最高の存在

のーはうず

神の発明

人が生きていくにあたり関わる人間の数が増えると、不都合や不用な衝突が増える。それを事前に避け円滑な社会を営むには決めごとが必要になることがある。そのきっかけは自然発生的に生まれたマナーであったり、そうしたほうがいいと悟った者たちによる呼びかけであったりする。


やがてそれが、多数により盲目的に守られるようになると、かたちだけが真似られなぜそのようにしているかを忘れてしまうのだ。


そして、やがてそれを破る者たちや見直ししてはどうかという声があがる。環境がその当時と変わっていてそのルール自体が不要になっていればそれは忘れさられるが、環境がまだ変わっていなければ、再びなにかの軋轢が生まれ、ルールか何かが必要なのではないかと話しあわれるというようなことを繰り返す。



例えばエスカレーターだ。


急ぐ人のために関東では右側をあけるようになり、関西では左側をあけるようになった。エスカレーターの上を歩くと駆動構造に負担がかかるし、急ぐためにエスカレーターの上を歩いたところで大して急げないとか、片側を空けないで人が詰めて乗ったほうが移送効率は高いはずだなの声があがるようになる。


だが、急ぐ人のためなどというのはただの方便でしかなく、実際は、どちらかが空いている状態でないと、降りるときに戸惑ったり転ぶなどして出口が塞がれるという事故が起きたとき、被害が甚大化するのを避けることができるのだ。エスカレーターのボルトが緩んでいたために、定員の重量に耐えきれずエスカレーターの逆走が起こった事故もあった。


片側をあけるというシンプルで暗黙的なルールは、複雑化する社会的機能に対して自律自然に導入された安全バッファーなのだ。



挨拶はしたほうがいい。だが挨拶をする理由はなんだろう? 知らない人からの挨拶をしてくるのは不審者だ。知らない人への挨拶は辞めよう。知らない人だらけになった、挨拶をしよう。


こういうルール、法律未満の人間社会の営みで体験と失敗を繰り返し、本当になぜそうしているのかもわからないものだけがかたちとして残る。挨拶。握手。ハグ。



こうやって残ったものを人々はかつて宗教的儀式を通じ集団行動とした。

そして宗教的儀式をやることとしての理由に「神」を作ったのだ。



神に今年できた作物を感謝を持って捧げ祭りを行う。

現代にそれを導入するなら、みんなで作った作物を持ち寄って、来年植える種をどれにしようかという作物品評会と品種改良でしかない。



神への信仰は、宗教儀式より数百年ほど遅行する傾向にあるそうだ。

なんでやってるんだっけ? と忘れてしまった後世の人たちのために神を発明したのだ。社会規範が生まれそれが神の教えとなることで、大人数の人間社会の共生を可能にした。



現生人類を取り巻く環境は技術の変化を通じて大きくわかってきている。いままで無かったものが作られ、人と人との関係性も距離や時間を超えるようになった。


社会的複雑性は神の信仰に先んずるのだとすれば、産業革命から数百年、そろそろ最高の存在が目を覚ます。

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