インドネシア、午前6時

倉海葉音

インドネシア、午前6時

 この辺りは幾分道が悪いらしい。


 シンガポール近郊のリゾートアイランドと聞いていたから、もっと快適で整備の行き届いた場所かと思っていた。いや、フェリーターミナル至近のホテルを取らなかった自分も悪い。喧騒から少しでも逃れようと思ってのことだ。


 平たく言えば、今、車酔いをしている。


 インドネシア・ビンタン島。フェリーターミナルから送迎用のジプシーに乗ってもう1時間弱。道の凹凸に合わせて車は揺れ、その度に腹が揺れて「うっぷ」と声が漏れそうになる。

 他の乗客はいない。気晴らしに運転手との会話を一度試みたが、浅黒い肌の地元の親父は英語をペラペラ話せるほどのスキルを有していないようで、すぐに諦めた。

 行き先は島の反対側にある海沿いのホテルなのに、さっきから草原か森しか見えない。出口は、どこだ。

 この逃避行の終着点は、どんな所だ。



 私の名は上田悠介。27歳、会社員。

 大学院を出て就職したのは理系のブラック企業だった。研修期間を優秀な成績で終えた私は、社内で一番精鋭の集まる部署に配属された。そこでは昼も夜も実験が行われ、休日出勤も当然であった。

 そして開発は頓挫しており、私たちはその煽りを最前線で受け続けた。


 なるほど、私は確かに研究開発職を目指していた。しかし搾取されたいとは願っていない。大学院の研究室は非常に節度があって、夜になると家に帰っていたし、徹夜だって修士論文の締め切り直前しか行わなかった。

 終電で帰って、食べて、寝て、起きる。絶望的な気分で迎える朝の陽の光は、私の心を摩耗していった。

 やがて、私は眠りにつけなくなった。

 寝て起きれば、また、仕事が始まる。



 車窓の左側に海が見えてきた。この辺りは道路の歪みも落ち着いているようで、酔いが少しずつ引いていく。

 木の切れ端が散らかっている砂浜は地元民しか使わないような場所なのだろう。三角屋根で木造の小さなコテージのようなものがいくつかあって、アジアというよりはポリネシアを想起させる。

 今まで回ってきた国々とは、また少し違う。新しい土地だ、とようやく期待が膨らむ。



 去年の12月。土曜日の朝、私は歯医者の待合室にあるテレビで、グアムの特集を見た。

 コバルトブルーの海。美しい砂浜。そして年中トロピカルジュースの似合う温暖な気候。

 関東は寒さが厳しさを増していて、私はすっかり気が滅入っていた。恐らく鬱病のような状態だったのだろう。

 私はその場で航空券を調べた。直行便、それも出発直前となればなかなかの値段だったが、社畜を舐めるな、銀行口座は残業代で満ち満ちている。すぐにチケットを取ることにした。

 それが全ての始まりだった。



 車から下りると熱風が私を包み込む。今は7月。夏真っ盛りの赤道直下だ。それでもシンガポールより少しマシな気がするのは、曇り空だからか、周囲に低層建築しかないからか。あるいは、ようやく車酔いとオサラバできるからか。

 このホテルは、茅葺き屋根のコテージがいくつか並んでいる。ネットで見つけ、静かな場所だろうと信じて選んだ。それは正解だったようで、ホテルの従業員の他には、一定年齢以上の落ち着いた雰囲気の宿泊客しか見当たらない。

 私はチェックインを済ませ部屋へと向かう。すぐ横は海だが泥混じりで汚らしい。少しがっかりしたが、泳ぐ訳ではないからまあいい。

 部屋に入る。リノリウムの床の中央にセミダブルベッド。部屋の奥にはオレンジ色のソファがあり、広い窓から海が一望できる。ベランダに出るとジャグジーまであって、少し笑ってしまった。せっかくだから後で試そうか。

 ベランダの椅子に腰掛けて、私は息をついた。遠くに別の島の影。行き交う小舟は漁船か、渡し船か。耳には波の音しか聞こえない。なんて静かな場所だろう。



 12月のグアム旅行は、なんとか勝ち取った有給と合わせて2泊3日。それでも充分だった。

 なんと、私は眠ることができたのだ!

 海外にいるという緊張感、仕事から離れた開放感。それが私のリズムを変えてくれたのだ。

 そして何より海の気持ち良さといったら。

 半袖でも過ごせる気候。遥か遠くまできらめく海面。私は泳ぐのはそこそこに、砂浜で佇むことを選んだ。その場所には朝があり、昼があり、夕方があり、夜があった。あの閉ざされて365日空調管理された研究所とは大きな違いだった。

 そもそも私は海外に憧れていた。

 興味を持ったのは就職してから。ある夏に友人と行った台湾がなかなか楽しかったのだ。日本とは違う景色やエネルギーが私をエキサイトさせた。

 それ以降、会社では海外出張に行きたいと言い続けていたが、経験値の問題で受け入れられなかった。その間にもどんどん体は磨り減っていく。いつか旅もできなくなるのではないか。そうした恐怖感があった。

 それなら、自分で飛べばいいんだ。

 フルオーダーメードの旅でもなんとかできると、私は自分で証明したのだから。

 私は、毎月のように海外へと逃亡するようになった。



 夕食後、部屋に戻ると、ベランダからの明かりで室内はしっとりと照らし出されていた。カーテンで少し影が差すソファは、夜の営みによく似合いそうだ。1人の自分には関係ない話だが。それでも、漂う静かな夜の空気を、ベッドに腰掛けながら眺めるのは悪い気分ではない。

 しばらくぼんやりした後、冷蔵庫に入れていたビンタンビールの缶を手に、少し散歩に出た。

 ホテルの敷地には遊歩道がある。整えられた芝生の中、石の道がコテージ間を繋いでいる。夕方から夜にかけて空は晴れてきていた。満天ではないものの、なかなかの数の星が見える。

 砂浜に降り立つ。三角座りになって、ビールで喉を潤しつつ夜空を眺める。夏の星座が熱帯の夜に輝く。虫の音が背後の森から恒常的に聞こえている。星をじっくり眺めることを思い出したのも、この旅を始めるようになってからだ。

 1つ、流れていく星が見えた。突然のことで願い事をする暇もなかった。だけど、流れ星が見えた、そのこと自体が何かを告げているような気がした。

 ああ、長かった旅の日々が終わる。

 これが、海外で過ごす最後の夜だ。

 ビールを飲み干す。立ち上がって、そろそろ寝ようかな、と呟いた。




 夢うつつの中で、私はこれまでの旅路を辿っていた。

 1月、香港。大陸特有のとんでもないエネルギーと、西洋の雰囲気が混ざった魅力的な街だった。100万ドルの夜景を眺めて、嘆息した。

 2月、マレーシア。マラッカ海峡に沈む雄大な夕日を眺めたり、ペナン島の整然とした街並みを楽しんだりした。クアラルンプールのモスクでは同じくお一人様の日本人と会い、意気投合した。 

 3月、ホーチミン。ぼったくりのタクシーに乗せられそうになったり、怪しい観光案内のおじさんにバイクで連れ回されたりした。夜のドンコイ通りのフレンチコロニアルに見惚れたり、夜でも賑やかな公園で微笑ましい気持ちになったりした。

 4月から5月。GWを使ってタイ、カンボジア、ラオスを巡った。自転車でタイの世界遺産を回り、カンボジアではアンコールワットの壮大さに息を呑み、ラオスにてルアンパバーンの朝の托鉢にエキゾチックさを覚えた。

 6月、オーストラリアのケアンズ。1泊2日の強行軍で世界遺産ツアーに参加し、他の参加者に「どうしてそんな日程で」と心配された。グレートバリアリーフの海の美しさや、初めて見る南十字星に心が踊った。

 そして昨日まで滞在していたシンガポール。イギリス、マレー、インド、中国、複数の文化が混在して愉快な街だった。マリーナベイサンズから眺める夜景は旅情を掻き立てた。


 私は、転職を決めた。

 この逃避行の期間にも、有給が渋られそうになったり、休日勤務をちらつかされたりしていた。

 こんな場所にいては、自由など何もない。しかし私は一生逃避行を続ける気か?

 意識が海外に向いていたから、ワーキングホリデー、海外就職、忙しい日々の合間に色々な可能性を探った。


 結果として、私は日本で仕事を変えることを選んだ。

 正直に言えば、もう、飛び回るのも疲れたのだ。

 だから、ここを終着点とすることにした。

 シンガポール、そしてインドネシアで、ちょうど1人旅も10カ国目だから。



 カーテンのわずかな隙間から、突き刺すような日差しがこぼれているらしい。

 顔を狙い打たれて、私はまぶたを開く。

 時計を見ると午前6時。ぐっすり眠れた。この辺りは赤道直下だから、年中同じ頃に日が昇る、と聞いたことがある。

 カーテンを開きながら、私は思う。

 どうせ同じ朝を繰り返すなら、太陽を待ち望む朝がいい。

 こうやって、海が見える方がいい。



 私は、沖縄の離島で働くことを選んだ。マレーシアで出会った男性が営むゲストハウスに誘われ、お世話になることにしたのだ。この旅行が終われば身支度をして関東を去り、海が見える場所へと居を移す。

 年中暖かい場所へ。海や自然を感じられる場所へ。そして、朝と昼と夕方と夜を感じられる場所へ。

 そう。確かに国内ではあるが、大きな方向転換である。

 唐突すぎるだろうか?

 バカげているだろうか?

 私は、旅をして、人間らしく生きることの大切さを学んだ。夢を目指すエネルギー。家族や友人と楽しむ日々。夕焼けを見てセンチメンタルな気持ちになり、星を眺めて願いを託す。

 それは、誰かに邪魔をされる類のことではないはずだ。



 インドネシア、ビンタン島、午前6時。

 この清々しい目覚めをもって、旅の終わりとする。

 そして、人生は、新たな旅へ向けて動き出す。


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