第26話 くぁwせdrftgyふじこlp

 見慣れたデスクトップ画面に開いたウィンドウの背景は黒一色、そこでは白い文字のガイダンスと小さなカーソルが点滅していた。

 ヒロキはそこにパタパタとコマンドを入力していく。最後にプログラムをコンパイルするための命令を実行すると、白色だけの無味乾燥な文字がものすごい速さでスクロールしていく。


「さて、これで待つこと五分くらいかな」

「それにしてもキーを打つの速いのね」

「そうでもないよ。いつも同じ入力だから慣れもあるし、尾野おの先生にくらべたらオレなんて全然だよ」


 やがて高速のスクロールが停止すると行末で白いカーソルが点滅して次の入力を待つ。ヒロキが続くコマンドを入力しようとしたちょうどそのとき研究室のドアが開いた。そこに立っていたのは外出から戻ったばかりの吾野あがの教授、彼の額にはうっすらと汗が浮かび、その顔は苦渋に満ちていた。


「太田君、神子薗みこぞの君、すまないが私の席まで来てくれ」


 慌てた様子の教授は早足で自分の席に着くと、すぐさま机に両肘をついて大きなため息を漏らした。

 ただならぬ様子にヒロキと可憐かれんは互いに顔を見合わせると、作業の手を止めて教授の机に向かった。


「君たちは今……」

神子薗みこぞのさんに尾野先生が作った計算システムの説明をしていたところです」


 教授の問いにヒロキが答えた。


「そうか、それは結構。とにかく尾野おの君の復帰は当分ないと思って作業を進めてくれ」

「尾野先生に何かあったんですか?」

「ちょっと厄介な話なんだが、しばらくは君たちにもいろいろと頑張ってもらうことになるわけだし、ならば今ここで話しておくのがいいんだろうな。よし、とにかくそこに座りたまえ」


 教授に促されるままヒロキと可憐は手近なイスを引き寄せた。


「実は秋津あきつ君がケガをしてね、昨晩から入院してるんだ」

「入院って……それで秋津先生の容体は」

「命に別状はない。別状はないんだが、かなりショックを受けているらしくてね、しばらく静養することになった」


 教授は二人にもう少し寄るようにと手招きをすると声を潜めて続けた。


「ここだけの話なんだか病院だけでなく警察にも寄ってきたんだ」

「警察ということは交通事故だったんですか?」

「いや違う。どうやら事故ではなく事件らしいんだ。ちょっとこれを見てくれ」


 教授は手元に置いたバッグの中を探って一枚の紙きれを取り出すとそれを机の上に置いた。


「空気中の正イオン濃度が人の心に及ぼす影響についての考察」


 それは尾野おの一太かずたが書いた論文の表紙、そのコピーだった。この騒動の発端となったコックリさんの実験もこの論文にるものだということは、これまで手伝いをしてきたヒロキはよく理解していた。


「これのおかげで秋津君はすっかり怯えてしまっているんだ。とにかく尾野君がいる限りここには来たくない、ってね」


 教授は目の前に立つ二人に事件のあらましを説明する。

 秋津女史の身体からだには肩と尻と腰の三か所に小さな火傷があったらしい。警察ではスタンガンらしきものを用いた犯行として捜査を進めているが、そのときのショックで気を失ったのだろう、路上で倒れた際に受けたと思われる軽い打撲にひざと頬に小さな擦り傷を受けていた。そんな状況下だったにもかかわらず、何も盗られず暴行もされなかったのは不幸中の幸いとしか言いようがないとのことだった。

 病院で意識を取り戻した秋津女史は開口一番、子供に襲われたと言う。通報を受けて病院に担ぎ込まれたのが深夜の一時過ぎ、にも関わらずそんな時間に小さな子供を見たというのだ、それも三人も。


「三人?」

「三人ですって?」


 二人は揃って声を上げた。偶然とはいえ共鳴した自分たちの声に可憐は思わず慌てて口に手を当てた。その様子を訝しむ教授だったが二人はなんとかその場を取り繕った。


 コックリさんのときに可憐が見たイタチのような黒い影も確か三つだった。二人の心の中に何か得体の知れないモヤモヤしたものが湧き上がってきた。

 しかしこれと言った解決の糸口すら掴めないヒロキと可憐かれん、それに研究室のこれからを案ずる吾野あがの教授の三人は揃って大きなため息をつく。それは静かな研究室でやたらと大きく響いて聞こえた。



――*――



 それからの数日間、ヒロキと可憐かれん尾野おの一太かずたが構築した分子軌道計算システムのマニュアルとにらめっこの毎日だった。苦労の甲斐あってなんとかひと通りの運用手順を彼女に引き継ぐことはできたものの、やはり基礎理論を習得するためには仕様書や設計書の類が必要だった。


 二人の目の前にはコックリさんの日から放置された一太のノートPCがある。せめてこれにログインすることができれば何か情報が得られるはずだ。

 ヒロキはそれを手元に引き寄せて電源を入れる。

 表示されたのはログイン画面、そのID欄には尾野一太の名があった。そのすぐ下ではパスワードの入力を待つカーソルが点滅している。

 しかしそこでヒロキの手が止まる。


「そう言えばオレ、尾野先生のことよく知らないんだよな。生年月日とか、学籍番号とか」

「私はあの尾野先生がそんな簡単なパスワードにするとは思えないわ。もっと突拍子もない、例えば何かの物理定数の値とか、そういうのかも知れないし」

「だよな、やっぱ尾野先生に直接聞くしかないよな。よし、メッセージでも送ってみるか」


 ヒロキが自分のスマートフォンを手にしたそのとき、ポンという小さな音とともに一瞬のバイブレーションが伝わった。

 メッセンジャーアプリが着信を知らせる。



尾野「尾野です。太田君、このメッセージを見てくれたなら連絡が欲しいです」


ヒロキ「太田です。自分も先生にメッセージを送るところでした」


尾野「それはちょうどよかった。で、どうしたんだい?」


ヒロキ「今、神子薗みこぞのさんに計算システムの引継ぎしてるんですがどうしてもわからないことがあって」


尾野「なるほど。君たちがやってるってことは、吾野あがの先生から事件のことを聞いたんだね?」


ヒロキ「はい、自分も神子薗さんも聞いています」


尾野「そうか、迷惑をかけちゃって申しわけない。僕は今、謹慎中の身でね、研究室には行けないんだ。でもできるだけの協力はするからしばらくは二人でよろしく頼むよ」



 その後は一太からチャットで秋津あきつ女史入院からこれまでの顛末が語られた。

 秋津女史のかたわらに論文の表紙が残されていたこと、それが一太の研究であること、周囲には争った形跡が見られないことから縁故知人による犯行の可能性があること、そんな一連の状況から一太に疑いの目が向けられていること、それらが短文でヒロキのスマートフォンに次々と送られてきたのだった。



尾野「でも僕は犯人ではないんだ。だって事件があったあの晩のあの時刻、僕は自宅近くのコンビニで買いものをしてたんだから。防犯カメラにも僕の姿がしっかり映っていたしね」


尾野「おっと、余計な話だったね。それで僕のノートPCなんだけど、どこかで待ち合わせし」


尾野「」

尾野「」

尾野「」


尾野「くぁwせdrftgyふじこlp」



 一太は待ち合わせの提案をしようとしたのだろうが、しかし、無意味な改行が続いた後に流れてきたのは意味不明な文字の羅列だった。その後も不可解なメッセージが続く。



尾野「xcvbんm、」

尾野「2うぇdfgvbhじゅい8」



 そしてついには一太からの通信は途絶えてしまった。


「おっかしいなぁ、どうしちゃったんだろう先生」


 まさか自分のアプリがフリーズしてしまったのだろうか。他のアイコンをクリックして動作を確かめるヒロキの手元を可憐かれんも何事かと身を寄せて覗き込んでいた。

 それから数分の後、再びヒロキは手の中に短いバイブレーションを感じた。



尾野「以前に実験した神社を覚えているか? 明後日の十五時、そこで待つ」



 通信は再開したものの、そこに流れるメッセージは今さっきまでの一太とはまるで別人のようだった、それは高圧的で命令するかのように。

 ヒロキは助け舟を求めて可憐の顔を見る。


「可憐、君は何か感じないか? 尾野先生が誰かに誘導されてるとか」


 しかし可憐は静かに首を横に振ると、潜めた声で続けた。


「今は様子を見ましょう。気付かないふりをしてそのまま続けて」

「了解」


 すると二人の会話が終わるのを待っていたかのように一太から新しいメッセージが届いた。



尾野「そのときに僕の正イオン計測器も頼む。あれは工学部の友人に造ってもらったのだ、ノートよりもむしろそっちが重要なのだ」


ヒロキ「OKです、計測器も持って行きます。大荷物になるので神子薗みこぞのさんにも手伝ってもらいます。いいですよね?」



 しかし一太からヒロキへの答えはなく、スマートフォンの画面には一太が退出したメッセージだけが表示されたのだった。

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