Twilight Edge
遊月奈喩多
夢から覚めない夢を見た
「はぁ……、はぁ……っ!」
息が切れて、肺が痛くなってくる。どれくらい走ったか、そんなこと考える時間すら疎ましい。ただ本能に従って、足を進める。
今はとにかく、何をおいても前へ。
考えている時間なんてあったら、その間に一歩でも前へ。そして、逃げなくては……! 熱っぽい唾液が喉に絡んでくる、肺を何かで刺されたみたいに熱く、痛くなっていく、なのに後ろからの足音はなんで遠くならないの!?
ぜぇ……ぜぇ……
近付いてくる声は、ずっと同じ距離に聞こえてくる。ううん、少しずつ近付いてきてるようにすら感じてしまう……!
ほら、生温かい息が首にかかって、――――っ!
たまらず振り返ったわたしの前にいたのは、大きな口だけの顔をしたスーツ姿の男の人。怯んだわたしをその口で頭から……っ!
ゴリィ……ッ、ぐちゅっ
* * * * * *
「――――――っ! はぁ、はぁ、はぁ……」
怖い夢を見た。たまに見る、誰かに追いかけられる夢。追いかけてくるのはその夢によって違うけど、系統は大体同じだった。
真っ白でニョロニョロした生き物に追いかけられたり、勝手に崩れていく地面から逃げていたり、寄生虫に取りつかれた恋人に襲われて徐々に変わっていく身体に怯えたり、いろんなものに追い立てられる夢ばかり。よく現実でも何か逃げたいもののある人がそういう夢を見るんだって言うけど、別に特にそう言われて思い当たる節もないんだけどな……。
考えていると、部屋のドアがノックされて、外から声が聞こえる。
『おはよう、
「あっ、うん、食べる!」
いつも通り優しい声に返事をして、わたしは部屋を出る。うたた寝しているうちに、すっかり夜になってしまっていたみたい。そろそろお父さんとお母さんも帰ってきてるかな?
「唯花、おはよう……っていうかおそよう、か?」
いつも通りいたずらっぽくニヤニヤしながら、お父さんがわたしを迎える。うぐっ、と言葉に詰まるわたしに、「とりあえず座っちゃいなー」と軽い口調で言うのも、お母さんのいつも通り。
「いただきまーす!」
食卓に並んでいたのは、八宝菜とチャーハンだった。小さい頃からのわたしの好物! 起きたばかりだというのに、見ただけでお腹が鳴ってくる。
だから、4人で食卓を囲んで、夕食の時間だ。これが、わたしの日常――わたしと、お父さんと、お母さんと…………、あれ?
ふと、おかしなことに気付く。
もうひとりって、誰なんだっけ?
お父さんと、お母さんと、…………え?
テーブルに座って、わたしの向かい側でにこやかに笑っているこの人は? お父さんとも楽しそうに話してて、お母さんもなんかベタベタしてて、え、誰だっけ、このおじさん……?
怖い。
何が怖いって、お父さんもお母さんも、それからさっきまでのわたしも、誰ひとりとしてこのおじさんに疑問を持たずに毎日暮らしてることが、何よりも怖かった。
親戚でもない、お友達なら同居なんてよっぽどじゃなきゃしない――なんなの? つい見つめてしまったのも、間違いだった。
目が合ったおじさんは、笑わないで笑った。
「――――っ!? わ、わたしちょっと気分悪いかも。まだもうちょっと寝るね」
「あ、そう? じゃあラップしとくからね?」
「寝るときはちゃんと寝ろよ」
お母さんとお父さんには悪いけど、もうこのおじさんと同じ部屋にはいたくなかった。だって、明らかにおかしいでしょ?
階段を急いで上がって、部屋のドアに鍵をかける。すると。
『唯花ちゃん、大丈夫かい?』
ドアのすぐ外から、おじさんの声がした。なんとなく答えるのも怖くて、寝たふりをすることにしたけど。
『具合悪いの、平気? それとも、何か怖いものでも見ちゃった?』
「――――っ!!?」
ガチャッ!
鍵をかけたドアを開けようと、おじさんが手を掛けてくる。ガチャガチャ鳴る音が怖くて、耳を塞いでいるのに、まだ聞こえてくる……!
ガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャッ!
『おかしいな、鍵かけちゃってるの? おかしいね、いつもなら鍵とかかけてないもんね、おかしいね、おかしいね』
ガチャガチャガチャガチャガチャッ!
不意に、音が止んだ。
寝たと思ってリビングに戻ってくれたのかな?
そう思って布団から顔を出したとき、ドアノブがゆっくり回り始めた。
「えっ!?」
思わずあげた声に、『なんだ、やっぱり起きてたのか』と朗らかに笑うおじさんの声。
『力任せにいじくってれば、こういうドアって鍵がバカになってくれることがあるんだよ。ほら、もう開くよ?』
「待って、開けないで、やめて!」
慌ててドアノブを押さえる。握りしめた手のなかでドアノブがグリグリ回っていく感触が怖かったけれど、そんなこと言っていられなかった。だって開いちゃったら、何が起こるかわからない!
必死に押さえていると、ある変化に気付いた。
ゆっくりゆっくり、ドアの色が変わっている。
「えっ……、なに、これ」
しかも、変わって黒くなったところから、ポロポロ崩れ落ちてる……! 待って、なにこれ、やめて、やめてよ!
急にドアが腐り始めていた。
慌ててドアノブを握っていた左手を離して、
やめてよ、やめてよ、怖いよ、なんで?
必死にドアを掴んでいると、目の前の板がボロッ、と崩れて。
真正面から、真っ赤に光る目をしたおじさんを見てしまった。おじさんは、喜ぶでも悲しむでもなく、ただ真顔で言った。
「あぁあ、気付いちゃったね」
* * * * * * *
「――――――っ!!! はぁ、はぁ、はぁ……」
もう、何も言う気力が起こらない。今は夢、それとも現実? すごく怖い夢だった……。
数年前に事故で亡くなった両親が出てきたのはちょっと嬉しかったけど、けど、相変わらず外は怖い。最近こんな夢ばかりだ。誰かに追いかけられたり、食べられたり、バラバラにされたり。
それだけならいい、それだけなら怖い夢だった、で済む。けど、わたしの場合はその後目を覚ました先も、また夢っていうことがある。あぁ、怖い。
手触りを確かめる。うん、本物。
視界は、身体の感覚は、本物だ。
やっと、目が覚めた。
あぁ、ようやくだ。
ようやく帰ってきたんだ――散々な目に夢の中が幸せに思えてしまう
きっかけは、就職した会社で先輩社員からの下心見え見えの誘いを断ったことだった。彼は、普段から女性に対してどこか上から目線で、それも何かあれば大体相手のせいにしてしまう、人格に少し問題のある人だった。そう周りから聞いていたし、たまによくない噂もあったから、断るしか選択肢はなかった。
けれど、それが悪夢の始まり。
彼がわたしの過去についてあることないこと言いふらした。しかも、かなり人を惹き付ける物言いで。
社内でわかってくれる人は、少しはいた。けれど、彼らも助けてくれるわけではない。このときほど、誰かに絶望したときはないかも知れない。
しかも、社内グループを作っていたSNSにも書き出され、わたしのことを知らない他部署の人たちにも、わたしの評判だけは広まった。反論すれば『図星を突かれた』と
けれど、今度は違うものが待っていた。
『ノリでいじっていただけなのに
そういうレッテルが、わたしを主に嗤っていた大多数から発信されて出回ることになってしまったのだ。買い物中の写真や元カレとのデート帰りの写真とか、仕事以外でのわたしの写真までやりとりされたらしくて、誰もがわたしのプライベートを簡単に知れるようにされてしまった。
もう、わたしが誘いを断った先輩というわかりやすい主導者もいない、ただの集団による圧に耐えられなくなって、わたしは会社を辞めた。
けど、そのあとも『このあと俺も◯◯マートに行くんだけど、よかったら飲まない?』とか、わたしのことを把握しているのが前提のメールは続いた。
そのうち、外に出ることさえ怖くなった。
今では、もう携帯を開くこともできないでいる。だって開けば、また誰かから監視されているメールが届くから。電気もつけられない。買い物だって、ここしばらく行っていない。
人間って、一応水だけでしばらく生きられるんだよね? ……なら、あともう少し外行かなくてもいいか。
インターホンを鳴らす音も怖くて、ドアをこじ開けられるのも怖くて、もう色々なもので塞いでしまったし、大変なんだよね、外に出るの。
うまく動かない身体に力を込めて、水に飲みに行く――――あっ、
転んで、起き上がろうとした。
なのに、力が出ない。
え、どうしよう。
そのまま、どれくらい時間が経っただろう。
痛みとか臭いより何より、お腹が空いて仕方ない。水さえ飲めたらまだ紛れるのに……お腹空いた。
怖いなぁ、このままだとどうなるのかな……お腹空いた。
また眠れたら違うかな……お腹空いた。
もう少し動けるかな……お腹空いた。
あれ、動けない……お腹空いた。
なんでかなぁ……お腹空いた。
もし、お腹空いた、夢ばかり見るなら、お腹空いた、それなら、お腹空いた、これが、お腹空いた、夢だったら、お腹空いた、よかったのになぁ……お腹空いた。
ああ、寒いなぁ、お腹空いたなぁ……お腹空いた。
* * * * * * *
「おはよう、ゆいか」
「ん……、」
「どうしたの、こわいゆめをみたの?」
「うん……ママは、ゆめ?」
「ちがうよ? こわかったんだね、ゆいか」
ママは、ゆいかのことをぎゅーってしてくれた。あったかくて、やさしくて、ゆめじゃない。
「おかえり、ゆいか。ママのところにかえってきたね」
ママは、やさしくいってくれた。
あったかい。
おきられたんだ、ゆいか。
よかった。
よかったぁ……。
ほっとしたからかな。
ねむくなっちゃった。
おなか、すいたなぁ。
Twilight Edge 遊月奈喩多 @vAN1-SHing
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