堕天使クロードの大切な一枚
降矢めぐみ
第1話
「よォ、俺を呼んだのってお前?」
冷たく笑う男。悠里の目に留まったのは長い黒髪でも、赤い瞳でもなく、背に纏った大きな黒い翼だった。
梅雨のシーズンなので、通学時間帯も雨は免れない。自転車通学の悠里にとっては億劫だが、身支度を整えると、傘ではなくきちんとカッパを着てサドルに跨った。
悠里はこう見えて成績はかなり上位に入る方だ。「こう見えて」というのは、進学校では目立つ、茶髪に短いスカートゆえだった。スタイルの良さを見せたいために、シャツはウエストに収まっているが。しかし、何度注意されても従わず、親も成績にしか興味がない。加えて成績優秀な悠里に、口を閉じていく教師が増えていった。
いつもどおり退屈な一日を終えた。雨が酷いので親に迎えを頼み、真面目に部活動に参加した。部活動への入部が必須のこの学校では、活動がゆるい写真部に入部を決めた。
部活動終了時刻が近づくと、音が耳障りなほどに強まっていた。台風が近づいているから早めの下校を、と流れた校内放送で、本日の天気を初めて知った。
暇つぶしに勉強でもしようと足を運んだ図書室で、気まぐれに本棚を眺めて歩いた。雨音がうるさくて集中できないのだ。
ふと悠里の目に留まる本があった。背表紙にタイトルはなく、カバー全体が真っ黒だ。一体、何について書かれている本なのか。
それは悪魔に関する内容だった。とは言っても説明書きではなく、ファンタジー小説だ。不思議と惹きつけられ、ページをめくっていると、一部がくっついていて読むことができない。
「なんだ、ちょっとおもしろかったのに」
悠里は不服そうにページの天側をなぞった。すると一体どういう仕掛けなのか。眩い光に包まれたかと思うと、目の前に男が現れた。
家に帰った悠里は、机に向かって黙々と勉強していた。そこまで熱心にする必要はないが、今突きつけられている現実から、少しでも目を逸らしたかった。
「悠里、お前って真面目なのな」
悠里に興味があるのかないのか、抑揚のない声が悠里の耳を撫でた。この男は人間ではない。「クロード・ルシファー」と名乗る彼は、堕天使だった。
✳︎
「よォ、俺を呼んだのってお前?」
悠里は開いた口が塞がらなかった。もしや夢をみているのでは、と思って頬をつねってみるも、ただ痛いだけだった。
「お前じゃない」
悠里が開口一番にこんなことを言うと、男は楽しそうに顔を歪めた。冷静に自己紹介まで済ませてしまったところで、母親からの到着の連絡を機に、悠里は一目散に図書室を出た。
✳︎
悠里が帰った時には、すでにベッドでくつろぐ彼の姿があった。勉強に飽きた悠里は、クロードをまじまじと見つめる。
「あの本には『悪魔』って記載があったけど」
「そうか」
クロードはあまり興味がなさそうだ。
「『ルシファー』って言うと、堕天使じゃないの?」
見た目とは裏腹に博識な悠里に、打って変わって彼は体を起こした。
「まあな。俺の親父が反逆しちゃったからな、これから生まれる子には『サタン』の名がつく。親父はサタンに改名して、改名を拒んだ俺は、本の世界に閉じ込められた」
「本の世界?」
それは悠里が見つけたファンタジー小説だった。クロードはあの世界で貧しい農民を救わねば、本から抜け出せないと神様に告げられたらしい。
「なのに、なぜか出られた」
クロードは悠里に近づくと、これでもかというくらいに顔を寄せた。
「だから、感謝の印に悠里、お前の願いを一つだけ、無償で叶えてやる」
クロードが現れて一ヶ月が過ぎた。彼は相変わらず悠里のそばにいるものの、悠里以外の人には見えない。だからクロードが隣にいても、悠里は一言も喋らなかった。
コンビニに寄ると、懐かしい顔があった。悠里が小学校の時にいじめたクラスメイトの
「なんて顔してんだか」
クロードが話しかけてきたのは、家に着いた時だった。
あの頃は子どもだった。大人びていると言われる今の悠里にとって、消し去りたい過去だ。けれど、それを心から望んでいいのは李子であって、自分にはその権利はない。
「二度とやらなきゃいいだろ」
あっけらかんとクロードは言った。それだけで、悠里はどこか救われた気分になった。
週末、悠里はクロードを連れて、近所の公園で写真を撮っていた。義務だからと入部した写真部だが、次第に悠里の心を掴んでいた。
カメラや写真に馴染みのないクロードは、不思議そうにレンズを睨みつけている。興味津々な彼に、悠里は撮り方を教えた。
「クロードは、お父さんを恨んでる?」
口にしてから、踏み込んでよかったのかと悠里は後悔したが、クロードは答えてくれた。
「……別に。むしろかっこいいと思った。実際にあの世界の体制は悪化してたからな。ただ家族も巻き込まれた」
寂しそうなクロードの顔が、コンビニを出る時に振り返り様に見た李子と重なった。しかし、それと同時に彼がとても綺麗に見えた。
帰る途中にコンビニに寄り、写真をプリントした。床に並べて、ある写真を探したが見つからない。
「あれ?」
クロードがよそ見をした時を狙って、彼を撮ったはずなのだが。その景色だけが残っていて、彼の姿は映っていなかった。
「俺は映らねーよ。この世にいないはずの存在だから」
「……そう」
それから悠里は、よく写真を撮りにあちこち出向くようになった。写真の腕も上達したらしく、同じ部の
「朝霞さん、写真好きだったんだね。気分を悪くしたらごめん、でも適当に活動してるのかと思ってたの」
悠里は何も言えずに目を逸らしたが、クロードがふわりと背中を押してくれたのが分かった。
「……まあね。でもよく分かんないから、撮り方教えてくれない?」
真澄は一瞬目を見開いたものの、すぐに満面の笑みを浮かべた。
久しぶりに充実した時間を過ごした悠里は、晴ればれとした気持ちだった。そんな様子の悠里を見て、クロードは静かに告げた。
「綺麗だよ、写真とやら。記念に一枚もらってく」
クロードは床に散らばった写真の一枚に手を伸ばすと、ベランダに出て羽根を広げた。
「なーに寂しそうな顔してんの?」
クロードにそう言われ、悠里は我に返った。
「は、そんな顔してないし。てか、願いを叶えてくれるんじゃなかったの? キスで私を落としてみせてよ。そしたら——」
クロードの唇が悠里の唇に触れていた。長く深い口づけだった。
「変われるさ。変化にはエネルギーが必要だが、悠里なら大丈夫だ。もしエネルギーが足りないと思ったら、この写真を見ればいい」
最後にそう残し、クロードは夜の闇に消えた。
クロードは夜空を舞いながら、星と街の光を見つめた。
「……叶えてやったぜ。お前の『変わりたい』という願い」
それから、クロードが悠里の前に現れることは二度となかった。
「悠里ちゃん、その二枚の写真をいつも大事そうにしてるよね」
自分たちの子どもを抱えながら、悠里の自宅で真澄とティータイムを楽しんでいた。あれから意気投合し、今ではママ友になった。
彼女の言う二枚とは、悠里がクロードを映したはずの写真と、クロードが試しに自分でシャッターを押した写真だった。
「懐かしい感じがするんだよね。なんでかは思い出せないけど」
悠里は二枚の写真を見つめ、照れくさそうに微笑んだ。
堕天使クロードの大切な一枚 降矢めぐみ @megumikudou
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