途中下車

あじろ けい

第1話

 スイッチが入ったかのようにパチっと目が覚めた。習慣で目覚まし時計を見る。時刻は朝の六時十分。目覚ましは六時半にセットしておいた。目覚ましが鳴る前に目が覚めてしまうと何だか損した気になる。二十分という中途半端な時間とはいえ、起きる気にはなれず、私は目と閉じて布団にくるまっていた。


 もう二十分経っただろうか。夢うつつの心地で目を開け、目覚まし時計をみやる。時刻は六時十分。うたた寝してしまったかと思ったが、気のせいだったか。瞼を半分閉じかけたところで、私はかっと目を見開いた。カーテンの隙間から漏れ混んでくる光は部屋を明るくしかけている。六時過ぎのはずがない。壁掛け時計に目をやる。時刻は七時を過ぎていた。


 目覚まし時計は電池切れで止まっていた。起こしてくれてもよかったのにと妻のベッドを睨みつけた。妻のベッドはもぬけの殻だった。


 着替えながら階下へと降りていく。朝食の仕度もなく、妻はすでに出勤していた。


 速足で歩きながら駅を目指す。寝坊したとはいえ、急げば電車には間に合う。

 改札をすりぬけ、ホームへのエスカレーターに飛び乗った。空いている左側を駆けあがっていく。


 急ぐ私の行く手を、男が阻んだ。男はエスカレーターの左側通路に立っていた。男の右側にはサラリーマンが立っている。体の横幅がエスカレーターの幅ほどもある大柄な男で、隣に立つサラリーマンは窮屈そうにしていた。


 サラリーマンの前後にも人が立っていた。男を避けて昇るのは不可能だ。私は仕方なしに男の背後に立った。


 電車はすでにホームに入っていた。男の肩越しに、乗り込んでいく人々の姿が見えた。男はエスカレーターのステップから降りるのに手間取った。電車のドアは私の目と鼻の先で無情にも閉まってしまった。


 まだ希望はある。朝の通勤ラッシュ時間帯だから五分と待たずに次の電車がくる。私は電車が入ってくる方向に顔を向けながら待った。


 隣に男が立った。エスカレーターにいた大柄な男だ。毛深い男で、顔の鼻から下はびっしりと髭で覆われている。スーツを着ているが、サラリーマンではないだろう。どんな職業なら、髭面が許されるのだろう。


 電車が入ってきたので、男の正体をさぐる考えは途切れた。


 車内は混みあっていた。立つことができるスペースはわずかにしかない。ドアが開くなり真っ先に乗り込んだ男のせいで車内は満員状態になってしまった。


 車掌がやってきて、無理やり私を車内におしこめようとした。背中は車掌に押され、腹は男のでっぷりとした腹に押し付けられ、窒息しそうになった。


 ドアが閉まりかけた瞬間、男がふんと息を吐き、その勢いでてっぷりとした腹に押し出されるようにして私の体は車外に吹き飛ばされた。


 ホームに転がる私を後目に電車は出発した。

 憤慨しつつ、私は次の電車を待った。


 次に来た電車も混んでいた。ラッシュ時だから仕方がない。二本も電車を乗り過ごしてしまったが、駅から走れば何とか遅刻は免れるだろう。


 吊り革につかまりながら、ぼんやり車内広告を読んでいた時だった。


「ちかん!」と、声があがった。


 誰だと顔をめぐらせて、隣に立つ制服姿の女子高生と目があった。女子高生は私を指さし、「この人、ちかんです!」と叫んだ。


「ち、違います! 私じゃない。触ってなんかいませんよ! ほら、両手とも吊り革に捕まっているでしょう?」


 口角に泡を飛ばしながら、私は反撃した。周囲の蔑むような視線が矢のように刺さる。脂汗がにじんできた。


「誰か、警察を呼んでください!」

 女子高生は喚き始めた。


 私は焦った。このままではちかんに仕立て上げられてしまう。


「逃がさないから」


 女子高生はぐっと私の腕をつかんだ。女の子にしてはやけに力がある。私の腕をつかんだ女子高生の手をみて私はぎょっとした。


 毛深いなんてものではない。毛がびっしりと手の甲を覆っている。短いスカートの下からみえる二本の足もみっちりと毛に覆われている。


「次の駅で降りて、警察に突き出すから」

「私じゃないって言ってるじゃないですか」

「その話は降りてから、ゆっくりしようよ」


 女子高生は鉄道警察に私を突き出すつもりでいる。絶対にちかんなどしていないと自分では言い切れるのだが、証明ができない。触られたという被害者の言い分がすんなりと通ってしまうのだ。


 私は女子高生の手を払い、ちょうど開いた電車のドアからホームへと脱出した。


「誰か、警察! 警察の人を呼んで!」


 そう叫びながら、女子高生が追いかけてきた。車内から吐き出された常客や、ホームにいた人間までもが大挙して私の後を追ってきた。


 決して捕まってはならない。冤罪だとしても、ちかん扱いされたとあっては一生の終わりなのだ。


 私は力の限り走った。階段を駆け下り、手近なところにあったトイレへとかけこんだ。


 個室のドアを閉め、息を整える。


 心臓がバクバクいっている。全力疾走したのは高校時代の体育祭以来だ。喉が渇いて何度も咳き込んだ。唾を飲み込んでどうにか乾きを癒す。あがった息はなかなかおさまらなかった。日頃の運動不足がたたったのだ。そういえば、会社の健康診断で、暴飲暴食を控えるようにと忠告されたのだった。気は若いつもりでいても体は四十過ぎなのだからと妻にも釘を刺されたんだっけ。


 ちかん捜索を諦めただろうかと個室のドアを開けたその時だった。


 目の前に毛むくじゃらの顔があった。例の男だ。男は「ここです!」と叫んだ。

 とたんにわらわらと人が集まってきた。私は捕らえられ、トイレの外へと引きずり出された。トイレの外で私を待っていた人物は警察官ではなく、救急隊員だった。


「お巡りさん、お願いします!」


 毛むくじゃらで大柄な男は私を救急隊員に引き渡した。救急隊員は私を担架に乗せるなり、人口呼吸を施し始めた。


 

 息苦しさのあまり、目が覚めた。目の前に毛むくじゃらの顔がある。くりりとした茶色の瞳、尖った鼻、ふさふさの垂れ耳。愛犬のイチローだ。イチローは、私の顔を舐めまわしていた。


 イチローは洋犬の血がまじっているらしい雑種の犬である。雷のひどかった日、我が家の庭先で雨宿りをして以来、居ついてしまった。勝手に居ついた犬だから年はわからない。ここ二、三年で白髪が混じり始めたので若くはないのだろう。


 食い意地がやけにはっていて、人が食べているものを食べたがる。十分に食事を与えているにもかかわらず、空腹そうな顔をして、妻におやつをねだるちゃっかりものだ。


 週末はゆっくり寝過ごしたいのに、目覚ましが鳴る時刻に寝室にやってきて人の顔をなめて起こす。朝食を要求し、食べるだけ食べて、自分は二度寝する。わがままな犬だ。


 退院後、私は自宅で療養している。ゆっくり寝ていたいところだが、イチローは自分の都合で起きてもらいたい時には容赦なく私の顔を舐めて起こす。


 何が起こったのか、私は知らない。イチローの散歩に近所の小学校まで行ったところで私の記憶は途切れている。妻によると、小学校の校門近くで私は倒れていたのだそうだ。心臓発作を起こして倒れた私のそばをイチローは離れず、吠えて道行く人の気を引いた。たまたま通りかかった人が非番の救急隊員で、心臓マッサージをしながら救急車を呼んでくれたのだという。そういう妻の話も、救急隊員からのまた聞きだった。救急隊員はイチローがしていた迷子札に連絡をし、妻は私が倒れたと知らされたのだった。


「イチローに足向けて眠れないわね」と妻は笑う。


 イチローは今、私のベッドで眠る。犬と一緒のベッドに寝るようになるとは、イチローを飼うまでは、いや、イチローを飼い始めた頃には思いもしなかった。


 あのまま電車に乗っていたらどうなっていたのだろうと考えると背筋が寒くなる。行き急いでいた場所はたぶんあの世だ。


 エスカレーターをすいすいと駆けのぼっていってしまっていたのなら……車内から突き出されなかったら……ちかんに間違われなかったら……。


 イチローは何が何でも私をあの世行きの電車には乗せまいとしたのだ。


「ありがとな、イチロー」


 私はイチローの頭をわしづかみにして撫でてやった。ふさふさした垂れ耳はツインテールに見えなくもない。


「そうか、あの女子高生もお前だったか」


 イチローは嬉しそうにシッポを振ってみせた。

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