茨姫の夢の終わり

蒼城ルオ

その夢の名は、

 夢の中で更に寝起きを繰り返すのが当たり前になって、どれくらい経っただろうか。ボディスとペティコートの上に前開きのローブを羽織り、刺繍の優雅な胸当てをつける。髪を盛り上げようとする姿なき気配を手で払って、そのまま垂らし、歩を進める。窓越しに変わらぬ空と茨を見やり、主要階段を上がり、二番目に小さな客間の扉を開く。

 此処までの道で召使の誰ともすれ違わなかったことも、礼儀の一切を無視したにも関わらず教育係が仕込んだ魔術が作動しないことも、何の疑問もない。夢だから、ではなく、精霊の悪戯や魔女の温情など、可能性は枚挙に暇がないからだ。私がここを夢だと区別出来る要素は、もはやただひとつ。


「おはようございます、リディ様」

「おはようございます、ユストゥス様」

 私の記憶にない、知識にもない、不思議な姿かたちで現れる目の前の青年だけだ。男性であれば騎士でない限り誰もが纏っている首周りの幅広い襟がなく、代わりにレースの布を巻き付けていて、線の細さと相まってひどく中性的な印象がある。スラッシュのないコートを腰かけるソファの脇に無造作に投げており、優美だが実用的、と言ったところだろうか、流れる金の髪と鷹のような青の瞳同様、相反する空気を上手く取り込むひとだ。


 軍属となった末の叔父上と最後にお会いした時と同じ年頃に見える、年下の二十代の青年。

 尤も、私は


 子供に恵まれなかった王妃がようやく身籠った姫、それが私だ。その誕生に際して、父か母のどちらかが、王家の制約とは別に魔女と何らかの契約を交わしたのだ、と思う。正確なところは分からない。王族と魔女の関係が私の生まれた年を境に強固になり、前者が契約違反をしたのか後者が欲をかいたのか、私は呪いをかけられ、十五歳で死ぬはずだった。

 だが。


「ねえ、ユストゥス様。今日は何のお話をしてくださるの?」

「今日は、若き女王と軍の司令官の恋物語でも」

「それは幸せなお話? この前のように、平和を説く話と言って三人兄妹が次々と殺されるような話は嫌よ?」

 近づきながら拗ねるように言えば、くつくつと笑う声と共にユストゥス様の両腕が広げられる。転ばないようローブをペティコートが見えるところまでたくし上げ殿方の隣に腰掛けるのは、さぞはしたないことだろう。口元のつけぼくろに指が伸ばされ、頬へ軽く口づけが落とされる。

 これは有り得ない、有り得てはいけない夢だ。


 私は十五歳で死ぬはずだった。それを、呪いの力を弱め、百年夢の世界を彷徨う運命へと変えられた。その間、現実の私の体は時を止めたまま、城壁と茨と魔女の術とが守ることになっている。おかしいのは、そのことを誰から聞くまでもなく知っていた私だろうか。それとも、これほどに何重にも重ねられた守りをいとも容易く突破してきたユストゥス様だろうか。

 彼が現れたのは、つい最近だ。そもそも、何年経ったか数えるのを諦めた時点で二十年が経過しており、そこからおおまかに倍近い年数は経った後、と言った程度の感覚なので真偽の程は怪しいが。現れた頃は、私とそう背丈の変わらない少年の顔をしていた。こうやって時折人の夢に紛れ込みやすいのだと頬をかきながら笑っていた彼に、いずこかの神霊の血を引く上級貴族だろうかと益体のない推測を重ねたものだ。後に知った彼の生家は、眠りにつく前に、病を癒す者としてちらほら名を聞き始めたもののそれで、あれから一族が大成したのであればさもありなん、といったところだった。そんな些細なことまで思い出すほどに彼との出会いは新鮮で、翻って言えば、それまでの夢はただただドレスと書物と裁縫道具に満たされた城での反復作業でしかなかったのだ。

 だから、彼との逢瀬が、七日おきから三日おきになり、三日おきから一日おきになり、毎日になっても、嬉しかっただけだった。いつまでも少女の姿の私に対して次第にユストゥス様が年下扱いするようになり古今東西の童話や物語を手土産に持ってくるようになっても、口を尖らせてみせるだけで、話題があるならどうでも良かった。私は此処で、死からも外界からも、関わらないことを赦されて、遠ざけられていた。


 遠ざけられていた、はずだったのに。


「……ユストゥス様」

「何でしょう、リディ様」

「外では、戦が起こっているの?」

 やはり全てを突破してくるのは、彼。

 虚構の物語という外套では隠せないほどに、彼の話は戦況の話ばかりだった。そして。


「――いいえ。終わりましたよ」

 遠ざけられている間、止まっているのは私だけだった。


「ユーグ王国はエルサスとロチュリンジェンを、ヴァーサ王国はオドラを、ホラントは独立を承認されました」

 血の気が下がる。視界が暗くなる。エルサスとロチュリンジェンは我がカイセレス王国の特産品が最も採れる地域だ。オドラには我が国が交易で栄える際に要となった川がある。ホラントは父が王子だった頃の戦で重要な拠点となった場所だ。つまり。つまり。

「そ、れは……」

「ええ。――事実上、貴女の国への死刑宣告です、リディア第一王女」

「な、んで……」

「貴女ですよ、王女」

「え?」

 くらりと、揺れる視界に薔薇が香る。生花など此処にはない。漂うのは、ユストゥス様の纏う何かだ。白い柔いと、自分と大して変わらぬと、思い込んでいた腕で肩を掴まれる。支えるように、逃がさないとでも言うかのように。

「不老不死の奇跡。いえ、正確には不老であるだけで不死ではなく、不老も目覚めてしまえば解ける魔術ではありますが、それでも各国にとっては喉から手が出るほどに欲しい魔術だ。戦が終わった後に名将達を眠らせれば、次の戦でも最盛期で出せる。発想に時代が追い付かぬ学者達を、いつかその辣腕を震える時代にと未来に送り出すことが出来る。死を恐れる者にとっては、死を遠ざけられるというだけでどんな甘露より宝石より欲しくて堪らないものだ。貴女にとっては、呪いであろうと」

 そういう時代になってしまったのですよ、と、途中から常体に変わった言葉を取り成すように、彼が言い添える。私はどうしようもなく愚かだけれど、それでもここまで至近距離であればその瞳が一瞬右に流れたことは見逃さないし、ああ、嘘だ、どこかで論点のすり替えがあった、と分かる。少なくとも、そんな時代になってしまったのではない。彼にとってはそんな時代が当たり前で、時代遅れの、夢しか見ていない、小娘の相手をここまでしていたのだ。


 それは一体、何のため?

 

「ユストゥス、ユストゥス様。あなたは、何を」

「何を望んでいるか、ですか? ……そうですね、リディ様」


 俺と結婚しませんか。

 甘い甘い声はきっと、今聞かなければどこかの童話の一節だった。


「国の死刑宣告を受けて、どこの領主も権力を得ようと躍起になっている。そんな中で貴女は分かりやすい神輿で、強力な武器だ。我こそはカイセレス王国の正当な後継者だ、とね。ねえリディ様、自分が国を乗っ取る悪党だと分かってて悪を為す悪党と結婚するのと、自分は国を救うのだとまったき善意で悪を推し進める悪党と結婚するのと、どちらがいいですか?」

 そ、れは。絡まる声は無理に喉から押し出そうとしても、きちんとした言葉にはならなかった。すぐ近くで私だけを見つめる青が、今まで見たことのない深さを孕んで熱を注ぐ。

「三日待ちます。三日後に、また」

 抱きしめられた身体が、夢の中だというのに、どうしようもなく熱かった。





 違う。違う。ユストゥス様は何かを偽っている。

 信じたくないからではない。止まってしまった時のまま、駄々を捏ねているのではない。降り積もった数十年が、彼と過ごした夢の日々が、何かがおかしいと告げている。

 私は時が止まった存在。魔女の呪いで時を止められた。ああ、そうだ、そこだ。それならば。




 今の私の状況が欲しいなら、まず手に入れるべきは魔女。

 魔女と決別した『王族』はむしろ、近づいてはならない存在。

 力が欲しいなら、最も手に入れてはいけない一族過去の遺物


 そうであるならば、あのひとは。

 ――少女時代という永い永い夢が、終わる音がした。







 唇に触れる感触は、何かと惑えるほど最早私は少女ではなかった。覗き込む青に呼びかけようとして、咳き込む。代わりに手を伸ばそうとしても、腕も肩も軋むようで、思うようにならない。背中を擦る手が離れたかと思えば一杯の水が差し出される。

「どうぞ。……おはようございます、リディ様」

 何度も何度も聞いてきた、なのに記憶にあるそれよりも低く掠れた声。掠れた、そう、掠れている。起きて初めて見るユストゥス様は、やはりよく知らないが上質だとは分かる服を着ていて、けれど上着にはまさしく茨の棘で裂かれたような傷が残っていた。咳き込んで僅かに滲んだ涙を拭う指にもやはり掠り傷。そして目元には薄い隈。

「起きて早速恐れ入りますが、強奪婚と洒落込ませていただきます。夢の中でご説明したのでもう話は要りませんね? ……ああ、百年ぶりに目覚めた気分はいかがです?」

 皮肉気な言葉、薄い笑み。何も聞いていなければ怯えるか憤るかしていただろう。先の彼の言葉ではない、今遠く城壁へと届いた、大砲の音に。


 ああ、ねえ、ユストゥス様。騙すならきちんと、騙し切って下さいな。

 貴方はこれが過ちだと分かっていて手を伸ばしたのでしょう? 放っておけば無抵抗で滅びた最後の王族を、生かせば魔女の支援が一切受けられなくなる女を、助けようと言うのでしょう?

 私が一番遠ざかっているつもりで一番近づいていた死と停滞とに囚われるのが気に食わなくて、違う時代の人間と共に生きるという禁忌を選んだ。それならば。


「最高よ、私の共犯者王子様

 私も咎を背負いましょう。全てを赦されていた永い夢は、終わったのだから。

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