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佐久間雅広

深夜のコンビニと魔法使い


あっけなく、夢が壊れる音がする。

自らの手でそれを折ることに、迷いがないと言ったら、嘘になる。でももう、壊してしまう以外に、諦める術がわからなかった。涙も出ない、嗚咽も漏れない。ただそこにあるのは、霞んでしまった私の思い。信じていたものが、するりと消えてなくなっていく。

 ぼんやりとした気持ちで、私は手に馴染んだそれを、零すように青いバケツに落とし入れた。



  ***


深夜のシフトを固定にしたのには、特に深い理由はなかった。お金はないよりある方がいいし、時給は低いより高い方がいい。当たり前だが、それだけでバイトをするには十分な理由だ。深夜のコンビニが危険だなんて、口うるさく言うのは深夜に出歩かない人たちで、実際は客も少なくて静か、楽して稼ぐにはちょうどいい。深夜入れる? と店長に聞かれて、二つ返事で了承したのは、そんな考えからだった。

しかし今、私の胸にはナイフが迫り、耳には熱っぽい怒鳴り声がこだましていた。あまりに突然のことで、口はぽかんとあいたまま。

「おい、聞いてるのか!」

手に持ったナイフを震えさせながら、怒ったように言う男の顔色は、天気の悪い日の夕暮れのように、青い。大きな身体に隆々とした筋肉、伸び放題の髪や髭といった出で立ちは、強盗と呼ぶにふさわしく思えた。

なんだ、深夜のコンビニ、危ないじゃん。非現実な光景を前に、変に澄んだ私の頭の中で、誰かが言う。それは現実から目を背け、傍観者を気取ったもうひとりの自分だ。

「お前、いつまで無視しやがる」

ナイフがずいっと数センチ、迫る。固まっていた私の唇が、ようやく動く。出てきたのは、自分の危険を顧みない、投げやりなセリフだった。

「レジに、大したお金はないですよ。狙うなら金庫です。後ろの部屋にあります」

私の背後にあるドアを指差す。部屋の中、隅に置いてある金庫には、今日の日中の売り上げが入っているはずだ。

「そんなこと聞いてんじゃねーんだよ!」

ドンッと、男がレジ台を叩く。反射的に跳ねた私の肩とひきつった顔を見て、男はなぜか目を泳がせた。ナイフを持っていない方の手で、頭をガシガシと掻く。

「いや、あの、そうじゃないんだ」

さっきまでの剣幕が嘘のように、か細い声。俯いて、ブツブツと何かを続けて言うが、私の耳には届かない。

「え? なんですか?」

思わず聞き返す。すると男は顔を上げ、だから、と声を張り上げた。

「だから! 俺と付き合ってくれ!」

投げ捨てたナイフの代わりに、差し出されたのは小さなタンポポ。そのへんの路地から引きちぎって来たのだろうか、薄汚れ、しんなりと頭を垂れている。

ただでさえ気が動転していたのに、さらに頭がぐるりと回る。私は今、強盗に遭っているのではなかったっけ。この男は何と言った? このタンポポは、何?

店内を沈黙が支配する。唖然とした私に同情するように、陳列された商品たちも息を潜めていた。男は私にお辞儀をするような体勢で、祈るように目をつむっている。これは、返事待ちということだろうか。でも何と言えばいいのかわからない。 そもそも状況が飲み込めず、ただ沈黙が続くばかりだ。

するとどこからか、ガサ、と衣摺れの音がした。私も強盗も、反射的に音の聞こえた方向に顔を向ける。恐ろしささえ感じる静寂の中、嫌に響いたその音に続いて、誰かがプッと吹き出した。空気が震える。

「ふ、ふふ、はははは!」

盛大な笑い声とともに、商品棚の裏から転がり出てきたのは、白いTシャツにジーパンという、ラフな格好の男性だった。

「それはないでしょ、いきなり告白って! はは、あははは」

ひー涙出る、と目元を拭いながら、男性はこちらに歩み寄る。酔っているみたいに軽快で、跳ねるような歩き方だ。細身で、背が高すぎないこともあって、本当に飛んでいってもおかしくないように思えた。

「隙ついて逃げようと思ってたのに、それは反則すぎるよ、君」

そう言って、強盗の肩を叩く。屈強な身体でもってそれを受け止め、強盗は真っ赤な顔で男性を睨みつけた。

私の口はあいたまま、息をするのも忘れている。

「それで君、どうして告白なんてしたの? お金目当てで来たんじゃないの」

こらえきれない笑いを混じらせながら、Tシャツの男性は問う。強盗は唇を噛み、ためらうように目を伏せた。しかし数秒後、ほんの小さく口を開き、息を吸った。

「……前から」

「前から?」

聞き返す男性は、楽しそうに耳を寄せる。

「気になってた、から。かわいいなって」

「はい?」

思わず声を上げたのは私だ。この男と以前に会った覚えもない。

強盗が、バッと私に顔を向ける。

「頼む、俺と付き合ってくれ。これが俺にとって最後のチャンスなんだ、なぁ頼む」

早口でまくし立てられ、後ずさる。店に押しかけて告白するなんて普通じゃないし、どんな性格かもわからない人と付き合うなんてありえない。さっさと断ろうと、口を開きかけたとき、

「まあまあまあ、慌てないで。そんないきなり言ってもオッケーもらえるわけないじゃん。そんなの相当な男前じゃないと無理だよ。君、自分の外見に自信ある?」

 Tシャツの男性が、私と強盗の間を取り持つようにレジ台の脇に立つ。

「あのね、まずは現時点での自分の獲得ポイントを探らないと。何事も分析が大事なんだから」

ずいっと、私の方へ顔を近づける。

「店員さんから見た、彼の印象はどう?」

笑顔の中になんとなく裏があるようなその顔に、少し怯む。いたって普通の日本人のような、はたまた異国から船に乗って来た人のような、不思議な雰囲気が漂う顔だった。

その雰囲気に呑まれるように、私は素直に答えていた。

「まぁ……引きますよね。突然告白されても、全然知らない人だし。しかもタンポポって」

男性がウンウンと頷く。

「お、意外とはっきり言うね。そうだよね、告白にタンポポはないよね」

「はい」

「じゃあ、そこから変えていこう」

強盗の手に未だ握られていたタンポポを、男性がパッと取り上げる。おい、と文句が出るのに構わず、タンポポはその手の中に収まった。

「よく見てて」

言うやいなや、男性はポケットからハンカチを取り出し、タンポポを覆い隠した。そしてこちらに目配せしたあと、せーの、と小さな掛け声をして、ハンカチを外す。そこにあったのは、タンポポではなく、一輪の赤いバラだった。

「え?」

「は?」

間抜けな声が二人分、店内に落とされる。タンポポが消えた、いや、タンポポがバラになった。一瞬のうちに。これって、いわゆる。

「……手品?」

「ちがう!」

男性は憤慨するように、眉を吊り上げた。

「そんなのと一緒にしないでよ。僕は本物だよ」

と、芝居がかった仕草で、バラの花びらに口づけをして見せる。

茫然としていた強盗が、それを合図に口を開いた。

「本物ってどういうことだよ? 今のはどう見たって手品だろ? テレビなんかでよく見る」

男性はふっとため息をつく。

「君たちが驚くのも無理はない。テレビによく出るマジシャンは、みんな偽物だからね。僕はちがう」

「ちがうって、何がちがうんですか」

噛み付くように言った私を、挑発的な目で見つめて、笑う。

「本物の、魔法使いってこと」

あまりに非現実なことを言っているのに、男性は自信満々の表情だった。この顔で言われれば、はぁそうなんですか、と思ってしまっても無理はない。しかし私は、オカルト的なものは信じない主義だ。

ありえないと首を振り、身を乗り出して、バラに手を伸ばす。

「これ本物のバラですか? タンポポはどこに隠して……」

バラを触ろうとした私を制し、男性、自称魔法使いは、それを強盗に手渡す。

「ほら、これは君があげないと」

花を受け取った強盗は、目を丸くして、バラと男性とを交互に見つめている。何度かそれをくりかえした後、覚悟を決めたように、私に向き直った。

「お、俺と」

「ストップ!」

鋭い声で、強盗の動きが止まる。

「まだだ。まだ、彼女の心を射止めるには君は足らない」

「あげろって言ったりやめろって言ったり、なんなんだよ!」

怒鳴る強盗。怒りと恥ずかしさが相まって、目は充血している。

対して魔法使いの男性は、けろりとした笑顔のままで、強盗の肩に肘を乗せた。

「いやぁ、すまない。でも、花を変えただけですぐにうまくいくほど、現実は甘くないからね」

そして品定めするかのように、強盗の頭からつま先をゆっくりと見る。

「見たところ、君は外見に気を使っていないみたいだね。勘違いしないでほしいんだけど、ここで僕が言ってるのは、生まれつき顔が綺麗かどうかじゃない。大事なのは、清潔感だ」

男性がパッと右手を開く。手のひらには、どこから出したのだろうか、十円玉が鎮座していた。私たちに見えるよう、手を傾ける。

「何の変哲もない十円玉だ。偽物たちの言葉を借りると、タネも仕掛けもありません、ってやつ。しかしこれが汚れると――」

右手をぎゅっとグーの形に握って、同じように握った左手に勢いよく、コツンとぶつける。そしてすぐ、左手を開いた。そこには、使い古されたように真っ黒くなった十円玉。

「触るのもためらうような汚れだろう? 誰も磨こうとしないから、こうなるんだ」

再び左手が閉じられる。また、右手とコツンとぶつかった。右手が開く。当然のようにそこにある十円玉は、今度は新品のように輝いていた。

「同じ十円玉でも、磨けばこの通り。大事なのは元じゃない、今からどう磨くかってことなのさ」

私は目の前で起こる手品めいた魔法に、気がおかしくなりそうだった。これまで、テレビで見るマジックも信じず、どうせ編集でそれっぽく見せてるんでしょ、なんて思っていたのだ。それなのに今、コインの瞬間移動が目の前で起こった。マジックショーを見ているような錯覚をしそうになる。しかし実際の舞台は、魔法には似つかわしくない、深夜のコンビニだ。大げさに騒ぐ司会者も、怪しげな照明もない。あるのはまぶしいほどの蛍光灯と、それに照らされる、妙な三人組だけ。

「わかった? だから君もさ、自分を磨いていったらいいと思うよ」

そう言って魔法使いは、綺麗な十円玉をポケットにしまった。強盗は俯いて何も言わず、小刻みに身体を震わせている。泣いているようにも見えた。まさか、今の話で感動しているのだろうか。深いようで、浅い内容だったように思えたけれど。

しかし次に聞こえてきたのは、およそ感動とはかけ離れた言葉だった。

「……ふざけんな」

小さい声が聞き取れなかったのか、男性が「え?」と聞き返す。すると強盗はキッと顔を上げて、叫んだ。

「ふざけんな! そんな綺麗事、聞き飽きてんだよ! そりゃ俺だってうまく生きようとしたよ、でも無理だから、どうにもならねえから、こんな馬鹿みたいな真似してんじゃねえか」

バラが投げ捨てられる。真っ赤な色が、濁ってえんじ色になった。

「人に選ばれない俺の気持ちなんて、誰にもわかんねえんだ。俺は悪くないのに、なぜ誰も俺を選ばない。恋しても振られ、近づく前から断れることもあった。なんでだよ、俺が何したって言うんだ」

そのセリフは、サッと鋭く、私の身体に突き刺さる。痛みは水たまりに落ちた小石のように、さりげなく波紋を広げていく。痛い。身体が震えだす。

怒鳴られた男性は、あまりの剣幕にたじろぐが、すぐにまた口角を上げた。そのへらりとした笑顔を見た途端、私の痛みは言葉となって溢れ出す。

「私も、同じです」

突然か細い声でそう言った私に、強盗がハッとする。肩で息をする苦しそうな音が、店内に反響していた。

「私も、誰にも選ばれてこなかった」

「……どういうことだよ」

強盗と目が合う。その瞳には、ナイフを突きつけてきたときの、得体のしれない恐ろしさは見えなかった。

「少し前まで……絵を描いていたんです。学校に通って、テストもコンテストもいっぱいあった。でも、そのどれも」

「合格にはならなかった?」

いつのまにかバラを拾った魔法使いが、さも当然のように、私の言葉を途中で奪う。

「よくある話だね。特に芸術は水物だ。いくら好きでも、それで成功するとは限らない」

ばちんと何かが弾けて、私は深く息を吸う。そのあと飛び出してきたのは、自分でも聞いたことのないような、大きい声だった。

「なんでですか? 好きだから描く、当たり前でしょう! みんなそうやって、評価されていくのに、なんで私はだめなんですか。悪いのは私の作品じゃない、見る目がない奴らがおかしい」

「なんで君の作品が選ばれないか? 簡単だよ」

バラが眼前に寄ってくる。それを握る手の先には、飛び交う乱暴な言葉にひどく不似合いな、優しい笑顔があった。その表情のまま、彼は言う。

「君自身が、変わろうとしていないからだ」

私自身が、変わる。その言葉は宙に浮いて、私の周りを取り囲んだ。光の中の埃みたいにふわふわと浮いて、身体までも浮いているような感覚に陥る。魔法みたいだ、と思った。

私がぼんやりと黙っていると、魔法使いはくるりと向きを変えて、今度はバラを強盗に向けた。まるで魔法の杖のように、軽やかに操って、胸につきつける。

「君も同じだ。自分を変える努力を何もしないで、選ばれないなんて愚か者の言うことだよ。美女が野獣に惚れるのは、映画の世界でだけだ」

一拍置いて、魔法使いはかぶりを振った。

「いいや、あの野獣も、美女に好かれるために努力をしたんだ。外見を変え、心を磨いた。美女はそのまっすぐさに惹かれ、彼を愛した」

「じゃあ」

強盗が食ってかかる。

「俺はどうすればいいんだ? 俺なりにまじめにやってきたつもりだ。これ以上、何をすればいい」

「君はさっき、最後のチャンスと言ったね。あれはつまり、これで彼女に受け入れてもらえなかったら全てを諦めるってことだろ?」

魔法使いは私を指差してそう言った。

たしかに強盗は、私に告白したとき、最後のチャンスなんだ、頼むと言っていた。不可思議な告白文句だとは思ったが、深く気に留めてはいなかった。しかしどうやら、意味のある言葉だったらしい。

「これは僕の想像だけど、君は人を好きになっては、無残に失恋を繰り返すばかりだった。もうこんなことやめたいと思うけれど、気持ちは止められるものではない。だからこの子を最後の恋にしようと決めたんだろう」

強盗は唇を噛み締めて黙っている。それは、肯定したのと同じことだった。

魔法使いはゆっくりと首を振って、にんまりと笑った。くくく、と喉を鳴らす。

「君たちは似た者同士ってわけだね。本来なら、強盗に来た君は彼女にあっけなく振られていたし、店員の君は彼がどんな人か知ることもなかった。しかしそこに僕が居合わせたことで、君たちの人生が交わった。最高だ!」

そして両手をつきあげて、大きくガッツポーズをした。目はキラキラと輝いて、私たち二人を見つめている。

「魔法を使う者として、こんなに素晴らしい経験はないね。こうしちゃいられない、腕の見せどころだよ」

そう言うと、張り切ったように前に進み出て、店内をすばやく歩いて回る。まもなく帰ってきた魔法使いの手には、カミソリと男性用の整髪料があった。

「ちょっとそれ! お店のもの、勝手に取らないでくださいよ」

私が文句を言うと拗ねたように、堅いこと言わなくてもと口を尖らせ、そのまま唐突に強盗の腕を掴んだ。

「うわ、何すんだよ」

抵抗する強盗に構わず、そのままズルズルと引きずっていく。細いのにどこにそんな力があるのか、大柄な男を簡単に連れて行ってしまった。

向かった先は客用のトイレ。強盗を投げ込むようにしてから自分もあとに続き、ドアはバタンと音を立てて閉まった。

シンと静まった店内。レジにひとり取り残された私は、ただ立ち尽くす。さっき魔法使いが放った言葉が、まだ耳に残っていた。

君自身が変わろうとしていない、そう言われたとき、胸の奥がミシリと嫌な音を立てた。思い返してみれば、私はずっと、自分の作品を変えようとはしてこなかった。これが私の全てだから、これ以上はないと思い込んで。それなのに結果が出ない意味がわからないと、ただ恨み言を言うだけだった。それが嫌になって絵を捨てて、深夜のコンビニでぼんやり立っているのが、今の私だ。時給は高いし満足だなんて、本気で思っているのだろうか。いや、本当は――。

「おい!」

苛ついた声が聞こえて、ハッと我に返る。トイレから、大声が漏れてきていた。

「てめえ、そんな乱暴に剃ったら痛いだろ! やめろ! そもそも魔法使えるならカミソリ使う必要あるかよ」

「君、よくないよ。魔法に頼りすぎるのは」

「そんな話してねえよ!」

バタバタと音がして、水音が鳴る。そして数秒ののち、ガチャリとドアが開いた。出てきたのは、白いTシャツが少しよれた魔法使い。どうやら強盗の抵抗は強かったらしい。参った参った、と呟きながら近づいてくる。ふうと息を吐いて、レジ台に手をついた。

「彼は心の準備をしてるから、その間に、君にも魔法をかけてあげよう」

「いや、いいです」

何をされるかわからない。咄嗟に遠慮する。

「これを見てもそう言える?」

魔法使いが、流れるような手つきで私の眼前に何かを突き立てる。それを見た瞬間、ドクンと心臓が跳ね上がった。なんで、それを見つけてしまったの。

それは、私が自分で折り曲げた、絵筆の残骸だった。

「ひどい折り方したね、再起不能だよ。でもどうして、店のゴミ箱に捨てたの?」

見ていられなくて、視線を外す。耐えるように握った両手に、筆を折った感覚が蘇る。あれは筆というより、私自身を折る音だった。わざわざ店のゴミ箱に捨てた理由は、自分でもわからない。きっと、家で捨て、自分で最後まで処分する勇気がなかったんだろう。

「……理由なんかありません」

「僕はわかるよ、その訳」

得意げにウインクして、彼はゆっくりと宣言するように、口を開く。

「僕に、見つけて欲しかったからだ」

「は……?」

「たしかに深い意味はなく捨てたんだろう。そのとき、君は僕のことを知らないしね。でもその結果、僕がこうして見つけてしまった。つまりどういうことかわかる? 君自身が、僕がこれを見つける未来を選んだんだ」

あまりに飛躍した理論で、思わず笑ってしまう。魔法使いっていうのは、みんなロマンチストなんだろうか。

「そんなわけないじゃないですか」

「どうかな? 実際、いま僕の手にこれがあることで、君の運命が変わろうとしてる」

「……どういうことですか」

「僕にはこの筆を、捨てることもできるし、直すこともできるんだ」

「え……」

驚いて、筆を凝視する。真っ二つに折れた柄の部分は、とてもじゃないが修復できそうにない。そう――魔法でもかけない限り。

「どうする? 決めるのは君だ。君が言うなら、僕はまた、トイレの裏のゴミ箱に投げ捨てても構わない」

迫られる選択に、私の頭は混乱していた。一度自分で折ったものだ、それもかなりの決意でもって。それを帳消しにしたら、私はまた、楽しんで絵を描けるのだろうか。それとも苦しい日々がやってくるのだろうか。それは、誰にもわからない。

この胡散臭い魔法使いに会う前の自分なら、迷わず捨てろと言うだろう。でも今は、少し、信じたくなっていた。この人の魔法を、私自身の力を。

「……お願いがあります」

「なに?」

「違う筆にしてもらえませんか」

私の言葉に、魔法使いが首を傾げる。そして私の目を覗き込んで、全てがわかったというように、破顔した。

「わかったよ、生まれかわらせてあげる。筆も、君もね」

そう笑って、手で筆を包み込んだ。ぎゅっと握って、五秒。飛び出すように現れた筆が、私の胸に飛び込んでくる。わっと声を上げて、慌てて空中でつかみ上げた、その瞬間。

トイレのドアがバンと開いて、強盗が駆け出してきた。

「おや、こちらも生まれ変わったみたいだね」

魔法使いは楽しそうに手を叩いて、強盗を迎えた。その雰囲気はだいぶ変わっていて、無精ひげもスッキリ、髪も整っている。それだけの変化なのに、まるで別人だ。

変身ぶりに目を丸くする私のもとに、一歩一歩近づいてくる。その手には、鮮やかな赤いバラ。レジまで来て、歩みを止める。と、魔法使いが軽く手を挙げた。

「ちょっと待って。何かが足りないな」

そう言って周りを見回し、あ、と呟いてしゃがみこむ。拾ったのは、はじめに強盗が持っていた、小型のナイフだった。

「こんな物騒なもの持って告白しに来るって、君ほんと、どういう性格だったの? まぁいいさ、それも今、僕が変えよう」

ナイフの両端をつまんで、ピザ生地を伸ばすみたいに手を広げる。するとナイフはたちまち粘土のようにふにゃりとして、やがて、一本の白く長い紐になった。

「やっぱりプレゼントにはリボンがないとね」

紐をバラに結びつける。そこまでやって、魔法使いは満足そうに頷いた。さ、どうぞ、と強盗の背中を押す。

私は少し気恥ずかしくて、思わず背筋を丸めてしまう。向かう強盗の顔は、初めて見たときより幾分、優しそうに見えた。彼は意を決して、口を開く。

「あの、さっきはすまん。いきなり好きとか言っても怖かった、よな。それで、えっと……」

目線が下がり、迷ったようにまばたきをくりかえす。その緊張は、私が相手なのだけれど、がんばれ、と胸中で願ってしまうほどだった。

彼はすうっと息を吸い、目をつむる。

「お友達から、お願いします!」

差し出されたバラが、キラキラと輝く。持ち主の心を表すように、花びらが不安げに揺れていた。揺れたところから輝きが広がって、私のもとに届く。その美しさを逃がすまいと、躊躇いなくそれを受け取って、私は微笑んだ。

「店員と常連客としてから、お願いします」

えっ、と彼が複雑な顔で私を見る。が、すぐにくしゃっと顔全体で笑った。じゃあそこからで、と頷いて、パッと横を向く。

「あんたのおかげだ! 俺あのままじゃ、何もかも諦めるところだった」

しかしそこに、魔法使いの姿はなかった。いつの間に消えたのか、Tシャツも、ジーパンも、胡散臭い笑顔もない。私と元強盗は、顔を見合わせる。お互いに唖然として、何かを言おうとするけれど、言葉は出てこなかった。さっきまでの騒がしさはすっかり消え失せて、深夜の静けさが帰ってくる。

それから何分経っても、魔法使いが戻ってくることはなかった。

残ったのは、リボンが巻かれた赤いバラと、新しい筆と、さっきまでとは少し違う、私たち二人だけだった。




  ***


ウィン、と自動ドアの開く音が鳴る。レジにいる私は、反射的にドアの方向を向いた。いらっしゃいませ、と口が勝手に動く。ただの癖なのであって、本当に歓迎する気持ちがあるわけではない。

しかし入ってきた客を見て、その言葉は本物になった。

「いらっしゃいませ。あれ、髪切りました?」

「あ、はは……よく気づくもんだな」

照れ臭そうに笑うのは、元強盗の男。あの日、他に客が来なかったおかげで、警察の世話にはならずに済んでいる。いや、正しくは、魔法を使うへんてこな人の他に、だ。

「また肉まんですか?」

「それもあるけど、これ、見たか?」

レジの上に、薄い雑誌が開かれる。よくある下衆な週刊誌の、くだらない記事が広がった。そこには、『前代未聞! インチキ手品師が訴えられる』と大きく派手に書いてあった。とあるマジックショーを行った三流マジシャンが、マジックを毛嫌いする老人に、これは立派な騙しだと訴訟を起こされた、らしい。世の中にはお堅い人がいるものだ。

この記事がどうかしたのかと、私は男の顔を見上げる。すると彼は、ゆっくりとした動作で、記事の一部を指差した。

「これ、あいつじゃねぇか?」

男が指差した先にある、インチキ手品師とやらの顔写真。着ているのがTシャツではなくどこか違和感を覚えるが、身を乗り出してよく見ると、たしかにあの魔法使いに似ている気がした。胡散臭い笑顔に、独特な雰囲気。

「……なんだ、結局マジシャンだったの?」

「やっぱり偽物だったってことだな」

「柄にもなく騙されました」

「はは、でも」

元強盗は目を細めて、遠くを見つめた。

「俺はかけられたよ、魔法」

そのセリフに、私はレジの隅に目をやった。花瓶に入った一輪のバラが、こちらを見てほくそ笑む。その花は、時間が経っても不思議と枯れることなく、鮮やかな赤い色を保っていた。

「……私も、そうかもしれません」

再び自動ドアが開いて、客が入ってくる。私も彼もハッとして、慌てて雑誌をしまい込んだ。他の人には、あの人のことは秘密にしておこうと、二人で決めたのだ。

 取り繕うように咳払いをひとつして、店員らしく背筋を伸ばす。

「えっと、じゃあ、肉まんでいいですか?」

「ああ。二つ頼むよ」

「え? 今日は二つですか?」

元強盗は顔を赤くして、小さな声で囁いた。

「バラの絵、入選したんだろ。祝いだ」

私は声を上げて笑って、かしこまりました、とわざとらしく丁寧にお辞儀をした。

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