第15話 浮気は浮気だから

 一花の日焼けは、例のカラミンローションという名の濁った薄ピンクの液体のおかげでずいぶん落ち着いたように見えた。僕はその間、彼女の肌に触れる時は極力、力を入れないように注意して、そっと卵を抱くように彼女を抱いた。時々、当たった場所が悪いと、「丞、痛い」と一花は小さい声で訴えたけれど、そんなことで彼女の魅力が損なわれることは無かった。

 彼女がどれくらい女の子なのか、また思い知らされた。






 夏休みの終盤はいよいよ提出を迫られたレポートの作成に追われた。大凡の部分はできていたので、今度はほとんど資料は必要とせず、形を文書として整えることに時間は費やされた。

 テーブルの向かい側で一花も同じことをやってるらしく、時折ペンを置いて目を虚ろにしていた。要するに、捗っていない証拠だった。

「僕、ちょっと自転車で図書館、行ってくるよ。調べる必要のあるものがあってさ」

「あ、そうなの?」

「すぐ戻るよ。何か買って帰ろうか?」

「じゃあスマホに送るね」

 まだまだ秋の入口に手の届かない容赦のない日差しが、真昼のアスファルトに照りつける。蒸し暑い空気を切り開くように自転車のペダルをこいだ。




 図書館は相変わらず静謐な空気に包まれていて、その静謐さが温度を上げることを許してないように思えた。特に借りてこなければいけない本は実のところなくて、一般文芸の棚にある適当な本を読んで時間を潰そうと思う。本を一冊手に取り、手近なテーブルに着いた。

「……片桐さん?」

「あ」

 偶然、着いた席の隣は澪だった。彼女は大きな声になりそうなところを手で止めて、前髪の奥から丸い瞳で僕の顔をまじまじと見た。

「松倉さん、お久しぶりです。ずいぶん久しぶりだったので、ちょっと驚いちゃってごめんなさい」

「いや、僕も驚いたよ。まさかまた図書館で会うとは思ってなかったから」

「本当に。二度あることは……ですね」

 久しぶりに見る澪の笑顔は柔和で、その穏やかな性格を映すようにゆるやかに笑った。

「……ここ、出ようか?」

「そうですね、話せないし」




 自転車は帰りに取りに来ることにして、澪と前にも行ったカフェ「サウザンドリーフ」に向かって二人で歩いた。風は1ミリも吹かなかった。湿度も何も無い乾いた空気の中で、もちろんその間、僕たちは手を繋いだりはせずに、お互いの近況をなんとはなしに話し合った。

「はぁっ。やっぱり涼しい店内って落ち着きますよね」

「片桐さんはひとり暮らしなの?」

「いいえ。ここから30分強のところから通ってます」

「どっち方面?」

「下りです」

「僕と一緒だな。でも僕は思いっきり南のひなびたところからだから、電車で通うのは厳しいんだけどね」

 小腹がすいていたのでアイスコーヒーと一緒にマフィンをひとつ食べる。澪にも同じマフィンをおごった。

 澪はマフィンをフォークで小さく崩してから、もったいなさそうに口にした。

「……S線ですかU線ですか?」

「S線」

「あ、同じです!」

 そんな小さなことでもテンションが上がる彼女を横から眺めている。こんなに近いのに、友だちの彼女となるとこんなに遠く感じるのは不思議なことだった。僕は涼しい顔をして結露するアイスコーヒーのカップを揺すった。

「そうなんだ、電車なら同じなんですね。なんかちょっとうれしい」

「うれしい?」

「だって誰かと同じって、それだけでうれしくなりませんか?」

 誰かと、の話でドキッとした自分の浅はかさを恥じた。それはつまり、誰でも、であって、限定された僕という訳ではない。そんな小さなことに振り回されている自分が滑稽だった。

「雨降ると、K駅の手前でよくトラブル起きるよね」

「そうなんですよ、それでよく遅延しちゃって」

 共通の話題ができた僕たちは、つるつると滑るように話し続けた。目の前のマフィンはなかなか減ることは無く、手をつける暇もなかった。

「ごめん、こんなに喋っちゃった。片桐さんはレポート終わった?」

「はい、わたしは暇だったのでとっくに終わっちゃって。つまらない話ばかりすみませんでした」

「うん、いいんだよ、楽しかったし。ただ……」

 ただ、一花が待ってるんだ、という言葉は喉元を過ぎることがなかった。僕はそれを飲み込んでしまった。時が過ぎるのが惜しかった。

「ひょっとして、片桐さんは毎日のように図書館に来てたの?」

「……はい。おかげで一人で来るのも慣れちゃいました」

「田代は?」

「相変わらずほとんど顔も見ないんです。どこかにわたしより好きな人でもいるんじゃないかなぁって思うくらい」

 目の前の澪の瞳に、うっすらと涙が浮かんだように見えた。彼女の瞳は揺らいで、ブレた。

「そんなことないよ。たかが夏休みくらいで気が変わったりしないよ」

「それは松倉さんだからで……。他の男の人もそうだとは限りませんよ」

 そう言われては何とも返しようがなく、困った顔をした。澪も同じように困った顔をしていた。

「松倉さんてお兄ちゃんみたい。実際わたしに兄はいないので、そんなふうに思うだけで。『澪』ってよかったら名前で呼んでください。一花さんも名前で呼んでくれてるし。あ、一花さん、ひょっとして待ってるんじゃないですか?」

「ああ、そう、待ってると思う。何かおみやげに買って帰るよ」

「はい、楽しかったです。また暇な時に話を聞いてくださいね」

「うん、また」

 とりあえず図書館に自転車を取りに戻って、スマホにはなんの催促もなかったのでコンビニで一花の好きなアイスクリームを買う。彼女の好きなストロベリー。僕はクッキーアンドクリームを選んでレジに向かった。






「ただいま」

 ガサガサと鳴るコンビニの袋を提げて部屋に入ると、一花はテーブルに突っ伏して眠っていた。溶けかけたアイスクリームを冷凍庫にしまって、一花をそっと起こす。

「一花、こんなところで寝たら体、痛くなるよ」

「ん……丞、帰ったの?」

「アイス買ってきたよ」

「何味?」

「ストロベリー」

 ストロベリーと聞いて、彼女の頭はようやく回り始めたみたいだった。体を起こして背伸びをする。

「口が乾いちゃった。麦茶もらってもいい?」

「僕も飲むよ」

 冷凍庫から一花の作ったよく冷えた麦茶を出してきて、ふたつのグラスに注ぐ。カランカランと氷がぶつかって音を立てる。冷房の運転音が静かに聞こえた。

「丞、図書館、長かったのね」

「うん、ああ、一般文芸の棚をちらっと覗いちゃったら面白そうな本があって」

「それでわたしを部屋に残してその本と浮気してたのね」

「浮気なんて大袈裟だな」

「浮気は浮気だから」

 どきりとする。

 澪と一緒にいたなんてとても言えそうになくて、図書館で手に取ったきり1ページもめくらなかった本のせいにする。「言えないこと」は、少しずつ僕の生活を脅かしたけれど、いくら僕と一花の間でも言えないこともある。逆に考えれば、一花だって僕の知らないところで「言えないこと」を作っているかもしれなかった。

「澪」と口に出して言うのは憚られた。それを口にするのは勇気のいることだったし、考え違いでなければいろんな人を傷つける可能性を秘めていた。心の中にだけ「澪」はいて、「片桐さん」が僕の表の世界に住んでいた。

 澪の濡れたまつ毛を思い出す。彼女自身はおっとりとして、決して暗い性格ではないのに、こと田代に関してはいつでも自信なさげで頼りなく見えた。根が真面目なのかもしれない。

 暑い中、シャワーで今日の汗を洗い流しながら、流しきれない今日一日の出来事に思いを馳せる。

 近くて遠い、手の届かないところにまさに彼女はいた。

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