夜明け前

坂口航

男は登っていた。一歩一歩を踏みしめながら、感慨深く階段を登っていた。

途中のフロアに進む扉は何度も過ぎたが、まだ歩き続けることを止めない。

何が目的かというと、何も目的ではないとうのが答えだ。その先に何かあるのかと聞かれれば、何もないというのが正解だ。

やがて登る階段がなくなり、目の前には今までよりも分厚い扉が待っていた。

鍵はかかっていない。ずさんな管理をしているから当然か、そんな所まで気が回らないからこうなっているのか。

全ての思考を放棄している彼は、何の迷いもなく扉を開けるとそのまま真っ直ぐに歩みを進める。

外は真夜中かと思っていたが、そうでもないようだ。真っ黒に塗りつぶされた空ではなく、ほのかなねずみ色の空が広がっていた。

なんとも陰鬱な、見慣れた風景を目にしながら進み続ける。

室外機はゴウゴウと音を立て、生ぬるい空気を放ち地球温暖化をこれでもかと言うほど進めている。

手前の柵を乗り越えると軽く背中を乗り越えた柵にもたれかかった。

今まで何だったのだろうか、意味はあったのだろうか。いや無かったからこうなのだろう。今さら何を考えても無駄なのだろうが。最後に思い切り仕返しを出来るのなら、生きていて良かったのかも知れない。

スマホは部屋に置いてきた、カバンも何もかもを全ては部屋に置いてきた。記録も消してない、ハンコも通帳も全てはそのままだ。

これでいい。これくらいの方が生々しくて良いだろう。


――――これくらいで良いだろう。俺は預けていた背中をグイッと伸ばし息を吐いた。

もう満足はしたし、やることをやろうと思った。


「ちょっとそこを退いてもらってもいいかな」


かなり渋い声が後ろから聞こえてくる。一体こんな時間に何をしにここへ来るのだろうか。

聞く必要も見る必要もなかったが、どうせ終わるのだから誰なのか確認してみることにした。


居たのはただの男だった。スーツを着て、ワックスで整えた髪は傷んでいるのが目に見えて分かった。

清潔感がない髭をかきながら、男はノンキにあくびをしながら柵に手をおき肘をついていた。


「いつもここで見てるんだからさ、ちょっと退いてくれないかな」

「見てるって何をだよ。もうどうせどこかに行くのだから別にいいだろ」

「ほう、ならどこへ行くというのだ」

「…………知らない」


あっそと、興味がなさそうに言い捨てるとしばらく会話はなかった。こんなものは無視して行こう、その方が間違いなくいい。そう考え足を離そうとすると、さっきまで無視していたそいつが再び話かけてきた。


「なぁ行くならちょっと待った方がいいぞ」


何をしたいのか全く理解できない。緊張感がない声はその後続くことなくまた夜の静寂が戻っただけであった。


「一体何を待てと言うんだ」


思わず聞いてしまったが今さら何を期待するのだろう。意味がない、だが何も知らずにこの場を去るのはどうも気にくわない。

汚い男はアクビをして時計に目をやった。


「ちょうど三分だったんだよ、アンタが来てから三分だったんだよ。もう後数秒だから問題ないだろ」

「何が言いたい? それに俺が来てから三分だ。バカを言うな、ここに来たときに俺以外に人はいなかった。だというのになぜ、俺が来た時間が分かるというのか」

 

やはりコイツはあれだろう。頭のおかしなこのビルの住人だ。何日も居すぎてこうなったのだろう。

それを思うと恐ろしくなった。俺もこうなっていたのではないかと思うと恐怖した。ゼロになっていた心に禍々しい空気が入ってくるような気持ちになった。

しかしその空気が入った直後に、それが浄化されるような光が目に、心に射し込んできたのだ。

一瞬目を閉じたが、すぐに目を開けた。

今までの暗さが嘘だったように世界は朱色の光に包まれたのだ。

コンクリートの冷たい色か、どんよりとした重い空気の夜しか知らなかったこの街で初めて見た光景だった。


「いっつもだ、俺はこの時間になると明けるのを知っているからここに来るんだ。どうせ行くんならこの風景を目に焼き付けてから行ったらどうだ?」


汚い男が発した声が耳に入ってくることはなかった。ただただ地球という壮大な怪物を前にして声が出なかったのだ。


あぁ、これが世界か。偉大なる生命というものか!


最後に見るには素晴らし過ぎる光景だった。

感謝します神よ! 今まで信用しなかったそれに初めて感謝した。そして彼は偉大なるそれの前に屈するように倒れ込んだ。


すでに屋上には人はいない。ただこの地を去る男の心から響いた生命への歓喜の声が残る以外何もなかったのだ。

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