第3話 神御呂司村の怪奇譚
清水康介(しみずこうすけ)が新岩国駅のホームに降り立ったのは五月上旬のことだった。空は清々しいほどに晴れ渡っていた。
康介は新幹線の入り口から降りると背中をゆっくり伸ばした。
ふいに初夏の爽やかな風が頬を優しく撫でる。
──ああ、良い風だ
康介は風が自分の帰還を喜んでいるように思った。
故郷の地を踏んだのはたった四カ月前。正月に帰ったばかりだ。
それでも懐かしいと思ってしまうのはなぜなのだろうか?
自分でもよく分からない。そもそもこれほどの強い望郷の念に駆られるきっかけは何だっけ?
康介は青空を仰ぎながら一人、ものおもいにふける。
──清水康介は現在、二十六歳。
大学の入学と同時に山口県から上京した。在学中は寮があった東京郊外の迦楼羅町(かるらちょう)で福祉関係のバイトをしていた。具体的な業務内容は在宅の身体障害者にヘルパーとして介護をするというものだ。彼は人の手助けをするのが好きで利用者からも感謝され、それなりにやりがいを感じていた。
大学卒業後は都内の某企業に就職したが日々の激務で一年も経たないうちに体を壊してしまう。大病を患い、半年近くは生死の境をさまよっていた。病気が落ち着いたら職場復帰を考えていたが会社から解雇されてしまった。現在は次の就職先が決まるまで学生時代に世話になった迦楼羅町の介護派遣事務所でヘルパーをしている。
今年でそんな状態になってから二年目を向かえようとしていた。
康介は二週間前。出勤中に見知らぬ綺麗な女とすれ違った。女は黒髪でロングヘア、花柄の白いワンピースを着ていた。どんな香水を使っているのかは知らないが甘い匂いだった。女の匂いを嗅いで以降、無性に実家に帰りたくなった。
本来ならこの日も介護の仕事に行く予定だったが、気がついたらここまできていた。
事務所に連絡もしていない。無断欠勤は申し訳ないと思うのだが、康介は自分でも故郷に帰ろうと思った理由もわからない。
『ひとまずは実家に帰るとするか。事務所には後で連絡するとしよう』
心の中で呟きながらホームの階段を小走りに降りて行った。
康介は駅の改札口を出た後、ロータリー近くのタクシー乗り場へと向かった。ゴールデンウイーク前ということもあり、普段なら閑散としているはずの駅前も観光客でそれなりに賑わっていた。新岩国駅は西日本で一、二を争う新幹線の閑散駅と言われている。駅前にある建物と言えばローカル私鉄の駅、一軒の土産物屋、一棟のビジネスホテル、それに数軒の民家、そして無数の駐車場があるだけだった。
タクシー乗り場には停車中の車両が数台あった。
運転手の一人が康介に気づいて車の窓から顔を出しながら話しかけてきた。
「お客さん、乗っていきませんか?」
運転手は六十歳ぐらいの男性だった。
康介は相手の人の良さそうな雰囲気に安心感を覚えた。
「神御呂司村(かみおろしむら)までお願いします」
「神御呂司村? すみません……その住所を教えて頂けると有り難いです。お恥ずかしい話ですが初めて聞く地名なもので」
「ああ、こちらこそごめんなさい。説明が足りませんでした。寂地山(じゃくちさん)っていう山はご存知ですか?」
山口県岩国市と島根県吉賀町の境界に寂地山という標高千三百三十七メートルの山があり、その山の麓に位置する集落が神御呂司村である。新岩国駅から車で一時間四〇分。県道から分岐をひとつ曲がればもう一本道だ。
運転手は康介が後部座席に座ったのを確認すると同時に慣れた手つきで車を発進させた。走り出したタクシーは新岩国駅を離れ、郊外の寂地山へ向けて出発した。
「今日は良いお天気ですね。お客さんはどちらからおいでに?」
「東京です」
「今回はご旅行で?」
「いえ、実家に帰ろうと思いまして」
「なるほど、親孝行とは感心ですね」
運転手はバックミラー越しに笑顔でそう言った。
「うちもお客さんと同じぐらいの年齢の息子がいましてね。最近じゃあ、滅多に帰って来やしない。それに比べてお客さんは大したもんですよ」
「それはどうもありがとうございます」
康介は運転手に褒められ小恥ずかしいものがあったが、不思議に嫌だとは思わなかった。父が生きていればこんな感じなのだろうかと親近感さえ芽生えた。
車窓へ視線を移してみると田園風景が広がっていた。広大な田園地帯のはるか後方には霞がかった山々が連なっている。
彼は田舎の景色を眺めているうちに都会の喧騒が嘘みたいに思えてきた。同時に東京ではあまりの忙しさに自分が疲れていることさえ忘れていたのだと気づいた。
バイトをしながらも空いた時間には次の就職先を探さなければならず、将来への不安から生じるストレスで精神的な疲労も重なっていたのかもしれない。
「ところでお客さん。神御呂司村はどんな場所なんですか? 寂地山にはよく釣りに行くので知っていますが、あそこにそんな地名の村があるなんて思いませんでしたよ」
「まあ、人口が百五十人しかない寒村ですからね。近年では高齢化が進んでいて、二十年後には廃村になってもおかしくはないそうです」
「それは寂しい話ですね」
「そうですね」
康介は運転手と会話しているうちに眠気がしてきた。
運転手はうとうとし始めた彼を気遣い、「お疲れのようですね。目的地の近くまで来たら起こしますので少しお休みになられては?」と声をかけた。
「すいません。そうさせてもらいます」
康介は車に揺られながらまどろみに落ちて行った。
「お客さん。そろそろ到着しますよ」
康介が運転手に起された時、すでにタクシーは神御呂司村付近の渓谷に架けられた「よみわたり橋」にさしかかっていた。おもむろに腕時計を見てみると午後一時を少し過ぎていた。橋を渡る車輪の振動に揺られながら外を眺めてみると、辺りはすっかり深い霧に包まれていた。
「お客さん。凄い濃霧ですね。いつもこんな具合ですか?」
「いえ、こんな霧が出ることなんてありませんよ」
康介も驚いていた。さっきまで快晴だったにもかかわらず、今では辺り一面が乳白色の世界に覆われてしまっている。山の天候が変化しやすいと言っても今までこんな状況はなかった。
タクシーはヘッドライトで前方を照らしながら橋を渡っていく。康介は窓越しに橋の下を覗き込んでみたが何も見えない。相当に深い谷底だったがいつもなら遠目でも川の流れが見えるはずだった。
この「よみわたり橋」は神御呂司村と外界とを繋ぐ唯一の道だった。他の道から迂回しようにも山間部に位置するこの村の周囲は断崖絶壁に囲まれており、橋以外に往来できる道はない。
梅雨時の台風などで川が増水したり、冬の豪雪で交通止めになったりするとすぐに村は外界から閉ざされてしまう。そういった状況下で急病人が出た場合は救急ヘリが出動することも珍しいことではなかった。過酷な村で生まれ育った康介にとって新岩国駅の寂れ具合など不便さには入らず、むしろ住みやすい環境で羨ましいとさえ思うほどだった。
その後、村に入った辺りで霧はすっかり消え失せていた。車内の窓から午後の陽光が差し込んでいた。
タクシーは数件の古民家が両側に立ち並ぶ村道を進んでゆく。地蔵や祠が幾つも通り過ぎていった。道なりに進んでいくと民家はまばらとなり、前方に竹林が広がっていた。竹林を抜けると開けた場所となり、そこに周囲を木の塀に囲まれた大きな屋敷が建っていた。茅葺屋根で横長の木造家屋。築年数は相当に古そうだ。この重要文化財に指定されそうな屋敷が清水康介の実家である。
康介は実家の門前近くでタクシーから降りた。運転手は「また機会がありましたら是非ともうちのタクシー会社をご利用ください」と愛想の良い笑顔で会釈した後、ゆっくりとした速度で車を発進させた。
康介が門をくぐり抜けて庭先へ向かってみると、鎌を片手に持ちながら背中を丸めて草刈りにいそしむ母親の姿があった。
「母さん、ただいま」
康介が背後から声をかけると母親の恭子は驚いた顔で振り返った。
「あら、康介。どうしたの?仕事は?」
「休んできた。何だか急に帰りたくなってね」
「前もって連絡くれたらお昼ご飯用意したのに。余りものでよければ食べるかい?」
「うん。ちょうどお腹が空いていたから助かるよ」
「ちょっと、待ってておくれ」
母親はそう言うと腰をさすりながらゆっくりと立ち上がり、首にかけていたタオルで汗を拭いながら家の中に入っていった。康介も自分の荷物を抱えながら後に続いた。玄関先の引き戸を開けると土間になっている。土間で靴を脱ぎ、上がり框(かまち)を踏み越えて家の中へ上がった。
木目の浮き上がった床が敷き詰められた長い廊下を歩いてゆく。板を踏むたびに軋む音が鳴った。
清水家は江戸初期から明治初期まで代々、村長を務めてきた一族である。明治以降も地主として村の有力者であり続けた。だが、この一族には呪いめいた特徴があった。それは本家の男子が全員、短命であるということだ。それも分家や近所の親戚ではなく、本家の人間だけが二十代から三十代の間に必ず死亡している。長生きしても四十代が限界だった。この不幸な現象は江戸末期から始まったのだという。
康介の祖父も戦時中、三十一歳の若さで戦死している。その後、代わりに家督を継いだ祖父の弟などは三十代後半で謎の変死を遂げた。そして、康介の父親は彼が三歳の時、交通事故で亡くなっている。二十七歳という若さだ。康介の母親は同じように夫と死別して苦労した祖母と助け合いながら生きてきた。
現在、清水家で生存しているのは母の恭子(きょうこ)、祖母のカネ、長男・康介の三人のみ。祖母は九十歳で体は丈夫なのだが、近ごろは物忘れが激しい。視力も衰えてしまい今では散歩も一人では行けない状態だ。康介の母親は祖母の介護で一日の時間をとられている。だが、山間部の田舎に福祉サービスが整備されているはずもない。今のところ祖母のカネは徘徊するような状態ではないので交通事故に遭う可能性は低いが、認知症が進行すればどうなるか分からない。それが母親の一番の悩みだった。
夜の七時過ぎ。三人で夕食をとっていた。
「康介。次の就職先は見つかりそう?」
母親はほとんど目が見えない祖母の口に食べ物を運びながら康介に話しかけた。
「それがなかなか見つからなくてさ」
「大変ね。それで今回はいつまでここにいられるの?」
「まだ決めてないけど、数日はいようかな」
「そうかい。あたしは嬉しいけど、あんまり無理するんじゃないよ」
「大丈夫だよ」
康介と母親が会話を続ける中、祖母だけは押し黙ったまま一言も発しなかった。
康介は認知症が悪化したのではないかと心配になり「母さん。おばあちゃんは大丈夫なの?」と言った。だが、母親は「いつものことよ」と意に介せずに会話を続けた。
「康介。そんなことより気分転換に釣りにでも行ったら? 明日もお天気が良いみたいよ」
「そうだね。ミサゲ山近くの沢にでも行こうかな」
康介が「ミサゲ山」という地名を告げた瞬間、さっきまで黙っていた祖母の態度が豹変した。
しわだらけの顔は険しい表情となり、白く濁った眼を見開かれていた。
「康介、ミサゲ山には絶対に行くんじゃないよ!」
「ばあちゃん、落ち着いてよ。あの山には入らないから」
「そうよ。お義母(かあ)さん、康介だって子供の時からあの山に入ってはいけないことぐらい知ってるわ」
「それなら良いんだよ」
祖母はそういうと再び無言になってしまった。
神御呂司村は忌地のミサゲ山と呼ばれる小さな山の周囲を囲うように密集した集落だ。
この山は古くから神が住まう場所である「禁足地(きんそくち)」とされ、絶対に入ってはならない場所だった。年に一度、神に供え物を捧げるために神職者と村長だけが踏み入ることを許された場所である。
康介は幼い頃に村の不気味な話を大人たちから聞かされた。昔から村では何人もの子供たちが行方不明になっており、言い伝えによればミサゲ山で神隠しに遭ったのだとされている。それほどに恐ろしくも神聖な場所なのだということは幼心にも理解していた。
だが、大人になった今はそんな迷信など信じていない。だからこそ、康介には祖母が血相を変えてまで忠告した意図が理解できなかった。やはり、認知症が悪化したとしか思わざるを得なかった。
母親は「お義母さんは康介が子供だった時代と今の記憶がごっちゃになっているのよ」と疲れ切った顔で言った。夕食の後、母親は祖母に薬を飲ませて寝室へと連れていった。
康介は自分の部屋に戻ると早速、釣りに備えて準備を始めた。実家とミサゲ山の距離は徒歩で三十分ほどしかかからない。その中間に位置する場所には渓流釣りの穴場があった。中学生の時、近所に住んでいる釣り好きの老人に連れていってもらったものだった。
彼は翌日に備えて、早めに就寝することにした。
翌日の朝六時過ぎ。
康介は釣り道具を持って渓流に向かった。暖かくなったとはいえまだ早朝は肌寒い。ひんやりとした山の空気は澄み切っていた。
辺りには白い霧が微かに立ち込めてはいたのだが、視界不良というほどのものではなかった。
康介は川原にたどり着くと釣り竿を取り出した。そして、あらかじめ造っておいた仕掛けを竿先に結びつけると早速、釣りを始めることにした。
竿を握り始めて二時間後。未だに何も釣れなかった。川底まで見えるほどに水は澄み切っている。だが、苔むした岩の陰にも魚影は一つも見当たらない。
「釣る場所を変えてみようかな」
康介がそう呟いた瞬間、背後で鈴の音が微かに鳴った。振り返ってみたが誰もいない。
──気のせいか……
耳を澄ませても渓流の水音しか聞こえてこない。再びポイントに向かって竿を投げ出した。
しばらく待つと手ごたえがあった。糸が引かれている。康介が釣り竿の力加減に意識を集中させようとした時、また遠くから鈴の音がした。今度は音のする方向がわかったので首を捻じ曲げたのだが動物すらいるようには思えない。あっ…康介が持っていた釣り竿が急に軽くなった。釣り針ごと獲物が食いちぎってバラしてしまった。康介は軽く怒りを覚えて立ち上がった。
すると、追い打ちをかけるようにまた例のさめざめと響く音がする。こうなると原因を確かめずにはいられなくなっていた。康介は岩場に釣り竿を置くと、そのまま音を辿りながら歩き出す。
鈴の音はミサゲ山から聞こえていた。山の方へと近づくにつれて霧が濃くなってきた。
突然、音が止まった。不思議に思って佇んでいると赤いものが視界の中に飛び込んだ。
距離にして二メートル先。
霧のせいで判然としないが、どうやらそれは赤い着物を着た六、七歳ぐらいの幼女のようだった。
──うふふっ。ふふふふ。
幼女は楽しそうに笑いながら山の方へと走っていってしまった。
康介はまるで魔法にでもかかったかのように無我夢中で幼女を追いかけた。不思議なことに急斜面の歩きにくい山道も気にはならなかった。
ブナなどの植物で鬱蒼としている樹林帯に入ったようだが、霧のせいで何も見えなかった。
ただ、鈴の音だけは聞こえている。
皮膚にべったりと張り付くような粘着質の濃霧の中を歩いているうちにいつしか、山の頂に辿り着いていた。
だが、誰もいない。
ふと、霧の中に古びた鳥居が浮かび上がった。鳥居は黒く焼け焦げており、白い煙が出ているように見えた。
康介は鳥居をくぐり抜けて、その先に向かって歩き出した。
すると、眼前に朽ち果てた祠が見えてきた。原型をとどめてはいるものの、ほとんどの部分が焼け崩れていた。
祠の残骸を眺めていると背後に何者かの気配が沸き上がった。
振り返るとそこに立っていたのは幼女ではなく、赤い着物を着た大人の女だった。端正な顔立ちをしており、黒くて長い髪には艶があって美しかった。だが、全身の肌が死人のように蒼白い。背筋が凍り付くほどの恐ろしさと同時に妙な妖艶さがあった。
康介は奇妙な女の魅力に囚われていた。もう思考を巡らすことはおろか、声すらも出せなくなっていた。
「康介。おかえりなさい」
女は康介の頬にそっと手を触れる。すると、彼は心地良さと懐かしさにも似たものを感じながらその場に倒れ込んでしまった。
意識が遠ざかりつつある康介の耳に聞こえていたのは鈴の音だけだった。
──シャリン、シャリン、シャリン……
俺は川岸に佇んでいた。車椅子ではなく自分の足で立っていた。
辺り一面に紫色の花畑が広がっている。空は夕陽で燃えるように赤くなっていた。
ここはどこなのだろうか?
もしかして、俺は死んでしまったのか?
さまざまな思いが頭の中を去来していく。臨死体験をした人間はたいてい「綺麗な花畑が広がっていた」とか、「今まで見たこともない幻想的な景色だった」などと語っている。それが本当だとするなら自分は今まさに死へと近づいているのかも知れない。
夕闇が迫りつつある中、対岸に一つだけ人影があった。
俺は相手が何者なのか気になってもう一度、対岸の人影を凝視した。すると、それはヘルパーの一人である清水康介だった。
桜花精の事件後、清水は行方不明になっていたのだ。
「おーい、今まで連絡もせずにどこにいたんだ?」
「……」
俺は対岸に向かって声をかけたのだが返事は返ってこない。
聞こえていないのかとも思ったが、自分と相手を隔てている川の規模は小さく、川幅も狭いので対岸と言っても少し大きい声を出せば聞こえる程度の距離しかなかった。俺は自分の発音が悪かったのかも知れないと考えてもう一度話しかけた。
「ここはどこなんだ?」
「……」
清水は相変わらず声を発しなかった。だが、今度はこちらに何かを伝えようとしているらしく、首を横に振りながらしきりに口を動かしている。口の動きを目で追ってみるに「危険だ。こっちに来てはいけない」と言っているように見えた。
「何が危険なのか?」と叫んだが相手に声は届かず、気がついた時には対岸に深い霧がたちこめていた。あっという間に清水の姿は見えなくなっていた。
俺が呆然としていると横から「稲生さん、起きてください」という聞き覚えのある声がした。
目覚めた時、自分は新幹線の中にいた。声をかけたのはヘルパーの坂口だった。
この日、俺は山口県岩国市へと向かっていた。理由は清水康介の葬式に出席するためだ。葬式に参列しようと思ったその動機は長年にわたり世話になったというのもあるが、見知らぬ土地に好奇心をもったというのも理由の一つではあった。
三日前、ヘルパーの派遣事務所から電話がかってきた。内容は清水の訃報を告げるものだった。清水の母親から事務所に連絡があったという。
母親によれば五カ月前、清水がいきなり帰省したのだという。それから一か月もしないうちに失踪してしまった。それが最近になって実家近くの竹林で彼は変死体で発見されたという。
遺体の状態は異常なもので全身の血液が抜かれており、ほぼミイラ状態だったそうだ。
そして、同時に清水は現場付近で発生した殺人事件の関与を疑われ、遺体は解剖されたようだが何もわからないまま。結局、遺体は実家に返されたということらしい。
清水は俺の家で介護を何年も続けており、自分にとっては馴染みのヘルパーたちの一人だ。
桜花精の事件後に失踪しただけに気にはなっていたのである。それが死体で発見されるという最悪の結末にショックは大きかった。
彼の実家は山口県岩国市にある神御呂司村という寒村にあった。三日後にその実家で彼の葬儀があるということなので出席することにしたのである。
出発当日、俺はヘルパー二名と共に東京駅発、新岩国駅行きの新幹線に乗った。所要時間は四時間。それに新岩国駅に到着した後、さらにそこから神御呂司村までは車で一時間四十分かかる。全所要時間は五時間四十分。恐ろしく遠い距離だ。俺は久しぶりに早起きをしたのでひどく眠かった。車椅子専用のスペースでリクライニングを倒して休んでいるうちに眠ってしまったようだ。車内の適度な振動が睡眠へと誘ったのかも知れない。
それにしても奇妙な夢だった。
──あの夢はいったい何を暗示しているのだろうか?
そんなことを寝ぼけた顔で考えていた俺はふと、車内の電光掲示板に表示されたニュースが気になった。
「この五ヶ月間において山口県内で幼女が何者かに殺害、あるいは行方不明になる事件が多発しており、県警は同一犯による幼児連続誘拐殺人事件として捜査……」
俺はそれが清水にかけられた容疑と関係する事件のような気がしてならなかった。もちろん、根拠はなかった。ただ、彼が異常な死にかたをしていることもあり、何がどこで繋がっていてもおかしくないのではないかと不意に思ったのである。いずれにせよ本人が死亡してしまっては謎が深まるばかりだった。
俺が目覚めてから五分後、新幹線が新岩国駅に到着した。
駅を降りるとロータリー近くで介護タクシーが待っていた。車両はハイエースバン。後方に車椅子を載せるための昇降機がついている。運転手がそれを操作して昇降機に車椅子を載せて地面から押し上げて車内へと誘導してくれるのだ。運転手が俺にシートベルトを装着している間、ヘルパー二人は荷物を車に積み込んでいた。
出発の準備が整った後、タクシーは神御呂司村に向かって走り出した。
車窓の移り変わる景色は広大な田畑、遠くに連なる山々の峰、青空を流れていく白い雲。せわしない都会とは違い、どこか時間がゆっくりと動いていた。道中、俺はあまりにもかわりばえのしない風景に眠気をもよおしてきたが、夜に眠れないのは困るのでヘルパーと会話をしながらやり過ごした。
駅を後にしてから一時間後。タクシーは神御呂司村手前の橋にさしかかっていた。橋は深い谷間を跨ぐように架けられていた。谷底には川が流れていた。川の流れがかなり激しいらしく、白く泡立った水が渦を巻きながら水しぶきを飛ばしているのが見えた。電動車椅子の座高はヘルパーが座っているシートよりも高いため、窓越しに谷底の激流を見下ろすことができた。車内だというのに激流の轟音が耳に届いていた。
橋を渡り終えると村の景色が見えてきた。周囲を山に囲まれた小さな集落と言った印象だ。
紅葉に彩られた山の中にたたずむ村はどこか寂しくもあった。どの民家も木造の茅葺屋根が多く、村だけが時代から取り残されているような古めかしい雰囲気を漂わせていた。黄金色に輝く田んぼでは村人たちが稲刈りに精を出していた。どの顔も高齢者ばかりで若者の姿は見受けられない。少子高齢化の影響なのか人間の数より建物の方が多いようだった。
やがて、タクシーは予約していた旅館に到着した。旅館……いや、旅館というよりも民宿と言った方が正しいかも知れない。古い木造家屋の民家を改築しただけのものでみすぼらしいものだった。
その民宿は数件の民家が密集した一角にひっそりと佇んでいた。屋根はひしゃげており、建物自体も全体的に傾いていた。今にも突風で吹き飛ばされてしまいそうな状態だったのである。
薄汚い宿に比べて、夕陽に照らされた庭先の桜の紅葉が目にしみるほど鮮やかに見えた。
俺はタクシーを降りた後、ヘルパーたちと一緒に宿の方へ向かって動き出した。清水の遺族に手配してもらった手前、文句を言うのも非常識なのでボロ宿でも我慢しようと心に決める。
それでも庭先から宿まで綺麗に舗装された小道が続いており、電動車椅子でも容易に走行することができた。
宿の正面玄関の手前に段差があったのだが、車椅子で上がれるようにスロープが用意されていた。十分な配慮に感謝しながら玄関口へと向かう。
ところがそこには誰もいなかった。予定より早くに到着したのかとおもった。だが、スマートフォンの液晶画面に視線を移してみると、表示された時刻は夕方の四時過ぎ。予約していたのは四時半だから早すぎるということはない。
「まあ、ひとまずは中に入ってみるか」と俺たち三人は玄関の引き戸を開けて奥へと進んだ。
中はがらんとしていた。天井には照明設備があるのだが、裸電球が吊るされているだけなのでどこか薄暗いような気がした。どこかの部屋でお香を焚いているらしく、寺院を彷彿とさせる匂いが鼻腔に入り込む。屋内には骨董品として価値がありそうな壺、水墨画が描かれた掛け軸などが展示されていた。
それにしても誰もいない。辺りには言いようのない静寂だけが漂っていた。俺は人の気配がまったく感じられないことに気味が悪くなってきた。
ふと、視線を目の前に移してみれば、床の上に座布団が敷いてあり、その上には小さい老婆の人形が置かれていた。
「おかしなぐらいによくできた人形だな。顔が真っ白じゃないか」
俺が一人ごちていると突然、その人形のこうべが垂れた。
「遠方からお越しいただきありがとうございます」
突然のことに俺は呆気に取られて言葉が何も浮かばなかった。ヘルパー二人も明らかに動揺しており、自然と後ずさっていた。
「お荷物をお持ちしましょう」
老婆がふたたび声をかけてきたのをやっとの思いで制止した。
「ヘルパーがいますので大丈夫です…」
俺たちの動揺に気づいたのかそうでないのか、老婆は赤い紅をさした口の端に笑みを浮かべながら受付に案内するようにきびすを返した。
ごおおーん、ごおーん。
いきなり柱時計が鳴った。
「お部屋までご案内いたします」
宿の女将の老婆が歩きながらこちらを振り返ってそう告げた。
女将によるとこの宿を利用しているのはほとんどが釣り客であるという。彼女の亭主は若い頃から釣りが好きであり、趣味の延長で宿を開業したそうだ。
女将はそんな世間話をしながら客室まで案内してくれた。
宿は全部で十二部屋。当然ながらほとんどが和室だった。だが、俺たちが案内された客室は部屋の奥半分が畳、入り口側が板の間という作りになっていた。板の間には簡易ベットが用意されていたので畳の上で寝るよりは楽そうだった。完全に改修工事がしてある自宅に比べれば不便だが、ヘルパーが二人いるので二、三日程度ならどうにか乗り切れそうな気もした。
「では、これで失礼いたします」
女将は食事の時間や諸々の説明を終えるとそのまま退室した。
俺は少し休憩した後、喪服に着替えて清水の実家へと向かった。
五時半を少し過ぎた頃。
俺は坂口と二人で清水家の門前にいた。もう一人のヘルパーは夜勤なので部屋に残って仮眠をとってもらうことにしたのである。
村には外灯が少ないということもあって外は真っ暗だった。日中に比べてだいぶ寒くなっている。
門を抜けた先にはテントが設置されており、その場所が受付となっていた。受付の担当とおぼしき女性がこちらに気づいて会釈してきた。
綺麗な女だった。黒くて長い髪には艶があった。喪服の着物が似合っている。
俺が受付のところにいくと笑顔で話しかけてきた。
「遠方からお越しいただきありがとうございます。稲生さんですよね?」
「はい。この度はご愁傷様です」
「生前は弟の康介がお世話になりました。私は姉の楓(かえで)と申します」
「こちらこそお世話になりました。それにしても清水さんにご兄弟がいらしたなんて知りませんでした」
「稲生さんのことは生前、弟から聞いておりました」
俺は清水に兄弟がいたとは知らなかった。しかもこんな美人な姉がいるなんて本人から聞いたこともない。まあ、プライベートな話は職場で話したくない人間もいるからおかしくはないかとその時は思った。
ただ、不思議に思ったのは女の態度だった。普通、どんなに気丈に振舞っても身内が死ねば涙を流す場面は何度かあるものだ。それに原因不明の変死という未だに多くの謎を残しており、遺族にとっては穏やかでいられる状況ではないはずだった。
それが清水の姉だと名乗るこの女はまるで他人のように平気な顔をしていたのである。もしかすると感情を内に秘めるタイプなのかも知れない。だが、それにしては女の瞳には感情の色がなかった。目に光が宿っていないのだ。涙を浮かべることもなく、俺に親しみを込めた笑顔を見せる時でさえもその目は無機質なのである。
それに女は時折、俺の顔を見つめながら舌舐めずりしていた。まるで粘液まみれの爬虫類の舌で全身を舐めまわされているようで不愉快だった。
相手の視線を感じるたびにぞくっと鳥肌が立った。俺は楓という女の近くにこれ以上はいたくないと思い、途中で話を切り上げて香典を手渡した。まだ葬式は始まっていなかったので坂口に線香をあげにいかせた。どうして自分の代わりにヘルパーを行かせたかというと、清水家の屋敷は車椅子で入れるような環境ではなかったからだ。それならばせめてヘルパーに線香をあげてもらおうと思ったのである。その旨を伝えると清水の姉は坂口を連れて屋敷の中へ入っていった。
俺が玄関口で待っていると清水の母親が挨拶に来てくれた。
「遠くからありがとうございます。康介もきっと喜ぶわ」と母親は気丈に微笑んでくれたがその瞳は涙で濡れていた。清水の母親はそれからしばらく世間話をしてくれたが最後の方は泣き崩れてしまったので会話にならなかった。最愛の息子を失ったのだから当然だろう。それも常識では考えられない不可解な死を遂げたのだ。
──なのにどうして、あの姉は涙を流さないのだろか? 血を分けた兄弟だというのに……
俺が咽び泣く母親への対応に戸惑っているところで坂口が戻ってきた。隣には先ほどの姉の姿もあった。
「良かったら明日も顔を出して下さい。きっと、弟も喜ぶと思いますので」と姉はそう言った後、母親と共に屋敷の中へ戻っていった。
こうして俺と坂口は清水家の屋敷を後にした。
清水家の屋敷から少し歩いたところに竹林があった。行きの道もすでに夕闇に没してはいたものの空にはまだ残照があり、薄暗い中でも道中の景色を窺い知ることはできたのでとくに怖さは感じなかった。それに比べて帰り道はすでに九時をまわっていたので辺りは夜の闇に包まれていた。夜風に揺さぶられて竹の葉が擦れ合っているのか乾いた音が辺りに響いていた。
時折、その音に竹自体が軋む音や枯れた葉が地面に落ちる音がさらに交わる。それは得体の知れない何者かがこちらに近づいて来ている足音のようにも聞こえて不気味だった。もちろん、後ろを振り返っても誰もいない。この村にいるのはほとんどが高齢者なのだからこんな時間に出歩くことはなさそうだ。
同行していた坂口も俺が心の中で思った事を言った。
「何だか不気味ですね。誰もいないのに気配を感じる」
「確かにそうだね……そういえば、清水の遺体が発見された場所ってこの辺じゃなかったか?」
「怖いことを言わないで下さいよ! 自分はそういうの苦手なんすから……」
「ごめん、忘れてた。それじゃあ、急いで宿に帰るとしよう」
「置いて行かないで下さいよ」
「分かってるって」
俺は電動車椅子のスピードを高速に切り替えて走り出した。坂口も小走りでその後を追いかける。
数分後。そろそろ竹林が途切れるであろう地点を通過しようという時、突如として深い霧が辺りに立ち込めてきた。不思議には思ったものの、その不気味な竹林から一刻も早く抜け出したかったので立ち止まらずに突き進んでいく。やがて、霧は道を進んでいるうちに薄れていった。距離的にはもう宿が見えてきてもおかしくはなかった。
だが、その先で待っていたのは奇怪な現象だった。驚いたことに竹林の入り口まで引き戻されていたのである。その証拠に行きの道で見た石碑が道端にあった。
俺は思わず車椅子の走行を停止させる。呆然と石碑を眺めていると後ろからついてきていた坂口が突然、裏返った声で叫んだ。
「あふぇー、これって竹林にあったやつですよね?」
「たぶん……戻ってるな」
俺と坂口は十月だというのに汗をびっしょりかいていた。怪奇現象に動揺していたのは言うまでもない。
その後、竹林を越えていこうと何度も挑戦してはみたのだが道の先にあるのは石碑。どうあがいても入り口に戻されてしまう無限ループに陥ってしまった。
俺たちは精神的に疲れ始めていた。他の道を選んでも結局は同じ場所に出てしまう。
──まさか、ここから永遠に出られないんじゃないか?
ふと、そんなことを考えてしまった。次元の牢獄で朽ち果てた自分の姿が脳裏をよぎった。
──どうしよう、どうしよう……
ただ同じ言葉が頭のなかを堂々巡りして解決策をまったく思い描けない。坂口は坂口で焦っているのかさっきから唇を震わせ、変色するほど強くかみしめていた。
なかば諦めて深い霧がたち込める場所で佇んでいるといきなり突風が吹き荒れた。俺たちは何もできずにただ息をのみ、轟々と音を立てながら吹きつける風の中で巻き起こる現象を静観していた。それがどのくらい続いていたのかは覚えていない。
ただ、気づいた時には風がやんでいた。霧も消滅しており、頭上の空を何かが飛び去って行くのが見えた。
俺たちは宿の前に帰り着いていた。
翌朝。俺は告別式に参列した後、遺族に挨拶を済ませて宿へ帰るところだった。清水家の門を抜けたところで思わぬ人物と再会した。
それは前回、俺が悪鬼に襲われた時に助けてくれた土御門聖歌さんだった。相変わらず黒い衣装は似合っていたがいつも同じなので私服なのか喪服なのか分からない。
──なんでこの人がここに?
俺がそんなことを頭の中で思ったのとほぼ、同じタイミングで彼女の方から声をかけてきた
「あら、稲生君。こんなところで会うなんて奇遇ね」
「お久しぶりです。この前はお世話になりました。俺は清水家の人と縁がありまして……土御門さんは?」
「ちょっと、仕事でね」
土御門さんは清水の祖母・カネさんからある呪物を探して欲しいという依頼を受けたのだと教えてくれた。その呪物とは「呪いの壺」であるらしい。
依頼人のカネさんによれば清水家では代々、男子が早死にするという呪いが続いているという。それと同時に一族が保有する壺があるらしく、その関連性を調べた上で呪いを解いて欲しいというのが当初の依頼だったようだ。時を同じくして孫の康介が変死した。カネさんはそのことも壺による災いではないかと危惧して「あれは邪悪で危険な壺。すぐに見つけないと大変なことになる…」との理由で早急に依頼を達成して欲しいようだ。それを受けて土御門さんがカネさんを訪ねたところだったのである。
「それにしても土御門さんは全国的に解呪師として有名なんですね」
「どうしてそう思うの?」
「だって、こんな深い山奥の村の人にまで知られているなんて凄いじゃないですか」
「それがよくわからないのよ。清水カネさんはどうやって私のことを知ったのかしらね。いきなり手紙が届いたの」
「そうなんですね。なら、本人にどうして知ったのか訊けばいいんじゃないですか?」
「それが尋ねても覚えてないって言うのよ」
「まあ、ご高齢なら物忘れしたのかも」
「そうかもしれないわね……ところで稲生君。もし、私の仕事に興味があったら手伝ってもらえない?」
「……まあ、多少は興味あります。清水康介が何故、死んだのか知りたいですし」
「そう。良い返事が聞けて嬉しいわ。私はこれからカネさんに壺についてお話を聞かせてもらうから、稲生君は図書館とかでこの村に壺の伝承があるか調べてみて」
「分かりました」
「それじゃあ、明日、郷土資料館で待っているからその時に調べたことを教えてちょうだい」
土御門さんはそう言った後、颯爽とした足取りで屋敷の方に歩いていった。
俺はひとまず宿に戻って着替えてから坂口と図書館へ向かうことにした。
古めかしい村の中で図書館や村役場などの現代風の建築物は不釣り合いに見えた。電信柱がなければ江戸時代にタイプスリップしたような印象を受けてしまうこの場所に鉄筋コンクリートで築かれたものは違和感さえある。
さすがに図書館は公共施設なので車椅子でも問題なく入ることができた。都市部にあるような大きなものではなかったがそれなり書籍は揃っている。
俺は歴史コーナーに向かった。本棚にびっしりと並んでいる本を眺めながら移動していたら「神御呂司村 村史」というタイトルが目についた。坂口に頼んでその本を取ってもらった。ページを開いてみると面白くもない記事が延々と続いていたが一つだけ気になる項目を見つけた。それは神御呂司村で行われてきた祭りについて記されたもので『ミサゲ祭り』とあった。
本文タイトルの真下に白黒の写真が印刷されていた。写真に写っていたのは草木が鬱蒼と生い茂る山の入り口であり、その両側には神社にあるような石灯籠が立っていた。その間には注連縄が張られていて、いかにも侵入を拒んでいるように見えた。
写真の下には小さな文字で『大正十四年、ミサゲ山入り口にて撮影』とあった。
さっそく、ページをめくって本文に目を通すことにした。
『──古来より神御呂司村においてミサゲ祭りという奇祭が行われてきた。
伝承によれば遥か昔、この村は大飢饉に見舞われた。村の長は飢えに苦しむ村人たちを救う手立てがないか色々と試みたが成功しなかった。日に日に餓死者が増えていく中、村の長は天を仰いで「どんな神様でもかまいません。どうかこの村を、村人たちをお助け下さい」と願った。すると、天からそれを見ていた神が人々を哀れに思い、村の中心に位置する小さな山に降り立った。そして、神は雨雲を呼び出して村に恵みの雨を降らせた。翌日、不思議なことに枯れていたはずの田畑は大量の農作物で埋め尽くされていたという。それからというもの豊作が続いたことで村人たちは飢饉から救ってくれた神を崇め、その神が降り立った山そのものをご神体として祀った。
その後、村では年一回、神への感謝を込めて祭りを行うようになった。祭事の具体的な内容は次のようなものである。
祭りは村の長と神主の二人が仮面をかけ、村人たちを指導して進めていく。
まず、壺に五穀を納める。その壺を密封して竹で組んだ輿に載せて男たちが掛け声と一緒に運んでいく。そして、村の若い女たちは赤い着物を身につけて踊り始める。仮面をかけた村の長と神主は手に鈴を持って打ち鳴らしながらその二つのグループを誘導し、山の周りを練り歩く。三周した後に山の入口で山の長と神主が男たちから壺を受け取り、二人だけで神を祀った祠がある山の山頂に登っていく決まりになっている。その際、壺を運んできた男たちと赤い着物を身につけて踊る女、それに他の者たちはただちに各々の家に帰らなければならない。二人の後を追いかけてはいけないし、帰宅途中も家に着くまでは無言でいなければならない。村の長と神主の二人が最後に祠の前に壺を供え、二礼二拍手をして静かに下山して祭りは終わるという。ちなみに祭りを指導する村の長と神主しか入山できない理由は普段から山が禁足地とされているからである。ただ、この両者でさえ入山を許されるのは年に一度だけであり、祭り以外で立ち入ることは認められていない。
この祭りが行われるようになってから村ではミサゲという言葉が生まれた。
神御呂司村においてミサゲという言葉は神への感謝を忘れず、親身に尽くすという意味が込められている。そのことから神が降り立った山をミサゲ山と呼ぶようになり、祭りの名称もミサゲ祭りとされた──』
俺はこの記事を読んでいて祭事に壺が使われるという点に興味をもった。珍しいという理由で気にはなったものの、とても呪いの壺と関係があるとは思えなかった。神事に使われる壺なら神聖なものに違いない。ただ、土御門さんに頼まれた「壺にまつわる伝承」ではあるからひとまずは目的を達成できたと言える。
村の祭りに関するページだけコピーして宿に戻ることにした。
その夜、俺は食事を持って来てくれた女将に世間話がてら奇祭について訊いてみた。
すると、女将は喜んで話してくれた。
「私も若い時、赤い着物を身につけて踊ったものですわ」
彼女は遠い過去を反芻しながら語った。
「うちの亭主は今じゃ病気がひどく市内の病院に入院していますが、若い時は輿を担いでおりました……」
「いい思い出なんでしょうね。ところで清水家の近所にある竹林をご存知ですか?」
「ええ、あの竹林のことですね。存じてはいますが……」
「実は昨日、通夜の帰りにあの竹林がある道を歩いていた時、何故だかすぐに抜け出せなかったんですよ。似たような話とかあったりしませんか?」
その話を持ち出した瞬間、相手の表情がこわばった。
「さあ、どうでしょうね。ただ、ミサゲ祭りで使われる輿は竹林の竹を伐採して作りますので、この村であの竹林はミサゲ山と同じぐらい神聖な場所とされております」
「そうだったんですね。知らなかった」
「……ですので、村以外の人間があそこに踏み入れると良くないことが起きるそうです。他の道を通られた方がよろしいかと」
「ご忠告、ありがとうございます」
「……それではこれで失礼致します」
そう言うと女将は怯えたような顔でそそくさと部屋から出て行ってしまった。
俺は申し訳ないと心から思った。村の伝承は現代でも村民たちの中で息づいており、知らなかったとは言っても神聖な場所に踏み込んでしまったことを後悔したのである。
その夜、不思議なことが起こった。
深夜。俺がベッド上でまどろみに落ちようとしていたら突然、ドアを開ける音がした。最初は夜勤のヘルパーが喫煙をするために外へ出ていったのだろうと思った。だが、気になって目を開けてみると夜勤のヘルパーは隣で寝息をたてながらが眠っている。いつも不眠症の坂口は明日に備えてゆっくり休もうと睡眠薬を飲んで深く眠っている。俺の位置からその姿は見えないがいびきだけは聞こえていた。
──それじゃあ、今、部屋に入ろうといるのは誰?
恐怖で完全に目が覚めた。
──強盗が入ろうとしているのだろうか?
だが、それはないと思った。こんな安っぽい民宿に泊まる客が大金を持っていると思う泥棒なんているはずもない。どうせ強盗に入るなら観光客が賑わっている場所でやればいい。
──となると……また、怪異か?
俺がそう思った時、ベッドの傍らに人影が現れた。
五十歳ぐらいの男だった。
服装は修験者のような格好をしていた。
その男はこちらを見下ろすように立っていた。血の気のない蒼白い顔。とても生きた人間とは思えなかった。
男はその場に正座して律義に一礼した後、少し間をあけてから口を開く。
「夜分遅くに申し訳ございません。手前は鳴鬼鉄斎(なるき てっさい)と申す者。生前は鳴鬼流蟲術(なるきりゅうこじゅつ)の祈祷師をしておりましたが、今ではご覧の通り村内を彷徨い歩く幽鬼と成り果てました」
「鳴鬼流蟲術?」
「左様。大陸より伝来した蟲毒という呪術を用い、殺生代行を請け負う稼業にございます」
「……人殺しを生業としている恐ろしい方が俺にどんなご用で?」
「手前は一生涯、祈祷師として各地を放浪しておりました。ところが最後に請け負った仕事で失態を犯しまして……」
「失態?」
「はい。少し話が長くなるとは思いますが……お聞きいただけますでしょうか?」
「その長い話が俺にどんな関係があるんですか?」
「それは手前の話を最後まで聞けばわかる」
祈祷師は俺の問いかけを威圧的な態度でいなし、淡々とした口調で語り始めた。俺は仕方なく耳を傾けることにした。
あれは天保のことでございました。ちょうど手前はこの神御呂司村に逗留しておりました。
村は飢饉に苦しんでおりました。
ある時、手前は村の長から相談を受けたのでございます。その相談とは「この村の枯れた田畑を実り豊かなものに変えることはできまいか」というものでありました。正直に申しますと手前は答えに窮(きゅう)しました。解決策が無いわけではございませんが……それは高名なお坊様の霊験あらたかな仏法の力とは異なります。手前が行うのはあくまで悪しき邪法。おぞましく、人の道から外れた術ばかり。
それでも村の長は教えて欲しいと申されまして、手前はやむなく秘術を授けたのでございます。ハッカイ法というものですが、それこそが村長の一族「清水家」の不幸の始まりであり、手前が死してもなお、成仏できぬ理由でございます。
この秘策はまことに惨い方法でして……まず、八人の幼子を人身御供に選びます。皆、歳の頃は七つの幼き娘であることが条件でございました。人身御供に選ばれた子らを殺し、八人分の心臓を取り出して大きな壺に納めるのです。すると、犠牲になった者たちの怨念が壺の中で溢れかえります。その怨念が壺から流れ出ぬように封印した後、村の中心部である山の頂きに埋めるのでございます。今ではミサゲ山と呼ばれる、かの山を選んだのはあそこが村の心臓部に位置するからでありました。ミサゲ山から気が沸き上がり、その気が地脈を通じて村全体に流れているのでございます。人体に例えるならば、ミサゲ山が心臓、地脈が血液を体全体に行き渡らせる血管とでも言えばよろしいでしょうか。
どうしてこの秘策が適していたのかと申しますと、実は神御呂司村の地は陰の気で満ちており、農作物が実らない状態にあったからでございます。手前の秘策はこの陰の土地に対して、同じく陰の性質のものをぶつけることで互いを相殺させ、土地の気を陽に転じるというものでございます。土地が陽の気に満ちれば田畑は豊になるでしょう。陰の性質のものとはすなわち、件の壺に封じられた怨念のことであります。
この呪法は確実な方法ではございますが人間を殺し、悪霊に仕上げるのですから容易なことではございません。怨念が暴れ出さぬように壺を埋めた場所には祠を築き、荒ぶる御霊を神として祀り上げる必要もございます。そうしなければ村に災いが起きるからです。
村の長は恐ろしさに身震いしておりましたが村のためならばと覚悟され、ご子息と共にハッカイ法を執り行いました。
しかし、これには代価が求められるということを村長にお伝えすることが叶いませんでした。
代価とは村の長の一族に連なる男は皆、短命になるということです。何故ならこの秘策を行った者は子々孫々と末代まで祟られることになるからです。罪もない幼子たちは村長の親子に殺されたのですから男子を恨むのは当然でございましょう。犠牲のおかげで村は豊かになっていきました。
ただ、手前は村長にこのことをお伝えする前に流行り病で命を落としてしまったのです。その後悔からこの地で呪縛霊となり、清水家の行動を見てきました。残念なことに一族の人々はご先祖が犯した所業を忘れておられるようです。
このままでは恐らく……幼子の怨念が悪霊として祟りを起こし、この村だけでは飽き足らずに全ての生きる者に災いを与えることでございましょう。
今宵、手前がここにお邪魔したのはそのことで貴方様にご相談があるからでございます。
俺は想像を絶するほどにおぞましい裏の歴史を知らされて驚愕した。と同時に神御呂司村の寂しげな雰囲気も納得できる。この村は多くの犠牲のもとに成り立ってきたということだ。とても褒められたことではないと思った。天保の大飢饉と言えば江戸四大飢饉の一つであり、大勢の人々が災害や飢餓によって亡くなった。辛かったのはこの村だけではないはずだ。追い込まれていたとはいえ、村長の決断は正しかったとは思えない。
まあ、現代に生きている自分たちには想像もできないような苦悩があったのだろうけれど。
──だけど、そんなことを俺に話してどうしろと言うのだろうか?
祈祷師はこちらが愕然としている様子に申し訳なさそうな表情をしながらも話し続けた。
「どうか、悪霊を打ち祓って頂きたいのです」
「自分で引き起こしておきながら他人に後始末をさせるんですか?随分と勝手な人だな。だけど、俺には何もできませんよ」
「いえ、貴方様一人だけに頼ろうというのではございません。お連れの陰陽師様にもお力添えを頂きたいのです」
「どうして俺の居場所や土御門さんのことを知っているんです?」
「実は清水家で貴方と陰陽師様が壺の話をしているのを目にしたもので」
「俺の後をつけていたんですか?」
「申し訳ございません。ご無礼を承知でつけさせて頂きました」
「まあ、あなたの話を信じて良いかはわからないけれど、とりあえず明日、土御門さんに話してみるよ」
「それは有り難い。では、よろしくお願い致します」
祈祷師は安堵したような表情を浮かべ、最後に深々と頭を下げた後に忽然と姿を消した。
その後、俺は目の前が真っ暗になって昏倒してしまった。
目覚めた時には夜が明けていた。どうやら夢を見ていたようだ。
翌朝。俺は郷土資料館の閲覧室で土御門さんと落ち合った。坂口は宿に置いてきた。彼を危険な事件に巻き込むのは不憫だと思ったからである。
土御門さんはテーブルをはさんで俺と向き合うように椅子に座った。
「それで稲生君。何か新しい発見とかあったのかな?」と彼女は無邪気に微笑んで言った。
「まあ、色々と分かりましたけど、あんまり気分の良い情報ではありませんね……」
俺が憂鬱気味に答えると、土御門さんは少し心配そうに訊いてきた。
「何か嫌なことでもあったの?」
「後味が悪い話っていうか何というか……土御門さんはどうでした?」
「私も色々と情報を得ることができたわ。だけど、まだはっきりしないことがあるからお互いに情報を共有しましょ」
「そうですね。じゃあ、俺から話しますね」
「どんな話が聞けるのか楽しみだわ」
土御門さんはさっきまで心配そうな表情だったのにもう、好奇心旺盛な子供のように瞳を輝かせながらこちらが話すのを待っている。以前にも感じたことだが彼女の瞳は琥珀色に見える。
何とも美しく、引き込まれてしまうような気がした。見とれてしまうのは土御門さんが美人だということもあるけれど……。
「どうしたの? 人の顔なんて見つめちゃって。早く話しなさいよ」と土御門さんはニコニコしながら俺の頬を軽く突いた。
「あっ、すみません。今から話しますよ」
俺はまず、図書館でコピーしたミサゲ祭りに関する記事を見せた上で壺を使った奇祭があることを伝えた。そして、夢の中で祈祷師の亡霊が教えてくれた村の悪しき歴史を説明した。鳴鬼流蟲術という名称を出した辺りから土御門さんの表情が険しくなってきた。
「鳴鬼流蟲術か。私も耳にしたことがあるわ。悪い評判しか聞かないけどね」
「やっぱり。どおりで胡散臭いわけだ」
「そうね。簡単に言うと蟲毒を用いる殺し屋のようなものだからね。それで祈祷師が村長に授けた呪法っていうのはなに?」
「確か……ハッカイ法と言ってました」
「なるほど。私が調べたことと合致するわね」
土御門さんは気になっていた問題が解けたらしく、納得したような表情を見せた。
「さあ、今度はこっちが話す番ね」
土御門さんは自分が調べてきたことを順番にゆっくりと話してくれた。
「まず、私は手始めに清水家の蔵を調査したわ」
「調査って、許可は得たんですか?」
「いいえ。得てないわよ。だって、楓さんが怖い顔でダメっていうから」
「勝手にやったんですか!? でも、どうやって?」
「式神にやらせたのよ。ほら、ちゃんと証拠も持ってこさせたわ」
土御門さんはそう言うとおもむろに「清水家秘伝書」と題された古めかしい和綴じの目録を取り出した。
「これによるとね……」
土御門さんは目録をめくりながら説明し始めた。
目録の天保年間の項目に「某年某月某日。祈祷師の鳴鬼鉄斎より秘術ハッカイ法を授かる」と書かれていた。それに続いてハッカイ法の説明やどうしてそれをやるのかという理由が記載されていた。
「これは俺が夢の中で祈祷師から聞かされたのと同じだ!」
「そうなのよ。それでもっと情報を得ようと思ってカネさんに教えてもらったの」
土御門さんはカネさんから教えてもらったことを話してくれた。
カネさんが嫁いだ清水家は代々、ミサゲ山に祀られている祠の壺を管理してきた一族だった。
太平洋戦争の折、当主になるはずの長男が出征してなくなり、急遽事情を知らない次男が相続することになった。この次男は無神論者で気味の悪い祠を壊して、御神体の壺をどこかに捨ててしまった。その祟りが影響したのか次男は祠を破壊した半年後、何の前触れもなしに吐血して急死してしまった。
その為、カネさんの夫である三男が跡を継ぐことになった。信心深い彼は祠を建て直そうとした。だが、息子が生まれた後に病死してしまう。
カネさんは病に伏せていた夫の臨終の際に遺言を聞いていた。
夫の遺言は「あの壺は恐ろしいものだ。兄貴が捨てたと言っていたが、まだ祟りが続いている。きっと、どこかにあるはずだ。すぐに見つけて祀ってさしあげろ」というものだった。
カネさんは遺言通りに壺を探したが見つけることができなかった。困り果てた彼女はふと、前当主と夫が同じ部屋で倒れた場所に因縁があるのではないかと考えて床下を調べた。すると、そこには件の壺が捨てられていたという。
だが、三男の死と同時に家計が傾いたため、祠の復元は困難になっていた。前当主からの負債が恐ろしい金額に膨れ上がっていたらしい。
そこでカネさんはやむなく近所の神主に壺を預けることにした。だが、その神主はすぐに壺を紛失してしまったのだという。以来、カネさんは壺を探し続けてきたが未だに発見できていない。
高齢ということもあってしばらくは壺のことを忘れていたようだが、孫の康介が死んだと同時に記憶が蘇ったようだ。それで土御門さんに手紙で依頼をしたということらしい。
「なるほど。そういう事情があったんですね。だけど、康介の死と同時に壺を思い出すなんて妙ですね?」
「確かにそうね」
「今のところ、情報を持っていそうなのは死んだ康介かも知れませんね。彼の魂から聞き出せればなあ」
「できるわよ」
土御門さんは涼しい顔で当たり前のように言った。
「できるんですか?」
「もちろん。あなただって夢の中で死者と会話したんでしょ?」
「まあ、そうなんですけど……ちなみに彼が死んだのは清水家の近所にある竹林です」
「それじゃあ、今から一緒に行きましょう」
土御門さんはまるでピクニックに出かけるような明るいテンションで動き出した。正直、俺はこの竹林で恐ろしいめに遭ったばかりで行きたくなかった。そもそも、人が死んだ場所にわざわざ喜んでいくバカがどこかにいるのだろうか。俺には土御門さんがどこか奇怪な事件を楽しんでいるような気がした。叔父がこの人を変わった人間だと言ったのも納得できると思った。それでも俺は清水がどうして死んだのかも知りたかったので黙ってついていくことにした。
こうして、俺と土御門さんは清水康介の遺体が発見された現場へ向かうことになった。
郷土資料館から出た時、太陽は中天にさしかかっていた。冬の訪れを予感した季節とはいえ、陽光はまぶしく目にささるようだった。風が時折、道すがらに広がる田んぼの藁束を揺らすのをぼんやり見ながら畦道を進んでいると突然、土御門さんが悲鳴を上げた。
「きゃ!」
彼女はピクニック気分で軽快な足取りを不意にやめ、俺の電動車いすの背後に隠れてしまった。
「どうしたんですか?」
俺が驚いて尋ねたが、土御門さんは震えた声で何かつぶやいた。
「え?」
俺が問い返す。
「い、い……」
「うんっ?」
「あ、あれ……」
土御門さんがおどおどした様子で何かを指差しているのだけはわかった。
俺がその方向を見ると、柴犬が一匹、老人に連れられて散歩しているところだった。
「まさか、あの老人が何か悪い霊にとり憑かれているんですか?」
「何言ってるのバカね、そんなんじゃないわよ、問題はその隣にいる獣よ」
「どこに?」
どうみても愛くるしく尻尾を振った柴犬のことを言っているようにしか思えないのだが、そんなことは……。
「私は苦手なの! あの姿を見かけるだけでも鳥肌が立っちゃうのよ」
そう言うと土御門さんは犬と目を合わせないように老人が近づいてくるにつれて俺の電動車椅子を起点にして身をよけるのだった。可愛い一面もあるものだ、と俺は苦笑しかけたが、あとでどんな復讐をされるかわからないので土御門さんに気づかれないように声を押し殺すのに必死だった。
やがて、老人に連れられた柴犬はその場から立ち去った。彼女は犬が居なくなったのを確認するや否や立ち上がり、何事もなかったかのような顔で俺の先を歩き出した。
「グダグダしてないで。早く来なさいよ!」
土御門さんは少し不機嫌気味にそう言った。
「そうですね。急ぐとしましょう!」
俺は従順な下僕のようにうやうやしく受け答え、彼女の後を追うように動き出した。
竹林は昼下がりだというのに静まり返っていた。
まあ、誰も通らないのだから当然のことかもしれない。それは地元の人間がいかにこの場所を本気で神聖なものとして考えていることを意味していた。
清水の遺体が発見されたのは道から少し外れた場所だった。竹林の管理人が降り積もった竹の枯れ葉の上に仰向けで倒れているのを発見したという。
土御門さんは現場に到着すると早速、そこで霊視を開始した。俺は土御門さんの傍らで静かに霊視の様子を見守った。
土御門さんが呪文らしき言葉を二言ほど吐いた後、しばらくして辺りに一陣の風が巻き起こった。髪を軽くなぶる程度の風圧だった。だが、季節に似合わぬ生暖かい風で薄気味悪いものがあった。
やがて、不穏な風に引き込まれるように黒い煙が集まってきた。
「土御門さん。その黒い煙のようなものは何ですか?」
「ああ、これは残留思念よ」
土御門さんによると人間は日々、思念をまき散らして生きているという。
残留思念とは人々の怒り、憎悪、悲しみなど強い負の感情が思念というエネルギー粒子となって空気中に漂うらしい。その残留思念に対して、霊や魂と呼ばれるものの場合は人間の様々な記憶の集合体であり、本来は何もできずに漂う存在でしかないそうだ。だが、霊的な存在が空気中に漂っている思念を取り込みことで現実に怪奇現象を起すほどの力を持つという。そのせいなのかは不明だが霊魂は残留思念の溜まり場に引き寄せられる性質があるらしい。駅などの人混み、それに自殺や殺人現場には通常よりも多くの残留思念が漂っているために霊魂を呼び寄せてしまうのだそうだ。霊感がある人間には残念思念が黒い煙に見えるという。
「なるほど。ちなみに前回、俺を呪った安達も殺人事件現場で黒い煙を見たと供述していたんですけど、それは残留思念だったのかも知れませんね」
「そうね。人が死んだ場所には強い殺意や憎悪が残るはずだから。精神的に弱い人が残念思念に悪影響を受けるのは珍しいことじゃないわ。そんなことより、そろそろ清水康介を呼び出せそうよ」
土御門さんは残念思念の話題を打ち切り、遺体があったとされる場所を凝視した。
それから五分が経過した頃、土御門さんの凝視している辺りに黒い人影がぼんやりと浮かび上がってきた。最初は誰なのか分からなかったが、黒い影が徐々に消え去っていくと同時に半透明の清水の姿が現れた。彼の目は虚ろであり、どこか寝ぼけているようだった。
土御門さんはその様子を見て少しだけ、困った表情を浮かべた。
「これはまともに会話できるか分からないわ」
「それはどういうことですか?」
「だって、この人。記憶の一部を失っているみたいなの」
「幽霊が記憶喪失って──そんなこと、あり得るんですか?」
「それはあるわよ。交通事故とかあまりにも衝撃的なことで死んだ者は記憶を失うケースがあると言うから」
記憶を失っている霊はまともに会話できるか不明らしいが、土御門さんは「それでも話しかけるわ」と言った。
土御門さんは清水に近づいて一言、声をかけた。
「こんにちは。私は土御門。あなたが清水康介さん?」
「──」
蒼白な顔で空中に浮かんでいる清水は何も答えない。表情も変えずに虚空の一点を眺めている。
土御門さんは諦めず、彼の名を呼び続けた。
「清水さん。清水康介さんでしょ?」
「……ああ……ううん。……頭が痛い。……何だ、アンタは誰だ? こっちは気持ち良く眠っているんだ。起こさずに放っておいてくれよ」
「私はあなたがどうやって亡くなったのか知りたいの。教えてくれない?」
「ぼくが死んだって? 何を言っているんだ。だけど、眠る前の記憶ならあるけどね」
「それなら是非とも聞かせてちょうだい」
「アンタも変わった人だね。まあ、知りたいなら教えてやるよ」
清水はまるで独り言のように誰の顔も見ず、淡々と語り出した。
あれはいつだったかな。もうずいぶん前だったような……そうでもないような。
まあ、いいや。
気づいた時、ぼくは「あの人」の声が聞こえるようになった。
誰かだって?
それはぼくの大切な人。あの人はあの人さ。
あの人はぼくに助けて欲しいと言った。なんでもあの人は真っ暗で、狭苦しい場所に閉じ込められているらしい。だから、あの人はそこから出たいと言った。抜け出す手助けをして欲しいとも言ったな。
ぼくはあの人に同情してさ。可哀想だと思ったから協力することにした。どうすればいいのかと訊いたらあの人はこう言った。
「ワタシは身動きが取れない。だから、不思議な力であなたの頭の中に語りかけているの。今日から順番に指示を出していくから従ってくれる?」
ぼくはもちろん従うと答えた。それで何をすればいいのかと訊いたんだが、とんでもないことをあの人は言い出した。
「七歳ぐらいの幼女を八人さらってきなさい。それで順番に殺していき、心臓を抜き取るのです」
さすがに抵抗はあったよ。人を、しかも小さな女の子を殺すのだからね。だけど、この世で一番大切なあの人が言うことには従うしかなかった。
最初は辛かったよ。見知らぬ女の子をお菓子やおもちゃで信用させて騙し、最終的には殺していくのだから罪悪感はあった。必死に命乞いをするあの子たちの表情を今でも覚えている。
一人一人順番にさらい、順番に殺していった。
ぼくは泣きじゃくる相手の首を両手で締め上げた。少しづづ、ゆっくりと息ができなくほどに締め上げていく。
だんだん、ぼくは罪悪感を通り越して……性的な興奮を感じていたよ。あの苦悶と絶望に満ちた表情はたまらなかった。みんな、気づいた時には真っ白な顔で死んでいた。
それにしても人間は死ぬといろんなものを垂れ流すんだね。血液はもちろんだけど、きりがないほどに糞尿なんかもドロドロに流れ出ていたよ。臭いはきつかったけど、作業はそれじゃ終わらない。今度は心臓を抜き取らないといけない。あれは嫌な作業だったな。
まず、腹部に刃物を突き刺して、胸部にかけてゆっくりと切り開いていった。最初はぐにゃっとした感触が気持ち悪かった。だけど、臓物を眺めているうちに気持ちが変わった。
アンタ、知っているかい? 案外、臓器って綺麗な色をしているんだぞ。鮮やかなほどのピンク色だった。ものによっては赤かったり、薄紫色だったりと色とりどりだった。最後に心臓を手で掴んで取り出した。最初は抵抗があったけど、よく見たら牛や豚とかの家畜の肉と変わらないな。そう考えたら人間の子供を殺すなんて簡単だと思えてきてね。あっという間に目標の八人を殺していた。
集めた心臓はクーラーボックスにちゃんと保存したよ。
ぼくが目標を遂げると今度はあの人が「ワタシは竹林に落ちている壺に封印されている。その壺を見つけ出し、その場で儀式を行って欲しい」と言った。
封印とか儀式とか変なことを言っていると思ったけど、もう八人も殺してしまったんだ。あとには引き返せない。
ぼくはその壺を見つけ出した時、またあの人の声が聞こえた。
「さあ、心臓が入った箱を壺の隣に置きなさい。それでワタシは自由になれる」
ぼくは言われた通りにクーラーボックスと壺を隣り合わせに並べた。
すると、クーラーボックスの蓋が勝手に開き、中に入っていた八つの心臓が一つの肉塊として融合し、その次に赤黒い煙となって壺の蓋を吹き飛ばした。そして、その煙は壺の中に入っていった。
その後、壺の口の部分から大量の赤い液体が溢れ出してきた。溢れ出てきた液体はスライム状の物体に変化し、最終的にあの人の姿となった。
ぼくは感動したよ。ああ、これでやっとあの人に会えるんだってね。
あの人はご褒美をくれた。それは激しい口づけだった。全てを吸い取られてしまいそうな勢いでね。今までに味わったことのない快楽だったよ。
ぼくはいつの間にか深い眠りへと落ちてしまった。そういうわけさ。話はこれでおしまいにしていいかな?
清水の話が終わった後、俺と土御門さんは物凄く気分が悪くなった。正直、殺人の様子が生々しくて不快だった。被害者本人や遺族の気持ちを考えるとやるせない気持ちになる。
清水が壺の悪霊に操られて幼児連続誘拐殺人事件を引き起こしたということは間違いなさそうだった。
土御門さんはうんざりとした表情で清水に声をかけた。
「……もう充分だわ。聞かせてくれてありがとう。最後に私の隣にいるのは誰だか分かる?」
「いや、知らないな。なあ、もういいだろ?眠らせてくれよ」と清水はこちらの顔を見ようとはせずに瞼を閉じてしまった。
「そう。分かったわ。ゆっくりと眠りなさい」
土御門さんはどこに隠していたのか白木で作られた棒を取り出した。棒の先端には「御幣(ごへい)」と呼ばれる紙でできた飾りが取り付けられている。この道具は神主が祭事に使う道具で「祓(はらえ)串(くし)」と呼ばれるらしい。
土御門さんは深呼吸した後、その祓串を左右にゆっくりと振りだした。同時に清水の魂を鎮めるために祝詞を上げ始める。
「──諸々禍事罪穢(もろもろのまがごとつみけがれ)を、祓い給え(はらいたまえ)、清め給え(きよめたまえ)──」
土御門さんの厳かな声と共に清水は安らかな顔で消えていった。
「それにしても……どうして、彼は俺のことを覚えていないと言ったんでしょうか?」
俺は全てが終わった後、独り言のように呟いた。
「彼は壺の悪霊によって完全に洗脳されてしまったのね。洗脳されたまま死んだとしたらその前後の記憶しか残っていないのかも」
「じゃあ、欠落した記憶を持った霊体の一部はどこへ?」
「たぶん、彼は実体化した壺の悪霊に血や生気、それに魂のほとんどを吸い取られてしまったのよ。私が呼び出した霊体は食いカスのようなものだから覚えていないんだろうね」
「そうなんですか。じゃあ、その悪霊がこの世から消滅したらどうなりますか?」
「きっと、悪霊に取り込まれた魂も解放されると思うわ」
「なるほど。でも、どうして悪霊は清水の魂を?」
「異形の者にとって人間の魂や生気というのはね、栄養源みたいなものなのよ。何をするにもね。形状が流動的な物質だというから、変身した姿を維持するのにエネルギーが必要だったのでしょうね」
「ところで清水が言っていたあの人って、誰の事を言っているんでしょうか?それが一番、気になります」
「それについてはこっちの方で調べてあるから、目星はついているわ。いまからその人に会いに行きましょう」
「場所は?」
「まあ、行けば分かるわ。私について来て」
「分かりました」
俺は土御門さんに付き従ってその場を後にした。
土御門さんは少し早いペースで竹林を抜けていき、清水家の屋敷がある方向へと歩いていった。
「土御門さん。もしかして、壺の悪霊は清水家の誰かになりすましているってことです?」
「そうね。あなたもすでに会っていると思うけど……」
土御門さんは俺に話しかけている途中で突然、数メートル前方を睨みながら指さした。俺は彼女の反応に驚いてどうしたのかと訊いた。
「何かあったんですか?」
「清水家の玄関先で誰かが倒れているのよ……あれっ、カネさんよね?」
「あっ、ホントだ。何かあったんだ!急ぎましょう」
土御門さんが言ったように屋敷の玄関先でカネさんが倒れていた。俺はカネさんが高齢なので心臓発作を起こしたのだろうと思った。。いずれにしても救急車を呼ぶ必要があるかもしれないので俺と土御門さんは急ぐことにした。
現場に到着してみると、カネさんが吐血して倒れ込んでいた。弱々しく呼吸をしていたのだが、まだ辛うじて息はあった。
土御門さんはカネさんの体を抱きかかえて声をかけた。
「カネさん、大丈夫ですか?何があったんです?」
「……み、ミサゲ様が……」
カネさんはそう言い残して息絶えた。
俺と土御門さんが突然のことに絶句していると、縁側の方から清水の母親と思われる女性の悲鳴が上がる。
カネさんの遺体をその場に残し、俺たちは縁側の方に回り込んだ。
縁側のところに行ってみると、ガラス戸越しに清水の母親の姿が見えた。
清水の母親は背中をこちらに向け、体を震わせながら畳の上に尻餅をついた格好で半開きになっているガラス戸の方に後退し続けている状態だった。明らかに脅えており、何者かに追い詰めれているのは間違いなかった。
やがて、彼女の背中がガラスに触れる。それに気づいた彼女がこちらに向き直り、引き戸を開けて外に出ようとした刹那、異変が起こった。それは一瞬──室内から凄まじい力が膨れ上がって爆発したかのように衝撃波が押し寄せ、俺は反射的に手首をもたげた。その衝撃で母親の体はガラスをぶち破り、そのおびただしい破片とともに鞠(まり)が跳ね回るように庭に飛び出し、枯(かれ)山水(さんすい)の岩に頭を打ちつけた。その無残な顔は白目を剥き、口から泡をふきながら痙攣し、ついには身動きしなくなった。
俺と土御門さんが駆け寄ったが、彼女の死は明らかだった。何があったのかと薄暗い室内に視線を向けた時、奥からひたひたという裸足で歩く音とともに人影がこちらに向かってきた。
清水楓だった。
彼女は長い髪を振り乱し、不敵な笑みを浮かべている。その表情は最初に見た時とは異なり、妖艶とはほど遠い下卑た笑顔だった。その瞳には邪悪な炎が宿っていた。
土御門さんはその様子を見るなり、相手を挑発するように言い放った。
「ようやく本性を露わにしたようね!楓さん。いや、壺の中の悪霊──禍神(まがつかみ)と言った方が正しいかしら?」
「人とはか弱き者よのう。これでは虫けら以下じゃ」
禍神は土御門さんと問答するつもりはないらしく、尊大な態度で一方的に喋り続けた。
「我を永きに渡り、狭苦しいところに封じ込めてきた輩がこれほど脆弱とはな」
禍神は自分の足元に転がっている清水の母親の屍を見下ろし、唾を吐きかけた。
「今まで弱々しい者たちに自由を奪われたきたおのれが嘆かわしいわ。この老いぼれどものこせがれを傀儡(くぐつ)とするのもたやすいものであった。幼少の頃に死んだ姉の幻影を見せただけで我を信じおった。これほど脆弱で儚きものはいらぬ。わが力によって生あるものことごとくを屠(ほふ)り、この地上を灰塵(かいじん)に帰してくれようぞ」
「そうはさせないわ! 陰陽師の家に連なる者として、これ以上の殺戮を許すわけにはいかない」
「案ずるな。汝らも我が贄(にえ)として喰ろうてやる──ヤソマガツヒノカミ……オオマガツヒノカミ」
禍神は目を閉じると、呪詛らしきものを吐いた。
すると、彼女の肉体は変異しはじめた。いや、もう彼女、という表現もおかしいだろう。それは人間に擬態(ぎたい)していた存在がその正体を変異とともに顕現(けんげん)するための変化だったのだ。
白くて艶のある女の肉体はみるみるうちに膨張し続け、ついには破裂しておびただしい血肉が辺りに四散した。飛び散った破片たちはアメーバのように地面を蠢(うごめ)いて互いに絡み合い、一つの大きな肉塊と化した。そして、さらにこの赤い血肉でできたスライム状の怪物は別の生物に擬態するために新たな変貌を遂げた。
その姿はオオサンショウウオに酷似していた。長い尾、四つの足、長大な頭部。シルエットこそサンショウウオではあったが、外見はおぞましいというしかないものだった。雄牛一頭ほどもある巨体の表面はまるで全身の皮膚を剥いだかのように血管がむき出し、それがぬめりのある粘液にまみれた赤とピンク色の肉と共に規則的に脈打つ。眼はなく、口だと思われる部分的には植物のうろのように縦に割れた口があり、無数の鋭い歯がびっしりと生えていた。口の中からは舌の代わりに一本の触手が飛び出しており、先端からさらに無数の触手が枝分かれしている。
禍神は轟々(ごうごう)と風のような呼吸音で大気を振動させた後、いきなり巨躯(きょく)に似合わぬ俊敏(しゅんびん)さでこちらへ飛び上がってきた。俺を最初の標的に定めたのだ。
俺の隣にいた土御門さんが間髪を入れずに鋭く一声を上げる。
「稲生君。さっき、教えた護法の言霊を読み上げて。急がないとやられるわよ!」
「はい!……結界、護法、方陣、これらすべて此(し)岸(がん)と彼岸(ひがん)を別け隔つものなり。冥府魔(めいふま)導(どう)の邪法を封ずるものなり。言霊(ことだま)よ。我を守護せよ。我を守りし御楯(みたて)となれ」
俺は呼気を整えながら断続的にその言葉を吐いた。
最初に郷土資料館で会った時、土御門さんが俺に「敵に襲撃させれそうになったら唱えるように」と教えてくれたのだ。この護法の言霊には唱える者の身を守るだけではなく、敵の力を半減させる効果があるらしい。その時、俺は神と名乗る敵に通用するのかと正直に言うと半信半疑だった。土御門さんが攻撃を受け持つと言ってくれていたので信じるしかなかった。
禍神は護法を唱え終えた俺に飛びかかった。禍神のもつ触手の攻撃が今にも俺を八つ裂きにするかと身をすくませた時、車椅子を含め自分の周囲が蒼白い光に包まれ、禍神の巨体は弾き飛んだ。敵は地面に倒れ込んだが戦闘意欲をまったく削がれていないことを証明するかのようにすぐに起き上がり、今度は大きく虚ろ(うつろ)な口からではなく体の深奥から音声を発し始めたようだった。
「ザマヌムフラル-リジ-パ-グルド-ズネメ-エ、イギ-ヌドゥ-ア-フルイギ-セ-ジド-ジン……」
意味は理解できなかったがおぞましい呪詛に違いない。それと同時にさっきまで晴れていた空が一転、暗雲に覆い尽くされてしまったのだった。
禍神の波打つ血管からどす黒い血があふれ出し、辺り一帯がその呪われた血によって真っ黒な泥のようなものに汚染され、地面全体が血の沼のように変質していた。手を施す術を持たないまま俺はその泥に飲み込まれ、すぐに意識を失ってしまった……。
目覚めると清水家屋敷の庭先ではなく、山の中のようだった。杉林の尖った枝葉が茂り、わずかな隙間から山並みが宵闇(よいやみ)の背景にうかがいみることが出来た。時の進行すら歪んでしまったのだろうか。隣にいたはずの土御門さんがいない。彼女を探すように、いやむしろ、誘われるように目の前にある鳥居をくぐる。しばらく進むと開けた場所に出た。その遥か奥に木造の建物だったのだろう、屋根が崩落し、焼け焦げた柱の残る残骸がうかがえた。祠でも建っていたのだろうか。さっきまで恐ろしい存在と相対していたことを忘れてしまったように呆然としていると横から聞き慣れた声が飛んできた。
「どうやら、私たちは敵のテリトリーに引き込まれてしまったようね」
土御門さんだった。彼女も泥に飲み込まれてしまったようだ。
「縄張りということは……ここはミサゲ山の頂上ですか?」
ともかく土御門さんと合流してほっと一息ついた。
「そうね。おそらく、さっきのは空間を移動させる術よ」
「さすがは神……なんて褒めてる場合じゃないですね、土御門さんはどう倒すつもりですか?」
「わからない……。だけど、やるしかないでしょ……っ!! 稲生君、危ない。後ろに!」
俺が指示通りに後方へと下がった瞬間、真横から緑色をした消化液のようなものが自分の顔を掠めていった。避けるのが遅かったらまともにそれが当たっていただろう。液体が落ちた地面からは硫黄の臭いと白煙が上がり、その液体がかかった草がこげ茶から黒に変色し、地面と同化していった。
「これは!」
俺が驚いて液体の飛んできた方向に向き直ると、そこに禍神の新たな姿があった。先ほどのサンショウウオに酷似したものの背中が裂け、裸体の女の上半身が生えていたのである。粘液がまとわりついているのかその白い皮膚はつややかで、長く背中にしなだれかかる髪が朱色に染まっていた。両端の裂けた口からは緑色の液体が滴っており、おそらく俺を溶かしかけたのはこれだったのだろう。
禍神は標的を土御門さんに変更したらしく、次は彼女に攻撃を仕掛けてきた。
弱い俺は後回しということか。悔しいよりも、土御門さんを心配する気持ちが先に立ったがいつあの消化液が飛んでくるかと思うと身動きできなかった。
禍神は指先に鋭利な爪を備えた長い腕をしなやかに振り下ろしたが、土御門さんは初撃を俊敏にかわし、相手の背後に回り込んで後ろ飛びに距離をとった。俺を巻き込まないようするために敵をひきつけようと思ってくれたのだろうか、俺はその隙に再び護法の言霊を唱え続けた。
俺に出来ることはこれしかないのだ。ただそれを、真摯に遂行するのみだ。
土御門さんは祓串を右手に握りしめ、左手で懐から護符を取り出し、呪文を唱えた。
「急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう) 思業式(しぎょうしき)神(がみ)よ、この右手に掴みし神具に宿りて剣となれ。神星の刃──天刑の剣!」
すると、彼女の手元に両刃の剣が現れた。古墳時代の刀剣に酷似してはいたが、ただならぬ気配を帯びている。神気というものだろう、先ほど禍神があらわれたときのような威圧感をもった衝撃波ではなく、荘厳な力強い空気そのものが俺をとらえ、畏怖を与えるようだった。剣そのものは黒い金属のように見えたが、刀身に金色の光が宿っており、激しく明滅を繰り返している。
自分の背丈ほどもあるその剣を、土御門さんは軽々と振り回していた。爪による攻撃を受け止め、薙ぎ払って牽制するなどの早業を次々に繰り出した。
それでも禍神は機動力を失ってはいなかった。以前より重量が増しているにもかかわらずだ。それどころか攻撃を繰り出す速度、俊敏さが向上していた。土御門さんはなかなか決定的な一撃を相手に喰らわすことができない。激しい応酬がいつ果てるともなく続いた。彼らのなかで動きの読み合いがあったに違いない。その一つでも土御門さんが見誤れば、禍神はその背後に高速で移動して至近距離からの襲撃を仕掛けるのだ。そのわずかな力量差が圧倒的なダメージとなって彼女を痛めつけていた。土御門さんは何とか致命傷は回避しているのだが、このままでは埒(らち)があかないことを悟っているようだった。
禍神は尊大にふるまい、悠長に歌を口ずさみ始めた。戦いの最中である。その歌詞が意味不明で不気味で、俺たち二人を苛立たせる効果もあった。
センヤリオト センヤリオト
ヤジチミシホノマサンジンテ ヤジチミソホノコドハココ
センヤシダク テシオトトッチ
ヌセヤシオト ノモイナノウヨゴ
スマリイマニメサオヲダフオ ニイワユオノツナナノコノコ
イワコハリエカ イヨイヨハキイ
モラガナイワコ
センヤリオト センヤリオト
禍神はひとしきり歌い終えると、大胆不敵にも防御せぬまま土御門さんの間合いへと踏み込んできた。真正面から消化液を吐くと同時に両腕を彼女めがけて振り降ろした。しかし、ここは土御門さんが油断に乗じて先んじた。この時すでに彼女は地面を蹴り上げて跳躍し、その姿は宙にあった。禍神は腕を引き戻した後、いるはずの標的がいないことに驚いて辺りを見回した。
これが最大にして唯一の隙となる。土御門さんは地面に降下する寸前でがら空きになった相手の首をめがけて横に薙ぎ払った。天刑の剣が血しぶきと共に禍神の首を跳ね上げる。
彼女は続けざまに禍神の両腕を順番に切り離した上、その上半身をオオサンショウウオの本体から胴払いに分断した。血しぶきに彩られながら白い体は鈍い音と共に地面に崩れ落ちた。膨大な量の血液が気泡とともに流れ出てきた。
傍から見ていた俺には土御門さんの勝利を信じた……が、戦いはそれでは終わらなかった。
禍神の四散した肉体たちはそれぞれが形状をドロドロなものに崩して再び流動的な状態となり、融合して巨大な肉塊へとその姿を戻した。
「こいつ何なの! いくら斬っても再生してしまうわ。それなら!」
土御門さんは術を解いて剣を消し、今度は赤い護符を禍神にめがけて投げつけた。すると、護符は紅蓮の炎と化してスライム状の相手に襲い掛かる。
だが、火は炎上することもなく、瞬時にかき消えてしまった。その直後、土御門さんの嗚咽のような悲鳴が上がった。
「っっ!」
彼女の体は禍神の流動的な姿に覆い尽くされていたのである。顔だけは出ているが今にも見えなくなりそうだ。巨大なゼリーの中に取り込まれたようなものだった。身動きなどできるはずもない。
「に、にげ……」
土御門さんは逃げることを指示したかったのだろうが、最後の言葉を発することもできずに相手の体内へと引きずり込まれていった。
もっとも、彼女が逃げろとはっきり言えたとしてもそれを回避することは不可能だった。
禍神の固体でありながら、液体の流動性を保っている特異な肉体は俺がいる場所まできており、今にも飲み込まれてしまいそうな状態だったからだ。
土御門さんに続いて、何の抵抗もできずに俺は足のつま先から吸い込まれる形で車椅子ごと禍神の体内に取り込まれようとしていた。もはや、体外に露出している部分は顔だけとなった。
もうダメだ……。瞼を閉じる。次第に薄れゆく意識のなかで、瞼の隙間から青い閃光が射しこんだ。と同時に懐かしい声が聞こえてきた。
「正芳。こんなところで斃れてはいけない。私たちがついているのだから」
俺が再び目を開けると、自分の体と電動車いすを覆い尽くしていたスライム状の物体はかき消えていた。いや、正確に言えば、辺りを見回すと地面のいたるところに禍神のおびただしい残骸が重油をまき散らしたように散らばっていた。そして、目の前に一組の男女がこちらをみながら佇んでいた。死んだはずの父と母だった。だが、その姿は生前のものとは違った。異形の姿だった。修験者の装束に身を包んだまではまだ良かったが、背中には漆黒の翼が生えていた。手には太刀をもっており、その刃にはスライム状の物体から分泌される赤黒い液体がついていた。どうやら彼らが助けてくれたようだ。
この世に再びあらわれた異形の両親は微笑みを浮かべながら煙のように姿を消してしまった。呆然としていると突然、俺の視界に土御門さんの顔が飛び込んできた。彼女も禍神の身体が四散したことで体の自由を取り戻していたようだ。俺の隣で同じように黒い翼が生えた一組の男女を目撃したらしい。
「あなた、凄い力を秘めていたのね。今のはなんていう技?」と土御門さんは瞳を輝かせながら訊いてきた。
「いや、俺じゃないですよ。たぶん、父と母の霊が助けてくれたのかと……」
「そう。やっぱりそうだったのね……その話はあとで説明させてもらうわ。……それよりもこの強大な敵をどうすべきか」
土御門さんは地面に転がっている肉片のような残骸を睨んだ。よく見たらそれはまだ動いていた。今すぐにでも融合してしまいそうな勢いだった。
「こいつらすぐに再生するからきりがないですね。どうすれば?」
「うん……たぶん、普通に倒せない」
「倒せないって、それじゃいずれ殺されてしまうじゃないですか」
「だから、最後の手段を試そうと思うの」
「最後の手段?」
「ええ。とにかく、私に任せて」
土御門さんはそう言うと小走りに俺がいる場所から離れていき、禍神の残骸がもっとも多く集中している地点で立ち止まってこちらに向き直る。そして、深呼吸を数回した後、手で髪を掻き分け、今まで隠れていた片方の目を露わにした。最初、その目は瞼を閉じていた。俺は彼女が片方の目を失明しているのだろうとしか思わなかった。だが、これから先の光景をみて振り返ってみるとその予想は半ば正解でもあり、不正解でもあった。
俺は土御門さんが片方の目を見開いた瞬間、愕然として口を文字通りあんぐりと開けてしまった。〝目が見えない〟のではなく〝目そのものが無かった〟。眼窩(がんか)に収まっているはずの眼球がなく、代わりに底知れぬ黒い闇がのぞいている。
「臨(りん)・兵(ぴょう)・闘(とう)・者(しゃ)・皆(かい)・陣(じん)・烈(れつ)・在(ざい)・前(ぜん)!!」
土御門さんは明確に一文字づつ区切って発音しながら指で九字を切った。
すると、片方の闇を覗かせている眼窩に赤い梵字のような文字が一字だけ浮かび上がった──と同時に彼女の足元から激しい風が沸き起こり、銀色の髪を揺らし、黒衣装の裾や袖を強く靡かせる。
この時、俺の目には土御門さんの姿が異形に映った。彼女の頭に白い狐の耳があり、その背後には九つの尾が揺れていたのだ。ただそれはあまりに一瞬のことで、時間が経つにつれて俺の見間違いのように思え、やがては朧(おぼろ)げな光景となった。
土御門さんはその次に厳めしい表情で声高らかに呪文を叫んだ。
「穢(けが)されし者よ。哀れな亡者よ。逝くべき場所へゆけ! 冥界(めいかい)転送(てんそう)──黄泉(よもつ)比良坂(ひらさか)!」
すると、闇を覗かせている眼窩に浮かんでいた梵字が消え去り、その黒い闇の底から赤い光球が外に飛び出した。その灼球は土御門さんの頭上に舞い浮かぶと膨張し始めた。見る間に臨界に達した光球は爆発して消滅すると同時に、空間そのものに大きな亀裂を生み出した。それは縦にみみずばれのように走り、生じた隙間には深い闇が見えた。計一分も経たないうちに亀裂は広がり続け、遂には大きな穴となった。その穴は四トントラック数十台を一度に飲み込んでしまえるほどの巨大な風穴と化していた。
この巨大な穴から轟々と強風が吐き出してきたと見たのも束の間、転じて禍神の残骸を凄まじい勢いで吸い込んでいった。地面に飛び散っていた残骸は瞬く間に数を減らしていった。それに伴って無数の人魂が空に昇っていくのが見えた。おそらくは生贄の犠牲にされた幼女たちが浄化されていったのだろうと思う。その中には清水の魂もあったのかもしれない。
すでに勝敗は決していたが、禍神は最後に悪態をしてみせた。残りわずかの残骸を融合して女の生首となって浮遊し、土御門さんの喉笛を噛み切ろうと最後のあがきで襲いかかった。だがそれも、風穴の吸引力には逆らえず空を食んで吸い込まれてしまうのだった。
「祟(たた)りは終わらぬぞ。この世の生きる者すべてを呪い殺してくれよう!」
禍神は恨めしい顔で呪詛を吐いた後、深淵の闇に飲まれていき、土御門さんによって現出した風穴も完全に閉じて消滅した。
気づいた時、俺たち二人は清水家の庭先に戻っていた。禍神が現世から消滅したことでその術も効力を失ったのだろう。
庭先に散らばったガラスの破片、折れ曲がった樹木、無残な最期を遂げた二人の遺体の存在が壮絶な戦いを物語っている。
土御門さんは相当に体力と気力を消耗したらしく、その場に崩れるように座り込んでしまった。
「土御門さん! 大丈夫ですか?」
俺が傍に駆け寄ると、彼女は疲労の色を見せながらも微笑んだ。
「どうにか今回も無事に終わったわね。なかなかの強敵だったわ」
「そうですね。お疲れ様でした。ところで、土御門さんが開いたあの穴って?」
「あれはこの世から隔絶された虚無の空間……次元の狭間よ。あの空間に落ちたものは二度と出ることができないの」
俺はそれを聞いてほっとした。あんな恐ろしい存在が再び復活したら生きた心地がしないからだ。安心する一方でふと、気になることが浮かんだ。
「あの禍神が自分の肉体を再生させたらどうなりますか?」
「どうにもならないわね。復活したところで出られるわけじゃない。死ぬこともできず、永遠の牢獄に囚われ続けるでしょうね」
「なるほど。それにしても土御門さんは凄いですよ! あんな邪神を封じ込めてしまうなんて!」
「それほどでもないわ。今回ばかりは勝てないかもって思ったもの」
土御門さんはクールなキャラを維持しようと冷めたセリフを吐いたものの、頬を赤くして照れている様子だった。俺は内心「土御門さんも照れる時があるんですね」と言おうと思ったのだが、本人のプライドを尊重することにした。照れていることに気づかぬふりをして褒めておいた。
「確かに強敵でしたよね、禍神といっても神様ですから。結局、清水の言っていたあの人って、彼の姉だったんですね」
俺がそう言うと土御門さんは得意げな顔をして答える。
「私は知ってたけどね」
「えっ! どういうことですか?」
「実は、私は警察関係にもコネがあってね。山口県警の刑事に清水楓を調べてもらったのよ。そしたら、彼女はすでに亡くなっていたことが分かったの。調査してもらった結果、清水康介が七歳の時、楓さんは十八歳の若さで病死したそうよ」
「なるほど、清水は死んだ姉を深く想っていたから、生きていたらという願望があって禍神の幻影にすぐ取り込まれてしまったということなんでしょうね」
「彼にとって楓さんは恋人というより母親以上の大きな存在だったようなの」
「清水も可哀想な被害者に思えてきました」
「そうね。あれだけの幼女を殺しておきながら変だけれど。禍神は壺に封印された状態にもかかわらず康介の記憶を読んで、彼の弱い心につけ込むことができたのかもしれないわ」
「それで結局、禍神って日本神話に登場する同名の神と関係あるんですか?」
俺の頭には禍津日神(まがつひのかみ)の名があった。
「ああ、あれは別ものね」
土御門さんは冷めた口調できっぱりと否定した。
「今回、私が封じた禍神は蟲毒(こどく)によって生み出された人工的な神よ。犠牲になった子供たちの怨念と心臓が融合した存在。おぞましい怪物と言った方が正しいかもしれない」
彼女は不快感を露わにしながら吐き捨てた。何の罪もない幼子を犠牲にした所業が許せないのだとも言った。俺もその意見には賛成だ。同時に膨大な負のエネルギーを秘めた人間の怨念に恐ろしさを実感した。もしかしたら、怪異よりも人間の方が恐ろしいのかもしれない。
「人間の怨念って恐ろしいですね。まあ、それを生み出せる呪術師も怖いですけど」
俺がそう投げかけると、土御門さんは鋭い眼差しをこちらに向け、強い口調で釘を刺すように言った。
「ええ。だから、その鳴鬼鉄斎とかいう亡霊にも気を許さないでね。今のところ害はなさそうだけど、鳴鬼流蟲術の使い手は死した後も生きている人間の肉体を乗っ取って蘇ろうとするらしいから」
「彼は人を呪い殺すのが仕事って言ってましたし、自分でハッカイ法を使えと言いながらそれを惨いと妙に客観視していた態度もおかしかったし、あまり近づきたくない相手ですね。夢で見た存在だから現実的に感じなかったですけど、そんなこと言われたらいきなり現れそうじゃないですか。怖いこと言わないで下さいよ。でも、ご忠告ありがとうございます……ところで、土御門さん?」
「うん?」
「土御門さんにお聞きしたいことがあるんですけど……」
俺はこの際だから今まで気になっていたことを本人に訊いてみたくなった。
「なあに? そんなに改まっちゃって」
土御門さんは飄々とした顔で訊いてきた。
「土御門さんはどうして俺に術や知識を教えてくれるんですか?」
「うふふ……」
土御門さんは不敵に笑うと、気持ちが落ち着いてきたのかおもむろに立ち上がった。そして、微笑みながら俺の肩に手を置いて言った。
「試験合格ね。あの竹林であなたが自分の力で抜け出せず、私が式神を飛ばして助けてあげたときは不合格にしようかと思ったけど……」
「ああ、あのとき竹林で迫ってきたもの、空を飛んでいた得体の知れないものは式神だったのか」
「そう、禍神が結界を使ってあなたを取り込もうとしていたから。でも、凄まじい力を秘めているようね……今日からあなたは私の助手になりなさい」
「どうして俺が?」
「あなたには言霊を操れる素質があるからよ」
「何ですかそれ?」
「それはね──」
彼女によれば、どの国でも昔から言葉には精霊の力が宿ると信じられてきたという。普通の人間が発する言葉に力はないが、霊感のある人間が発する言葉には超常現象を起こす力が宿るそうだ。そういった者のことを言霊師と呼ぶらしい。俺にはその素質があるというのである。
「私は稲生君がどこまで成長するのか見たいの。怪異に狙われやすいあなたに自衛手段を与えたいという老婆(ろうば)心(しん)が発端だけどね」
土御門さんの眼差しは真剣だった。だが、俺には修業に耐えられる自信は無かったし、本当にそんな素質が自分にあるとは思えなかった。
「私は言霊に関する知識もある。実は解呪師以外に探偵業を営んでいるのだけど、人手が足りないので困っているの。もし、助手として手伝ってくれれば、知っている知識と言霊を操るための精神鍛錬を教えてあげるわ」
「なるほど。だけど、俺は助手として役に立てますか?」
すると、土御門さんは何を今さらという顔をした。
「あなたは結界に関係する言霊に素質があるから十分な戦力となるはずよ。それに、さっきのあれ、あなた自身から発した力かどうかはわからないけれど、わからないことが逆に私には興味深いし、可能性を秘めているように思えて仕方ないの」
「どうでしょうか……あともう一つ気になっていたんですけど、この前安達によって呼び出された死霊が襲ってきた時、叔父が眠ってしまったのは土御門さんの仕業ですか?」
その問いを投げかけると、彼女は悪戯好きの子供のように無邪気な顔で答えた。
「バレちゃったら仕方ないわね。あれもあなたが助手にできる人間なのかを確かめたかったのよ。本当なら私が呪文をとなえるだけで調伏できたけれど、あなたに敢えて唱えさせたのも同じ理由よ。力がどれほどのものか知りたかった」
土御門さんはいかにも「あなたの素質は予想以上よ」と言いたげだったが、どういうわけかその言葉は飲み込んだ様子だった。おそらくは過剰に褒めても俺のためにならないと判断したのかもしれない。人間は自信があり過ぎると、物事の判断を見誤ってしまうということなのだろう。
実際、俺は子供の時に叔父から「お前は褒められるとすぐに調子に乗る」と諭された記憶がある。土御門さんは二回しか会っていないのに俺の性格を理解しているのだ。それほど洞察力が鋭い人物ということであり、彼女を師と仰げることは幸運なことだと思った。
「土御門さんは抜け目のない人ですね。参りましたよ」
「それにね、探偵と言っても私が依頼される仕事は怪異と関係する危険なものが多いのよ。素質が無ければ誘っていないわ」
「まあ、土御門さんは確証のないことはおっしゃらないですもんね。了解しました。自分がどこまでやれるか分かりませんがよろしくお願い申し上げます」
俺がいつになく慇懃(いんぎん)な態度をとると、土御門さんは少し困った顔をした。
「……じゃあ、今日からあなたは私の助手ね。ああ、それから私が先生といってもそこまでへりくだる必要はないわよ。言われるたびに背中がむずがゆくなるから」
土御門さんはふいに俺の手を強く握った。プレッシャーをこめた力強さにも感じたが。
「今回はこれで解散しましょう。きっと、宿で待っているヘルパーさんも心配しているんじゃない?」
「確かにそうですね。では連絡を待ってます」
俺は土御門さんに別れを告げた後、清水家の屋敷を後にした。土御門さんが清水家の二人の遺体や諸々の問題に関して事後処理をしてくれると言ったので任せることにした。きっと、彼女は色んな業界に顔がきくのだろうし、大抵のことは実現可能だろう。
宿への帰り道。
ふと、空を仰いだ。秋の透いた青い空にいわし雲がすいてゆっくりと流れていた。生きとし死せる者たちを穏やかに見守っているようなのどかな午後だった。
翌日の昼頃、東京行きの新幹線の中で居眠りをしている時に夢を見た。
俺は川岸に佇んでいた。車椅子ではなく自分の足で立っていた。
辺り一面に紫色の花畑が広がっている。空は夕陽が一面を染めて赤く燃えたっていた。
夕闇が迫りつつある中、対岸に一つだけ人影があった。
俺は相手が何者なのか気になってもう一度、対岸の人影を凝視した。すると、それは清水康介だった。彼の隣には姉である楓の姿もあった。さらに二人に寄り添うように清水の母と祖母の姿もそこにはあった。全員、幸せそうな表情を浮かべている。
ふと、清水康介はこちらに気づき、嬉しそうな顔で手を振りながら「さようなら」と言った。
「うん。今までご苦労様。安らかに眠ってくれ」
俺が別れの言葉を伝えると清水は静かに頷き、家族に連れられて対岸の奥へと姿を消してしまった。彼は無事に家族と合流し、死者の世界に旅立ったのだろう。
その後、俺はすぐに夢から目覚めた。この日以来、彼の夢を見ることは一度もない。
俺が神御呂司村から東京に帰ってきた一週間後のある日、叔父の家を訪れた。帰宅してすぐに訪ねようと思ったのだが、拝み屋の仕事で出張が多いためになかなか会うことができなかったのだ。
時刻は四時を少し過ぎた頃。叔父は自宅の居間でくつろいでいた。縁側に面したガラス戸から西日が射しこんでいる。庭先に植えられた樹木の葉が紅葉し始めていた。夏の日、この木におびただしい数の蝉が喧しく鳴き続けていたことが嘘のように静まり返っていた。
いつものように叔父とテーブルを挟んで向き合った。
俺は今回、神御呂司村において土御門さんと二人で禍神に立ち向かった話を伝えた。
「それにしても、正芳はあの女と縁があるんだな。お前たち、付き合ってるんじゃないか?」
叔父は俺をからかうようにニヤリと笑った。
「今の俺には笑えない冗談だな……そんなことより叔父さんに聞きたいことがあって来たんだけど」
「何だ? 恋愛相談ならいつでも受けるが」
「未だに独身の叔父さんに恋愛相談する気はない」と俺は目を細め、軽蔑するように冷たい視線を送った。
「何だよ、その目は? まあいいだろう、悪かったよ、真面目に聞いてやるから言ってみろ」
叔父は悪ふざけが過ぎたと気づいたらしく、少し気まずそうにテーブルに置かれたまんじゅうをひと噛みして、俺の言葉を待った。
「実は禍神にやられそうになった時、父さんと母さんが現れたんだよ」
俺は両親が異形の姿で現れたこと、凄まじい力で敵を圧倒したことを話した。
両親の名を聞いた途端、叔父は真剣な顔つきになった。そして、虚空を見上げながら呟く。
「……やっぱり、お前には素質があるんだな」
「素質?」
「ああ。稲生家の者は代々、守護霊を呼び出すことができた」
叔父によると、稲生家の者は霊力が高いために死後、守護霊となって子孫を守るとされているそうだ。始祖の密教僧が烏天狗に助けられたとされているが、その正体は僧侶自身に宿っていた全ての先祖霊が融合した集合体だったというのだ。それこそが烏天狗と呼ばれる存在らしい。
「もしかして、うちの寺の御本尊っていうのは?」
叔父はその問いを受け、口に含んだお茶を飲み込んだ。
「ああ、飯(いず)縄(な)権現(ごんげん)として崇めているが、あれは稲生家の先祖たちを供養するために始祖が彫ったものだ」
「知らなかったな」
「お前の両親もそれに含まれているんだぞ」
「なるほど。だから、父さんと母さんの顔に見えたのか」
俺にも始祖以前からの先祖霊たちが宿っているということらしい。
稲生家の直系は代々、この先祖霊が具現化した一組の烏天狗を使役することができるという。叔父は修行によって強力な霊力を得たのだが、どういうわけか先祖霊を呼び出すことができない。ある程度の素質も必要なのだろうか。
「でも、俺はどうして今まで呼び出すことができなかったんだろう?」
「この一年、お前は怪異に絡んだ事件に三度も巻き込まれた。危機的状況に追い込まれたことで生存本能が働き、それをきっかけに自分の中に眠っていた霊力が覚醒したんだろう」
「なるほどそういうことか」
「ただ、今回は偶然に呼び出せたのかも知れないな。もしかしたら両親の息子を救いたいという思いが同調してその思いの強さがつながったのかもな。だから今後お前が精神鍛錬を積んでいけば自在に烏天狗を呼び出すことができるはずだ」
「これで納得できたか?」
「まあ、理解はできたよ。それともう一つ、叔父さんに伝えたいことがあるんだ」
「何だ?」
叔父はまだ何かあるのかという顔で言った。
「実は俺、土御門さんの助手になったんだ」と、俺は土御門さんとの取り決めを叔父に全て話した。
すると、叔父は片方の口の端を吊り上げてニヤリと笑った。
「やっぱり、お前ら二人、仲が良いんだな」
「……そうやって俺を何かとからかおうとするんだね」
俺は再び軽蔑の眼差しで叔父を睨んだ。
「まあ、そう怖い顔をするなよ」
叔父はそっと俺の肩に手を置いて真剣な顔で質問してきた。
「土御門と行動を共にするということはこれまで以上に怪異と遭遇することになる。お前はそれでも平気か?」
「それは覚悟しているよ。だけど、俺の場合は何もしなくても怪異の方から絡まれてしまう宿命な気がするんだよ」
「確かにそうかもしれないな。桜花精や安達の事件は巻き込まれたようなものだった」
「それなら危険でも経験を積み重ねながらどう対処するべきかを学ぶべきだし、土御門さんならそれを熟知していると思うんだ」
「そうか。正芳がそこまで覚悟しているなら好きにするといい。ただ、困ったことがあったら相談に来いよ。ワシは頼りない男だが、これでもお前の身内だからな」と叔父は自分の頭を叩きながら言った。
「叔父さん、ありがとう。俺なりに頑張ってみるよ」
「まあ、無理はするなよ」
「分かってるって……あれ?」
叔父と会話をしている途中で突然、スマートフォンの着信音が鳴り響いた。
「叔父さん、俺のカバンの中でスマホが鳴ってるみたいだ。ちょっと見てもらえる?」
「おう」
叔父にスマートフォンを確認してもらった。
「これは土御門からのメールだな。今から事務所に来れないかってよ」
「随分と急だな。でも、予定もないからすぐに向かうとするよ」
「気をつけてな」
俺はスマートフォンをカバンに入れてもらった後、叔父に別れを告げてすぐに目的地へと向かった。土御門さんの事務所の住所は教えてもらっていたがいきなり呼び出されるとは思っていなかったので驚いた。
しかし、同時に「今度はどんな事件が待っているのか?」という期待もあった。この時から俺は自分の境遇を受け入れ、過酷な状況下をどこか面白がるようになっていたのかも知れない。もっとも、多少はイカれていなければ怪異と対峙できないし、土御門聖歌という人間の助手は務まらないだろう。
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