第2話 夏の宵に悪鬼が嗤う
<序>
7月下旬の某日。その年の夏は記録的な猛暑日が早くも続いていた。
体内の水分がすべて零れ落ちてしまうのではないかと思うほどの暑さだった。
実際に午前中から熱中症で搬送された人が続出していた。
その日の夜、
夜でも外気温は下がらず、汗でシャツがびっしょりと濡れていた。額からも玉の汗が零れ落ち、どんなにタオルで拭ってもきりがなかった。
安達巡査が担当をしている巡回範囲は駅前の繁華街からその周辺にかけてだった。途中、泥酔した中年サラリーマンを近くの交番まで誘導するなどのことはあったものの、これといって事件性があることに遭遇することはなかった。夏休みに入ったせいか夜遅くになっても街の路上では大勢の学生の姿を見受けられたがそれも珍しいことではなかった。
やがて、駅周辺の巡回を終わらせ、次の目的地である住宅街に向かった。そこのパトロールさえ無事に終われば、今日の任務は終わるはずだった。
ところが住宅街へとさしかかった辺りで突然、警察署から無線連絡が入った。
〝管轄内で不審人物がいるとの通報あり〟
ちょうど安達が向かおうとしている地域だったので無線に応答し、ただちに急行すると答えた。
だが、彼は驚きもしなかった。どうせ、帰宅途中の会社員が酔っぱらって路上に倒れ込んでいるのだろうとしか思わなかった。
いざ指定された場所に到着してみると、確かに沿道の電信柱の下に不審な男が立っていた。
電信柱に取り付けられた外灯のぼんやりとした光に照らされた顔は蒼白だった。
路上ですれ違う通行人に絡んでいるというわけではなく、ただひたすらに笑顔で独り言を続けているのだ。時折、上体を左右に揺さぶりながら訳の分からない奇声を上げたりもしていた。通行人のほとんどは男の奇行を不気味がり、逃げるようにその場を通り過ぎていく。
安達は男が立っている所から1メートルも離れていない地点で自転車から降りた。そして、自転車を手でゆっくりと押しながら相手の様子を窺うように近づく。男の年齢は20代後半ぐらいに見えた。上半身は黒色のTシャツ、下半身はジャージという服装だった。どういう理由かは分からないが靴を履いていない。それも裸足だ。
「ちょっと君、こんな所で何をしているのかな?」
相手を刺激しないように穏やかな口調で話しかけた。
しかし、その男は何も答えない。こちらを見ようともしなかった。いや、目の焦点すら合っておらず、どこを見ているのかも分からない。ただ、へらへらと笑いながらうわ言のように同じ言葉を繰り返していた。
〝嬉しいなあ。楽しいなあ〟
〝僕のもの。ぼくのものだよ〟
安達は相手が重度の知的障害者か薬物依存者なのだろうと考えていた。施設、あるいは親元から飛び出してきたのならすぐにでも保護しなければならないし、ドラッグ絡みなら大事だ。いずれにしても次の行動をめまぐるしく頭に描き、ひとまずは保護しようと声をかけた。
「こんな場所に一人でいては危ないよ。さあ、私と一緒に交番まで行こう」
男の肩に手をかけた瞬間、ぬるっとした感触が手のひら全体に広がった。
濡れている?
何事かと手に付着したそれの臭いを嗅いでみた。
それは血液だった。
最初は暗がりで黒いTシャツとしか見えなかったがよく見れば、それは白いTシャツが血に染まっていたものだったのだ。
これはただごとではない。安達の警戒心が強まったのは言うまでもなかった。
ただ、男が誰かを殺したのか、偶然にも事件に巻き込まれたのかは不明だった。少なくともこの男を交番まで連れて行く必要があるのは確かだった。相手がまともに会話できない状態であったとしても、このままにしておけるような話ではない。
そんなことを考えていると突然、男は大声で叫んだ。その声は獣の遠吠えにしか聞こえなかった。
直後、男は走り出した。静止する暇も与えぬほどの凄まじい速さだった。
安達は逃してなるものかと急いで自転車に飛び乗り、男の後を追って走り出した。自然とペダルを踏みつける力も強くなる。だが、どんなに一生懸命自転車をこいでも男に追いつくことができなかった。どんどん二人の距離が離れていく。男が曲がり角を右折し、しばらくして安達がその角を曲がってみると、すでに男の姿はなかった。辺りは数多くの民家が密集した場所であり、路地も迷路のように複雑に入り組んでいた。肩で息をしながら慌てて周りを見渡してみたが男の気配すらなく、とても一人で男を見つけ出せるとは思えない。交番に戻る前に報告だけでもしておこうと無線機を手に取り、不審な男を見失った経緯を手短に連絡した。
報告を終えた後、もと来た道を引き返すことにした。だが、いつあの男と遭遇しても対応できるように周囲を警戒しつつ、ゆっくりと自転車を進ませていく。
そうして少し進んだあたりで一軒のとある民家の前を通りかかった。
その家の玄関のドアは空いたままになっていた。
こんな時間になんと無防備な家なのだろう? 家の窓には灯りがあったので留守というわけでもなさそうだった。
しばらく様子をみて何事も起こらなかったので、そのまま家から遠ざかろうとした瞬間、中から誰かの悲鳴が上がった。女の声だった。胸騒ぎがして、安達は家の方に引き返した。
自転車を民家の近くに停め、そのまま急いで家の中へ足を踏み入れた。
「警察です。大丈夫ですか」
玄関先で声をかけたが何も応答してこない。意を決して家の中に上がり込んだ。
廊下は真っ暗だった。
警戒しながらゆっくり進むと廊下の先にドアがあった。扉の隙間からは薄明かりが漏れていた。
ドアを開けるとそこはリビングルームになっていた。だが、誰もいない。
室内を注意深く見まわしても特に争った痕跡はなかった。
他の部屋を調べようとその場から動こうとした瞬間、あるものが視界に飛び込んできた。
それは赤い液体—————
フローリングの床に血痕が点々と続いていた。それを追いかけるように進んで行くと、その先には浴室があった。浴室のドアのすりガラス部分から灯かりがもれている。
安達は浴室の閉じられたドアの前に立った時、これまでに経験をしたことがない恐怖を感じた。今まで殺人や自殺現場に立ち会ってきたが、それらとは別次元の狂気がこの先で自分を待っているように思えた。
しかし、警察官である以上は事件性の高い事柄を無視できない。
得体の知れない恐怖に耐えつつ、震える手でドアを開けることにした。
ドアを開くと、蒸気とともに血生臭いものが漂ってきた。
臭いにむせ返りながら浴室の奥へと視線を向ける。
その瞬間、網膜に凄惨な光景が映りこんだ。
浴室のタイルには大きな血だまりが広がっている。そこに全裸の女性の死体が転がっていた。
シャワーが滝のように湯を吐き散らすその下で、倒れていたのだ。
残酷なことに首が切断されていた。切断部からは赤黒い血液が流れ出していた。紫色のタイルの目に沿って血が濁流となって排水溝に落ち続けている。
死体の傍らには先ほどの男も全裸の状態で佇んでいた。
その手には女の生首。嬉しそうな顔で亡骸の唇に口づけしていた。死者の顔は恐怖と苦痛に歪んでいた。
おそらくは生きたまま首を切断されたのだろう。床には血にまみれた刃渡り40センチぐらいの鉈が落ちていた。
男は自身に向けられた視線に気付いて安達の方へ顔を向けた。
そして、恍惚とした表情を浮かべながら鉈を拾い上げると、刃の部分を自分の首筋に近づける。
次の瞬間、男は手にした凶器で自ら頸動脈の辺りを掻き切った。
安達はあまりにも突然の事態に成す術がなかった。金縛りにかかっているかのように身動きが取れなかったのだが、なぜか下腹部に熱いものを感じた。
男は口から血を吐きながらも笑顔を絶やさない。安達には男の肉体から黒い煙のようなものが噴き出しているように見えた。
やがてその黒いものは安達に向かい、彼の口や耳の中に入り込んでいく。あまりの苦しさに身もだえしながらも、そのなかに甘美な快楽を感じていた。どこか見知らぬ場所へ自分を連れ去られるような感覚とともに意識が遠くなっていった……。
安達が目覚めた時、男はすでに絶命していた。
彼は全ての出来事を頭の中で整理した後、警察署に応援要請をした。
数時間後、鑑識課によって現場検証が行われた。
捜査の進捗で分かったことだが犯人の男は被害者の女と交際していたようだ。だが女はすでに別の男性と結婚しており、犯人の男はその事実を知ってしまい、そのことで女と口論をするようになった。
そして、事件当日。男は激情に駆られて女の自宅に押し入り、凶行に及んだのだという。
これも後に判明したことだが犯人の男は安達と遭遇した時、既に女性を殺害していた。男は女性を殺害後に犯行現場となった被害者の自宅を飛び出して、その近所を徘徊していた。まるで新しいおもちゃを買ってもらった子供のように嬉々とした表情でその家の周辺を一周した後、再び犯行現場に戻るという奇行を何度も繰り返していたらしい。
事件後、安達は謎の失踪を遂げてしまった……。
(破)
あれは桜花精の事件から四か月後のことだった。
八月の下旬。俺のもとに一通の手紙が送られてきた。
差出人は意外な人物だった。
安達雅史。
その男は中学校時代の同級生だった。在学中はずっと同じクラスだったのだが、三年間で彼とまともに口をきいたのは数回しかなかった。とくに親しかった記憶はない。
しかし、俺が相手からの手紙に驚いた理由は他にあった。俺が手紙を受け取ったこの時期、彼はある罪で拘置所に留置されていたのだ。
俺には相手が何を考えているのか分からなかった。普通、そんな状況にあるのなら身内に手紙を書くのではないだろうか。それがよりによって、特に親しくもなかった元同級生の人間に手紙などを書くというのがよく分からない。
どうして、俺に手紙を書いて寄こしたのだ?
俺はそんな疑問を抱きながらも手紙の内容が気になった。さっそくヘルパーに手紙の封を切ってもらい、中身を取り出してもらった。手紙は何枚もの便箋に墨でびっしりと書いてあった。濃厚な墨汁の匂いが鼻腔を刺激する。
一枚の冒頭には「●前略
俺はゆっくりとしたペースで手紙に目を通していった。
稲生君、お久しぶりです。覚えていますか? 中学校時代に君と同じクラスだった安達雅史です。
僕はあの頃、いつも他の同級生たちに虐められていた。そんな中で君だけはいつも僕を助けてくれたね。
君は助けた覚えはないと言うだろう。確かに体を張って庇ってくれたわけじゃない。
だけど、それは仕方がないことさ。当時、あの学校で車椅子の生徒は稲生君一人だけだった。差別的で失礼な言い方かもしれないが他の生徒たちにとって君は珍しい存在だった。そんな環境でイジメをしていたグループに抵抗することは
自殺行為でしかない。そんなことをしたら稲生君まで酷い目に遭っていたからね。僕だって同じ立場なら同じように目立たないように立ち振る舞ったと思うよ。それでも、君は人目を気にしながらも声だけはかけてくれた。僕自身にとってはそれだけでも救いだった。
当時、自分は根暗だったから友人もおらず、相談に乗ってくれる友人も教師もいなかった。いつも死にたいと思っていたけれど、稲生君が励ましてくれたおかげで中学校三年間を生き延びることができた。そのことは今でも感謝しているよ。
高校からは君と違う学校へ通うようになったけれど、絶望的になることはなかった。
どうしてかというと、一つの目標を持ったからなんだ。それは悪者から弱者を守る警察官になるという夢だった。僕は父親のような立派な警察官になりたかったのさ。だから、それからは一生懸命に勉強したよ。努力したことで警察学校に入ることができた。寮生活では他の学友たちと励まし合いながら研修期間を過ごし、無事卒業できたんだ。
A警察署に配属されてからは一生懸命に働き続けていたよ。日々の過酷な勤務で挫折しそうな時もあったけれど、市民から感謝の言葉をもらうたびに仕事のやりがいを感じたよ。感謝されたと言っても大したことじゃない。巡回中に迷子やお年寄りを目的地に案内したり、深夜の路上に倒れ込んだ酔っ払いを介抱した程度の仕事だった。それでも、ありがとうと言われただけで嬉しいものだ。
ところが一か月前に突然、僕はトラブルに遭遇してしまった。
そして、今では留置所の檻の中。自分がいったい何の罪を犯したというのだろうね?
稲生君もニュースで知っているだろうけど、僕の罪状は殺人容疑だ。誓って言うが自分は無実だよ。実はそのことで君に真相を伝えたくて手紙を書いた。担当の刑事はこちらの話をまったく信じてくれない。それに弁護士は僕を精神的に異常な人間だと判断している。裁判では精神鑑定を申請するそうだ。このままじゃ、刑務所か精神病院に送られてしまうだろう。その前に君だけには伝えたいことがある。社会全体が僕を信じてくれなくとも、稲生君だけは信じて欲しい。これから書くことは現実に起こったことだ。長い手紙になりそうだがどうか、最後まで読んでもらいたい。
そもそも事の発端は一週間前だった。
その日の夕方、僕は普段通りに自分が担当しているエリアをパトロールしていた。街で目立った暴力事件は起こらず、A警察署本部からの緊急連絡も来てはいなかった。
ところが異変は突然に起こった。僕は不審人物と遭遇してしまった。
あれは繁華街の裏通りにさしかかった時だった。
風俗業と金融業のテナントがいくつも入った雑居ビルが二件隣接していて、その間には細い路地があった。
不審者はその路地の入り口付近に一人で立っていた。男だった。上は白いパーカー、下はジーンズという格好をしていた。フードを深くかぶっているせいで口元しか見えなかった。その男は口の両端を吊り上げ、ニヤニヤと嗤っていた。不気味ではあったけれどもそれだけなら問題はない。だけど、僕は何故だか嫌な予感がしたんだ。
それで念のために男を職務質問しようと考えた。僕は自転車から降りた後、相手を刺激しないようにゆっくりとした足取りで男に接近した。
僕は男に「ここで何をしているのか?」と質問した。
だが、男は何も答えなかった。
次に身分証明書の提示をするように指示した。すると、今度は男がようやく動き出したんだ。その時、僕は相手が素直に運転免許証か何かを取り出すのかと思っていたよ。ところが男の手に握られていたのは物騒なものだった。それは血にまみれた刃物だ。しかも、刃渡り40センチ以上もある鉈だった。銃刀法に触れているし、明らかに事件性があることは濃厚だった。男には警察署まで同行してもらわないといけない状況だったが、相手が凶器を所持しているために激しい抵抗を受ける危険性もあった。緊張感が走ったのは言うまでもないよ。
こちらの意図を察したのかどうか分からないが突然、男は走り出した。僕が立っていた場所の反対方向、路地の奥へと逃げ出した。
僕は一心不乱に相手を追いかけたよ。幸いにも路地の先は行き止まりで男はそれ以上、逃げることはできなかった。
男は壁際でこちらに向き直ると今度は前よりも大きな声で笑い出した。耳障りな甲高い声だった。
僕は腹が立って男に「お前はいったい、何が可笑しいのか?」と怒鳴りつけた。
すると、男は自分の足元を指さした。相手が示した方向に視線を向けてみると、そこには一人の女が倒れていた。
いや、倒れていたというよりも殺されていたと言った方が正しいだろう。
辺り一面に血の海が広がっていた。
女の死体は血だまりの中に転がっていた。無残にも両腕と両足が切断されていた。
僕は突然の異常な光景に動揺してしまった。だけど、警察官である自分が何もせずに呆然と立っているわけにもいかない。
どうにか自分の気持ちを落ち着かせて、男を訊問することにしたんだ。
これはお前がやったのかと問い詰めた。
だが、男は何も答えようとせず、笑い続けるばかり。
僕は苛立って相手の胸倉を掴んで「人が死んでいるんだぞ!? 少しは真面目に答えろ!!」と怒鳴り散らした。
すると、男は僕の手を振り払った後、衝撃波のようなものを前方に繰り出した。
僕はその凄まじい力をまともに喰らって後方に吹き飛ばされてしまった。
頭を地面に強く打ちつけたせいでそのまま意識を失った。
それからどれくらいの時間が経過したのかは分からない。
目が覚めた時、僕は自分の服装が変わっていることに気付いた。ついさっきまで警察官の制服を着ていたはずなのに、白いパーカーにジーンズという服装に変わっていたんだ。おまけに手にはあの鉈を握っていた。
そして、僕は訳も分からずに背後から現れた同僚の警察官二名に取り押さえられた挙句、手錠までかけられてしまった。何度も身の潔白を訴えたよ。パトカーに乗せられた時も取調室でもね。
犯人は自分じゃない。他の男が女を殺したんだと言ったが誰も信じてくれない。
だけど、僕には人を殺した記憶なんてないんだ。他に犯人がいて、自分を陥れようとしているんだ。どうか、どうか君だけは信じて欲しい。僕が無実だということを。
僕が稲生君に伝えたいことは以上だ。突然の手紙に驚いたかと思うけれど、最後まで読んでくれたのなら嬉しいよ。
俺は手紙を読み終えた後、嫌悪感に苛まれた。正直、相手の妙な馴れ馴れしさに薄気味悪いものも感じた。
確かに中学校時代、安達は他の同級生の何人かに虐められていた。俺はそんな彼を不憫に思い、イジメのグループがいない時に声をかけたことがある。だが、それだって三年間のうちに数回という程度のものだ。
それだけで救われただの、励まされただのというのは大袈裟というものだろう。
中学校時代は虐めれていた安達。だが、そんな彼は警察官でありながら殺人事件を犯した。
マスコミはこの事件のことばかりを報道していた。
安達雅史は一か月前の七月から無断欠勤が続いていたという。
同僚や上司の証言によると、安達は被疑者死亡という最悪な結末を迎えた殺人事件の現場に居合わせてしまったらしい。
犯人は20代後半の青年。三十代前半の女性と交際していた。ところが何らかのきっかけで相手が既婚者であることが発覚。
激しい嫉妬心と怒りにまかせて女性の自宅に押し入り、殺害したという事件だった。
安達は偶然にも事件に居合わせ犯人を現行犯で逮捕しようとしたのだが、犯人の自殺を止めることができなかった。
彼はそのことで精神的にショックを受けていた様子だったらしい。この事件から一週間後、安達の行方が分からなくなったという。ところが失踪してから一ヶ月が経過した八月某日、同僚の巡査二名が巡回中に安達を発見した。
安達は返り血を浴びた状態で片手には刃渡り40㎝以上の鉈を握りしめていたという。
その傍らには惨殺された女性の死体。遺体は残忍にも四肢が切断されていた。被害者の女性は安達の交際相手だった。
また、週刊誌には事件前から安達がその女性と激しい口論をしていたことが書いてあった。二人の共通の友人によると彼女は副業で店舗型の風俗店で働いたらしい。安達はそのことを知り、相当に怒っていたとも。
彼自身に殺意があったのは確かなようだった。
にもかかわらず、安達は手紙で「やったのは自分じゃない」と無実を主張している。
その一方で翌日には「あの女を切り刻むのに喜びを感じた」など矛盾した供述を重ねていた。
最終的に警察はマスコミの記者会見で「事件現場では安達以外に不審人物は発見されていないし、凶器に使われた鉈には彼の指紋しか検出されていない」と発言した。
俺は世の中が安達を陥れようとしているようには思えなかった。これだけ証拠や証言がある以上、彼が殺人犯
であることに間違いはなかった。むしろ、犯行を自覚していない安達という人物こそが異常である。
ただ、もしも安達が何かこの世ならざる怪異に狂わされたのだとしたらどうだろう?
ふと、そんな考えが脳裏に浮かんだ。
俺はこの年の春、桜花精という怪異に遭遇したばかりだった。その影響でこの世に存在する全ての不可解なことと、怪異を結び付けてしまうという妙な癖がついてしまったのだ。
もしかしたら、安達に厄介な悪霊のようなものが憑りついているのではないかという考えが沸き起こった。
俺は一瞬でも気になる事があった時、じっとはしていられない性格だ。物事には何かしらの答えが欲しいのである。
とはいうものの、自分だけでは簡単に答えを導き出せるような類の話でもなさそうだった。
そうなると相談できる人間は一人しかいない。
それは祓い屋をやっている叔父だけだった。
同じ日の午後二時過ぎ。
俺は叔父のもとへ向かうためにアパートを出た。
ヘルパーにはあまり怪異にまつわる話を聞かれたくないので留守番してもらうことにした。
霊感もなくて、悪霊や妖怪の姿を見ることができない人間にとっては怪異の話は妄想や空想の産物に過ぎない。
一般的な常識からすれば俺と叔父が交わす不可思議な会話は異様に映ることだろう。それも大真面目に話を続けるものだからさらに常軌を逸していると思われてしまうかもしれない。俺が考え過ぎなだけかも知れないのだが、ヘルパーに気味悪がられるのも好ましいとは思えなかった。ただでさえ人手不足であるのにそれが原因で仕事を辞められたらたまったものではない。
まあ、色々な事情もあって一人で行くことにしたのである。
自分が住んでいるアパートを出て北に進むと緩やかな坂道があり、そこを登った場所に叔父は住んでいた。距離にして徒歩で十五分といったところだろう。叔父は
寺と言っても観光地にあるような壮麗で大規模なものではなく、古ぼけたお堂が一つあるだけの小さな寺である。
ただ、叔父の話では由緒ある寺であるという。
飯縄寺の起源は平安時代半ばというから相当に古い。今では坂の多いだけのこの町だがその飯縄寺が創建された頃は小さな山だったそうだ。その名残りのせいか寺の周辺には今でも鬱蒼とした森が残っている。
この一帯は飯縄寺の創建前から地元の住人や旅の修験者たちから霊山として恐れ敬われていたという。その理由はこの土地には烏天狗が棲みついていると信じられていたからだ。
叔父の家が先祖代々と住職を務めてきた飯縄寺はこの烏天狗と縁のある場所だ。
伝承によればある時、この土地を通りかかった放浪中の密教僧が妖怪の群れに襲撃された。僧は法力で抵抗したが敵の数の多さに苦戦を強いられ、もはやこれまでかと己の死を覚悟した時、眩い光と共に一匹の烏天狗が現れた。
そして、烏天狗は自身の腰に帯刀していた護身刀を鞘から抜き放ち、凄まじい速さで妖怪を斬り倒してしまった。密教僧は助けてもらったことに感謝し、何かお礼をさせて欲しいと言った。すると、烏天狗は「
密教僧は「あれは神仏の化身に違いない。それを物で恩に報いようとは己が情けない」と後悔し、この土地に小さな寺院を建て自分も移り住んだ。その後、この僧は「善行には善行で報いねば」と考え、法力によってあらゆる厄災から土地の住民たちを守り続けたという。
そして、この寺院の御本尊とされたのが飯縄権現という神仏習合された神だ。
長野県の飯綱山に対する山岳信仰を起源にもつという。
飯縄寺に安置されている像の姿は烏天狗。山伏の装束に包まれた人の体。頭部は鴉。腰には護身刀を差している。
そうした経緯からなのか、この地域は古くから「
今では
もっとも、ここが霊験あらたかな土地だと言われても自分にはピンとこない。現在は多くの民家が立ち並ぶ閑静な住宅地になっている。
俺が向かったその坂道は住宅地を二つに隔てるように続いていた。急勾配ではないのだが恐ろしく長い坂なのだ。
そんな場所に午後二時という夏で一番気温が高くなる時間帯に来てしまった。恐ろしく暑くて、Tシャツもびしょびしょに濡れていた。自分の電動車椅子は大したスピードが出ないので実際には三十分もかかってしまう。
クーラーの効いた部屋を出てから五分も経っていないのに頭が朦朧とし始めていた。辺りには耳障りなほどに喧しい蝉の鳴き声が響き渡っていた。強い日差しがアスファルトに反射しているせいでひどくまぶしかった。
道を進んでいる途中に何度か民家の庭先から伸びている樹木の下を通りかかったのだが、木陰でも路面から発せられる熱のせいで少しも涼しくは感じられなかった。車椅子の車高は低くて地面に近いために歩いている人間よりも地熱の影響をまともに受けてしまうのだ。こんなことなら早朝に行くべきだったと後悔したがすでに坂道の半ばまで来ていた。ここで引き返すのもバカらしく思えたので、俺は仕方なく先を急ぐことにした。
坂道の両側に広がっている住宅街も坂の上まで来るとその風景は一変する。坂の下から中腹辺りまでは鮮やかな赤や青の屋根をした造形の洒落た新しい住宅が目立っているのだが、坂の終わり近くになると瓦屋根をした古い木造の民家が続いている。坂の両側にはなまこ塀の白い壁が続ていた。
この辺りは高度成長期の宅地開発が進む以前から住み着いてきた人々が多いのだ。古い町並みも風情があって良いものだといつも思う。
しばらく道なりに進んでいると前方に飯縄寺が見えてきた。坂の上はちょっとした丘になっており、そこに飯縄寺は建っていた。
俺はため息をついた後、寺の山門に敷かれたスロープを通って境内の奥へ進んだ。
山門の先には石畳で敷き詰められた一本道が通っており、本堂が建っている場所まで続いている。
そして、塀に囲まれた寺の入り口である前門を通り抜けてすぐに視界に入ってくるのが中庭だ。その中庭を通り過ぎたところに本堂がある。
寺の庭に植えられた木々の上でも蝉たちが激しく嘶いていた。セミは幼虫の時に6年近くも暗い地中で過ごし、成虫になって地上で生きられるのは一週間という儚さ。それを考えると多少は哀れにも思えなくはない。
だが、それでも彼らの場合、自分の子孫を残すことができれば生物としてはその死も無駄ではないだろう。
それでは筋ジストロフィーに侵された自分の場合はどうなのだろうか? あと何回煩い蝉の声を聴くことができるのか———
ふと、俺はつまらぬ哲学のような疑問を抱き、その中庭の前で立ち止まった。
生物の使命が子孫を残すことだとしたら、一生涯を異性との出会いに恵まれない人間の男はどうなってしまうのだろう。まあ、それが叶わくても歴史上の人物の場合は名前と業績だけは残される。
ならば、自分のように病のせいで寿命が短い人間の場合はどうだろうか?
そんなことを自問したところで答えが出るはずもなかった。そもそもそんなことに答えを求めようと考えるのが間違いなのかも知れない。どうせ、どんな生き物も死んでしまえばただの屍に過ぎない。やがては土くれに還るだけの死体に意識が戻ることはないのだ。
それなら生きているうちは自分の好きなように生きればそれで良いのではないか。
俺は自問自答に疲れて、その場を通り過ぎて行った。
そして、ようやく本堂の前に辿り着いた。本堂といってもそれほど大きいものではない。広さにして2Kのアパートの一部屋半あるかどうかという程度である。
本堂の扉は閉ざされていたので中の様子を窺うことはできなかった。だが、堂内からは読経する男の声が聞こえていた。
それは叔父の野太い声だった。
俺はそれが終わるまで待つことにした。蝉時雨と読経する声が混じって不思議な雰囲気を醸し出していた。
それから五、六分が過ぎた頃、中から聞こえていた声が止んだ。
どうやら読経が終わったようだった。
しばらして、ゆっくりとだがどっしりと床板を踏み鳴らす音が近づいてくる。
やがて、足音が消えた後に本堂の扉が勢いよく開け放たれた。
叔父は本堂から出てくるなり、俺の顔を見てニヤリと笑みを浮かべた。
「また不可解なことに遭遇したようだな」
「どうしてそれを?」
俺は事前に電話で来ること自体は伝えていたのだが何の相談かは言っていなかったので驚いてしまった。
「お前は小さい時から顔に出やすいからな」
叔父は半ば呆れたように笑った。
「そうだっけ?」
「まあ、それよりもここで長話をするのなんだから家に上がって行けよ」
俺はそう言われたので寺の東側に隣接している叔父の自宅へ向かうことにした。
叔父の家は一軒家の平屋建てだが部屋数も多いのでそれなりの広さがあった。玄関口はスロープになっており、ほとんどの部屋もバリアフリー改修されている。
俺はこの家に五歳から二十一歳で一人暮らしを始めるまでの十六年間、叔父と二人で暮らしていた。
この年、自分はここを出てから二年目を迎えていた。
ちなみに叔父の家で暮らす前は隣町の神社で神職を務めていた両親の家で過ごしていた。
俺は両親にとって最愛の一人息子だったのだと叔父はいつも言う。
だが、ある年に自宅で火災が起きてしまい、家屋が全焼してしまった。その炎の勢いは相当に激しかったらしく、父と母は幼い俺を助けるために犠牲となった。
その当時、俺は五歳の誕生日を迎えたばかりの幼児だった。
叔父は両親を失った俺を引き取り、わが子同然に育てくれたのだ。
亡き父は叔父の兄であり、同じように祓い屋としても有名であったという。父が稲生家の長男であるにも関わらず家督を継がなかったのは母の家に婿入りしたからだ。二人は恋愛関係にあった。だが、母の家は神宮司家という格式高い神職の家系であり、母の両親は「男の方が当家に嫁がなければ結婚は認めない」と強硬的だったので父が神宮司家に婿入りすることになったわけだ。
俺は叔父と呼んでいるが戸籍上は養子になっているので養父ということになる。
俺は戸籍とは関係なく、父親も同然だと思っている。まあ、こちらの顔を見ては説教じみた長話をされるのでうんざりもするが、困ったときに相談できるのもまたこの叔父だ。特に怪異が関わる問題に関して、他に右に出るものはいないだろう。
俺は叔父と一緒にフローリングの床になっている居間に入った。
縁側に面したガラス戸から夏の強い陽射しが差し込んでいたが、室内は冷房がほど良く効いていたので心地良かった。
長テーブルの上には冷たい麦茶の注がれたグラスが置かれている。
叔父が麦茶にさしたストローを俺の口へと運んでくれたので、それを吸い上げた。冷えた液体が乾いた喉を潤していく。
生き返ったような気分だった。
叔父はテーブルを挟んで向き合う格好で椅子に座り、会話を始めた。
「それで、今度はどんな厄介事に首を突っ込んだ?」
「別に俺から首を突っ込んだわけじゃない。ただ、不可解な手紙が送られて来たんだよ」
「ほらみろ、やっぱり首を突っ込んでるじゃないか。しょうがないやつだな。そういうところを改めたほうがいいぞ。で、不可解な手紙って?」
俺は叔父に詳細を事細かに説明した。
中学校時代の同級生である安達から親しい間柄でもないのに手紙が送られてきたこと。
安達が殺人を犯したという証拠が揃っているにも関わらず、本人だけがそれを自覚していないということ。
俺が話をしている間、叔父はずっと両腕を組んだ姿勢で椅子に座って静かに話を聞いていた。こちらの話が終わった瞬間、叔父は何かが分かったらしくいきなり立ち上がる。
「ど、どうしたの叔父さん⁉ 何か分かったのなら教えてよ」
「まあ、そう焦るな。すぐに戻るからそこで待ってな」
叔父はそういうと書斎の方へ行ってしまった。
それから一時間ぐらい経った頃に叔父が古い本を何冊も抱えながら戻ってきた。
叔父は抱えていた書籍をテーブルの上に並べた後、さっきまで座っていた椅子に腰を下ろす。
そして、開口一番にこう言った。
「正芳、これは
「悪鬼?」
「ああ。その安達という男は生きながらにして鬼になった」
「そんなことってある? 鬼っていうのは妖怪のような類のものじゃないか」
「いいや。鬼とは憎しみにとらわれた人間が変わり果てた姿だ」
「そうなのかい?」
「安達について話す前にまず、お前には鬼がどうゆうものかを理解してもらう」
叔父は卓上に並べた本の一冊を選んで手に取り、ページを捲りながら鬼に関する話を始めた。
太古の昔から中国や朝鮮半島では死んで霊となったものを鬼と呼んでいた。
また、日本でも死んだ人間のことを「鬼籍に入った人」という慣用表現で言い表したりする。
鬼と言えば一般的に頭に二本、もしくは一本の角が生えた異形の容姿をしており、人里に出没しては住民を食い殺すというイメージが強い———
「だが、それは本質ではない」
叔父は続けて語った。
その証拠に中世の能楽では人の怨霊と化したものを鬼とする題目が多かった。
有名なのものの一つに「
これはある妻が自分を捨てて新しい女のもとへ走った夫に復讐しようという物語だ。その妻は頭に鉄輪を戴き
最終的には陰陽師に祓われてしまうのだが、人が怨念から鬼と化すケースとしては代表的な例だろう。
今も昔も人間は愛と憎悪に狂ってしまうのだろう。
叔父はこういった物語の登場人物たちのように生きながらにして鬼となる者が現在でも存在すると言った。
「この‥‥」
と言いかけて、叔父はグラスの麦茶に口をつけた。
この祓い屋の仕事でも似たようなケースがあったという。
叔父はこれまで解決してきた依頼の一つを教えてくれた。
とある家庭で起こった事件———。
依頼人は新婚の奥さん。内容は新築の自宅で黒い鬼が頻繫に出没して、そのたびにポルターガイストを引き起こすのだという。
叔父は土地の地縛霊かと考えて自宅で祈祷を行ったものの、ほとんど効果は無かったという。これはおかしいと思って奥さんに「最近、何か身の周りで変わったことはなかったか」と訊いた。
すると、彼女は気まずそうな顔で夫が他の女と浮気しているのだと告白した。
叔父は「原因はこれだったのか」と納得したという。
つまり、この女性は夫に対して激しい嫉妬心を抱いているのだが、気弱な性格なために今の関係がこわれることを恐れてその気持ちを抑え込んでいたのだ。
だが、心の奥に蓄積された禍々しい感情が暴走して「鬼」という存在を生んでしまった。それが独り歩きをして暴れていたというのが真相だった。
叔父は奥さんに対して祈祷を行った後、夫を呼び出して説教した上で不倫はしないと約束させた。夫が反省して奥さんに謝罪して以来、黒い鬼が出現しなくなったという。
俺はその話を知った瞬間、現実に鬼と化す人間がいることに恐ろしくなった。怖気が立つとはこういう時の気持ちを言うのだろう。
叔父は鬼についての講釈を終わらせた後、もう一度「やはり、これは鬼の仕業だな」と断言した。
結論で出すとすれば次の通りだと説明してくれた。
安達も生きながらにして鬼になってしまった。
元交際相手に殺したいほどの深い恨みを抱いていたが、彼自身の理性が凶行を抑えていた。
ところが一か月前の殺人事件に遭遇した際、犯人の狂気に悪影響を受けたことで暴力的衝動を抑えきれなくなった。
もしかしたら、彼女を殺してしまうと感じていたのかもしれない。それで自分の姿を消した可能性がある。
誰も殺したくないから人がいない場所に潜んでいたのだろう。
だが、憎悪を抑えられずに元交際相手の女性を惨殺してしまう。
安達は憎しみに支配されて凶行に至った事実を受け入れられず、相手を殺した記憶を抹消してしまった。
彼が目撃したと主張している謎の男の正体は自分の憎悪の感情が具現化したもの。そういったものを悪鬼と呼ぶのだという。
俺はその話を聞いて気になる事があったので叔父に訊いてみた。
「安達の暴走を抑える方法はないの? 叔父さんの話だと悪鬼っていう奴は生み出した人間の肉体から飛び出して暴れ回るわけでしょ? それを放置したら危険だと思うけど」
「お前の言いたいことは分かる。だが、安達の場合はどうにもならねえな」
「それは何故? 本人が人を殺すほどの憎しみを抱いていたと自覚させればいいじゃないか」
「確かに普通の人間ならそれで上手くいくだろうな。だが、この安達という男の憎しみは相当に根深いものがあるかも知れないぞ」
「根深い憎しみ?」
「ああ。人間そのものを憎んでいるような気がする。 ところで手紙は持ってきたか?」
「手紙なら車椅子の後ろにかかっているカバンに入っているよ」
叔父は椅子から立ち上がると手にしていた本を卓上に置いた。そして、ゆっくりとした足取りで俺のところに近づいてバックから封筒を受け取り、立った姿勢のまま封筒から便箋を取り出した。
叔父は文面に視線を向けた途端、いきなり表情を強張らせた。
「おい、正芳。これはまずいぞ!」
「マズいってなにが?」
「お前、安達に呪われているぞ」
叔父はそういうと一枚目の便箋を俺の眼前に掲げ、「●前略 稲生正芳 様」という冒頭部分に記された黒いまるを指さした。
「何これ?」
俺が自分の部屋で読んだ時は黒い点に過ぎなかったそれが、今では血のように赤い色をした謎の文字が浮かび上がっていた。まるで蛇がのたうち回っている様にも見える。
「これはサンスクリット語で記された呪いの言葉だ」
「呪いの言葉?」
「ああ。すぐに何かが起きるとは限らんが用心した方が良い。念のためにこの手紙はこっちで処分しておこう」
「手紙の処分は叔父さんに任せるよ」
外ではだいぶ陽が傾き始めていた。夕方5時半を過ぎている。ガラス戸から射し込んだ夕陽が室内を茜色に染め上げていた。
「もうこんな時間か。俺はそろそろ帰るよ」
「なんだ、もう帰っちまうのか。ヘルパーさんもここに呼んで夕食でも食べていけばいいものを」
「叔父さんの長話を聞いていたら何時に帰れるか分からないよ」
「それは随分な言い草じゃねえか。この前の事件で俺が助けに行かなかったら、お前は死んでいたんだぞ」
「助けてくれたことは感謝しているよ」
俺はしぶしぶ感謝の意を表明した。
「まあ、いいさ。なんにしても用心を忘れるな」
「分かっているよ」
その後、叔父の家を出たのは夕方の六時。俺は山門のところで叔父と別れて一人、坂道を降りて行った。
太陽は地平線に没しつつあったが、群青色の空には燃えるように赤い残照が残っている。坂の下に続いている住宅街が夜の黒い闇に飲み込まれるのも時間の問題だった。
俺は空を仰ぎながらこの日没前の時間帯を黄昏時、或いは逢魔が時と呼ばれることを思い出した。
古来、日本では何やら妖怪や幽鬼など怪しいものに出逢いそうな時間だと恐れられていたのだ。
逢魔が時の風情を描いたものとしては鳥山石燕の「今昔画図続百鬼」というのがある。
鳥山石燕とは江戸時代の浮世絵師だ。
この作品には様々な妖怪の絵が収録されており、逢魔が時という題名で夕暮れ時に実体化しようとしている魑魅魍魎を表した一枚がある。
小学生の時、叔父にその絵を見せてもらったことがあった。
夕闇に没しようとしている都の上空に大きな雲が現れ、その雲の上には不気味に笑みを浮かべた化物の集団が跋扈している様子が描かれていた。その当時、俺はあまりにも怖くて大泣きしたものだ。
そんなことを思いだしているうちに気がつくと、まだ坂道の途中にいながら辺りはすっかり夜になっていた。
住宅街と言っても人口は少なく、家々に灯される灯かりも都会のような明るさを期待するのは難しいだろう。
俺は夜目が利くので夏の薄暗さぐらいなら問題なく走行できるので心配はなかった。
それからしばらく走行していると一本の外灯が見えてきた。すると、向こうから歩いてくる人影が見えてきた。
どんどん距離が狭まってきてようやく、それが買い物帰りの主婦と思しき女性であることが分かった。片手にスーパーのビニール袋を持っていた。
やがて、外灯の真下で女性とすれ違った。その瞬間、女性のぶら下げていたビニール袋が何の理由もなしに裂けてしまったのだ。俺は驚いて思わず電動車椅子の走行を停止させる。
不思議なことに自分にはその時の光景がスローモーションのように見えていた。空間の動き。大気の流れ。それらが速度を落としているような感覚がしたのを今でも覚えている。
ビニール袋の裂け目からは夏ミカン四つが地面に散らばっていた。女性は慌てながらもどうにか夏ミカンを四つ拾い上げた。だが、そのうちの一個だけが手元からこぼれ落ちてしまい、坂の下に転がっていった。女性は必死に追いかけようと元来た道へ引き返そうとしたがあまりにも早いので断念した。
しばらくの間、俺の視線は坂の下に転がり落ちていく夏ミカンを追っていた。外灯の照らす光のなかで転がり続け、その範囲が薄らぐとともに一度見えなくなるがすぐに隣の外灯の光に浮かび上がり、また次の陰に入り、そして次の光の中へ‥‥だが、その夏ミカンが再び転がり落ちてくることはこなかった。
俺は狐につままれたようにただ呆然と、夏ミカンが現れてくるはずの辺りを見つめていた。
いったい何だったんだ?
不思議な現象だった。
どれくらいの時間が経過したのかは覚えていない。
やがて、俺は正気に戻った後で坂道を降りて行った。
叔父の家を訪れた日の夜。俺は夕食を簡単に済ませた後、入浴の前に休憩をしようとベッドで横になっていた。が、あまりにも疲れていたのでそのまま眠ってしまった。
それからどれぐらい眠ったのかは覚えていない。
俺が眠りから覚めたのは真夜中だった。
夢も見ていないほどの深い睡眠だったのに途中で目覚めてしまった。
どうしたことか墨汁の匂いが辺りに漂っていた。
それに室内には何者かの気配もする。だが、それはヘルパーのものではない。自分が仰向けで寝ているベットの隣からはヘルパーの寝息が聞こえていたからだ。
不思議に思っていると突然、頭上から人の笑い声が聞こえてきた。
ふふ。
うふっ、
うふっ、
うふふ、
あはは、
あはっ、あはは、
と、若い女の声が楽しげに笑っているのだ。
正直言って不気味だったし、怖くもあった。だが、笑っているだけで殺意のようなものは感じられなかったので無視することにした。幽霊の中には人を脅かして喜ぶだけの悪戯好きな者もいるという話を思い出したからだ。害を及ぼさない場合は相手にせず、放置していれば幽霊は勝手に消えるケースもあるらしい。
俺は瞼を閉じて無視し続けた。
ところがこの怪異はとどまることを知らず、依然として笑い声が部屋に響き渡っていた。
不思議なことにその声でヘルパーが起きることはなかった。
聞こえているのは俺一人だけだったようだ。
そんな状況では眠れるものも眠れなくなってしまう。
どんな奴が俺の睡眠を妨害しているのか気になり出した頃、俺の顔に何かが落ちてきた。
バサッ。
それは髪の毛のようだった。
俺は瞼を開けて頭上の方へと視線を向ける。
すると、視界に不可解な何かが飛び込んできた。いや、よく見るとそれは女の生首だ。
女が天井から首だけを覗かせて、こちらを見下ろしていた。女は長い黒髪であり、毛の一部がこちらの顔に垂れ下がっていたのである。
女というのは分かったが髪の毛のせいで顔の全貌までは確認できなかった。だが、口元だけはよく見えていた。鮮やかな赤い唇。
今でも脳裏に焼き付いて離れない。
女がこちらの視線に気づいたのかピタリと笑い声が止まった。
「このまま消えてくれるかもしれない」という俺の期待を見透かしたように女の口から意味深げな一言が発せられた。
「あと二日」
確かにそう聞こえた。
あと二日。
女はそう言うと姿を消してしまった。
何が二日なのかは分からない。意味が分からないだけに不気味さは際立っていた。
気づいた時には朝の光がカーテンの隙間から入り込んでいた。
こうして、俺は一睡も眠ることができなかった。
二日目の夜。またもや、俺は奇怪な現象を体験した。
その日は女の首が脳裏に焼き付いてしまったせいでなかなか眠ることができなかった。
幸運なことに何時間経っても前日のような笑い声はなく、誰かの気配を感じることはなかったのである。
ところが、安心して眠りにつこうとした瞬間、それは聞こえた。
「明日だよ」
耳元で誰かが吐息交じりに囁いた。
声とともに息が耳にかかる感触に生々しいものがあった。それも少年の声。どこか中学校時代の安達に似ている。
あまりの怖さに鳥肌が立った。下手に実体があるよりも声だけの方が不気味だ。それに前日と同様に墨の匂いがした。
「もう明日だよ」
安達とおぼしき声はそう言って消えた。
声が搔き消える間際、首筋を爪で引掻かれたような感触があった。
その後は他に奇怪なことは起きなかった。
むしろ、気味が悪いほどの静寂が室内を支配していた。
これは嵐の前の静けさに違いない。明日、何が起こるのだろうか?
俺はもう一度、叔父に相談することに決めた。
翌日の早朝。俺はさっそく叔父に電話をかけた。叔父は朝が早いので起きているはずだ。
「もしもし。正芳だけど……」
「どうした?こんな朝早くに電話とは珍しいな」
叔父は少し驚いた口調で言った。俺は叔父の察しの悪さに苛立った。
緊急でなければ誰が朝の5時に電話をかけるだろうか? それに呪いの手紙との関連性を疑わないというのも祓い屋にしては鈍すぎる。
俺はため息をついた後、
「どうしたもこうしたもないよ。こっちは叔父さんのせいで二日目も寝ていないというのに」
「ワシのせいだと?」
「叔父さんは俺に言ったよね」
何を? と一言で問い返した叔父に対して俺の感情が爆発した。
「あの手紙を処分するって言ったじゃないか!」
「ああ、そのことか……すまん。祈祷はしたんだが失敗した」
「失敗した? なんでそのときに教えてくれないんだよ! どうりでおかしなことが起きるわけだな」
「おかしなこと?」
叔父はあくまで俺の怒りに冷静に返事してくるのと、一応謝罪はしてくれたので説明しようと試みたのだが、
「一昨日は女の首、首が……」
言葉がのどに引っかかるようにうまく出てこない。
「首がどうしたんだ?」
「そう、首だけが現れて『あと二日か』と言ったんだ……」
それで? 叔父は俺の次の言葉を待った。
「そ、それで昨日は耳元で声がしたんだ。それに一昨日の女じゃない何者かが『明日だよ』と囁いて……。おかげでこっちは二日目も寝てないよ。これって祈祷の失敗のせいなの?」
「……それはまずいな。分かった。今日の夕方までには
「解呪? 専門家? そんな人いるの?」
「そうだ。人やモノにかけられた呪いを解除する仕事」
「祈祷に失敗した叔父さんの知り合いなんて信用できる?」
なんとか皮肉をぶつけるくらいに余裕を取り戻しつつあった。
「まあ……少し変わった奴だが呪いに関しては信頼できる」
「奴? じゃあ男なのかな。なら仕方ないから夕方まで待っているよ」
「すまないな」
「叔父さんでも不可能なことはあるんだね。本当に祓い屋の仕事を依頼されてるのかよ」
「そう皮肉を言わんでくれ」
叔父は気弱そうに言った。その声から困り果ている顔が思い浮かぶ。
「分かったよ。じゃあ、また後で」
俺はため息と共に電話を切った。叔父の頼りない面に呆れつつも、解呪の専門家とはどんな人物かが気になった。呪いの専門家だというからには叔父よりも少しは信頼できるのかもしれない。
不安と期待が入り混じった感情を抱えながら半日過ごすことにした。
その夜。時刻は11時。
ちょうどその時、俺はベッドの上でテレビを見ながら休んでいた。そのベッドの傍らには霊感がある坂口というヘルパーが椅子に座っていた。彼はヘルパーの中で唯一、怪異の話ができる人物であった。
今回の怪奇現象について坂口と話していると、部屋のインターホンが鳴り響いた。
俺は一瞬だけ驚いたがすぐに叔父だと思い、坂口に玄関先へと向かってもらった。
しばらくして、坂口が叔父を連れて戻ってきた。叔父の隣には見慣れぬ女性がいた。
年齢は27,8歳ぐらいだろうか。小柄で痩せ気味の体系だった。体型自体はよくいそうな女性に見えたがそれ以外の部分では相当に奇抜だった。
まず服装が特徴的だった。彼女は巫女装束風の服を着ていた。だが、全体が黒一色に染められていた。巫女というよりも西洋の魔女と呼んだ方が似合いそうだった。首には五芒星が刻まれた金色のペンダントをかけていた。
容姿は端正な顔だちをしていた。目鼻立ちがくっきりとしており、髪の毛も銀色に染まっているので白人女性にさえ見える。髪型はショートヘアなのだが右目だけ前髪で隠れていた。
その前髪が揺れるさまよりも、左目の瞳に魅入られたように見つめてしまった。瞳孔がありえないのだが、琥珀色に輝いているように見えてしまったのだ。呆けてしまった俺に叔父が割って入ってきた。
「この人が解呪師の
「稲生正芳です。今日はよろしくお願いします」
我に返った俺が緊張気味に挨拶をすると、その女性はベッド脇に歩み寄って微笑みながら白い手を差し出した。
「初めまして。私が解呪師の
握手を求めたのだろうが、俺は腕を前に突き出せないので戸惑ってしまった。
土御門さんはハッとした顔をした。
「ごめんなさい。腕を動かすのは難しいわよね」
彼女は自分から俺の手を握ってくれた。これが土御門さんとの初めての出会いだった。
挨拶を済ませた後、俺は叔父、それに土御門さんを含めた三人で作戦会議をすることになった。
ヘルパーの坂口には外で待機してもらうことにした。彼は霊感が強いので怪異の影響を受けやすいから危険だという叔父の提案によるものだった。
ヘルパーが退室すると同時に土御門さんが開口一番に「今回の対処方法を伝えたいのだけれど、いいかしら」と言った。
「正芳君。あなたにかけられた呪いについて説明させてもうわ」
そう言って土御門さんが居住まいを正した。
「はい。是非とも聞かせてください」
「正芳君が受け取った手紙を拝見させてもらったのだけど、あの手紙には死霊を召喚する術式が記されていたわ」
死霊? 術式? ……オカルトで眉唾な話が飛び出しそうな雰囲気にも思えたが、土御門さんが冷静に粛々と伝えてくる様をみて、ほら話をしているようには思えなかった。
「ええ。死霊を操って呪いたい相手に死をもたらす呪術よ」
「なるほど。ちなみに昨日、一昨日と二日続けて現れた奴らは何者でしょうか?」
「それも呪術で呼び出された死霊だと思うわ。一度に殺さないのは精神的に追い詰め、絶望に陥れた上であなたを殺したいという術者の趣向によるものかも」
「何だか怖くなってきました」
「大丈夫よ。私が必ず助けて見せるから」
あの瞳が俺の胸のなかに突き刺すように、しかし穏やかな気持ちにもさせる説得力をもたせた視線を投げかけてきた。
「ありがとうございます」
「ただ、正芳君にも少しだけ頑張ってもらう必要があるの」
「え? 俺に何ができるのでしょうか?」
予想外の提案に俺はどぎまぎして次の言葉を待った。
「そんなに難しいことじゃないわ。死霊があなたの体に触れる寸前まで一言も発せず、じっとしてもらえればいいの」
それなら簡単だ。
「そのあとは?」
「私がいいタイミングで死霊の動きを封じる。その後、私はさらに
呪殺返し? 何だそれは。それに……。
「俺がこんなことを言っていいのか分かりませんが、それなら土御門さんが死霊を払った方が早いのでは」
「私もそうしたいのだけど、この呪いは厄介なのよ。呪われた本人が打ち勝とういう意思がないと術を破れないわ」
「そういうことか。でも、呪殺返しの呪歌なんて聞いたことないけど覚えられるかな」
「呪殺返しの呪歌とは、文字通りに呪ってきた相手に呪殺を打ち返す呪文よ。覚えなくても私を真似して口にするだけで効果は出るから安心して」
「口真似するだけなら俺にもできるかも。少し不安だけど頑張ってみます」
「そう。良い返事が聞けて安心したわ。ところで蕭山さんからアドバイスはある?」
「えっ、ワシから?」
押し黙っていた叔父はいきなり土御門さんに話を振られて驚いていた。
「……いや、ワシから言うことは何にもない。正芳のことはあんたに任せるよ」
「やっぱりそうよね。蕭山さんは呪いが不得意だもの。だから、呪い絡みの依頼は私に手伝わせるのよね?」
土御門さんは意地悪そうな笑みを叔父にぶつけた。
それに対して叔父は頭を掻きつつ、苦虫を嚙み潰したよう苦い顔をした。
「ああ、その通りだよ……それにしてもよ、報酬のうち七割を持ってくなんて鬼女だな」
「何か言ったかしら?」
「何でもねえよ」
俺は土御門さんに弱みを握られた叔父の滑稽な姿を見て不安が少し軽減された。叔父は妖怪や悪霊払いは得意なようだが、相手が呪いを絡むとまるで役に立たないようだ。
叔父の信頼性はともかく、呪いの対処方法は明確になった。
まず、俺はベッドの上で死霊が現れるのを待ち続ける。叔父と土御門さんの二人は部屋の隅で待機するということになった。土御門さんの話によれば死霊というのは丑三つ時に現れるらしく、それまでは軽く仮眠を取っておくようにとアドバイスされた。命を狙われている状況で眠れるわけがないとも思ったが、午前二時までにはだいぶ時間があった。
瞼を閉じて体だけでも休ませることにした。
がさがさ音がして、その方に振り向いてみると、叔父と土御門さんがコンビニのビニール袋から買ったものらしいおにぎりやインスタント麵などを取り出していた。土御門さんがおにぎりの包みを開いて口に運んでいる姿をみて、その冷静なキャラとのギャップに笑いそうになってしまった。
「それにしても蕭山さん」
「何だ?」
「あなたって本当に呪いが関係してくると役に立たないわね」
「またその話か。いい加減に目上の人間をからかうのはよせ」
「どうして苦手なのかしらね?」
「お前に話すのは悔しいが……ワシには呪いを解除する力がないようだ。単純な呪術なら祓えるのだがな、今回のような
見たことがない複雑な呪術はさっぱりわからん」
「あら、いつになく素直なのね」
「放っておけ」
俺はそんな二人の会話をもう少し聞いてみたくなったが、連日の睡眠不足がたたって気づかないうちに眠りに誘われていた……。
どれぐらい眠ったのかは分からない。部屋の電気は落ちていた。
目が覚めた瞬間、俺は何者かが近づいているような気配を感じた。だが、それは叔父と土御門さんのものではない。自分が仰向けで寝ているベットの近くで二人は待機していたからだ。死霊が出てもすぐには行動しないと言っていた。
やがて、その気配が俺の足のすぐ脇にやって来た。二日連続で鼻腔を刺激したあの匂いも漂っている。
悪寒がするが冷房を強く設定した記憶は無いし、風邪の発熱症状とも思えない。これは間違いない。
瞼を開けて状況を把握したかったが怖くて出来なかった。ただ戸惑っている俺に次の異変が起こるのは必然だった。
何かが足元から這ってきたような感触がタオルケット越しに伝わる。
俺の腰の上にさらに覆いかぶさるようににじりあがって来た。
呼吸はできるのだが全身に強い圧力がかかっているような感覚。冷汗が額から流れ落ちた。
俺は意を決して両目を開いた。
ゆっくりと目が室内の暗さに慣れるのを待ち、自分の体の上に視線を向けてみる。
そこには禍々しい雰囲気を漂わせた異形の者がいた。そいつは黒い色をした人型の化け物だった。影をそのまま人間の形に切り取ったような感じだ。その大きさは明らかに2メートルはあった。
頭部らしき部分には目、鼻、口、耳すらもない。
目をそらしたいのに、のっぺらぼうの顔が視界に入り続け、その変化を目の当たりにしてしまった。
苦悶に満ちた見知らぬ人間の顔がうっすらと浮かび上がり、喜怒哀楽様々な表情に変化しては消えていく。
それが何度も繰り返された末、白い仮面にすり替わった。
それは
しかし、普通の能面とは明らかに異なっている。
仮面の眼窩におさまっている目玉は作り物ではなかった。それは生きているのだ。濡れた目玉が闇の中で怪しく輝いていた。その血走った目にはまるで獲物を追いかけている肉食動物のような獰猛さがあった。
俺はその化け物と視線が重なった瞬間、声が出せなくなった。指先や首を動かすこともできない。この感覚は金縛り
……。
「……シニソウラエ……タタラレソウラエ」
そいつは女の声とも男の声ともつかない、くぐもった声で片言の言葉を発しながらこちらを凝視し続けていた。
しばらくの間、化け物は俺のことを品定めするように眺めていた。その後、奴は何かを思いついたように動き出し、両腕
をこちらに向けて伸ばしてきた。繊毛に覆われた指がゆっくりとだが確実に近づいてくる。動きは緩慢だが全身からどす黒い鬼気のようなものをみなぎらせていた。
俺には相手が何をしようとしているのか気づいていた。
奴は俺の首に手をかけて絞め殺そうとしているのだ。
やがて、自分の首筋に化け物の指腹が触れる。あまりの冷たさに全身の毛穴が粟立つ。叔父たちを呼ぼうと必死に口を開けて叫ぼうとしたが声が出ない。
気が遠くなっていく。これ以上はもたない……かすんでいく目の隅に土御門さんの姿が飛び込んできた。
「
と彼女は陰陽師の言霊を吐き、懐から護符を取り出して死霊の顔に投げつけた。
すると、見事に護符が死霊の面の額にぴたりと張り付いた。
その瞬間、死霊の動きがピタリと止まったのだ。再生された映像を一時停止させたように身動き一つしない。
呼吸が楽になり、ゆっくりと息を吐きだした。指先なら動かせる。
「正芳君、チャンスは今しかないわ! 行くわよ」
「わっ、分かりました」
俺は混乱しつつも土御門さんの指示に従うことだけは忘れなかった。
土御門さんは深呼吸をゆっくりとした後、呪殺返しの呪歌を口にした。苦行僧が読経するように一定の音程に整えながら息をしぼりだすようにフレーズを化け物に投げ続けた。
俺も必死に一言一句違えぬように必死で真似をした。
「祓え給え、清め給え。守り給い、さきわえ給え」
「死霊を切りて放てよ
すると、般若の面をつけた黒い化け物がうなり声を発しながら苦しそうに身をよじらせた。奴は伸ばしてきた腕を引っ込めて、両手で自分の頭を抱えながらさらに悲鳴を上げた。耳をつんざくような鳴き声だったがすぐに止んだ。
化け物は全身から白い煙を噴き出し、それとともに急激に小さくなっていく。……最後に恨めしそうにこちらを睨みつける目玉だけが残り、それも消滅してしまった。
俺は目まぐるしく変化していった現象を目の当たりにしたせいか、助かったことに安堵するのも忘れて放心状態となっていた。
土御門さんはそんなこちらの様子を見て微笑んだ。
「終わったわね」
「……はい。まだ頭が混乱してますが」
「すぐに落ち着くと思うわ。ゆっくり眠りなさい」
「わかりました。あっ、ところで叔父は?」
「ん? 蕭山さんなら部屋の片隅で眠っているわよ」
耳をすますとイビキすら聞こえる。叔父のあまりの豪傑ぶりに呆れたのを通りこしておかしくなってしまった。
「私はこれで帰るわ。蕭山さんにあとで代金はしっかりいただくと伝えておいてね」
「わかりました。ふんだくってやってください」
「ヘルパーさんにはお部屋に戻るように伝えておくわね。それじゃあ、また何かあったら呼んで。すぐに会うような気はしてるけどね」
え? 首を傾げた俺に土御門さんは反応せず、ゆっくりした足取りで退室していった。
ヘルパーの坂口が戻ってきた後、俺は朝までもうひと眠りしようと考えていた。だが、なかなか眠ることができなかった。死霊と対峙したときとは反対に、体内に熱を帯びていた。自覚している以上に自分は恐怖を抱いていたのだと気づいた。ただ、襲われた時は必死で生き延びようという気持ちが恐れを緩和させたことで、どうにか対処することができたののかも知れない。さきほどの出来事を思い返しながら逡巡しているうちに疲れがにじみ出してきたのか、やがて俺は深いまどろみに落ちていった————
(急)
翌日の昼下がり。
俺は叔父とアパートの一室でテレビのニュース番組を眺めていた。
自分は電動車椅子に乗った状態。叔父はテレビの前の床に座ってインスタントラーメンを食べている。
———本日未明。A警察署の拘置所で拘留中だった安達雅史・容疑者が死亡しました。死因は不明とのことです。
女子アナウンサーが神妙そうな面持ちで原稿を読み上げていた。
「あの夜、土御門が言った通りになったな」
叔父がラーメンの麺を啜りながら呟いた。
「確かに」と俺は静かに頷いた。
叔父の「土御門が言った通り」というのは、安達の死についてだった。彼女は呪殺返しの呪歌とは呪ってきた相手に術を跳ね返すものであり、呪いを返された人間は死ぬと言っていた。
俺は呪いというものが現代社会において、今も息をひそめながら続いていることに背筋が凍った。怪異は恐ろしいが人間の怨念もなかなかに厄介なものだと思った。
「ところで、安達はどうして俺を恨んでいたんだろう?」
俺は殺されそうになったばかりなのに、呑気にそんな疑問をぶつけた。
だが、叔父は当然だと言わんばかりの顔で「そればかりは安達本人にしか分からん」とぶっきらぼうに言った。
自分の言動に問題はないと思っていても他人がどう受取るかは分からないと続けた後に「お前は想像力が足りない」と説教じみたことを言い出した。
「だいだい、お前は思いついたことを口にする。ものには言い方というものがだな………」
「ああ、分かったよ。今後は気をつけさせて頂きます」
俺は叔父の話が長引きそうなのを察して、反省の意を表明することで講釈を中断して頂いた。
「理解しているなら良いだろう。酷い目に遭ったばかりだしな。今日はこの辺で帰ってやるよ」
叔父は空になったカップ麺の容器を片手に床から立ち上がり、玄関口のゴミ箱が置いてある方向へと歩いて行った。
「まあ、怪異にも人間にも気を付けることだな」
「叔父さんも土御門さんに報酬を取られ過ぎないようにね」
「そいつを言われると返す言葉もないな。ワシも修行がたらんようだな」
叔父は笑いながらそう言うと容器をゴミ箱に放り込んで、そのまま帰って行った。
「ゴミは持ち帰れよ」と、呼び止めようとも思ったのだが面倒くさいのでやめた。
それから一週間後の晩。
ちょうど、俺が暗い寝室のベッド上で横向きになってウトウトしている時のことだった。暗いと言っても室内の窓から街灯が入り込んでいるので、人影ぐらいならわかる状態だ。
ふと、人の気配を感じて目が覚めた。
視線の先は寝室と吹き抜けになっているリビングルーム。
その部屋の天井から吊るされた蛍光灯の下に人影があった。夜勤のヘルパーは5分ほどとっている喫煙休憩中なので、彼ではないはずだ。薄暗いので顔は判然としない。
俺が人影を凝視していると突然、声が聞こえてきた。
「……稲生君」
囁くような声だった。
だが、鮮明に言葉が頭の奥へと伝わってくる。
誰だ! 俺は意を決して声をかけた。
「僕は安達だよ。中学校時代の同級生」
「安達君? 君は死んだはずでは?」
「そうだよ。確かに僕は死んだ。だけど、恨んではいないよ。むしろ、今日は謝罪と感謝を伝えにきたんだ」
「謝罪と感謝?」
俺には訳が分からなかった。安達は俺を恨んでいるはずであり、だから今回の怪事件が起きたのだ。
それを謝罪に感謝だと?呪いが失敗したことに後悔していてもおかしくはないはずだ。
「特にもう一人の自分が暴走するのを止めてくれて感謝しているよ」
「もう一人の暴走? ちょっと、詳しく教えてくれないか」
「もちろんだとも。ただ、長話になるけど……」
安達とおぼしき人影はそう言うと、過ぎ去った過去に想いをはせるように天井を仰いだ。
「あれは……」
彼は淡々とした口調で語り始めた。
あれは小学生の頃。ある時、僕は上級生に身に覚えがない因縁をつけられた。そのことに抗議したのだが逆に相手を逆上させることになり、思いきりぶん殴られた。
僕はそれが悔しくて上級生を憎しみのこもった目で睨んだ。
「何だその目は? まだ、殴られたいみたいだな」
上級生は悪意に満ちた笑みを浮かべていた。
「お前なんか死んじまえ!」
僕は激情にまかせてそう叫んだ。
相手は顔を真っ赤にして「減らず口を叩けなくしてやる!」と拳を振り上げた。
その瞬間、異変は起きた。
上級生は鼻や口から大量の血液を噴き出していた。
その後、彼は病院に救急搬送されたが結局は助からなかった。死因は分からなかったようだ。
僕は自分に恐ろしい力があることに気づいた。
そのことを同居していた祖母に相談したことがある。
祖母は蒼ざめた顔で「それは人を呪い殺す力だよ。いいかい、これからは二度と人を憎んではいけないよ」と忠告してくれた。
祖母の話によると安達家は代々、
廃業後は一族の者で呪いの力を持った人間が生まれることはなかった。ところが、僕だけが突如として先祖返りをしたらしい。
僕はそれ以来、誰にどんな嫌なことをされても怒らないように我慢した。「他人が死ぬくらいなら自分が我慢すれば良いのだ」と言い聞かせれば暴走を抑えることはできた。だが、我慢する時は必ず頭痛と一緒に変な声が頭の中で聞こえてくるようになった。
「お前はどうして我慢するんだ? 気に入らない奴は殺してしまえよ」
「嫌だよ。僕は誰も殺したくない」
「何を弱気な。俺たちには力があるのに勿体無い」
僕は変な声と何度もそんな言い争いを繰り返した。気がついた時には奴はいつでも頭の中にいるようになった。
稲生君みたいに普通の人格を持っている人にはわかりづらいよね。
まあ、簡単に言うと僕は二重人格者だったと言うことだよ。自分の中に秘められた呪いの力がいつしか、もう一つの人格を生み出したというわけさ。
ここから紛らわしくなるから二つの人格を言い換えるよ。
まず、僕の本来の人格を「人格A」と仮定しよう。僕は争いを好まない。誰も死んで欲しくない。
だけど、もう一人の人格はまったくの別人。これを「人格B」としよう。この人格は人間そのものを憎んでいる。執念深い性格で隙さえあれば誰かを呪い殺そうとする奴だ。
僕は今まで奴を理性で押さえつけてきた。いつ暴走してもおかしくはないから誰とも親しくしないように努めていたんだ。誰にも愛情を抱かなければ、誰かを憎むこともないと考えていた。そのせいで中学校時代も友人
を作らず、イジメのグループに目をつけられてしまった。
だけど、稲生君。君だけが人として声をかけてくれた。そのことは理性を維持する上でも役立ったよ。
自分を見守ってくれる人がいると思えば希望を持つこともできる。
まあ、人格Bは稲生君をひどく憎んでいたけどね。君のことを偽善者呼ばわりしていたから、奴を何度も眠らせてやったんだ。その眠りは人格Bにとって苦痛だったようだから懲らしめてやった。
でも、心が不安な思春期は人格Bを抑制するのに苦労したよ。今までは僕の頭の中で話しかけてくるだけだったが、しだいに肉体の主導権を狙うようになってきた。
それでも僕は絶対に主導権を渡さなかった。人格Bを完全に消滅させることはできないけれど、抑制することはできたからね。だからこそ恋人を持つこともできたんだ。人格Bの性欲を満たすことで、相互扶助的な方向へ向かわせようとした側面もあったけれど。
それが、あの事件現場で殺人犯と遭遇した時から自分の運命は変わってしまった。
あの殺人犯の禍々しい怨念は僕の体内を浸食していった。その悪影響で人格Bの力が増大してしまい、僕は奴に強く抵抗することができなくなった。人格Bは自らを悪鬼と自称するようになった。
彼女と口論するようになったのもこの時期だった。
僕はそれで「いずれ奴は彼女を殺すのではないか?」と危惧した。だから、悪鬼(人格B)が完全に主導権を握る前に自殺する計画をした。一カ月間の失踪はそれが理由だ。
しかし、人間は簡単に自分で死ぬことはできない。富士の樹海にテントをもっていって過ごしながら何度も首吊りや服毒自殺を試そうとしたが、結局は実行できなかった。
気がついた時、悪鬼に主導権を奪われていた。悪鬼はこの僕「人格A」を眠らせることに成功していたんだ。その間、悪鬼は僕の肉体を操って彼女を殺害した。人格Bにとって彼女は性のはけ口の道具でありおもちゃに過ぎなかったんだ。僕にとっては初めて愛した人間だったのに。
目覚めた時、自分の目の前には惨殺された彼女の死体。
僕は眼前に広がっている光景に絶望し、自分の身を引き裂きたくなったよ。声もない悲鳴というものを僕は味わったんだ。
その瞬間から自分の自我は深い眠りについた。僕は壊れてしまったんだ。悪鬼はこの僕「人格A」の自我を弱体化させるためにわざと絶望的な光景を見せ付けたのだと思う。完全にしてやられたね。
そして、悪鬼は担当の弁護士に「彼女を誰かに殺された挙句、濡れ衣を着せられた」と訴えたようだ。
悪鬼は心神耗弱状態を装うことで刑期を軽くさせ、自由の身になったら大勢の人間を殺そうという悪だくみを思いついたのだろう。
留置所の檻の中で稲生君宛に呪いの手紙を書いたのは悪鬼自身だ。奴は僕と記憶を共有していたし、安達家の先祖の呪殺方法を熟知もしていたから簡単だったに違いない。
だが、悪鬼の運命も尽きたようだね。
奴が君に倒された瞬間、僕の肉体も息絶えた。その衝撃でこの僕「人格A」の自我だけは目覚め、幽霊として肉体から離脱した。それから一週間、過去の記憶を辿りながら自分とゆかりのある場所を彷徨い歩いていた。
それで二人分の記憶を整理した上でいま、こうして君の前に現れたわけだ。
安達は「分かってくれたかな」と穏やかな口調で長い話を締めくくった。
俺は驚きながらも腑に落ちなかった疑問に答えが得られたので満足した。安達という男がそんな過酷な状況に
あったとは思わなかった。それが自分だったらと思うと恐ろしくなる。一年と持たずに肉体を奪われていたことだろう。
安達は改めて、
「今回は悪鬼の暴走を抑えられず、君を巻き込んでしまったことを許してくれ」
「別にもういいさ。死にそうになったけど、今は生きているからね」
「そうか。ありがとう。君が悪鬼を倒してくれたおかげで、被害が増えることもなかった」
「まあ、叔父さんに護符をもらったからなんだけどね」
安達はもう少し話したいような様子だったが突然、思い出したように「そろそろ行かなくては」と寂しそうな声で行った。
「行くって、どこへ?」
「あの世だよ。もう思い残すことはない。もし、来世で会うことがあったら親友になりたいものだ……」
安達はその言葉を最後に姿を消し、後にはいつものように車椅子が事務机の前にたたずんでいた。それでも俺は知らず安達の見果てぬ姿をどこかに探しているような悶々とした気持ちは残った。
俺は涙を流していた。中学校時代に勇気を振り絞って、安達と仲良くすれば良かったと後悔していた。
だが、すでに過ぎ去った日々———失われた過去を取り戻すことはできない。当たり前のようだが人間は与えられた時間を後悔しないように生きようと努力する。それでも人間は後悔の一つは持っているものだ。どんな後悔にせよ、その人間が生きてきた証の一部であり、それを結局は受け入れつつ生きるのが人間の姿なのかも……。と同時に誰からも完全に恨まれていない人間などいないのだと思いつつ、心の奥にこそ魔物が潜んでいるのだと理解した。
だが、俺はなるべくなら他人に恨まれないように生きたいものだと心の中で呟くのだった。
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