ジョン

蓬莱汐

第1話

 長年共に生きてきた愛犬が死んだ。事故でも病気でもない。老衰だった。

 犬は人間よりも寿命が短い。愛犬はその寿命を全うした。ただ、それだけのこと。

 すっかり寂しくなってしまった犬小屋を見て、頬を滴が流れる。

 すっと腰を下ろし、『ジョン』と書かれたネーム札を撫でる。

 ジョンは柴犬だった。

 大人しく、穏やかな性格で人懐っこい犬だった。

 時折見せるイタズラする時の顔が、今でも鮮明に思い浮かぶ。

 畑の野菜を引き抜いた時、ジョンは尻尾を振って走り回っていた。ランドセルを奪い取って逃げた時は、少し寂しそうな顔をしていた。僕が家を出る時、ジョンは力弱く吠えていた。

 小学生の頃に父が連れて帰ってきて以来、僕の側にはジョンがいた。

 数え切れない時間をジョンと過ごしてきたのだ。

 ――悲しい。寂しい。苦しい。痛い。

 色んな感情が混ざり合って、ジョンが死んだと聞いたときは理解できなかった。

 でも、それは時間と共にゆっくりと心に浸透した。

 ジョンが死んでから一ヶ月。ようやく僕は、ジョンの小屋の前にいる。

 遅すぎたのかもしれない。ジョンに挨拶も出来なかった後悔が、日に日に積もっていく。心の隙間を埋めていく。

 兄弟のいない僕の弟のような存在だったジョンの最期すら見てやれなかった。


「弟のくせに、兄より先に逝くってどういうことだよ」


 涙を流し、嗚咽混じりに吐き捨てる。

 行き場の無い激情を、どこかに捨ててしまいたかった。

 言葉は出せば消える。想いも吐けば消える。でも、消えても消しても間に合わないほどに感情が溢れ出してくるのだ。

 この一ヶ月間、涙で枕が濡れない日なんて無かった。眠る前にシーツを取り替えても、朝になればぐっしょりしている。

 知らぬ間に、夢の中でもジョンを想うようになっていた。

 大切な家族を失った気持ちは簡単に消えてくれない。どれだけ消えてほしいと願っても、許してくれない。

 その気持ちは、後悔の念となって心を襲う。

 ――あの時、どうして

 いくらでも甦ってくる。


「たまには高級ドッグフードでも買ってやれば良かったな」


 そんな日常の何てことの無いことですら、今となっては心を締め付ける。

 商店街を歩くときのジョンが見つめる先には、少し高めのドッグフードがあった。結局、食べさせてやったことは無かった。

 ただ、一度だけ貰い物のドッグフードをあげたことがあった。

 ジョンは大袈裟な程に尻尾を振り回していたな。

 ふと気が付けば、僕はジョンのお皿を撫でていた。

 一ヶ月も経てば砂も土も付いて、汚れている。そこに涙が落ちては、泥水へ変わって溜まっていく。


「ジョン……」


 情けない声だったと思う。こんな姿、見せられない。


「……っ!」


 皿が欠けていたのか、指先から血が出ていた。

 涙で滲んで大量の血が出ているように見える。ズボンで乱暴に拭う。でも、血は止まらない。

 ――どうでもいいか

 そう思った時、ペロリと何かに舐められた。

 そこには、


「ジョン……!」


 僕が家を出た当時のジョンがいた。

 相変わらず尻尾を振って、舌を出して、ハアハアと息を切らしながら立っている。

 手を伸ばし、頭を撫でようとするも、手は空を切った。


『無駄だよ、兄ちゃん』

「え……?」


 信じられないことに、ジョンの口から言葉が出てきた。


『僕はもういない。兄ちゃんとは触れられないんだ』


 尻尾をシュンと下げ、ジョンは近付いてくる。ついに頬を舐められる距離まで来た。


『兄ちゃん、泣かないで』

「っ、いや、これは……」


 どうやら、涙の量は増えていたらしい。頬には滝のように涙が流れ、鼻水も垂れ流しだ。


『兄ちゃん、僕たちが出会った日を覚えてる?』

「あ、ああ」

『僕は河川敷に捨てられてて、父さんが拾ってくれて、家族になって』

「ああ」

『何年間も一緒にいて、喧嘩もして、イタズラもして』

「……」


 もう、言葉は出てこない。頼りなく頷くのが精一杯だ。


『きっと僕は、兄ちゃんたちの家族になるために、あの日、河川敷に捨てられたんだよ』

「……」

『兄ちゃんに会えて良かった』

「……」

『だからね、死ぬんだって思った時は怖かったし、辛かった』


 きっと、その時のジョンを支配していたのは恐怖だ。未知の体験をする恐怖。どうしようもない恐怖。そして、僕が側にいない恐怖。

 そういう事なのだろう。


「ご、ごめ――」

『ううん。兄ちゃんが頑張ってることも知ってたし、僕を連れていくためにペットを飼える家を探していたのも母さんから聞いたから』


 確かにそうだ。間に合わなかったが、いつかは一緒に住もうと夢見ていた。


『兄ちゃんが僕を想ってくれていたのは知ってるよ。だから、僕は兄ちゃんが悲しんでいるのは嫌だ』


 ペロリ、と頬を舌が走る。


『いつまでも兄ちゃんを悲しませる存在にはなりたくないんだ』

「ジョン……」


 ジョンは一歩引いて、また尻尾を振る。心なしか、大袈裟に。


『兄ちゃん、僕で悲しむのは止めて。でも、忘れてほしくない』

「じゃあ……」

『僕を思い出して、懐かしんでくれれば嬉しい。ああ、こんなこともあったなあ、ぐらいの気持ちでね』


 また一歩、ジョンは後退する。


『思い出になるために、僕は兄ちゃんとはもう会えない』

「ま、待て……」

『兄ちゃん、僕は何時も応援してるよ』

「待ってくれ!」


 言葉とは裏腹に、僕とジョンの間は広くなっていく。

 よく見ると、ジョンが後退しているのではない。二人の間の空間が、無情にも広がり続けているのだ。


『兄ちゃん、幸せだったよ』

「ジョン……」


 とても優しい声が、心にすとんと落ちていく。

 ずっと悩んで、後悔して、不安に思っていた答えが出たのだ。

 ジョンは幸せだったよ、と笑った。

 きっと、あの距離間で良かったのだ。贅沢しすぎない。甘えすぎない。けれど、確かにその間に愛はあった。


「俺も……俺も幸せだったぞおおおおおおお!!!!!!」


 力を振り絞って叫ぶ。絶叫した。喉がつぶれるほどに叫んだ。

 既にジョンは彼方にいる。

 声が届いたのか、確証はない。

 ただ、


『バイバイ、兄ちゃん』


 そんな声が聞こえた気がした。



 **



 朝、ベッドの上で目が覚めた。

 枕は何時もより濡れている。鼻水も出て、息が出来ない。

 なのに、心はスッキリしている。

 ジョンが死んでから、今日で一ヶ月と一日。

 ようやく僕は、ジョンの死を受け入れることが出来た。

 不覚にも、弟に手助けされてのことだ。でも、兄として、弟に顔向け出来るように前を向こうと立ち上がった。





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ジョン 蓬莱汐 @HOURAI28

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