芹沢鴨

 芹沢鴨は、短気だったという。


 伝聞曰く。

 芹沢はまったく呆れてしまうほど些細なことで他人を怒鳴り散らし、理不尽な罰を与える傍若無人な男だった。

 言うてそれほどでもないだろ──と、斜に構えていた女ふたりだが、ここ数日でそれを深く実感した出来事があった。


 ある日のこと。

「大坂?」

「うん、京相撲の勇川力蔵さんにね、招待されたんですって。芹沢さんが」

 おふたりも行きませんか、と言ってきたのは沖田だった。

「招待って──なにをするの」

「ずばり、桂川で川狩りです!」

「川狩りィ」

 川狩り──それは、川をせき止めて魚をとる遊びのこと。

 野生児のような文久人とはちがい、こちらはもやし育ちの平成人である。楽しめるだろうか──と葵は不安な顔をした。

 その表情からなにかを悟ったのか、沖田はにっこりわらう。

「いっしょになって魚をとれと言うんじゃなくて、川面は涼しいですから。雰囲気だけでも楽しめますよ」

「あ。じゃあ、行こうかな」

「ハイハイハイ、わたしも参加する!」

「うん、芹沢さんに言っておきます」

 沖田は嬉しそうにうなずいた。

 こうしてふたりは、桂川での川狩りに参加することとなったのである。


 旧暦の六月といえば、夏の真っ盛り。

 桂川に繰り出した男たちは、はしゃぎにはしゃいで続々と着物を脱ぎ出す。

「おいっ、鯉だぜ」

「鯰もいるぞぉ」

 原田や永倉は水面を覗き込んで叫び、他の隊士たちも嬉しそうにお互いを叩き合う。その雰囲気に当てられた綾乃はさっそく魚を探しはじめた。

 太陽が真上にきたころ、芹沢が酒を飲みながら「腹が減った。飯だ」と叫ぶ。

 魚とりに夢中の綾乃は放っておき、葵は重詰めの弁当を取り出した(八木の奥さんや賄方にも手伝ってもらった)。

「おいしい!」

「いろいろ初体験だった。かまどの構造もよくわかんなかったし」

 と、葵は疲れた顔でわらった。

 よほど早い時間から弁当づくりにいそしんだのだろう。沖田は何気なく口に運んだちまきを、ゆっくりと味わうように噛みしめる。

 ふと顔をあげて、

「そんなにお台所もちがうんですか──」

 と言いかけたときである。


「無礼者ッ!」


 いきなり聞こえた芹沢の怒声に、沖田は食べていたおかずを喉につまらせた。

「な、なに」

 見れば桂川の中流から上流へと進む、川遊び中の曳舟に乗った網曳の男を芹沢が縛り上げている。

 周りの隊士曰く、その網曳の曳いていた曳網がふとした拍子に芹沢の髷に触ってしまったというのである。

「沸点低ッ」

 と、形容しがたい表情でかたまる葵。

 後ろのほうではバシャバシャと水で遊ぶ音がする。中村金吾と綾乃が魚を追いかけているらしい。

「その曳舟、待てッ」

 芹沢は曳舟を怒鳴り付ける。

 すると中から男の声がした。

「拙者は与力草間烈五郎と申すもの――此度のご無礼、どうか見逃してはくださらぬか」

 とは言うが顔は見えない。

 しかし、名乗られて黙っていることもできず、芹沢も律儀に「拙者は壬生浪士組芹沢鴨と申す」と返した。

 今でいう名刺交換のようなものだ。

「なんと!」

 すると、舟の中から慌てた男が一人躍り出て、芹沢の前にひれ伏した。

「芹沢どので御座ったか。どうか、お許しを──」

「…………」

 不動明王のごとき顔で、草間を見下ろす芹沢。

 ピリリとした緊張感が張りつめる。

 ああ、草間は死ぬかな──とだれもが思ったそのときであった。


「獲ったどー!」


 と、抜けた声が聞こえた。

 中村金吾と綾乃が一尾の魚を頭上にかかげて無邪気に駆けてくる。その光景があまりにも平和で、沖田が吹き出した。

 するとその笑いに当てられて、周囲からもクスクスと笑い声がこぼれてきた。

「ふふ、ふははは」

 やがて、芹沢までもがゲラゲラと笑いだす。

 その隙に永倉が優しく、縛り上げられた紐を解いてやった。

「……か、かたじけねぇ」

「いや、こっちこそすまんね。短気なもんでさ」

 芹沢が上機嫌な顔で、

「どうでもよくなった。そら、持っていけ」

 雑魚どもを草間に分け与えてやり、芹沢は再び酒を飲みはじめた。

 なにも知らぬ綾乃と中村金吾は、

「葵見てェ、金ちゃんすごい!」

 とビチビチと跳ねる魚をいろんな人に見せびらかしている。

「でかッ、これ金吾さんが獲ったの?」

「ふたりで獲りやした」

「葵もやろう。これめっちゃ楽しいよ!」

 と、綾乃は汗をぬぐった。

 こうしてその後は、何事もなく。

 川狩りを楽しむことができたのだった。


 また、こんな話もある。

 これは後日、見聞きした隊士から聞いた話だ。


 芹沢率いる、総勢三十名ほどの大所帯が、かねてより贔屓にしていた、大坂にある八軒屋の京屋忠兵衛方にお邪魔したときのこと。

 この日はひときわ暑い日で、男たちは修行のごとくじっと口を閉じていたそうだ。

「……ああ、暑い。舟涼みにでもゆこう……」

 芹沢の元気のない声に、一同も半ば元気のない声で「おー」と返事をする。

 平隊士は、暑いのでと京屋に入り浸り、芹沢、山南、沖田、永倉、平山、斎藤、島田、野口の八人が舟涼みへ行くことに。

 そのうちの芹沢、山南、島田、野口は船中不便と言い捨てて、稽古着に袴、脇差のみというラフな格好で舟に乗った。

「舟の上はわりと涼しいですねえ。水があるからかな!」

「おおォ、いいねえ」

 沖田の言葉に、永倉も暑さのあまり虚ろな目でうなずく。船頭が、淀川の水の勢いが激しくて進路がずれた、と慌てているが、もはやそれに反応するのは山南と野口くらいのものだった。

 しばらくして山南が、斎藤の顔色が青白いことに気が付いた。

「斎藤くん、大丈夫かい」

「……む、」

「なんだ、船酔いか」

 原田も眉を下げて近寄る。

 違う、大丈夫だ、の一点張りで斎藤はしばらくだまっていたのだが、鍋島河岸が近付いたころ、我慢の限界が来たのか「腹が痛い」と白状した。

 斎藤に寄り添う永倉が

「腹痛ァ?」

 と抜けた声を出す。

 しかし芹沢は平然とした顔で、

「それなら舟はやめたがよかろう」

 という。

 その心意気に永倉は驚いたが、斎藤があまりにつらそうなので「そのとおりだ」とうなずいた。それにより立ち寄る予定になかった鍋島河岸に全員が降り立つ。

 そのとき。

 前からぶらりと大坂力士が歩いてきた。

 最初、芹沢は「そこをどけどけ」と適当に言っていたのだが、力士も力士で「どけとは何事!」とプライドが許さない。

 恐らく、ラフな格好すぎてこちらが武士の集団であるということに気が付かなかったようだ。

「……なんだ、貴様。力士の分際で武士に歯向かうか」

「貴様こそ俺のことを誰と心得おる!」

「おのれ」

 力士とは元より、武士すらも下に見る風があるという。芹沢はキレて脇差を振り抜いた。

 さっそく殺人事件勃発である。

 その後、蜆橋に差し掛かったところで、ふたたび力士が同じような対応をしてきたため、芹沢はことごとく刀を抜き払っていく。

 しかし今度は峰打ちだった。

 ばたりと倒れた力士に馬乗りになり、芹沢は脇差を力士の首もとにあてて、低くドスのきいた声で、

「お主ら、今後武士にこのような無礼な真似、断じて許さぬぞ……あとの力士にも伝えておけ」

 とささやいた。


 まあ、そんなことがあった。

 一方の斎藤は腹が痛くてそれどころではない。

 とにかく彼の腹痛をなんとかしようと、遊廓の住吉屋に登楼して、手当てをはじめた。

「母上にやってもらったことがある。腹痛のときはこうやって──『の』の字をかくように腹をさするといいんだ。どれ、腹を出せ」

 永倉は手際よく斎藤の腹をさすってやる。

 脂汗をかく額を沖田がぬぐってやると、苦痛に歪んでいた顔がすこしだけやわらいだ。

 ──すると、外がすこし騒がしい。

「なんだぁ」

 と、島田が巨漢を折り曲げて階下を覗いた。

 そのとき、隊士の一人が

「力士が五、六十人ほどきて、浪士を出せと」

 と報告をしてきた。

 酒を飲んでいた芹沢は、ぴくりと眉を動かすと「まーた力士か」と言って立ち上がる。平山、山南などの面々が「隊長に傷をつけるなよ」とにやりと笑って刀を抜いた。

 永倉も口角をあげてそのようすを見ると、斎藤に視線をうつした。

「おい斎藤、あとは己でさすってやれ。要領はわかったろう」

「うん」

「なんだか楽しそうなんで私も行ってきます」

 そばにいた沖田も、にこにこ笑いながら柄に手をかける。


 それはそれは、壮絶な戦いだったようだ。

 バッサバッサと斬りまくる上に、沖田は刀を風車のように振り回して敵を牽制(永倉談)。

 熊川熊次郎という剛腕力士を先頭にやってきた力士軍も、武士には敵はず──。

 数人の死者を出して、戦いは終結を迎えたのだとか。


「どうしてこう、すぐ血祭りにあげたがるかな」

「価値観違うって怖ァ」

 ぶるりと身を震わせて、葵は己を抱いた。

 しかしおかげでかねてより目論んでいた酒宴がひらくだろう。

 綾乃と葵にはひとつ、企みごとがある。

 

 ※

 その酒宴。

 数々の芹沢の行動から水口藩の公用方が会津藩公用方にこぼした、

「最近、浪士組が乱暴で迷惑被る。なんとかしてくれ」

 という愚痴からはじまる。

 それを聞いた芹沢(原因)は「愚弄するとは同志の恥!」と、永倉と原田、井上に公用方を連れてこいと怒鳴り付けた。

 とはいえ公用方も、のこのこ屯所へ赴けば首が飛ぶと思ったらしい。本人の代わりにその場でしたためた謝罪文を寄越してきた。


「まったく。あやうく俺たちの首が飛ぶところだぜ」

 翌日、原田は腹を出して太陽に晒しながらつぶやいた。この男はたまに、腹にある傷を天日干しするのだ。

 わははっ、と洗濯物を干す綾乃がわらう。

「謝罪文、芹沢さんは納得したんだ」

「ああ。すっかりご機嫌だったよ」

 といった矢先、玄関口から永倉の声がした。

 何事かと覗きにいくと、戸田栄之助という男が詫び状を返してほしいと訪ねてきたという。

 綾乃の目がいよいよ光る。

 永倉は困った顔で応対した。

「自分の一存で返すわけにもいかぬよ。話し合う場所を披露してはくれんかな」

「ええ、それであれば角屋徳右衛門、郭の松の間に」

 戸田という男は言った。

(キタコレェ!)

 綾乃は内心で、大きくガッツポーズをした。


 ──曰く、この酒宴でふたたび芹沢が暴れるという。


 暴れる理由は単純、角屋の従業員が仕事をさぼったから。

 仕置きしてやるとさんざん店の物品をぶち壊し、七日間の営業停止を言いつけるというのが、史実に残る角屋の顛末である。

 綾乃と葵の企みごとというのがこの芹沢の『仕置き』にある。

 自分たちがこの件に介入することで、未来に伝わる仕置き内容がなにか変わるのか。むしろ仕置きをなくすこともできるのか──。

 つまり、タイムリープものによくある『歴史改変』の可否を確認したいのである。ゆえになんとしても、その場に居合わせねばなるまいと思っている。の、だが。


「言いました。山南さんはわたしらもご一緒していいって言ってました!」

 お留守番よろしく。

 と言われ、綾乃が食って掛かるは山南だ。

「わ、私は良いと思ったのですが、土方くんが留守番だと」

「土方くんは関係ないでしょう、山南さんだって副長でしょ。なら山南さんがいいって言ったらいいじゃないですか」

「しかしね」

「芹沢さんもいいって言いました」

 葵はムッとした顔で横から入ってくる。

 じゃあいいじゃん、と綾乃はふてぶてしく顎をあげる。

「最高権力者じゃん」

「駄々をこねない」

 山南は困り果てた。

 ほかの隊士は続々と行く準備を整えて、玄関口で待機している。

「なんだ、どうかしたか」

 すると本日の酒宴には欠席の近藤がやってきた。

 アッ、と綾乃がすかさずその両腕を捕まえた。

「ミスター近藤ちょうどいいところに。今日、ついていってもいいですか」

「なに君たちもか。──しかしなぁ」

 近藤はわずかに視線を漂わせた。

 その顔には、土方くんがなぁ、と書かれているのが見てとれる。

 綾乃は目を吊り上げて言った。

「もう、みんなして土方土方──局長は貴方ですよ。あんな小鬼の一言に未来の大権現が惑わされてどうするの。ちょっと山南さんも聞いてますか」

「き、きいています」

「近藤さん、芹沢さんには許可もらってるんですよ。土方さんに何か言われたら、芹沢さんのせいにすれば良いじゃないですか。ねっ」

 葵も、平然と芹沢をダシに使ってくるようになった。この世界に来て一ヶ月ちょっと、ますますオヤジどもを駒使いしているのが目に見えてわかる。

「まあ──芹沢さんがいいと言ったのなら、良いのじゃないか」

「ホントですか!」

「っしゃあ、ざまあみやがれ屁のカッパ。鬼の副長がなんだってん」

「てめえは日を増すごとに憎たらしくなりやがるな、三橋──」

 いつの間に後ろにいたのか、土方は綾乃の頭に拳骨をいれた。

 鬼の鉄槌は猛烈に痛かった。


 ────。

「今宵、喧嘩は一切なしだ。よいな!」

 角屋に到着して早々、芹沢はあっさり言った。

 みなじとりと恨めしそうに巨魁局長見つめて「こっちの言い分だろ、それ」とつぶやく。

 葵は、芹沢へ酒を注ぐ役を担うことになった。巨漢の隣にちょこんと座り、続々と挨拶にやってくる公用方へ頭を下げる。

(どうしよう──ここじゃ何もできない)

 葵は、上唇を舐めた。

 本来なら、仕事をさぼるらしい仲居のようすを逐一見て、こちらが先回りして注意喚起をするという計画だった。しかしこの分だと葵は下手に動けない。

 ちらと綾乃へ目を向ける。

 彼女は親指を立てた。プランBでいこう、という合図だ。葵は泣きそうな顔をする。プランBとはつまるところ「芹沢応対を臨機応変にがんばろう」という根性型プランなのである。

 島田・原田のあいだに座る綾乃は、ごそごそと着物の内に仕込みをした。

 なにしてんだ、と原田が首をかしげる。

「鍋の蓋なんか持って」

「余興だよ」

 綾乃の声はめずらしく緊張した。


 宴会も盛り上がりを増すにつれ、宴の場から仲居が消える。

 いち早く気付くは土方だった。

「永倉くんよ」となりの永倉に顔を寄せる。

「うん?」

「芸姑は働いているのに、仲居がいねえな」

「あれ。本当だ」

「あの人が気付かなけりゃいいが」

 土方の憂いは的中した。

 酔っ払った芹沢がそのことに気が付くや、激怒して店中の瀬戸物やら酒樽やらを破裂させ、大きな声で店主を呼ぶ。

「い、如何され──ヒッ」

「仲居を連れてこい、わしが仕置きしてやるッ」

 鉄扇を振り回し、さっさとしろと店主のケツを蹴り上げた。

 葵と綾乃が顔を見合わせる。

 ほかの隊士らは(また始まった)という顔で店から逃げ帰るものばかり。店主は店主で、ここに仲居を呼べばその者の命も危ういと、土下座をしたまま動かない。

 芹沢は、鉄扇を振り上げて思いきり店主の頭目がけて振りおろした。

「芹沢さんッ」

 葵が芹沢の腰元を掴んだと同時に、綾乃が芹沢と店主の間に滑り込み、店主を庇うようにして背中に鉄扇を受けた。

「ああ?」

「い、っ」

「なんだァ貴様、邪魔立てするかッ」

 土方が膝を立てた。

 綾乃は痛みのあまり歯をふるわせ、青ざめた顔でじっと芹沢を見上げる。

「……は、……」

「────」

 芹沢の焦点が綾乃の瞳に合ってすこし酔いが覚めたのか、口をつぐんで踵を返した。

 綾乃は脂汗を浮かべてうずくまる。

「……────い、痛…………」

「綾乃ッ」

 葵が駆け寄った。鉄扇で殴られたとなれば、あばら骨も折れている可能性がある。

 芹沢は、

「仲居は全員変えろ。この店は三日間の営業停止だ!」

 と、酒をあおり店から悠々と出ていった。

「あや」

「…………」

 芹沢から離れるな。

 という綾乃から無言の指示を受け、葵は名残惜しげに芹沢のあとをついてゆく。一連の騒ぎを静観していた斎藤はすぐに綾乃を抱え上げ、原田は「医者だ」と叫びながら別室へと誘導した。


 嵐のあとの静けさ、である。

 空気の音が聞こえるほどの沈黙。すぐさま土方と永倉は我に返り、急いで綾乃の元へと向かう。

「まったく、喧嘩などの争いは一切なしって言ったのはどこのどいつだッ」

「仕方ねえよ土方さん。今日のところは彼女に感謝せにゃあ」

 と、永倉が隣室の襖をすらりと開ける。


「やだッ。入るなら声かけてくださいよエッチ!」


 綾乃が珍妙な恰好でさけぶ。

 着くずした着物の中から、なぜか鍋の蓋を二枚取り出しているのである。介抱のため付き添う原田と斎藤が鍋蓋をしげしげと眺めた。

「おいおい、ヒビが入ってら。お前よく無事だったな」

「無事なもんか。骨にひび入ってんじゃねーかってくらい痛いよ」

 と、鉄扇で打たれた背中をさわる。葵が芹沢を押さえたおかげだろう──痣にはなるだろうが、たいした傷はない。

 ホ、と土方が息を吐く。

 つぎの瞬間目くじら立てて怒鳴った。

「お前ェ──この、バカたれッ」

「おいおい土方さん。気持ちは分かるが、今回ばかりは」

「うるせえッ。てめえ三橋、無茶しやがって。あそこで芹沢がお前に対してさらに怒り出したら最悪死んでいたかもしれねえんだぞ」

 土方の怒声が轟いた。が、綾乃はけろりとしている。

「そうなったら土方さんが助けてくれる」

「たすけるわけ、ねえだろッ。勝手にあてにするな!」

 でも土方さんと言いかけて永倉は黙った。

(あんた片膝立ててたよ)

 なんて言ったら、さらに乱心するだろう。

 永倉がフッと口角をあげたとき、店主が仲居を連れて部屋に入ってきた。

「そちらのお嬢さんのおかげで、本当に──助かりました。なんと礼を申し上げたらよいか」

「お礼はいいから、ちょっと仲居さんの髪の毛いただける? 形だけでも反省を見せないと──あ、わたしが切ります。ハサミないの? 小刀で切るんだ……へえ!」

 と、綾乃が小刀で仲居たちの髪をぶつりと切ってゆく。

「命は一度なくしたら戻らないんだから。いのち大事にお願いしますよ。仕事さぼらずにね」

「へえ、ほんに申し訳……」

 髪はおんなの命。

 とはいうけれど、それでもいつかは生えてくる。

 綾乃は背中の痛みを感じてふと笑みをこぼす。その様子に、斎藤は眉をしかめた。

「なにをわらう」

「──生きててよかった、と思って」

「────」

 そんなこんなで。

 未来の史実では、芹沢より営業停止七日間を言い渡されたはずの角屋は、三日間の停止のみで、さらに要求されることはなかった。


 その夜。

 葵は眉を下げて言った。

「骨にヒビが入ってたらどうするの」

「この際、ちょっとの犠牲はしかたない」

「いくら──歴史を変えたいっていったって、あんな危険なことするなんて」

 彼女はすこし、泣きそうな顔をしている。

 綾乃はぐたりと身体を横たえた。

「三日間の営業停止かァ。くっそぉ──」

「だけど四日縮めたんだから、歴史は変わったよ」

「たしかに、些細だけど大きな実験結果よね。とりあえずすこしなら歴史を変えることは可能ってことがわかったし。……だけど、だけどやっぱり難しいね。今回は些末なことだったけど、もしこれがひとの命を左右することだとして、もしも、根本から変えなきゃいけないのだとしたら。──」

 綾乃が言葉につまる。葵はうつむいた。

 彼女の言いたいことがわかったからだ。

「……────だけどもう、綾乃が無茶してまでは、やらないで」

 葵が、綾乃の袖をつかむ。

「ごめんて!」

 綾乃は快活にわらう。

 しかしその内心は悔しいやら、痛いやら。

 鉄扇を受け止めたときの身体的ダメージも大きかったのだろう。彼女にしては不気味なほど、それから一週間は大人しかった。

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