私の意識の中にあるもの
豊原森人
わたしの意識の中にあるもの
猛暑日の上に、妙に強い風が吹いていて、体育館内は、もはや熱気の上にも熱気を上塗りしたような塩梅の、サウナ状態――夏休み三日目、私が所属するバスケ部の一日練習は、熱中症を懸念して、開始一時間で中断の運びとなり、汗みずくの状態で、シャワールームの順番待ちをしている中、同じ部所属の親友、
「
「え? 何の用があるのさ」
「いいからいいから。ね、お願い」
普段はさして押しが強くない、控えめな性格の千紗子が、妙にかしこまったように、目をギュウ、と瞑って懇願するので、これから真っ直ぐ帰り、クーラーのきいた部屋でのんびり昼食を食べながら、録りためていたドラマを見るという欲望を、とりあえずは抑えて、彼女に付き合ってやろうと思いました。
「いーけど、そのかわり、サイダーの一つでも奢ってもらうよ」
悪戯っぽく笑って見せると、
「いい? ありがとうね、いくらでも買ったげるから!」
千紗子も、よく焼けた肌に汗を光らせながら、ニッコリと笑ってくれます。何があるのかと考えをめぐらせながら、屋上という、普段あまり人が立ち入ることが無い――そして愛の告白をする場として、実にベターな所でもあるので、そんな連想から、まさか、私に告白してくるわけは無いよね。と内心で考え、あまりに安易なその連想に、いったい私は、何を考えているのだ、と、ちょっと苦笑しながら、シャワーのコックを捻り、汗と共に頭の中もリセットされ行く思いで、体を洗い流すのでした。
「やー、アチいね」
何も遮るものが無い、我が高校の屋上は、人一人としていませんでした。空から降り注ぐ陽光は容赦なく体を貫き、さらに地上よりずっと強い風――熱風が時折吹き荒れてくるので、シャワーでサッパリ出来たのもつかの間、またジットリと汗が滲んできて、私はたまらず、学校の玄関口にある自販機で、約束どおり千紗子に奢って貰った、好物の三ツ矢サイダーをグイと喉に流し込みます。
「ね……焼ける……」
千紗子もまた、ハンドタオルを頭から被り、ちょっと天を仰ぐような仕草をしつつ、私の言葉に軽くそう反応してから、
「で、本題なんだけどね」
何か決意したように、タオルを頭から剥ぎ取り、洗濯物を干す際に皺を伸ばす塩梅でバサッ、と振ると、それを首にかけるのを、私は屋上の柵に凭れながら、ボンヤリ見つめていました。
「うん、何?」
「あの……ね……」
千紗子はここで、冷静さを装っているのでしょうが、ヒトの態度に対してどちらかと言えば鈍感な部類に属する私でも、ハッキリと分かるほどに、極めて漫画的に、目に見えてソワソワしたような態度を取りはじめ、目をキョロつかせながら、息を吸っては吐きを繰り返すのです。
何か言い出したいことを必死に抑えているようにも、話の切り口を探しているようにも見えるその様子に、
「なぁに? 告白でも、しようっての?」
と、からかってやろうと思ったときです。ひどく強めの風がドウッ、と吹いて来て、千紗子の青色のハンドタオルが、瞬間、風にさらわれていきました。私は、思わず、自分の右側で宙を舞うそれを、バスケットボールに見立て、リバウンドを取る勢いで、びょんと跳ね、つかみ取ろうとしました。
結果的に、タオルはキャッチできたのです。しかし私は、殆ど反射的に体を動かしてしまったため、今自分が、柵に凭れていたこと――屋上のギリギリの位置に立っていた事を、まるっきり失念していました。タオルを確保するため、私は膝上くらいの位置で横渡しにかけられていた柵の欄干に、足をかけて跳び――そして本来、柵の内側に着地するところを、まるで目測を誤っていて、足を削られたサッカー選手の如く、両足を手すりに躓いてしまったのです。
そのまま、柵の外へ真っ逆さま。千紗子の狂的な悲鳴が聞こえ、視界の片隅に、街と、青空、太陽、そして学校の外周に植えられたメタセコイアが見え、バサバサ、とその木の中へ飛び込んだ瞬間――私の意識はプッツリと切れてしまいました。
気づけば私は、南国の楽園、と言えるような場に立っていました。
遠浅の、透き通るような海と、ヤシの木が一本立っているだけの、小さいビーチがあるだけで、後は見渡す限りの水平線ばかり。体は、先と全く変わらない制服姿で、ぽつんと、何かのCM撮影のように、佇んでました。
「……何これ、夢?」
「夢じゃないよ」
唐突に、耳元で囁かれたような鋭さでもって、そう声をかけられ、私はギョッとして振り返ると、ビーチに、全裸のわたしが体育座りをして、笑顔を向けていました。
「えっ、私? どゆこと? 何なの?」
いよいよワケが分からず、パニックになりそうになりますが、そこに全裸のわたしが、ゆったり歩み寄ってくると、足元の海水を両手で掬って、
「どうぞ」
私の口元へ、滴るそれを差し出してくるのです。何がなにやら、混乱していたのですが、その海水と思しき液体から、ついさっき――そう、屋上で飲んだ、あの三ツ矢サイダーと同じ、やさしい糖類の匂いがするのを覚え、思わず、彼女の手から、それを飲みます。その強めのピリとした炭酸と、味は、紛れも無い三ツ矢サイダーそのもので、驚いて、しゃがみこみ、そのサイダーの海から何口かを、手で掬って飲むと、いよいよ気分が昂ぶってしまって、そのままドボンとダイブしてしまいます。
そのまま泳ぎ、飲んで、幾分か時間が経った後、不意と冷静になった私は、海から上がり、ビーチでのんびりしているわたしの隣に、腰を下ろしました。
「ねぇ、これって夢? それとも私、死んじゃったの?」
冷静になり、そして急激に襲ってくる不安を、この世界の案内役、といった感じで微笑を浮かべているわたしにぶつけてみました。先の、屋上から転落したいきさつは、ハッキリと覚えています。これが、俗に言う死後の世界であり、この三ツ矢サイダーの海は、何か新手の三途の川めいたものではないか、という、恐ろしい発想に行き着いたのです。
しかし、わたしはケラケラと笑うと、
「違うよ。これは意識の世界」
「いしき?」
「そう。アンタの潜在世界って言うか……まぁ、“意識”だね」
「じゃあ、あんたは何者?」
「わたしは私。つまりあなた」
「へ?」
「簡単に言うと、意識の具現化って言うか、記憶そのものって感じ?」
「……じゃあ、この世界は?」
「これまた簡単に言うと、アンタが十七年間紡いで来た、心の世界の真実って言えばいいかな?」
「……はぁ」
「分かってないご様子で」
「うん。まるで分からない」
「まぁ言っちゃえば、現実のあなたは、意識不明の状態。つまり不明になった意識は、あなたの潜在意識――つまり、普段のあなたの意識の、さらに底の底の、より深い、自分でも気づいていないような世界に到達しているって事。だからこの世界には、あなたの意識の他には、潜在的に――よっぽど好きなんだねぇ。つまり三ツ矢サイダーの海と、バスケットボールしかないわけ」
「……へぇ」
ようやく、この世界が何であるかが掴めそうになってきたところで、わたしは、ヤシの木をポンと揺らすと、その木の上から、ヤシの実と思しき物体が落ちてきます。一瞬度肝を抜かれましたが、それは、スーパーボールの如くボヨンと跳ね、思わず私は、また、反射的に――あの時、屋上の柵の上でそうしたように、リバウンドの要領でガシッと掴み取ります。ヤシの実と思ったそれは、バスケットボールでした。
それを、手で弄びながら、
「……何? じゃあ私は、自分が思っている以上に、三ツ矢サイダーとバスケットボールが好きだったってわけ?」
「そゆこと。つまり、あの子の事もね」
そう言ってわたしは、目線を水平線の彼方へ向けます。その先には、手の届きそうな、でもちょっと泳がないと届かないような位置に、よく焼けた肌に汗を光らせながら、わたしと同じく全裸の、千紗子が、立っていました。
「だから、屋上に誘われたとき、愛の告白なんかを期待してたんじゃない?」
茶化すように、でもどこか陰のあるような笑顔と共にそう言う、わたしの言葉を受け、吐胸を突かれる思いで、この世界の千紗子を見やります、彼女は、何か難しそうな、裏のある――今にも、別れの挨拶を切り出し、そしてこのサイダーの海に、泡と共に消え行きそうな、何とも言えない儚げな表情で、佇んでいました。
その姿を見た瞬間、いても立ってもいられなくなりました。気づけば、ボールを投げ出し、なりふり構わず、サイダーの海を蹴り進みながら、彼女に突進していきます。しかし、よく出来た悪夢の如く、中々届きません。天から照りつける太陽の暑さも、飛沫と共に口に入り込むサイダーの甘さも、何も気になりません。
千紗子を、千紗子を失いたくない――
目を開くと、そこは真っ白な天井。
首を捻れば、様々な計器類が、規則的な電子音と共に稼動してきます。
頭がひどくボンヤリして、体の節々が、鋭い痛みに包まれています。腕を中心に、点滴でもされているのでしょうか、ひどい異物感があり、それがどうにも不快でした。
しかしその不快感は、すぐに私が目を開いたことに反応し、驚喜する――千紗子の姿を見ると、すぐに消え去りました。
涙でぐしゃぐしゃになった顔を、私の酸素マスクの先まで持ってきて、私の顔を手で覆いながら、
「ごめんね。ごめんね、柚」
と、何度も詫びる彼女を、私は抱きしめ、千紗子がここにいること、そして深層意識から現実に戻って来れたことを喜びたいと思いました。
が、如何せん、点滴を打っているようなので、ここで体を動かすのは、ちょっと危ないかな、と思った私は、今は大人しくする事にしました。
そして、全快した暁には、千紗子をしっかりと抱きしめ、告白をしよう。そう心中で思いながら、私は瞳から、涙をひとつ垂らすのです。
その安堵の涙は、私の涙でもあり、わたしの涙なのかもしれません。
私の意識の中にあるもの 豊原森人 @shintou1920
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