使われない資料

花るんるん

第1話

 僕は目覚めた。

 いつものように。

 何の変哲もない朝。

 何て素晴らしい。

 この素晴らしさの分からない奴は、バカだ。

 バカ、バカ、バカ。

 この世界は一回性の存在、奇跡だ。過去も未来も、平行世界もない。「目覚める」ということは、「その奇跡にアリアリと触れる」ということだ。

 布団から起きる。パンとインスタントコーヒーで朝食をすます。歯を磨く。顔を洗う。髪をとかす。着替える。バスに二十分揺られる。電車に一時間乗る。電車を下りる。改札口を出る。歩く。会社に着く。

 「おはようございます」

 「おはよう、いつもの田中君」

 「おはようございます」

 「おはよう、いつもの鈴木君」

 「おはようございます」

 「おはよう、いつもの佐藤君」

 僕は田中でもあり、鈴木でもあり、佐藤でもあった。僕をどう呼ぶかは、僕が決めることではない。ジェラフがキリンと呼ばれるように。そんなことはささいな問題だ。


 なぜなら、僕は僕だから。


 僕は、子であり、生徒であり、部下であった。「子である僕」「生徒である僕」「部下である僕」が成立した『後』に、それらを貫く、それらを超えた、無条件の『僕』が浮かびあがるのだが、遠近法的(パースペクティブ)思考によって、あたかも最初から『僕』がいたように勘違いしてしまう。

 勘違い、ではあるが、それで誰かや何かが困る訳ではない(たぶん)。

 だからもう一度、大声で言おう。


 僕は僕だ。


 「田中君は、いつもきちんと鈴木君だねぇ。佐藤君だねぇ」

 目覚めたときは名前を忘れている。

 ここがどこだかも忘れている。

 じょじょに思い出すんだ。

 ああ、僕は山田だったと。

 山田という役割を着ていると。

 田中という役割を着ていると。

 鈴木という役割を着ていると。

 佐藤という役割を着ていると。

 「着こみ過ぎだよッ!!」と自分につっ込みたくなる今日この頃。

 着こみ過ぎで掻いたと思った汗は、冷や汗。脂汗。

 嫌な汗しか掻かない。居心地の悪さが掻かせる汗。寝汗だって、嫌な感じ。

 「とりあえず、田中君でいいかな。嫌な感じの鈴木君。歓送迎会の幹事だったよね」

 ご多分な寸志、ありがとうございます。

 「ん? 何だね、佐藤君」

 僕らの世界は、扉が開いている。

 開いていることになっている。

 だから、誰でも出入り自由だ。

 田中も、鈴木も、佐藤も、山田も。

 あなたみたいな人でも。

 歓送迎会はやり遂げなければならない。

 田中の名にかけて。

 鈴木の名にかけて。

 佐藤の名にかけて。

 山田の名にかけて。

 宴会場の扉は開いているんだ。

 いつでも。

 あなたのために。

 僕は全力で幹事に努める。嫌な汗を掻こうと、何のその。

 そして、終わりにしなくちゃ。

 こんな、田中でもない、鈴木でもない、佐藤でもない、山田でもない人生を。

 どうしたら、終わる?

 「とりあえず、鈴木君でいいかな。そんなこと、分かりやしないよ」

 だから、あなたは愚鈍だ。何の変哲もない朝の素晴らしさを知らない奴だ。「分かりやしない」ことなんて、僕はとうの昔に分かっている。

 「とりあえず、佐藤君でいいかな。寝不足だろ、君?」

 そうだよ、眠いよ。

 あなたに言われて、使われない資料を徹夜でつくったからな。

 「使われないって、どういう気持ち?」

 「あなたになった気持ち」

 そうだね。


 そこで、僕(あなた)は目覚め、何の変哲もない朝を迎える。

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使われない資料 花るんるん @hiroP

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