裏切り者

丸茂ダイス

第1話

 日曜日。朝の八時ごろ。六時にセットしていたデジタルの目覚まし時計はとっくに止められており、スヌーズが機能している携帯電話のバイブ音だけが、ときどき低く唸っていた。脇には写真立てがあり、私を含めて男女の高校生が三人、ピースサインをしている写真が納められている。


 携帯電話はデスクに置いてある。自分で振動を止めることができない哀れな携帯電話を、ご主人様である私が助けてやってもいいのだが、所詮は機械である。加えて目覚まし時計ほどやかましくもない。私は普段昼夜を分かたず働いているのだ、たまの休日を日がな一日だらだらごろごろと過ごした所であんただって文句はないでしょ、と心の中で諭しつつ、携帯電話を無視する。


 バイブ音が止まりしばらくすると、無視された携帯電話が怒ったのか、今度は私のお気に入りの洋楽をやかましく流した。誰かが私に電話を寄越したのだ。機械と違い、人を無視する訳にはいかないので、ため息をつきながらしぶしぶ起き上がり、まだ脳が半分眠った状態で携帯電話を手に取る。


『なぁ日菜子、二人で一緒に映画を観に行かないか』

 聞こえてきたのは、よく知る男の声。


『なんで』


『なんでって彼氏が彼女をデートに誘うのに理由がいるか?』

 携帯電話の向こうにいる男は長澤修馬。デスク上の写真に映る黒一点だ。修馬、そして私と彼の間に立つ茅野葉子も含めて、高校時代からの大切な親友同士でもある。

 写真の中の修馬の頰を撫でる。ついつい微笑んでしまう。


「そうね。もちろん行くわ」

 隣に映る葉子をちらりと見て少し迷ったが、私は彼の誘いを承諾した。

『そうか、じゃあ十時に駅前でいいな』

「ええ」

『じゃあ』

 電話はぷつりと切れた。


 楽しい時間はあっという間に過ぎてしまう。二人で映画を観て、近くのお店で少し遅めの昼食をとり、ウインドウショッピングをしながらしばらくあてもなく歩いていると、いつのまにか日が暮れていた。混雑した駅のホームで、彼と他愛のない話をしながら帰りの電車を待っていると、不意に後ろから手を置かれる。


「楽しそうだね」

 振り向くと葉子が、幽鬼のような生気のない顔で笑っている。

「……ごめんなさい」

「どうして謝るの?」

 答えられない。

「私の気持ちを知ってて修馬と付き合ったから?」

「…………」

 やはり答えらないでいると、修馬が口を挟んだ。

「ごめん、お前の気持ちを知ってて、俺……。でもな、好きなんだよ。日菜子のことが」

 やめて!

 そう叫びたい気持ちをぐっとこらえる。

「好きって気持ちは仕方のないものじゃない?だからそう、仕方のないことなんだよ。謝ることじゃない」

 相変わらず親友は笑っている。

 何も言えず、そして苦しそうに笑い続ける親友を見ていられず、私はうつむく。伏し目がちに顔をあげると、いつのまにか周りには葉子以外、誰もいなくなっている。ホームには私と葉子の二人だけ。修馬でさえもいない。

「ねぇ、私たち親友だよね」

「もちろんよ!」

 私は叫ぶように、肯定する。電車の近づく音が聞こえた。

「なら私がどういう人間か、あなたはよく分かってるよね」

「ええ!だから!だから私は!」

「さようなら」

 葉子はホームの下へ飛び込んだ。

 私は葉子の腕を掴む。しかしまるで立体映像を掴むかのように、葉子の腕はすり抜けた。

 電車と葉子が激突する。

 むごたらしい音の後、私の視界はブラックアウトした。


 目が醒めると、デジタルの目覚まし時計は八時を指していた。表示されている日付は日曜日。びっしょりと汗をかいている。それに、胸を非常に強く押さえつけれていて息もろくにできないくらいだった。


 だが、ずっと前から分かっていた。これまでのことは全て夢だ。


 しばらく涙を流して笑う。


 修馬に対する感情が恋愛あり、葉子に対する感情が友愛であっても、二人は私にとっては同じくらい大切な人だ。そのどちらかを失うなんて考えられない。


 だから夢でよかった……。本当によかった……。


 安堵する一方で、携帯電話の震える音が聴こえる。やはり無視し、深呼吸をして、うるさく鼓動する心臓の鎮圧に努める。


 そうして放置していたバイブ音が止まりしばらくすると、お気に入りの洋楽がやかましく流れた。電話である。涙を袖で拭った後、携帯電話を手に取る。


『なぁ日菜子、三人で一緒に映画を観に行かないか』

 聞こえてきたのは、よく知る男の声。

「嫌」

『おいおい。そんなはっきり拒否するなよ。せめて用事があるとか都合がつかないとかな……』

 呆れたような声を出す修馬だったが、電話の向こうの彼は多分笑っていると思う。

「大体、葉子に悪いじゃない。はっきり言ってお邪魔虫でしょ。私って」

『それがな、誘ったのは葉子なんだよ。また昔みたいに三人で遊びたいってよ。俺も同じ気持ちだ』

 葉子が……?だが私はさっき見た夢を思い出す。

「それでも嫌ね。せっかくの休日なんだから家で惰眠を貪ってたいしね。遠慮している訳じゃないから大丈夫。あなたたちは二人で楽しんでらっしゃい」

『そうか?じゃあまた今度な』

 電話がぷっつりと絶える。

 また今度。私にその勇気があるのだろうか。



 二年前、私は修馬に告白された。彼を愛していた私にとって、それはまさしく夢のような瞬間であった。


 だが、私は修馬と、そして葉子のことをよく知っているつもりだった。葉子も修馬を愛している。そして葉子は愛する修馬を親友に奪われるショックに耐えられない。もし私と修馬が結ばれるようなことがあれば、ちょうどあの夢のように、彼女は自ら命を絶ってしまうだろう。


 親友を永遠に失うことに比べれば、失恋など小さなことだと思う。だから私は彼の想いにも、そして自分の想いにも応えなかった。


 結局一ヶ月ほど前、修馬と葉子は付き合うことになった。あの時ああすればよかった、こうすればよかった、そんな後悔は一切していない。


 最初の電話の時、夢を見ていることには気付いていた。彼が私を彼女と呼んだからだ。


 そして夢の世界でのみ、私は親友を裏切れる。あの夢は私にとって最高の夢だ。ありえたかもしれず、そしてはっきりと拒絶した世界。その世界でのみ、私と彼は結ばれる。

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裏切り者 丸茂ダイス @marumokite

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