従者の快眠奮闘記

奏 舞音

従者の快眠奮闘記

 深い、深い、森の奥。廃れたお城がありました。

 そこは、かつては栄えたある王国の、大切なお姫様が眠る城。

 嫉妬深い、おそろしい魔女の呪いによって、お姫様は国が滅んだ今も、城で眠り続けているという……。

 当時は嘆かれた“眠り姫”の話も、いつからかおとぎ話となり、人々の記憶からは薄れていきました。


 ――しかし、国が滅び、人々が忘れてしまっても、そのお城には、お姫様を守ると誓った従者がまだ住んでおりました。



  ◇



 真っ白いシーツがバルコニーに干されている。あたたかな風にゆらゆらと揺れ、気持ちよさそうだ。

 頭上で眩しく輝く太陽を見て、笑みを浮かべる男が一人。

「姫様~、今日の天気もすごく良いですよ。洗濯物がよく乾きますねぇ」

 その言葉に、返事はない。

 男は気にする様子もなく、話し続ける。

「もうそろそろ春がきます。姫様の好きな花がたくさん咲くでしょうね。またお部屋に飾りますから、楽しみにしていてくださいね」

 洗濯物をすべて干し終わり、男は洗濯籠を持って室内に入る。

 その手は、長年剣を握ってきたためにゴツゴツしていて、その身体は鋼のように鍛えられている。

 男の名は、ゼクス。忘れ去られた王国で、最強の騎士だった男。

 数百年、彼は一人でこの城に仕えている――ただ一人の大切な姫様を守るために。


「さ、今日も運動の時間ですよ」


 ゼクスは明るい笑みで、主に声をかける。

 魔女の呪いにより、眠り続けるリィナ姫。

 呪いをかけた魔女を斃しても、姫の呪いは解けなかった。


 ――ごめんなさい、ゼクス。あなたの望みは叶えられないわ。

 彼女を守るために、ゼクスは友人の魔女に頼みこんだ。

 姫の呪いを自分にうつしてくれ、と。

 自分が身代わりになるつもりだった。しかし、それはできなかった。

 だから、ゼクスは人間であることをやめた。

 かつての王国は、魔界の境界線を守備する役目を担っていた。

 ゼクスは魔界の王に頼み込み、永い時を生きる魔物へと変わったのだ。一度、人間としての生を終わらせて。


 そうしてゼクスは、大切な姫の眠りを見守っている。

 ずっと同じ体勢で眠っていては、いくら若い姫の身体とはいえ、血のめぐりが悪くなり、床ずれができる可能性は高い。

 ゼクスは姫の体位変換を定期的にし、ベッドのシーツも毎日取り換え、少しでも姫が快適に眠れるように室内にはアロマを焚いていた。


「今日はオレンジアロマですよ。姫様の大好きな」

 優しく微笑みながら、姫の美しい肌にそっと触れる。定期的にアロマオイルでマッサージすることも忘れてはいけない。

 もちろん、従者として眠る姫相手に一線を越えるようなやましいことは一切していない。騎士道精神で欲望を抑え込むのに、最初は苦労したものだ。

 眠る姫の顔を見る。何か、変化はないか、と。

 穏やかな表情で、姫は変わらず目を閉じている。

 その閉じられた大きな瞳は、きれいなエメラルドグリーン。絹糸のような美しい金色の髪は、ゼクスが三つ編みにしてまとめている。


「いつになったら、俺はあなたの笑顔をもう一度見られるのでしょうね」

 忘れもしない、ゼクスを救ってくれた明るい笑顔。

 身よりもなく、孤独だった自分に優しく接してくれて、小さな手を差し伸べてくれた。

 その日から、ゼクスはリィナ姫にすべてを捧げようと決めたのだ。


 ――姫の呪いは強力だが、いつかは解ける。それまで、お前が魔物として自我を失わずにいられればだがな。


 魔王は、面白い見世物になる、と笑っていた。

 強い意志を持って魔物となったゼクスだが、すでに人間ではない。魔物としての本性が、自我を食い殺す日はくる。

 そしてその日は、遠い未来ではないだろう。


「うっ、ぐぅ」

 まただ。

 姫の美しいやわ肌を見て、ゼクスの内にいる魔物が美味そうだ、とよだれを垂らす。

 あぁ腹が減った。目の前に上等な獲物がいるではないか。若い女の血肉は絶品だ、と黒い囁きが支配する。

「だめ、だ……」

 ぐっと力強く握った拳で、自身を殴る。

 がん、がん、と何度も殴り続ければ、内から聞こえていた声は消える。最近はこんなことの繰り返しで、身体中、青痣だらけだ。


 ゼクスの役目は、姫を守ること。決して、自分が姫を害する存在になってはならない。

 何のために、魔物になった? 姫を守るためだ。

 姫を喰うためではない。

 しかしいつまで、自分は耐えられるだろうか。

 それに、姫が目覚めた時、自分が完全な魔物になり果ててしまえば、姫を襲わないとは言い切れない。

「どうすれば、いいんだ……」

 ただ、大切な人を守りたかった。そのために、側にいたのに。

 魔女の呪いから救えなかった。魔女を斃しても呪いは消えなかった。

 大切な姫の笑顔が見られない。そんな世界は耐えられない。

 誰もが悲しみながらも、諦めて、姫だけを残してこの城を去っていく。

 自分だけが、姫の側にいた。

 しかし、呪いで眠り続ける姫とただ人では生きる時が違っていた。姫のためなら、人ではなくなってもよかった。

 側にいられるなら。守ることができるなら。

 もう一度、姫の笑顔が見られるなら。


「リィナ姫、あなたはどんな夢を見ているのですか? 幸せな夢だといいな。あなたが、夢の中でも笑っていてくれたなら、俺がここにいる意味が少しでもある」


 ゼクスは森の中を歩く。腹を満たさなければ、姫を襲いかねない。

 森には、ウサギや鹿などの野生動物が存在する。ゼクスは魔物の呻きが聞こえると、必ず狩りに出てその飢えを満たす。

 今はまだ、それで耐えられている。それでも、胸が苦しい。

「いっそ、姫のすべてを俺が奪ってしまいたい」

 自我をなくして襲うぐらいなら。姫がたった一人目覚めて悲しむぐらいなら。

 何度、自問自答したか分からない。それでも、何もできなかった。

 ただ毎日、姫の快適な眠りを守るだけ。

 恐怖も、悲しみも、絶望も、憎しみも知らない、幸せで楽しい夢の中で笑っていられるように。


 突如、槍がゼクスを襲った。剥き出しの殺気に、ゼクスはにやりと笑った。

「お、本当にいたな。元人間が」

「こいつが守る姫とやらを喰えば、ものすごい魔力を手にできるんだろう?」

 ゼクスを襲ってきた魔物は三体。どうやら、姫を狙ってきたらしい。それならば、遠慮する必要はない。

「魔王から聞かなかったのか? 俺はこの城へ近づく者には容赦しない、と」

 いい運動になりそうだ、とゼクスは笑いながら三体の魔物を相手取る。かつて最強の騎士といわれた男は、魔物になってさらにその身体能力は増していた。

「口だけか」

 一瞬で三体を斃し、ゼクスは返り血を浴びた服を脱ぐ。血なまぐさい姿で姫の前には行けない。

 ゼクスは井戸から水をくみ、身体を洗う。

 頭を冷やす意味でもちょうどよかった。つい先程抱いていた自分の邪な想いに、ゼクスは蓋をする。


「姫、何事もありませんでしたか?」

 何かあっては困るのだが、昔の癖で、姫の側を離れた後は必ず聞いてしまうのだ。

 優しいアロマの香りが、ゼクスの心も穏やかにしてくれる。

 自然と頬が緩むのを感じながら、ゼクスは姫に近づく。

 すると、今までにはなかった変化が姫に現れていた。

「リィナ姫っ!」

 目尻から、涙が一筋流れている。

「何故、泣いているのですか?」

 目覚める日が近いのだろうか。ゼクスはこの声が姫に届くかもしれない、と期待する。

 しかし、次の瞬間。

 寝室に魔物が現れる。一体、二体、三体……と増えていく。


「俺から姫を奪いにきたのか」


 姫の安眠を妨げるものは、許さない。この寝室に侵入してきた時点で、この魔物たちに未来はない。

 たとえ、十数体の魔物を前にしても、ゼクスに恐怖はない。ゼクスにとって何より恐ろしいのは、姫を失うことだ。

「元人間風情が、俺たち魔物を舐めるなよ!」

 様々な武器を手にした種族もバラバラの魔物が、いっせいに襲い掛かってくる。

 姫の寝室に武器は持ち込まない主義であるゼクスは、魔物の得物を奪い、やり返す。

 ゼクスが数体を相手にしている間に、他の魔物が姫のベッドへ向かう。やめろ。汚らわしい手で姫に触れるな。しかし、ゼクスも魔物だ、姫に触れる権利など本来はないのかもしれない。心に生じた一瞬の迷いが、判断を鈍らせた。剣の切っ先がかすめ、血が流れる。自分の身はどうなってもかまわない。ゼクスは姫のベッドへ近づく魔物に向けて、持っていた剣を投げ、仕留める。丸腰になったゼクスは背中から槍を受けるが、気にしない。姫の身を守らなければ……。


 傷だらけ、血まみれになりながらも、ゼクスは姫の身体に傷一つつけることなく、すべての魔物を斃した。


「リィナ姫、あなたが、無事で、本当によかった」


 しかし、かなりの怪我を負ってしまったゼクスは、意識が朦朧としていた。魔物の本性を抑え込んでいた理性さえも。

 本当に、姫の姿を見るのはこれが最後かもしれない。

 ゼクスは、重い身体を引きずって、姫の顔を覗き込む。いつ見ても変わらない、きれいな寝顔だ。


「リィナ姫、愛して、います」


 ほんの一瞬だけ。ゼクスは姫のかわいらしい唇にキスを落とした。

 目を閉じて、意識が薄くなる。

 人生最後に姫の唇を奪うことができて、幸せだった……ゼクスは微笑み、その場に倒れた。


「ゼクス! 駄目よ、わたしを置いていかないで!」


 再び、ゼクスの唇に優しいぬくもりが触れた。

 忘れたことなどない、小鳥のさえずりのような、自分を呼ぶ声。

 目を開くと、そこには、愛しい姫の姿。見慣れた寝顔ではない、目覚めた姫の姿。


「ゼクス、今まで、本当にありがとう。これからも、わたしの側にいてくれる?」


「もちろんですよ。リィナ姫、愛しています」


 呪いが解けるのを待ち続けた、愛しい姫からのキスで目を覚ます。

 人生最高の目覚めだ、とゼクスは笑う。


「わたしも。あなたが何者でも、愛しているわ」


 呪われ、眠り続ける中でも、時々意識はあったのだ。

 ゼクスの献身的な世話や、無茶ばかりする姿、魔物となった彼を知っていた。  リィナもまた、呪われる前からゼクスを愛していた。

 ようやく目覚め、伝えられた。

 これからは、リィナが彼を幸せにする。




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従者の快眠奮闘記 奏 舞音 @kanade_maine

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