世界の終わりを告げるはずだった朝
梅星
第1話
それは、昏い水底から湧き上がる小さな泡沫が、揺蕩いながらも上へ上へと手を伸ばし、光り輝く水面へたどり着くまでの、ほんの僅かな時に似ていた。
「--ついに来たか」
500年ぶりに、彼は自身の声と言葉を知覚する。もっもと、それは声ではなく、彼の思念そのものである声なき声に過ぎない。だが、これまで長きに渡り、自我さえも忘却の彼方へと置き去りにするほどの深い眠りについていた彼にとっては、そんな些細な独り言さえも、驚きと新鮮さに満ちていた。
「勇者との死闘の果てに、よもやこのような封印を甘んじて受け入れるなど--魔王たる余も堕ちたものだな」
彼--魔王には、未だ形と呼べるものは存在していない。封印によって、かつて彼を成していた全ての情報は、塵のようにとある空間の中に霧散することとなった。だが、500年という長い年月を経て、それらは少しずつ本来の配列へと組み直されていったのだ。そしてようやく構築された、存在の核となるべきもの。それが、今の魔王の全てだった。
「勇者の聖剣は、確かに余の心臓を捉えた。だがそれと同時に、余は、持てる全てをかけて、この世界を覆い尽くさんばかりの呪いを振りまいたのだ。それを止めるには、溢れ出た呪いごと、余を封じ込めるしかなかったというわけか」
鮮明に蘇る自身の最期を、魔王はひどく冷静な心持ちで振り返った。忌々しい宿敵たる勇者への憎悪も、世界を我がものとする野望が潰えたことへの無念も、そこには滲んでいない。
だが、彼は確信していた。今は影も形もない自身の胸中に、それらの感情が、いずれ高波のごとく押し寄せるだろうということを。そして、真の目覚めへと向かう道のりは、それらの昂りこそが導いてくれることを。
「目覚めの時は、近い--!」
「えっ、ほんとですか!?」
唐突に響いた甲高い声に、魔王の存在しないはずの心臓が飛び上がった。いわば彼の精神世界とも言うべき空間に、全く異質な存在が割り込んだのだ。驚いて当然である。
「だ、誰だお前は!」
「初めまして魔王様。私、魔王様の家臣のピノンと申します」
「余の家臣だと……?」
「はい! 正確には、私のご先祖が魔王様にお仕えしておりまして。魔王様が封印されて以降、我が一族は代々、魔王様が閉じ込められているこの宝珠をお守りしてきました」
目も耳もない思念体である魔王にとって、その声がどのような理屈で自身に届いているのかは定かではなかった。そして、ピノンと名乗る声の主の発言内容が、真実であるか否かも、確かめるすべはない。
「お前の先祖は、余の家臣だと申すのか。故に代々、顔も知らぬ余に仕えてきたと?」
「はい! この角、見覚えありません?」
「……余には知覚できぬ」
「えっ、もしかして老眼始まっちゃいました? まぁ500年も経ってますし、仕方ないですよねー」
「…………余はこの500年、眠っていただけだ。故に老いてはおらぬ……おそらく」
ピノンが勇者の使わした刺客である可能性を考慮し、発言内容に矛盾がないかを確かめようとした魔王だったが、予想の斜め上を飛び越える発言に、すっかり気を削がれてしまった。
「……ピノンよ。お前が余の家臣であるということ、ひとまずは信じることとしよう」
「うわーい! ありがとうございます!」
「魔王たる余の家臣なのに、こんな陽気なキャラクターで大丈夫であろうか……」
一抹の不安を感じる魔王だったが、その間にも、塵と化していた彼の魔力は、大きな渦を巻きながら彼の元へ集まりつつあった。少しずつ、だが確実に、かつて人間たちを震え上がらせた恐怖の象徴たる自身へと戻りつつあることを感じた魔王は、気を取り直してピノンへ語りかける。
「我が家臣ピノンよ。余が魔王として再びこの世界に目覚めた時、目の前にはどのような光景が広がっていることだろうな」
「と、いいますと?」
「500年の時を経て、ついに魔族の王たる余が復活するのだぞ? まずはそうだな、世界中から魔族たちが押し寄せ、余の目覚めに歓喜することだろうな」
「えっと……そう、ですかねぇ?」
魔王は、かつて従えていた、地を埋め尽くすほどの魔族の軍勢を思い浮かべていた。黒々と広がるその獰猛なうねりは、地鳴りのような雄叫びでもって、彼の言葉に応えたものだった。
「忠実な我が家臣たちのことだ。切り立った岩山の奥には、既に余の城が用意されているのだろう。余が腰掛ける玉座は--そうだな、余の目覚めにいち早く気付き、愚かにもそれを防ごうとした人間共の骨で作られているに違いない」
「えぇー……座り心地悪そう……」
「そうでもない。余はかつて、やはり余に敗北した人間の骨で作らせた玉座に腰掛けていたのだがな、あれはなかなかの座り心地だぞ?」
妙に否定的なピノンを気にも留めず、己の栄華を振り返りながら、魔王はなおも、これから訪れる自身の目覚めについて語り続ける。
「余の足元には、お前と同じ、かつての腹心の部下の子孫たちが、頭を垂れて余の指示を待つのだ」
「あー……そうだったら良かったんですけど……」
「そこへ、翼持つ馬を操る伝令役が現れ、とある町の若者が、ついに伝説の聖剣を抜いたことを告げる。そう、勇者の誕生だ。余の目覚めと共に、勇者もまた己の運命に目覚めるのだ」
「…………あのですね、魔王様。実はお伝えしたいことが……」
「そして余は高らかに宣言する! 余はついに、500年の時を経て目覚めたのだと! そして、再び世界を我がものとせんことをな!」
「あの、魔王様……」
「どうだピノンよ。これこそまさに、最高の目覚めというべき完璧な--」
「ま、魔王様! まずはその前段階から考えませんか!?」
唐突なピノンの発言に、魔王は一瞬言葉を失った。思い描いていた理想的な目覚めのシーンはあっさりと霧散し、思わずピノンの発言を鸚鵡返しに繰り返してしまう。
「前段階……?」
「そ、そうですっ! 魔王様は……えーっと、どんなベッドがお好きですか?」
「好みの、寝床か? ふむ、考えたこともなかったな」
目覚めた後の、魔王としての自身の振る舞いばかり考えていた彼にとって、目覚めた際の環境について思いを馳せるのは、勿論初めてのことだった。
「ふかふかの柔らかいやつがいいですか? それとも、弾力のあるボリューミーなのがいいですか?」
「そうだな……どちらも捨てがたいが、やはり包みこむように柔らかな寝床が良いだろうな」
「ですよねっ! 私もそう思います!」
「うむ。芳しい花の香りでもすれば、なお良い」
血生臭い戦場を駆け巡り、夜こそ攻め入る好機と考えてきた魔王たる彼にとって、それはあまりに非現実的な妄想だった。肉体を持たない今の彼だからこそ、これほどまでに縁遠い事象へ思いを巡らせることが可能なのだろう。魔王はそのことを、意外にも面白く感じ始めた。
「寝床以外にも、最高の目覚めにとって重要な要素というのはあるのだろうか」
「そうですねぇ、日の光と小鳥の鳴き声、あとは爽やかな朝の風を感じることなんかができれば、それはもう最高に素晴らしい目覚めかと」
「日の光、か。決して苦手というわけではないが……」
「いいですよぉ、お日様。やっぱり目が覚めた時にお天気が良いと、それだけで嬉しくなりますし」
「なるほどな。最高の目覚めとは、五感全てでもって感じ取るものということか」
ふむふむ、と感慨深く魔王は頷いた。つい顎に手をやってしまうのは彼の長年の癖だ。その皮膚と皮膚が触れる感触に、魔王は思わず声にならない叫びを上げた。
「--っ!」
「ま、魔王様!」
「うむ。どうやら、余はようやく身体を取り戻しつつあるようだ」
淀んでいた世界が急速に渦を巻き、黒い疾風を携えた竜巻となって、彼の周囲に次々と湧き出した。それは地鳴りを伴い、瞬く間に空へと駆け上がる。
「……いよいよだな」
「はい。魔王様」
「これから世話になるな。よろしく頼むぞ、ピノン」
「喜んで!」
吹き荒れる風にかき消されそうになりながらも、確かに耳に届いたピノンの声に導かれるように、彼は砕け散った空のその向こう、光り輝く世界へと手を伸ばした--。
***
「魔王様、魔王様。起きて下さい」
「--ピノン?」
どこか懐かしいような声に、魔王はそっと目を開く。
目の前に現れたのは、眩しく降り注ぐ朝日と、どこまでも広がる豊かな森、そして、枝に止まり小首を傾げる小鳥だ。
「え、ピノン? え、お前、もしかして小鳥なのか? え、小鳥の魔族?」
「もう、違いますよぉ。私はこっちです」
遥か頭上から聞こえる声に、首を大きく逸らして見上げると--
「ええーーーーっ!?」
とんでもなく巨大な肉体を持つ少女が、彼を見下ろしていた。周囲の山々と同等サイズの身体でありながら、顔立ちは間違いなく愛らしい人間の女の子そのものだ。頭部から生えた羊を思わせる角だけが、唯一魔族らしいと言える部分だろう。
そして、ようやく魔王は気付く。自身が、その巨大な少女の、豊満すぎる胸の谷間をベッドにしていることに。
「宝珠が砕けた時はちょっと痛かったですけど、魔王様にお怪我がなくて良かった! いやー、実は魔王様が封印されていた500年の間に、魔族はほとんど滅びちゃいまして。人間の世界もすっかり平和になって、みんな魔王様のこと、忘れちゃったみたいなんですよ。あ、勿論私は、ずーっとこうして魔王様の入ってる宝珠を、私のおっぱいで守ってましたよ? その間に魔王様の魔力に影響受けて、こんなに大きく育っちゃいましたけど」
えへへ、と笑うピノンの動きに合わせて、彼のベッドでありピノンのおっぱいが、たゆんと揺れる。
「改めまして、おはようございます、魔王様。今朝のお目覚めはいかがですか?」
ふわふわと身体を包みこむ、柔らかな心地よい温もりと、肌に寄り添う滑らかな触り心地。そこから立ち上る、甘やかな香りが優しく鼻腔をくすぐる。緑をふんだんに纏った爽やかな風が、彼の髪をそっと撫でていく。
「最高、だな……」
世界の終わりを告げるはずだった朝 梅星 @umehoshi
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