉を頭からひねり出しているように思えた。
「確かに仲のいい女の子はいるけど、つき合ってるのは澪だし」
「じゃあそうやって澪に言えば済むんじゃないの?」
もうこの男につき合うのはうんざりだった。僕は歩くスピードを上げて、わざと田代をその場に残した。意図を汲み取った田代は、そのままついて来なかった……。
『別れ話、したんだね』
図書館前で一花を待つ少しの間にメッセージを送る。どうかしている。僕らの間では、ネットが本音を運ぶことなどなかったはずなのに。
『でもまだ考え直してくれって。わたしにこだわる理由がわからなくて』
『僕にはわかる気がするけど。澪には』
「お待たせ、終わりに教授に質問してたら少し遅くなっちゃった」
驚いた僕は書きかけのまま、送信を押してしまった。中途半端に途切れた言葉が宙を飛ぶ。澪には……澪には何があると伝えるつもりだったんだろう? 彼女の魅力はどこにあるんだろう? どうして僕は彼女に……?
「丞? お腹空いちゃったの? 反応悪いよ?」
「そうだね、お腹が空いたね」
「今日はねぇ、すき焼きにしようと思うの! フライパンだけど二人分ならお肉も安いし、卵は安売りの時に買ってあるしね」
てきぱきと今晩のおかずの説明をする彼女が、すぐ隣にいる気がしない。まるでお母さんのする話のように、その言葉は意味を持たずただ通り過ぎていく。リュックに無造作に投げ入れたスマホが、自己主張している。
返事は来ただろうか?
すき焼きの割り下を買っているスーパーの中でもそれが気にかかる。なのに、スマホは取り出せない。
どんな返事が来たんだろうか?
僕の千切れたメッセージに、彼女はどんな言葉を返してくるんだろう? 例えば、「続きがわからない」とか、「書き途中ですね」とか。
「これで買い物終わったよ、帰ろう? ……君、今日、おかしいけど体調大丈夫?」
「なんでもないよ、気のせいだよ」
一花が右手に提げていたビニール袋を、僕の手に持ち替える。袋の中に焼き豆腐が見えた。
うちに着くと、何でもない顔をしてベッドに腰を下ろす。一花はいつも通り丹念にハンドソープで手を洗っていた。着信通知のブルーのライトを期待する。……そんなものは点滅していなかった。
「最近、何か面白いアプリでも入れたの?」
「いや、なんで?」
一花は言い淀んだ。
「男の子たちの間ですごく流行ってるのがあるんでしょう? ……最近、君、スマホを手に取ってること多くなったから」
「そうかな?」
そうかな? という嘘くさい言葉の響きが自分の中にこだまする。それはどこまでも反響して、やがて僕を打ちのめそうとする。一花は心配そうな顔をしてこちらをじっと見ていた。
「……わたしには見せたくないもの?」
「いや? 何のこと? ……たまに兄貴と連絡取り合ってるけど。今度、結婚するかもしれないんだって」
「どっちの?」
「ああ、2番目の」
よかったね、と言った一花の顔に安堵が見えた。兄に結婚話が出ているのは本当で、たまにそのことで連絡が来ていたのも本当だった。でも、僕がスマホを気にかけているのは決してそのせいではないことを僕は知っていた。
簡単には会えない彼女からの連絡を待ってる。
一体、いつからこんなにややこしいことになったのか。あの日、僕が澪の手を取ったことからこうなったのか、それとも澪が僕の手を取ったからこうなったのか、あの雨の日に傘を貸したから……学食で澪を初めて見た時から……。
自分の考えにゾッとする。
僕はずっと心の奥底で彼女への想いを募らせながら、何でもない顔をして一花や田代と会っていたのか……。
「君、本当に大丈夫なの? 顔色が悪いよ」
一花にすべてを話してしまいたいというのは僕のエゴでしかなかった。テーブルの上にはフライパンで作られたすき焼きが乗って、二人分割られた生卵が出番を待っていた。すべてはいつも通りだった。
「一花……」
僕は僕の大好きなやわらかなくせ毛を指でくしゃくしゃと揉んだ。一花は「甘えたかったの?」と聞きながら僕のしたい通りにさせてくれた。僕は彼女の耳の裏の匂いを嗅ぎ、首筋に口づけた。求められている、と感じた彼女は僕を受け入れて良いところも悪いところもすべて含めて包んでくれる。胎内にいるように、すべてを一花に預ける。
……気がつくと、スマホは小さなLEDの青い光を発していた。いつから光っていたのかわからなかった。それでいいという気になった。
もう止めよう。怖いことは自分から近づかなくてもいいんだ。もう、冒険をするような歳ではないんだし。
「丞、スマホ光ってるよ。お兄さんからだと困るから、ちゃんと確認したら?」
「ああ、うん。でも今はこうやって一花に触れてたいんだけど」
「もう! わたしにはいつでも触れるじゃない。その……そういう距離にいつでもいるんだから」
「そうだね。確かに、僕が触れたい時に一花は必ずそばにいるしね」
それはなかった。
いくら一花でも、僕のそばに四六時中いるというわけでもなかった。そしてそこに、隙が生まれる。
角度的に彼女から見えないところでロックを外す。
『一花さんといるんですよね? わたしにはお気づかいなく。おやすみなさい』
肩の力が抜ける。この返事を待って、今日は右往左往していたのか。……こんなことに振り回されて、これから先、どうしたら元に戻れるんだろう?
先のことはまったくわからなかった。
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