第16話 二人で話が出来るだけで
長かった夏休みが開けると、秋とともに後期がやって来た。僕たちはそれぞれいつも通りの生活に戻って、日々をそれなりに忙しく過ごした。特に一花はMキャンパスに通う機会が徐々に多くなり、それは彼女にとって大きな負担であるように思えた。
「サバの味噌煮とかどうかな?」
「ん? 今晩のこと? ……一花、言おうと思ってたことがあるんだけど」
僕たちは学食で、珍しくふたりとも同じ料理を手にテーブルに向かっていた。違うのは副菜だけだった。
「何のことかな? テーブル混んでるね。空いてるところ、あるかな? 先に席を取ればよかったね」
僕は彼女の負担になるような事はしなくていいと言おうと思っていた。料理だって分担すればいい。でも一花は僕の話をあまり大きな問題だとは思っていないといった様子で、キョロキョロと空きテーブルを探した。と、さ迷っていた視点が一点に定まって、一花はそっちに向かって歩き出した。
「すみません、ここ、隣いいですか?」
「一花さんじゃないですか、どうぞ」
振り向いた田代はいつもと同じ笑顔でそう言った。田代が一花に嫌な顔をしているところは見たことがなかった。
「田代さんの隣、空いててよかったー」
「わ、本当だ。よく見たら満席に近い」
「もう席、取れなくて」
ころころ表情を変えて一花は話した。すっかり田代には慣れたのか、自分が田代の隣に座って、僕は自然と澪の隣になる。隣になる左側が、何となく気まずい。僕たちは軽く目を合わせて挨拶をした。
「久しぶりだね」
「はい、お久しぶりです」
僕たちの話は一花と田代のそれとは異なり、淀みなく続くことはなかった。黙ってひとり、食事を平らげる。その間、一花はふたりといつになく饒舌になって話をした。聞きながら本当に僕の一花か不思議になるくらいのテンションだった。
「田代くんは夏休み、どうしてたの?」
「実家に帰省して、地元の友だちと遊んでたり」
「ずっと帰省してたの? 澪ちゃんとは会わなかったの?」
「ずっとって言うか、たまに澪に会いに来てましたよ、こっちまで」
「そうなんだ、澪ちゃん、さみしくなかった?」
「地元のお友だちとはそういう時じゃないと会えないだろうから、そっちを優先してもらっていいんです」
澪がそこまで話すと、一花は僕をチラッと見た。何か言いたげな顔をしていた。
「澪ちゃんみたいにわたしはできないな。丞はすぐに帰省しても帰ってきてくれるから」
「やさしいですね、松倉さん。うらやましい……」
気まずくなる一言を口にしたと、澪の顔には書いてあった。場は一瞬、止まった。誰かが何かを言わなければいけなくなった。
「そうしてほしいなら、そう言えばいいのに。今度からそうしなよ」
田代が言葉を引き継いで、場の空気はまた流れ始める。各々がそれぞれの食事に手をつけ始めた。
「田代くんと澪ちゃんて、何だか違うよね」
「何が?」
「わたしたちとはいろんなところが。もし丞が帰省してなかなか戻らなかったら、わたしがどうなるかわかるでしょう?」
「そんなこと、今までないでしょう?」
僕より頭一つ分は小さい彼女の頭に手をやる。想像したせいか悲しそうな顔をした一花は、顔を少し俯かせて歩いていた。午後の講義が始まりそうだった。
「松倉さん」
「片桐さん? 田代ならもうすぐ出てくると……」
「松倉さん、こっち」
澪と手を繋いだのは初めてのことだった。彼女のしようとしていることがわからなかった。僕は階段を引きずられるように下って、入口から学部棟の影になる植え込みのところに来た。そこはさながら小さな植物園のような場所だった。
「どうしたの?」
「相談したいことがあって。でも松倉さんに確実に会う方法が他に思いつかなくて。一花さんに見られちゃったら申し訳ないし……もし遼くんに見つかっちゃったら、その時は遼くんを待ってたことにすればいいやと思って」
少し息を切らせて、一思いに彼女は思ったままの言葉を口にしているようだった。今日もまつ毛が彼女の瞳に影を落とした。
「何か、あった?」
「……。座りませんか?」
手近なところにあったベンチに二人で腰を下ろす。それはあまり僕たちのどちらにとっても得策ではない事のように思えた。
「電話で済ませてもよかったんじゃないの?」
「いつも一花さんと一緒でしょう? そこに電話なんてできるはずないじゃないですか。メッセージだって送れるのは挨拶だけだし、松倉さんだって返事は無難なことしか……あ、ごめんなさい。そういうことを言うために一緒に来てもらった訳じゃなくて」
「うん。片桐さんの言う通りだよ」
じっ、と彼女の瞳が前髪を透かせて遠くを捉えた。そうしてから澪は目元をハンカチでそっと拭いた。化粧が落ちないようにピンポイントで目頭にハンカチを当てる仕草を、そっと見ていた。涙は流れ落ちてはこなかった。
「遼くん、他の人と会ってるみたいで。そういうこともあるかなって思ってたんですけど、本当にそうなると気が動転しちゃって」
「浮気?」
「はい、遼くんの地元の」
話がいきなりすぎて、僕の方が話に追いつかない。まだあまりしっくりと来ない田代と澪の間に、他の女の子が割り込んでくるなんて考えたこともなかった。それはまさに僕にとっては対岸の火事だった。
「この間、遼くんが電話してるの、聞こえちゃったんです。『また会いに行くよ』って。『すぐに連休になるよ』って。……わたしたち、土曜も日曜も会うってことないんです。遼くんの部屋に行っても、週末は泊まることなくて。夏休みもずっと向こうに帰ってたからそういう予感はあったんですけど……」
「澪、は、どうしたいの?」
焦っていていつも頭にあった言葉がぽろっと飛び出した。あ、と思っても拾うこともできず、澪と目が合う。
「ごめん」
「いえ、前に名前で読んでほしいって言ったの、わたしですし。あの、驚いちゃっただけで」
澪は片手を頬にやった。その困惑して俯いた表情は妙に魅力的で、僕は自分のせいだということを忘れてその横顔を見つめていた。
「わたしは……、わたしはどうしたいのかな? もうどうでもいいやって気になってしまって。いきなりのことで動揺して松倉さんに相談しちゃったけど、どうなんだろう? 浮気されてたと思うと悔しいけど、この場合はたぶんわたしが浮気相手なんですよね? 遼くんの大学生活を楽しませるためにわたしがいるんだと思うと悔しい……。気持ちがちゃんと通じあったかどうかわかるより前にダメになっちゃうなんて、何だかバカみたいですね」
「どうでもいいなんてことはないでしょ」
「みんながみんな、松倉さんみたいに誠実な訳じゃないですよ。つき合ってても相手を大切にできない人っていると思います」
「大切にされなかった?」
「松倉さんと一花さんを見てるとそう思う……」
目と目がダイレクトに合って、戸惑う。もし相手がつき合う前の一花なら、抱き寄せていたかもしれない。でも目の前にいるのは澪で、一花ではない。僕が抱きしめる人は他にいるはずだった。
腕が伸びかけるのをやめて、なんだか手持ち無沙汰になる。二人の間に風が通る。
「ごめん、何もしてあげられなくて」
「いえ、話を聞いてもらえるだけでいいんです。話をすると気持ちもまとまるし、気分も少し落ち着くし。何より二人で話ができるだけで十分、贅沢ですから。いくら『お兄ちゃん』みたいだからって、あんまり独占してたら一花さん、いい顔しないですもの。……一花さん、しあわせですよね。松倉さんの彼女だなんてうらやましいな、なんて」
「僕はもてないよ」
「一花さんがいるから、他の女子はみんな遠慮してるんじゃないでしょうか? きっとそうですよ。同じ女性として、一花さんみたいになりたいって思いますよ」
澪は何故かさみしそうに笑った。
夜の空気はしんみりと冷え、僕は一花を後ろから抱え込んだ。一花は食後にお茶をいれて、僕にされるがままになっていた。彼女の背中から、耳元に囁きかけた。
「僕が他の女子と話してたら妬ける? 例えばの話だけど」
一花はそっとテーブルに飲みかけのお茶を置いて、僕を振り返った。
「してるの?」
「いや。例えばだよ」
「怪しい。……言わなくちゃわからないの? 丞がいなかったらわたし……」
「ちょっと待って。話してただけでそこまで行く?」
「やだもん。君が他の女の子と話して、楽しそうにしてたら。妬ける、なんてそんなんじゃ済まないよ。悲しくなると思う」
「例えばだよ、ごめん。こんなこと二度と聞かないから許して」
一花は向き直って僕の胸に顔を埋めた。グレーのスエットに黒い涙の跡が残って、彼女の悲しさを受け取る。
だとしたら、澪と二人で何度か会ったなんてとても言えそうにない。僕が楽しそうだったかどうかは別にして、これは黙っている方がいいことだと思えた。「言えないこと」がふり積もっていく。
一花の小さな頭をそっと抱いた。
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