第14話

 気づいた時、僕は真っ白な空間にいた。壁は遠すぎて見えないほど広く、天井もまた高すぎて見上げきれない。太い円柱があちらこちらに突き立ち、その遥か頭上の天井を支えている。

 呆然と立ち尽くす僕。すると、全く唐突に、何かが足に触れた。否、その何かに掴まれた。


「うっ!」


 そこには、血塗れの機動隊員が、腹這いになって僕を見上げていた。まるでゾンビのようだと、僕は連想した。そのくらい、不気味で気色の悪い雰囲気が醸し出されていたのだ。


 先ほどと違ったのは、僕は転倒せずに立っていたこと。そして右手に、あらかじめ鉄パイプが握られていたことだ。


 早く、この場から逃げなければ。しかし、機動隊員の腕力は無尽蔵なのか、僕の足先が痺れるほどの力で握り込んでくる。爪が食い込み、息の詰まるような痛みが走る。

 この状況を脱するには、相手を無力化するしかない。しかし、話が通じるような気配は微塵もなかった。交渉は無理だ。


 すると、それに気づいたのとタイミングを合わせたかのように、僕の右腕は高く掲げられた。


「や、止めろ!」


 僕は叫んだが、まるで何かに乗り移られたかのように、右腕は容赦なく、精確に振り下ろされた。


「くっ!」


 僕はぎゅっと目を閉じた。しかし、何かを殴打した感覚はない。代わりにいつの間にか、右腕は再び、高く上げられていた。

 だが、今僕の足元にいるのは、機動隊員ではなくなっていた。


 父だ。ある日突然酒浸りになり、あたり構わず暴力を振るっていた父が、僕の足を掴んでいる。

 突然、僕の胃袋に火が灯った。その日はジリジリと僕の全身に広がり、僕を僕ならざる者――復讐者へと変えていく。


「お前が……お前がいなければ、僕も優海も傷つかずに済んだ!」


 僕は自分の無意識に身体を乗っ取られ、今度は躊躇なく鉄パイプを打ちつけた。

しかしその直前、父はふっと、火の粉のように消え去った。ガァン、という硬質な音が、この謎の空間に響き渡る。


「ッ! どこだ!」


 振り返ると、今度は後ろから、反対の足を掴まれた。なんとか転倒を免れる。しかし、僕の足を掴んだ腕の主を見て、僕は腰を抜かしそうになった。


「か、母さん……」


 母がいた。父と同様に、ボロボロになった姿で。ギャンブル漬けで、薬物にも手を出しているんじゃないかと思うほど、急激に痩せていった母の姿。

 見るに堪えない。あなたが父さんを止めてくれればよかったのに。


 そう思い、僕は今度こそ、鉄パイプを振り下ろした。が、それは母どころか、床にも打ちつけられることはなかった。

 弾き飛ばされたのだ。パァン、という発砲音と、チリン、と薬莢の落ちる音がする。


 はっとして、僕は周囲を見回した。その腕からは、すでに鉄パイプは取り落とされている。

 僕の殴打を止めた人間は、優海だった。僕の腕に当てずに、鉄パイプを撃ち抜いたのだ。

 しかし、鉄パイプが床に落ちる音はない。地面に接触する前に、消え去ってしまった。


 優海はゆっくりと、次の狙いを定めた。僕の眉間に。

 どうしてそれが分かったのかは、僕の理解の及ぶところではない。しかし、間違いなく殺されると思った。逃げなければと思った。いや――応戦しなければという気持ちの方が大きかったかもしれない。

 

 ゆっくりと、しかしはっきりとした軌跡を描きながら、鎌首をもたげる優海のベレッタ。その時、僕は自分の右腕に冷たい感触を得た。こいつは、見下ろすまでもない。優海と同じ、ベレッタだ。


「止めてくれ、優海!」


 僕は叫びながら、目を閉じて引き金を引いた。


         ※


「わあっ!」

「おっと! 目は覚めたの、兄ちゃん?」

「ゆ、優海!」


 僕は上半身を跳ね上げた。自分の右腕と優海の手先にベレッタが握られていないことを確かめてから、両腕を優海の肩に載せる。


「どうしたんだよ、兄ちゃん! ずっとうなされてたよ?」

「優海、僕は、一体……?」

「ったく、世話かけさせやがって」


 そう言い捨てたのは、優海のそばに立っていた武人だった。


「お前が、僕を助けてくれたのか?」

「勘違いするな。俺は田宮さんの指示に従っただけだ。俺が田宮さんの立場だったら、絶対置き去りにしてやるのに」

「そう言わないでよ、武人くん! あたしの兄ちゃんなんだから!」

「ん、ま、まあ、それはそうだな!」


 頬を赤らめる武人。人が酷い悪夢をみていたというのに、付き合いきれん。


 そのまま視線を動かし、僕は周囲の状況を確かめた。どうやら、僕たちは出撃前のアジトに戻ってきているらしい。僕は床に寝かされ、周囲を優海や武人、田宮に囲まれていた。田宮は自動小銃の手入れで忙しく、会話に関わってこなかったが。


 その時になって、ようやく僕は、夢の内容を思い出した。今度こそぺたん、と尻餅をつき、額に手を当てる。


「大丈夫なの、兄ちゃん?」

「あ、ああ。怖い夢を見たんだ。それだけだよ」


 武人は腕を組み、『たかが夢じゃないか』とでも言いたげな目つきをしている。だが、優海は違った。


「どういう夢だったの?」

「い、いや、内容は忘れてしまって……」


 僕はしどろもどろになってしまった。まさか、『優海、お前と銃を向け合う夢だ』などとは言えない。

 適当にはぐらかしながら、僕は考えた。いざ相手の暴力に晒された時、人間は、自分可愛さに、武器を手にしてしまうものなのだろうか? そして相手を殺傷してしまうものなのだろうか?


 もしそれが本能的なものだとしたら、僕が理性的にどうこうできる問題ではない。性善説など嘘っぱちの理想論に過ぎず、人間は誰しも、危機に陥ったらどんなことでもしてしまうものなのではないだろうか。


 自分の身は自分で守らなければ。可能であれば、優海のことも守ってやらなければ。そうでなければ、僕はあまりに無力で、存在意義のない宙ぶらりんな存在になってしまう。

 それに、このまま優海だけを暴力行為の只中に放り出しておくわけにもいかない。


「っておい優翔、聞いてんのか?」


 なにやら愚痴っていたらしい武人を無視して、僕は田宮の方へ身を乗り出した。


「田宮さん」

「何だ?」


 特に邪険にするわけでもなく、田宮は自動小銃に磨きをかけながら答えた。


「僕に、戦い方を教えてください」


 ピタリ、と田宮の手が止まる。


「おい、お前……むぐ!」


 武人に邪魔をさせまいと、優海が彼の口に手を当てた。


「優翔、何を考えてる?」

「自衛のためだけでいいです。どうすれば、現場で自分の身を守ることができるのか、それを伺いたいんです」


 ギロリ、と音がしそうな勢いで、田宮はこちらに目を向けた。しかし、僕にはそれが恐ろしいとは思えなかった。もっと恐ろしい思いをしてしまったのだから。今日の、交番襲撃の際に。

 

 田宮にしてみれば、僕を脅かして、覚悟のほどを測る狙いがあったのだろう。しかし、それは呆気なくクリアされてしまったことになる。しばし口をつぐんだ後、『分かった』と言って、田宮は立ち上がった。顎をしゃくって、僕について来いと指示をする。

 僕は両の掌を床について、よろめきそうになる足に力を入れて立ち上がった。


 田宮が向かったのは、プレハブの出入り口の反対側だった。そこにはドアがあり、もう一つのプレハブに繋がっている。真っ暗な部屋に、パチン、パチンと言いながら、照明の光が差す。

 そこは、一言で言えば武器庫だった。といっても、そうそうたくさんの火器があるわけではない。精々、拳銃が数丁、自動小銃が三、四丁といったところか。


「まずは拳銃を勧めるが、どれがいい? といっても、判断基準が――」

「ベレッタ92」

「何?」


 ふっとこちらに振り向いた田宮に向かい、僕は繰り返した。


「ベレッタ92でお願いします」

「そうか。優海と同じ武器を所望する、か」


 田宮は何度か頷きながら、拳銃の中から一丁を取り上げた。


「生憎、優海と同じシルバーはないようだな。これでどうだ?」


 手渡されたのは、艶のない黒色のベレッタだった。カチャカチャと音を立てながら、弾倉を取り出し、バレルに弾丸が込められていないことを確認する田宮。


「よし、持ってみろ」


 この期に及んで、ようやく僕は、自分が何をしようとしているのかを考えた。

 これは、明らかに銃刀法違反という『罪』になるはずだ。僕が今ここで、田宮の手を振り払い、上手く逃げだせば、罪を犯す前に警察に自分の身柄を保護してもらえる。


 だが、それでは優海はどうなる? アジトの場所を吐かされるであろう僕によって、優海は逮捕されてしまう。

 優海を暴力の渦から救出することは、最早不可能だ。


 いや、それ以前に、僕は鉄パイプで機動隊員を一名、殺害している。僕の手もまた、血塗られているのだ。これ以上の逃げ道など、あるはずがない。


 僕の葛藤を察したのか、田宮は黙ったままだ。僕はふっと息をついて、思いっきり右腕を伸ばした。田宮の手から、ベレッタを奪い取るように。

 悩みすぎて、頭がオーバーヒートしていたのだ。もう、暴力という本能に身を任せるしか、僕には道は残されていなかった。

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