舞台装置は茨の棺桶

時任西瓜

最高の目覚め

 舞台中央に立てかけられたいばら棺桶かんおけ。私はそれに背中を預け、両手を胸の前で交差させた状態で、瞳を閉じ、直立したまま、身じろぎ一つせず、その時を待っていた。

視覚が封じられた今、この真っ暗闇の中で頼りになるのは自分の聴覚と微かに感じる気配だけ。でも、舞台上を行き交う足音や、交わされる台詞、その全てをしっかりと聞き取り、隅々まで記憶した台本と照らし合わせれば、舞台の風景は自然と脳裏に浮かんでくる。もうすぐでクライマックスを迎える局面、私は物語が順調に進んでいることに深く安堵を感じた。

「……」

 それでも、ため息をつくことは許されない、「貴女、表情筋を殺しなさい、少しでも動けば、魔法は解けてしまうんだから」練習中、ツリ目の脚本家が放った言葉はまるで悪い魔女のそれだったけれど、実際、私がここでかすかに動きでもすれば、客席は興ざめだろう。

演目は『茨姫』、私は悪い魔女の呪いに蝕まれ、死んだように眠る茨姫ヒロインとなって、目覚めの合図だけを、ただ、待つ。

「嗚呼、なんと哀れなことか」

 歌劇ミュージカルというに相応しい、語りかけるように歌うテノールが、ブーツの立てる音とともに近づいてくる。長身白皙の王子は煌びやかな純白の軍服に身を包んで、私の目の前に跪くだろう、リハーサルで目にした光景が、瞑った瞼の裏で再生される。

「どれだけの年月を、たったの孤独で、この棺桶で過ごしたと言うのですか」

 黄金の装飾が施された深紅のマントを翻し、彼は客席に向かって吠える。その切なる嘆きにどこからか息を飲む音が聞こえた。

「貴女を閉じ込める茨を、私めが切り裂いて見せましょう!」

 王子は鳴り響く激しい剣戟の音に合わせ、黒子が扮した蠢く茨を、携えていた長剣で切り、舞台袖に次々追いやった。しかし、切っても切っても、茨は絶えることなく現れる、疲労していく王子のことなど構わずに、再生を繰り返し、ついに、剣を手に取る前、元の形に戻ってしまう。

カラン、虚しく響く音は、王子が剣をその手から落とし、絶望に打ちひしがれたことを表していた。悲壮感を煽る音楽が奏でられ、舞台の空気は重苦しく染まっていった。

 しかし、物語がここで終わるはずがない、私が目覚めを迎えるまで、幕が降りることはないのだから。一つ、二つ、三つ。舞台に満ちた闇を拭い去る、軽やかなステップが近づいてくる、ピアノの鍵盤の上を歩むような明るい響きで、それぞれが舞台を縦横無尽に駆け回り、やがて私のところに集った。

「茨の姫はね」

「呪われているの」

「可哀想に!」

 可憐なソプラノの三重奏が口々に言う、小柄な妖精たちが純白のチュチュを揺らしながら、くるりくるりと棺桶の周りを回った。

「だ、誰だっ」

 人ならざる存在を、王子は目にすることできない、突然聞こえてきた声に戸惑いと驚きの混じった反応を返す。

「私達は」

「知っているの」

「方法をね」

 状況を飲み込めず、未だ呆然とする王子に、妖精たちはくすくすと歌い踊りながら語りかけ続ける。

「呪いを解く鍵は」

「運命の人の」

接吻キスだけよ」

 妖精のうち一人が、きゃあ、と照れたような声を上げて茶化した。しかし、王子が反応を示さないので、彼女たちはおまけ、と言わんばかりにそのやりとりをもう一度繰り返した、茶化し声も忘れずに。

「……風の悪戯かと思うたが、この奇怪な声は神のお告げかもしれない。信じよう」

 やや観念したような、それでも決意を決めた王子の言葉に、きゃあきゃあ、と妖精たちは盛り上がる。そしてその声はだんだんと離れてゆく、見えていないというのに茨の陰に隠れ、こっそりこちらを覗いているのだ、その振る舞いは年頃の少女のようでいじらしい。

そして急激に接近する気配、王子の顔が近づき、吐息がかかるほどの距離でぴたりと停止する。舞台上の熱が一気にここに集まるような錯覚の後、数秒の間を置いてから、彼はまた離れて行き、客席に向かって声を投げかけた。

「目覚めてください、私の茨姫」

 それこそが、固く閉ざしていた瞼を見開く合図。ゆっくりと目を開けば、私だけを照らすスポットライトが眩しい、それは長らくの眠りから目覚めた茨姫が、久しくぶりに目にする日の光だ。私は目がくらみそうになりながらも、両の目を見開いて、体の硬直を解く。そうすれば体は自然と動き出す、何度もなぞるように演じたから、全身が覚えているんだ。よたり、とたどたどしい足取りで棺桶から抜け出し、素足で冷たい舞台を踏む、やがて舞台縁ぎりぎりで倒れ込み、その勢いで地面に膝をつく。浮かぶのは呆然とした表情、信じられないとばかりに辺りを見回せば、客席に座る観客の顔がよく見えた。

皆、この世界が作り物だと分かっているはずなのに、私を縛り付けていた茨の棺桶もただの舞台装置に過ぎないと言うのに、物語の行方に夢中だ、でも、それは私もだった、夢のような時間だ、演劇を愛す者だけが集うこの空間はどこまでも心地いいもので、ずっと、いつまでも浸っていたくなる。こんな舞台にずっと立ちたかった、主人公を演じてみたかった、その願いが今、叶っている、夢が、現実になっている。

「姫、お具合はいかがですか」

 王子の言葉によって意識を引き戻された、ああ、見惚れている場合じゃない、脚本通りに物語を紡がなくては、それが演者である私の務めだ。慌てずに一息ついて、一音一音を明瞭に、客席のどこまでも届くように、私は歓喜の声を発した。

「ええ、最高の目覚めよ!」

 それは茨姫の心からの叫び、やっと日の目を見た、私の本心。

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舞台装置は茨の棺桶 時任西瓜 @Tokitosuika

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