膝枕と青空の間で

 高層ビル群の屋上。ヘリポートのオレンジ色の線は、夜空に浮かぶ銀盤をいつも独り占め。街明かりと都会の喧騒をはるか下に従えて。


 だが今日は違う。水辺に浮かぶ睡蓮の花のように、真っ白な薄手の布地が中央に咲いていた。


 仰向けで寝転がる人は、服からはみ出した両腕を頭の下で枕がわり。瑠璃紺色の瞳に、夜色が混じって同化アシミレーション。それは聡明でいてクール。


「星が見えないなぁ〜。ボク、星が見たかったんだけどなぁ〜」


 穏やかな陽だまりみたいに優しく、清潔感があり好青年な声色。それなのに、ずいぶん間延びしていて甘い口調だった。


 都会の明かりに押され気味だった、星々の弱い輝き。それらが一斉に、灼熱の陽光にでもなったように、あたりが金色に染まった。その人も、高層ビル群も、人ごみも何もかも。


 だがそれは、ほんの一瞬の出来事で。まばたきするくらいの間で。平和に時は過ぎてゆく。


 屋上のコンクリートの淡い熱は、夏の火輪ひりんの残り火。温度が落ちてゆく心地よさを背中で感じていると、ズズーッと振動音がふとしてきた。


 銀の細いブレスレットをした男の手が、慣れた感じで服のポケットに入り、自分を呼んでいるものを招き出す。


 携帯電話の着信ライトが、湿った風に紛れ込む。通話にして耳元に当てると、さっきと違う言語が、1人きりの屋上で甘く響き渡った。


「Hello〜?」

 ――もしもし〜?


 向こうから何の戸惑いもなしに、流暢な英語がかすかに聞こえてきて、男は春風みたいにふんわり微笑み、何かの続きの話を再開させる。


「Haha. Because this morning I suddenly came up with it」

 ――ふふっ。朝、急に思いついたからなんだけど。


 ずいぶんと気さくで親しげな様子。男が首を横に振ると、髪がサラサラと揺れる音が反対の耳をくすぐった。


「No. Reservation time is good at 15 o'clock〜」

 ――ううん。15時からでいいんだけどなぁ〜。


 コンクリートの上にみだらになだれ込む髪を指先でつまみ、夜空へ向ってすうっと伸ばしもてあそぶ。パラパラと長さが足らない毛から、ビルの屋上に戻り落ちてゆく。


「That's a secret〜! Haha」

 ――内緒な〜いしょ! ふふっ。


 子供が楽しくて仕方がないと言うような、笑い声をもらす。


「Thank you. Bey」

 ――よろしくね。じゃあ。


 通話終了にすると同時に、薄氷が張ったように一瞬、あたりが真昼のように明るくなった。だがそれはごくごく短い時間で、大都会の海にいる何万人の人々は誰1人として気づかなかった。


 男は起き上がると、生地が多めに取られた白い服を旗がひるがえるように、夜風になびかせ、靴音をほとんど立てず、屋上の端まで歩いてゆく。


「ふふっ。みんなはそうしたんだぁ。ボクはどうしようかなぁ?」


 転落防止用の柵がない場所。彼は臆することもなく、数十cmだけ高くなっている屋上の枠の上に乗った。


「そうだなぁ〜?」


 眼下に広がる人ごみも車も何もかもがミニチュアのよう。綱渡りをするように、両手を水平に伸ばして、右へ左へヨロヨロとバランスを取りながら、向こうの角へ向かって歩いてゆく。


「あれがこうで〜、それがああだから〜? あっちがこっち……?」


 進んでいた足は危なっかしげに立ち止まりそうになった。それだけだったらよかったのだが、バランスを失った白い布地は、一度人ごみの上に転落してゆく運命を踏みそうになる。


「っ……」


 驚き声は上げないが、何とか踏ん張って、屋上のコンクリートの上へもつれ気味にドサッと両足は飛び降りた。


「あれあれあれ〜?」


 可愛く小首を傾げて、男の癖が出る。それは手を軽く握って、自分の爪を見るだ。


「指示語ばっかりだったから、頭の中こんがらがっちゃったかも〜?」


 迷走したように思えた話。だったが、


「なーんちゃって!」


 両手を腰の後ろで組んで、はにかんだ子供みたいに、頭を少し横へ傾け、全身でゆるいCの字を作った。


「彼もボクと同じ目的だったのかなぁ〜? そうなると……その勝利に一番早く近づく方法……?」


 いつの間にか手に持っていた、細長い棒みたいなものを唇に当てる。そうして、さっきと同じことをするが、


「あれがこうで〜、それがああだから〜?」


 今度は結論が違っていた――


「答え出たかも〜?」


 棒状のものを持つ手を勢いよく下へ降り落とすような仕草を取ると、バッと強く帆を張るような音がした。何かであおいだような人工的な空気の流れが、風向きと交差し乱気流というまいを踊り出す。


「ふふっ。時間は有効的に使う。だから、開始時刻を変えちゃったかも〜?」


 自身のことが疑問形。屋上の枠の上にもう一度乗り、


「それじゃあ、ボクのば〜ん〜っ!!」


 足を強く蹴り上げると、斜めに回転するコマのように、服と髪が遠心力の円を描きながら、体の上下がひっくり返った。そうして、真っ逆さまに落ち出す、頭から地面へ向かって。


 ビューッと頬を切る空気の咆哮ほうこうが、耳に迫ってきては離れてゆく。高すぎて、色形が霞んでいたが、人々の頭も行き交う車も、見る見るうちにはっきりと迫ってきて……。


 あと数mでぶつかるというところで、地面と聡明な瑠璃紺色の瞳との間で、金の細い線がブリリアンカットされた宝石が放つ光のように、放射状の錯綜さくそうを幾重にも広げた。


 光をともなった不思議な現象が頭上で起こったのに、誰も驚く者はおらず。いや気づく者はおらず、金の光が完全に消え去ると、男の白い服と漆黒の髪はどこにもなかった――――



 ――――クールな瑠璃紺色の瞳は歩道の端に寄って、自分の前を右へ左へと通り過ぎてゆく人々を眺めている。異様に背が高い、210cm。人の様子をうかがうには好都合。だが、その人は少し違った見方をしていた。


 右から来た女を見つけて――


(右肩が下がってる。あの人は右利きかも?)


 彼女とすれ違った、左から来る男女に視線を移して――


(カップル……他の異性を見てる。うまくいってないのかも?)


 次に見るチャンネルを変える。この惑星ではなく、もっと遠くの宇宙へ。いや、宇宙の果てへと意識を伸ばしてゆく。横に平行ではなく、チューリップの花の底のような曲線で縦に。


 すると、人々の姿形がトレースシートを重ねたように、二重に見え始めた。下になっている表情は、的確なカテゴリーに分類すると2種類になる。


 他の人ならば、見ても違いはわからない。話したとしてもわからない。そんな繊細かつ重要な線引き。


 はす向かいの角で、若い男がどさくさ紛れで、ゴミをポイ捨て――


(あの人はこっちの人間)


 自分の斜め後ろからやって来る女は、見た目は平凡だが、人当たりはとてもいい。しかし、瑠璃紺色の瞳にはまったく違って見えた。


(あの人は向こうの人間だけど、少し高すぎる……)


 そうこうしているうちに、少し離れたパチンコ店から、20代前半の若い男が出てきた。開けたままの財布を手にして、その中身を見て、店の奥を眺めるを何度か繰り返していた。


(彼は向こうの人間、低い……)


 しかしやがて、投げやりな感じで財布をポケットにしまい、浮かない顔でこっちへ歩いてきた。仕事帰りのようで、ビジネスバックとくたびれたシャツ。


(来た。彼だね)


 待ち人来たり。白服は人ごみに少しだけ歩み出して、20代前半の男の行く手をさりげなくさえぎった。


「ねぇ、そこのキミ、お願いしたいんだけど……これ」


 誰がどう聞いても好青年な声が響き渡ったが、人ごみの死角の1つ、手元で何かを相手の手に押しつけた。


「……あ、あぁ、はい」


 いきなり止められた男としては、驚くばかり。しかも、210cmの長身には違和感を持った。だが、見た目はどこからどう見ても好印象。誰もが太鼓判を押す、好青年。それよりも、気になるのは自分の手の甲に突きつけられた、細い横の線。


(5万ギル?)


 金が交換条件として、他の人から見えない場所で提示されていた。真意を確かめられないうちに、携帯電話の画面が割って入ってきて、どこかずれたクルミ色の瞳を持つ20代前半の女が映っていた。


「これから、この子がここを通るから……」


 銀の細いブレスレットをした腕を下ろすと、エキゾチックなこうがほのかに漂いながら、一度腰元へ落ち、ほんの一瞬で、さっきまでなかったはずのA4サイズの紙が出てきた。それを再び、20代前半の男の顔前に持ってきて、


「……このチラシ渡して、会場に連れてきてほしんだけど。成功させてくれたら、この3倍あと払いするから」


 男は差し出された紙を受け取るが、ずいぶんと困惑顔。


「あぁ、そうですか……」


 5+5×3=?


 計算は簡単だ。だが、これを聞いて、おかしいと思わない大人はいないだろう。


(全部で20万だ。こんな大金、何かのサギ?)


 瑠璃紺色の瞳が少し困ったように陰って、携帯電話の画面をもう一度見せると、ブラウンの長い髪が今度は見て取れた。


「実はね。この子、今日、ここに来るの初めてなんだ。ボクが案内するはずだったんだけど……」


 210cmの男は頭を抱えるように片手をやって、「ははっ……」とお手上げみたいに少し苦笑する。


「別の仕事、同じ会場で頼まれちゃって、困ってるんだ。頼めないかな?」


 さっきからずっと、手に触れている5万ギル。


(この人はこの会場にいるんだ。連絡先も書いてある……)


 警戒心はマックス。だが、5万だ。しかも、成功すれば、20万になる。それでも迷う男。そこに、陽だまりみたいな柔らかな声がこんなことを言って、


「あぁ、ごめんね。忙しかった? それじゃ、別の人にお願いするから……」


 金の感触が手の甲から離れ、白い服が去っていこうとした。男は慌てて引き止めるが、


「あぁっ! 忙しくないです。ただ……」


 瑠璃紺色の瞳は不思議そうにかがみ込んだ。


「ただ?」

「いや、その……見つけられるかな? と思って……」


 今何をされているのかわかっていない若い男は、さっきまで微塵も思っていないこと――嘘をとっさについた。視線を落ち着きなさげにあちこちに飛ばしながら。


 漆黒の髪を持つ人はうっかりしてたみたいに、「あぁ、そうだった」と前置きして、


「忘れてた。彼女と事前に打ち合わせしたんだけど、今日は紫のタンクトップにピンクのミニスカートを着てくるって。靴は白のサンダル。ネックレスは二重にかけてる。それから、さっき連絡があったんだけど、服を買ったから大きな紙袋を持ってるって。これでどうかな? 見つけられそう?」


 矛盾が生じている話。疑ってかかるところ。だが、再び突きつけられた5万の札の感触。目先のえさにつられてしまった、若い男は。喧騒も何もかもを蚊帳の外にして、1人考える。


(見つからなかったとしても、今うなずけば、5万はもらえるわけだし。連れてけば、20万になる!)


 スパッと判断して、金を強く握りしめた。


「あぁ、わかりました」

「それじゃ、よろしくね〜」


 白い服の男はさわやかに微笑んで、顔の横で手を可愛く振った。後ろへ振り返ると同時に、黄金の光があたり一帯に広がる。だが、それに誰も気づかず、消え去った。


 人ごみから人が突如いなくなる。それだけでもおかしいのに、漆黒の髪を持つ男がいたことさえ、最初からなかった事実のように、街は平和に動いていた――――


 

 ――――瑞希は選択肢の高層ビル群を目指して、信号のない路地を歩いていた。彼女の右前方で、5万ギルを財布にしまっている男がいるとも知らず。


 進み近づいてゆく。ランジェにもらったドレスが入った紙袋を肩にかけ、紫のタンクトップとピンクのミニスカート。なぜか汚れがなくなった白のサンダルが。


(やっつけられるって、どういうこ――)


 どうにもよくわからない言葉で、チビッ子もやれている感が思いっきり出ていた、今回のターンへの序章。瑞希が首をかしげようとすると、自分と同じくらいの歳の男が素早く寄ってきた。


「すみません!」

「は、はい?」


 人ごみの中で声をかけられる。それは、勧誘やナンパである。間違いなくそうだ。二重がけしたネックレスの前に、A4の紙が差し出された。


「これ、どうですか?」


 どこかずれているクルミ色の瞳に、印字された大きな文字を映して、ポツリつぶやく。


「ビジネスセミナー……?」


 シンガソングライターとは関係なさそうな内容。瑞希の躊躇は最高潮に。だが、男も負けていなかった。あと15万手に入るターゲットがここにいるのだから。


「ぜひ、聞いていってください!」


 何が起きているのかよくわからないが、このタイムループを抜けるためには、男に会いに行かないといけないわけで。いつもなら断るはずのものも、見逃さないようにという気持ちが、警戒心を半減させる。


「あぁ〜……これかな? やっつけてくる人って……。ん? 18時から?」


 開始時刻を見て、瑞希は通常モードに引き戻された。落ち着いてよく考えてみた。今までの出来事を思い返しながら。


「途中からでも大丈夫なんですか?」


 こんなことを聞かれると思っていなかった男は言葉を詰まらせて、瑞希が心配している箇所を見たが、


「え? 途中? 18時……?」


 慌ててポケットから、携帯電話を取り出した。


「あれ? 今何時?」


 同じことをした瑞希は気づいていなかった。やっつけられる人の手強さを。


「17時42分? あれ? 全員同じ時間じゃないのかな? 藍琉らりゅうさんの時、18時前だったよね? だから、18時から24時までだったと思ったんだけど……。みんな、6時間で平等じゃないのかな?」


 開始時刻を前へずらした――


 制限時間を最大限に活かすためだろう。しかし、それは少し考えればわかるのである。これは、漆黒の髪を持つ男の思惑――氷山の一角なのだ。


 今、瑞希は他の人からどう見えているか。

 いや、出会うはずの男からどう見えているか。


 それさえもわかっていない。タイムループを終わらせるために、男に会いに行くためだけに、無防備に動き続ける。


 瑞希は時間がずれたタイミングがどこだったのかも見つけられず、いや、そもそもそんなものがあったのかさえ、確かめるすべがない。誰にも確認していないのだから、制限時間が6時間とは。それさえも、違うかもしれない。


 それなのに、今来た道を黙って見つめたまま、同じ角度からずっと物事をたどり続けていた。


「あ、あの……」


 戸惑い気味の男の声で、瑞希は我に返り、


「はい? あ、あぁ、すみません、考えごとしてしまって」

「人生にも通じる話もありますよ」


 獲物を逃さんと、男はどこかの宣伝文句みたいなものを口にした。瑞希はチラシを自分へ引き寄せて、彼女なりの計りにかける。


「あぁ、そうですか……。何でも経験だよね? 何か音楽につながることがあるかもしれない。よし!」


 スパッと判断したが、ビジネス街など来たことがない。会場名がチラシには書いてあったが、どのビルかわからない。


「どこから行けば……?」


 会場に連れてきてほしいと頼まれている男――いやビジネスマンは、にこやかな笑顔を向けた。


「案内します。こっちです!」

「はい、ご親切にありがとうございます」


 瑞希は礼儀正しく頭を下げると、ブラウンの長い髪がザバッと前に落ちた――――



 ――――瑞希が案内され始めたころ、セミナー会場の控え室では、全身白の服がひとりきり、ソファーに座ることもなく、右へ左へのんびりと行ったきり来たり。


「損得で動く人は得だと思わせれば動くかも〜? だから、お金をボク渡したのかも〜。でもそれって、お金で心買われてるってことになっちゃうかも?」


 手に持っていた扇子せんすの紫の縦線を唇にトントンと当てると、硬い紙の感触がサディスティックに淡い痛みを残す。


「信念のある人を動かすには、少し罠が必要。情に熱い人なら、情に訴える。こだわりを持ってる人なら、そのこだわりにそうような条件をちらつかせる」


 漆黒の長い髪を指先でつまんで、スーッと前へ引っ張っていっては、短いものからサラサラと落とす――もてあそび。


「一番難しいのは、ボクと同じ思考回路の人……御銫みせねとかランジェとか、あと――」


 秀麗しゅうれいが言っていた、罠を張る人物、3人目登場――


「あぁ、さっきの人来たぁ〜」


 パチンコ店のそばで5万を突きつけた男の姿はどこにもないのに、なぜか見つけた。瑠璃紺色の瞳は手のひらを少し握った形で自分の爪を眺める。春風みたいに柔らかな笑い声をもらして、「ふふっ」と小首を楽しげに傾げた。


「今言ったの全部、嘘かも〜?」


 自身のことが疑問形。全てが帳消しになる呪文。御銫のまだら模様の声がどこからか聞こえてきたような気がした。


 銀の細いブレスレットは、部屋を出ようとする男の手首によってドアへと連れられてゆく。


「彼はボクに与えられた力に引っかかるね。ボクとは違う、向こうの人間だから」


 ドアノブに触れなくても、黄金の光があたり一帯に広がると、210cmの背丈は消え去っていた。


 瑠璃紺色の瞳に次に映ったのは、無事セミナー会場に案内された、瑞希のブラウンの髪が入り口から中へ消えた、すぐあとだった。


 廊下の途中から突然現れて歩いてきたにも関わらず、漆黒の長い髪の持ち主は、約束の15万を持って、20代前半の男へ親しげに近づいて、穏やかな陽だまりのような声で言った。


「ありがとう。じゃあ、これ」

「あぁ、はい」


 たった20万で動かされた男。いや買われた男は、ほくそ笑んで帰っていった。


 会場の後方ドアから廊下を前へと歩いてゆく。仕事を頼まれたわけでもなく。いや自分がおさなのだ。仕事を頼むとしたら、自分から他の人へなのだ。


 ブレスレットを指先でつまんではクルクルと回し、アクセサリーのくすぐったいような感触を味わう。


「開始時刻をずらしたのは、可能性の問題もんだ〜い。ボクの最終目標を成功させるためにね」


 可能性――


 これがキーの1つになる。この漆黒の髪を持ち、210cmの長身の男にやっつけられないためには。


 演台へと向かう、前方のドアへ歩いてゆく。手荷物はどこにもなく、こんなことをつぶやきながら。


「でも〜、ボク、2人の彼にイタズラしちゃったから、どうしようかなぁ〜? プリンかなぁ〜? 限定物かなぁ〜? ご馳走しないと、次は聞いてもらえないかも〜?」


 初っ端からやらかしているようだ。それなのに、子供が楽しくて仕方がないというように微笑みながら、ドアの前で一旦立ち止まった――――


 ――――瑞希は前から3番目の真ん中より少し右側に座った。1人浮いた存在で、どこかずれているクルミ色の瞳は落ち着きなく、まわりをうかがう。


(うわ〜! スーツ着てるビジネスマンがいっぱいだ。人気のセミナーなんだ)


 100名ほど軽く収容できるような会場。演台は一段高くなった舞台の上。仕事帰りのサラリーマンばかり。1人ラフな格好の瑞希はソワソワしながら、もらったチラシをもう一度よく見てみると、


すみれ ストゥイット……? どんな人だろう?)


 携帯電話で検索ゴーである。人差し指で慣れない感じで、入力してタッチ。すると、すぐに出てきた。


(ん? 経営コンサルタント。世界各国の赤字だった企業を一流にまでのし上げ……?)


 しがないフリーターとは規模が違う。世界を股にかける人のセミナー。適当にページをスクロールしながら、瑞希は大いに感心。


(何だか、すごい人だな……)


 場違いの空間。まわりを眺めながら、ストゥイット先生を待ち続ける。


(スーツとかきちんと着てるのかな?)


 18時きっかり。舞台の右端から、白の服がさっそうと入ってきた。瑞希はびっくりした、想像していたのとまったく違っていたからだ。


(着物っ!?)


 天女でも舞い降りたような袖口も裾も大きく取られた、白の薄手の布地。下の方には、金と赤の刺繍が入っているスカートのように見えるものだった。


(違う! モード系だ。しかも、全身白!)


 大先生の服装は、膝までのロングシャツに、はかまのようなワイドパンツ。漆黒の髪は頭の高い位置で結い上げてあったが、それでもなお腰まであった。


(髪長い……)


 細く赤い縄のような髪飾りが、黒髪のそばで彩りを添えている。足元は草履のように見える、サンダル。背丈は210cm。


(っていうか、背高っ! 間違いない。この人だ、今度は)


 確信してしまった、瑞希は。演台へついた大先生は、陽だまりみたいな穏やかな声で、


「こんばんは。菫 ストゥイットと申します。お忙しい中、ご足労いただき、誠にありがとうございます」


 人をうやまう丁寧な言葉遣い。清潔感もあり、姿勢もよく。遠目でわからないが、瑞希とそれほど年齢も変わらないようだった。


(でも、どうやってやっつけられるん――!)


 瑞希は首を傾げたが、気づいてしまった。大先生のビジュアルのよさに。


(あぁ〜!)


 彼女は両手で顔を覆って、前後左右にグラグラと椅子に座ったままで揺れ出した。


(神さま〜! 今日初めてこんなカッコいい人に出会いました! このまま天に召されてもいいです!)


 机にガタガタと、激ぶつかっているとも気づかず、静かなセミナー会場に広がってゆく、瑞希の雑音。まわりにいたサラリーマンたちの視線が一斉に集中した。


 瑞希は指の隙間から、大先生を密かに、忍んで見つめる。現実は非常にシビアで、まったくそうなっていないが、彼女だけはみんなに内緒だ。


(あぁいうタイプに弱いんだよなぁ〜)


 菫の眉尻は凛々りりしく上へと、アイブローペンシルでも使ったように綺麗に、細くもなく太くもなく描かれていた。聡明な瑠璃紺色の瞳はクール。氷雨ひさめが降るような冷たさ。


 だが、その奥には、真逆の感情の熱が潜む。人を魅了するギャップ。それを持っている、長身のイケメンにノックアウトされ中の瑞希。


(こう、情熱をね。冷静な頭脳で抑えてるって感じで、その絶妙なバランスで生きてる……。素敵すぎだぁ〜!)


 大盛り上がり。彼女は忘れていた。男たちが自分の思っていることに、時々答えてきたことを。その意味を。


 大先生のクールな瞳は、瑞希のことなど眼中にない様子で、飲み物が置かれただけで、不思議なことに何もない演台で、セミナーをスタートさせた。


「それでは、さっそく講座を進めさせていただきます。こん講座はビギナー向けですので、基礎から始めます」


 煩悩ぼんのうを捨てて、いざ、瑞希出陣だったが、


(おっとっと! 集中集中)


 もうすでに、チビッ子の忠告は忘却の彼方へと消え去っていた。陽だまりみたいな柔らかさで、軽く少し高めの男の声が、マイクを通して会場に広がる。


「私たちは1人では決して生きていません。ですから、自身が動く時、まわりの人も動きます」


 香水の残り香を近くでかぐように、瑞希は頬杖をつく。


(自分が話せば、相手もどう感じるかは変わる。だけど、同じ高さで見てた気がする、今まで。ストゥイット先生が話してるのは、もっと高い場所から自分も混ぜて、見てる気がする……)


 瑞希、順調にスタートを切っていた。


「全ての物事を成功に近づけるためには、他の人がどのような気持ちを抱き、どのような行動をしてくるのかを常に予測し、自身の言動を選び取らなければいけません」


 クールなイメージの菫。頭がいいのは雰囲気でもわかる。大先生はゆっくり話をしているのだが、瑞希がついていけなくなってゆく。


(ん? 成功するためには? 予測して、自分の言動を選ぶ?)


 なぜ、セミナーを先に受けさせているのか、瑞希が気づけないまま、菫の説明は続く。


「ですから、全ての物事を常に同時にいくつも計りにかけておくことが必要不可欠です」


 瑞希と菫はある意味、水と油。彼女が何気なくやっていることは、彼にしてみれば、この言い回しなのだ。


(いくつも計りにかける?)


 御銫みせねとランジェが持っていなかったものが、菫の少し薄い唇から出てくる。


「感情という曖昧なものは最初に切り捨てます」


 そうして、彼らの思考回路が提示された。


「事実から導き出した可能性を使って、自身の言動を決めていきます」


 可能性――

 事実――


 この2つがキー。いや、これしかない。出そろった。菫を攻略するための材料は。しかし残念ながら、大先生は仕事でしているのだ。策略を。レベルが半端ない。


 御銫とランジェがどこでどうやって、策を張ってきたのか気づいていない瑞希。菫がそのまま出てきても、彼の言動が全て普通に思えてしまうだろう。相手にわかるように罠を張る人などいないのだから。


 策士として勝算込みで、菫は最初にセミナーを受けさせたのである。というわけで、瑞希にはやはり難しかったようだ。


(感情はなし。事実? 可能性? ん?)


 ピヨピヨと、鳥が頭を中心として、円を描いてクルクル回り出し、異常スタン状態になってしまった。


 聡明な瑠璃紺色の瞳は、会場にいる全ての人々を見渡して、前置きをしめくくる。


「ですが、いきなり全ての可能性を同時に持ち続け、対処するのは難しいことでしょう。ですから、まずは自身だけの可能性の導き出し方から説明いたします」


 1から1を学ぶ――

 それは、ここで言えば、ストゥイット先生の話をメモすること。


 1から2、3を学ぶ――

 それは、大先生の話を発展させ、応用すること。


 それさえも判断しないまま、瑞希は大きくうなずいた。


(自分のことだけ……よくわからないけど、とりあえずやってみよう!)


 ストゥイット先生の話を全然聞いていなかった、彼女は。やる気で挑んだ。やる気の原材料が何なのか、瑞希は見極められないのだった。


「受付時に配らせていただきました資料、そちらの2ページをご覧ください」


 会場中で一斉に、紙がカサカサとすれる音が鳴り響いた。瑞希のどこかずれているクルミ色の瞳は真剣な眼差しで、出てきた文字を読む。


 ――朝の天気予報で、雨の降水確率が0%でした。あなたは夕方まで用事があり外出します。傘を持っていきますか?


 例題1。いたってシンプルな問題。日常生活によるあるひとコマ。


「傘を持っていくか、いかないかを自身の中で、ひとまず決断してください」


 瑞希は23年間でつちかってきた、いや適当にやってきた習慣で選択肢をチャチャッと決定。


(降らないから、持ってかない……だね。よし、持ってかない!)


 間髪入れず、ストゥイット先生の好青年で間違いないというような声が聞こえてきた。


「みなさん、お決めになりましたか?」


 瑞希は心の中で、ガッツポーズを取った。


(決めました!)


 マイクを手にしたまま、菫の長い足は演台からはみ出して、舞台へと続く階段を降り始めた。


「ひとまず、傘を持っていかないという行動を選択したとします。ですが、天気予報がはずれて、夕方になり雨が降ってきました。どのようにしますか?」


 加えられた、経過した時間と条件が1つ。


(傘を買う……だね)


 また間髪入れず、説明してくる、菫は机の間を歩きながら。


「傘を購入するという選択肢が出てくるかと思います。ですが、そちらが売り切れだった時にはどのようにしますか?」


 加えられた、条件2つ目。


 ごくごくあり得るシチュエーションで、瑞希は納得の声を心の中で密かに上げた。


(あぁ、そうか。急に降ってきたら、みんなも持ってないかも。売り切れになるよね。ん~~? 走って帰るしかない……)


 どこで間違ったのかわからないまま、ストゥイット先生からトドメの攻撃。


「走って帰るという選択肢を選ばれた方は、残念ながら失敗しています」


 何の例題かすでにわからなくなっている瑞希は、驚いた顔をした。


(え、どうして?)


 忍び寄る敵のように、菫の香は瑞希に近づいてゆく。


「ビジネスはもちろんのこと、人生は戦場と同じです。身近な小さなことにも、最新の注意を払わなければいけません。なぜなら、自身が関係ないと思っていたことも、大きなことにつながっている可能性があるからです。雨がもし、自身の命を狙う敵の攻撃だった時には、もうすでに死んでおり、未来はそちらにはありません。すなわち、そちらの物事はこれ以上進みません。チャンスを逃してしまったことになります」


 通り過ぎてゆくエキゾチックな香りをかぎながら、瑞希は単純な発想で、2度目の決着。


(あぁ、そうか。じゃあ、持ってくだ)


 最後尾まで歩いて行った漆黒の長い髪は、不意に振り返ったことで、半円を描いた。


「それでは、持っていくという選択肢を選びなおすと思いますが、なぜ、そちらを選ぶのかの理由が大切です」


 ブラウンの長い髪が、聡明な瑠璃紺色の瞳にターゲッティングされる。そうとは知らず、瑞希は真剣に考え中。


(失敗したから……)


 これは、1から0.1を学ぶ。

 ストゥイット先生のビジネスセミナーでは、そういう意味である。


「失敗したから、別の選択肢を選ぶという理由では、取るべき行動がいくつも出てきた時、順番に試していき、失敗を繰り返して、成功にたどり着くということが起きます。こちらは、学習能力を使ったことになります。ですが、非常に非合理的で、選んでいる間に、敵からの攻撃を受けた時には、対策もなくその場で討ち死にとなります。なぜ、傘を持っていかないと判断したかの理論的な理由が必要です」


 理論的。この方程式は、


 理論=可能性+事実。


 瑞希は自分の思考回路が明確ではない。菫の思考回路はわからない。五里霧中。暗中模索。ぼやけてしまった脳で、ただただ繰り返すだけ。


(理論的な理由?)


 タイムアップ。


「それでは、例題を使って、可能性の導き出し方を説明します」


 ここからしばらく、菫が普段使っている言葉が、瑞希には聞き慣れないもので、困惑するが続く。


「まず、朝の天気予報で、雨の降水確率が0%でした。こちらが、みなさんが得た情報です」

(情報……?)

「事実と言い換えても構いません」

(事実……?)

「こちらの言葉の中で、事実と確定してしまってもよいのは、どちらの言葉でしょうか?」

(確定……?)


 大先生も大変である。出来のよくない生徒がいるのだから。瑞希のレベルに合わせた。


「少し難しいかもしれませんね。言い方を変えましょう。こちらの言葉の中で、素直に信じてもよい言葉はどちらでしょう?」


 菫の言っている意味をそのまましか受け取れない瑞希。だか、彼女なりに、手元の資料に視線を落として、考え始めた。


(ん~~? 朝……はOKだよね。天気予報……? 予報? あっ! わかった! 予報は違う! 予測だから、これは信じない)


 唇に手を当て、二重がけしたペンダントのチェーンを指先でなぞる。


(雨……これは物事だから、OK。降水確率は0%……! あ、わかった! 0%じゃないんだ! だから、雨が降るから傘を持っていく!)


 瑞希、ここに撃沈。話をまったく理解していないのである。菫から理論の刃物が突き刺される。


「よろしいですか? 事実から可能性を導き出す問題です。ですから、雨が降る、降らないではありません。雨は降るかもしれないですし、降らないかもしれないのです。従って、降る可能性が少しでもある以上、傘は持っていくのです。そちらが、失敗をせず、成功へとつながる言動なのです」


 瑞希はこうやって、予報外れの雨に、無残にも23年間濡れて続けてきたのかもしれなかった。


(あぁ、なるほど!)


 新しいことを覚えた。それが嬉しくて、瑞希の顔は一気にほころんだ。菫の忠告をすっかり忘れて。大先生は基本だと言っていた。菫の策略にまっしぐらなのである。


 説明はした。理解できるかどうかは、その人の努力次第。社会人の鉄則である。ストゥイット先生は、飲み物しか置いていない演台へ戻り、スマートに仕切り直し。


「事実から可能性を導き出すためには、事実を正しい事実として、きちんと確定する作業がまずは必要になります」


 また瑞希の耳慣れない単語が入ってきた。


(正しい事実……?)


 今度は、菫先生から直接の出題。


「今から私がある行動を取ります。そちらを順番通りに事実だけを覚えてください」


 例題2。


 よく聞かないとけない。先生の言葉の構造を。やることがいくつなのかを。それが何を意味しているのかを。しかし、瑞希は気合いを入れただけだった。


(よし!)


 気合い、その原材料が何なのかもわからずに。


 嵐の前の静けさが広がっていたが、陽だまりみたいな柔らかさで少し高めの声が打ち破った。


「それでは、始めます」


 白く広い袖口から出た手は大きく神がかりな綺麗さ。持っていたマイクを演台の上に、しばしの別れというようにそっと乗せた。


 そのやり取りを隣で見ていた女は、クリアなボディーを持つペットボトル。太陽光と勘違いするようなスポットライトの下で、彼女がエキゾチックな香のそよ風に吹かれると、髪をなでられ――キャップを回された。


 透明な液体が傾けられ、菫の唇から体の奥へ落ちてゆく。乾いた体にオアシスを作るように。そうして、ペットボトルは彼の手から演台へと移りゆく恋心のように離れていった。


 210cmの天女のような白いモードファッションはすっとかがみ込む。その仕草はまさしく、立てば芍薬しゃくやく、座れば牡丹ぼたん、歩く姿は百合ゆりの花。それだけでは足らず、妖艶ようえんな牡丹が人々の前で端座した。


 そうして、受講生から見えない死角で、金の光がすっと空間を切るように走ると、本が急に出てきた。それは掲げられ、カチッとした四角い姿がお披露目され、漆黒の長い髪は1本のからみもなく、指先でスーッと伸ばされ、サラサラと肩と胸に落とされた。


 本のページを開き、瑠璃紺色の聡明な瞳に文字の羅列が映った。しばしの別れを告げていたマイクが再び取り上げられ、


「以上です。それでは回答です」


 出題終了。瑞希の頭の中はこの順で並んだ。


 ――水をゴクゴク飲んだ。

 椅子に座った。

 本を手に持った。

 綺麗な髪を触った。

 本を読んだ――


 問題に集中している彼女は、この回答さえもどんな可能性に、菫によって変換されるかわかっていない。


 大先生の回答が始まる。


「1番目は、ペットボトルの飲み物を飲んだ、です」


(ん? 水じゃなくて?)


 初っ端、瑞希と菫の見解に食い違いが生まれた。


 瑞希の回答――水をゴクゴク飲んだ。


「水と判断された方は、間違っている可能性が出てきます。透明な液体はお酒かもしれません。セミナー中ですので飲みませんが……」


 そんな細かいことをと、大雑把な瑞希は思う。だがしかし、そんな些細なことが、命が狙われている状況では重要なのだ。


 仕事中なのに酒。そのミスマッチに、ビジネスマンたちは大笑いした。


「あはははっ……!」


 さっきの傘を持っていく話の結末を聞いた瑞希は、真剣な顔で素直にうなずいた。


(あぁ、そうか)


 だが、ストゥイット大先生から、さらなる指摘。


「それから、ゴクゴクなどは、音を聞いていない限り、そちらはみなさんが勝手に解釈した判断となりますので、正しい事実にはなりません」


 事実と可能性なのだ。瑞希がよく理解できないまま、解説は先に進む。


 瑞希の回答――椅子に座った。


「次は、椅子に座った、かもしれない、です」


 わざと途中で切られた言葉。その不自然な響きに、さすがの瑞希も違和感を持った。


(え? かもしれない?)


 何度も出てくるが、事実と可能性。


 これを踏まえれば、こうなると、ストゥイット先生は教えを説く。


「みなさんから私の足元は演台があって見えません。ですから、こちらにあったのは……段ボール箱です」


 この問題自体がどう生まれているかも知らないまま、物事は進んでゆく。茶色の空箱が持ち上げられて、会場は大爆笑の渦に再び包まれた。


「あはははっ……!」


 この言動は、菫が一旦、会場の全ての位置に立って、演台に段ボール箱がきちんと隠れているかを確認してからでないと、出題できないもの。2重仕掛けになっているとは思いも寄らないまま、瑞希はただ納得する。


(あぁ、そうか)


 なぜ、間違ったかの説明がなされる。


「自身が見ていないものを、予測だけで決めつけるのは非常に危険です。ですから、かもしれないになるのです」


(なるほど!)


 再三、事実と可能性。次々と現れるイケメンタイフーンに見舞われている、23歳の女は、理論立てた思考がわからないまま、次々に進んでゆく。


 瑞希の回答――本を手に持った。


「次は、本を手に持った、です」


 瑞希は初めての正解に、心に羽が生えて、晴れ渡る青空高くに飛び上がったような気持ちになった。


(あってる!)


 だが、次でズドーンと地面に引きずり下ろされた。


 瑞希の回答――綺麗な髪を触った。


「髪を触った、だけです。綺麗などの修飾語は、自身の感情で勝手に判断したものです。そちらは、正しい事実ではありません」


 同じことを、2度注意されている。しかも、瑞希の回答が、菫にどう映っているのかが重要なのだ。だが、無防備にやる気と気合いだけで進んでゆく。


(髪を触った……だけ。よし!)


 そうして、この例題の中で一番の難所へやってきた。


 瑞希の回答――本を読んだ。


「最後ですが、本を見た、です。読んだ、ではありません」


 これが何を意味しているのか、この時点でかわからないと、ストゥイット先生の策にはまりまくりなのである。いや違う。敵に殺されるのだ。


 会場にいたほんとんどのビジネスマンの口から、意外だというため息が上がった。


「あぁ〜」


 事前に予約して、世界に通用するハウツーを学びにきた、彼らでさえ驚いた内容。瑞希は当然のことながら、ついていけるはずもない。今ももれず、これが菫にとって、どんな結果をもたらしているかわからず、ただ単純に疑問を持った。


(えぇ? どうして?)


 瑞希は気づいていなかった。自分が思っている通りのことに合わせて、菫が言ってきていると。自身を含めて、100人近くのビジネスマンがいるのだ。他の考え方をしている人がいるだろう。これに気づくのも可能性なのだ。


 大先生から、考えてみれば当たり前の回答が告げられる。


「読むという行為は、私にしか判断できません。読んでいるふりをするということがあります。実際、私は今本を開いただけです。読んでいません。ですから、みなさんが事実として確定する時には、本を見た、になります」


 戦場だったら、瑞希はもう死んでいる。間違った情報を与えられ、信じて進んだ先が敵の罠だった。ありえない話ではない。兄貴とランジェに守られた、あの悪魔のような存在と血のような真っ赤な目を、寒気とともに思い出した。


(そうか……結構難しいんだ)


 慎重に考えないと、非常事態時の今は危険である。


 モテ期がきました――


 それで終わりにしてしまっては、意味がないのだ。なぜモテ期になったのか。それを理論で説明できないといけない。


 瑞希はまさにそこにいる。なぜ、イケメンの男が自分のそばに次々に来て、守るだの、好きだの言ってくるのか。それを、きちんと整理して、客観的に見れないと、危険度は増すばかりである。


 学びを得られない瑞希を置き去りにして、菫の好青年で陽だまりみたいな柔らかな声は、親切丁寧に教える講座の終了を告げた。ここから先が本戦だ。


「それでは、今回はここまでです。次回は、実際に起こった物事から判断するだけでなく、相手から情報を得る具体的な方法をお話しします」


 この言葉の意味を、事実と可能性から計ることもせず、瑞希はぼんやりと聞き流した。何気なく手にした携帯電話を傾けると、20時ちょうどだった。


「本日は、ありがとうございました」


 礼儀正しく、ストゥイット先生が深々と頭を下げると、漆黒の髪はライトの下で、ツヤを生み出して、妖艶に揺れ動いた。


 会場中から拍手が舞い起こる。瑞希は携帯をゴトッと机の上に慌てて落として、つられて手を叩く。


 この仕草も、菫の瑠璃紺色の瞳にどう映っているのかわからないまま。忙しいビジネスマンたちは荷物をまとめ、そそくさと会場から出てゆく。


 事実と可能性。瑞希の中になかった思考回路。カルチャーショックを受けた。資料をパラパラとめくっても、パンクした頭には何も入って来ず、紙が作り出す風圧を頬で感じるだけ。


「次回か……これ、タダなのかな?」


 気になるのだ、この考え方が。最後のページを見て、瑞希の目が思わず飛び出た。


「違う! え〜っ!? 本当は3万もするんだぁ〜」


 世界的に有名な大先生だ。これは安すぎである。赤字の企業が一流になる。そこで、発生する利益は億では足らず、兆単位かもしれない。それは菫の功績なのだ。そこからマージを、彼の頭脳で駆け引きして億単位で要求しても、企業は払ってくるだろう。


 今の瑞希はこうだった。右と左にしか行けない通路に立っていて、右から払えない金額が迫ってくる。だから、左へ行く、なのだ。自分で選んだように見せかけられて、菫の思惑通りの選択肢をチョイスするしかない。


 ピンときたから。

 気まぐれで。


 菫はそんな考え方は決してしない。だが、瑞希はする。人は自分の価値観で相手を見ようとする傾向が強い。


 菫が何をどうして、次回の予告をしてきたのか、なぜ3万なのかもわからない。瑞希が持っている資料が、他の人と同じものとは限らない。


 客引きのための言葉。よく耳にする宣伝文句。それさえも、瑞希は気づくことなく、資料をめくったまま、唇に指を添えて、苦渋の顔をする。


「次は来れない。でも、気になる。どうやって、人から情報を得る、をするんだろう?」


 自身が当たり前にしていることさえも、彼女はもう気づけないほど感覚だった。理論の人の言葉に置き換えただけである。次々に人がいなくなり、もう瑞希と菫しか会場に残っていなかった。


「聞いても教えてくれないよなぁ。それでお金取ってるプロだからね」


 事実と可能性――


 瑞希の考え方はある意味あっているだろう。だが、忘れてしまっている。3万もするセミナーに、なぜ自分が招待されたのかと。今は何をしている時なのかと。


 未だわかっていない瑞希に、大先生の鉄槌が下される。このあと、しつこいほど指摘される、最初の一撃がやってきた。


「教えてほしいの〜?」


 声色は、好青年で陽だまりみたいな穏やかさを持つのに、間延びしたものが聞こえ――いやここは、疑問形と取るべきだろう。


 さっきまでは、聡明でクールなイメージだった。それなのに、御銫みせねとまではいかないが、甘々の男の声がすぐ近くで聞こえたきた。


「え……?」


 考えすぎて熱くなった、ぼうっとした頭脳で、瑞希が見上げると。噂の大先生がすぐ近くに、210cmの長身を持って、天女が舞い降りたように立っていた。


「ボクに教えてほしいの〜?」

「いいんですか?」

「教えてあげるから、ボクと手つないでくれるかなぁ〜?」


 銀の細いブレスレットをした手が、エキゾチックな香を舞踊らせながら、瑞希の前に差し出された。


 彼女の脳裏に浮かび上がった。日付は今日と同じ、7月18日、木曜日。それなのに、違う夜。タワーマンショの最上階で、クレーターが見えるほどの大きな月。


 その銀の光の下で聞いた、ケーキにハチミツをさらにかけたような甘さダラダラの、まだら模様の声の持ち主。


 山吹色のボブ髪をかき上げ、宝石みたいに異様に輝く黄緑色の瞳。瑞希はあきれたようにため息をついた。 


「またですか……。はぁ〜、藍琉らりゅうさんと一緒だ」


 菫の聡明で好青年、クールなイメージは一瞬――いや、デジタルに消え失せた。


 瑠璃紺色の瞳は純真無垢になり、声色は螺旋階段を突き落とされたグルグルとした惑わせ感があるものに豹変し、甘くてのどが痛くなるようなダラダラの口調で聞き返してきた。


「お前に甘えたいの、ダメ〜?」


 瑞希は一気にふざけた感じになり、御銫の超ハイテンションで負けじと返した。


「『俺』の真似しちゃってるんですか〜?」


 時々言葉が丁寧になる、あの純真無垢なR18の男。菫は右手を上げて、顔の前で爪を見つめ、首をかしげると、漆黒の長い髪が背中でサラサラと揺れ動いた。


「そうだったかなぁ〜?」

「どうして、手をつなぐんですか?」


 同じ思考回路――策略家に瑞希は挑んだ。菫は手を下ろして、春風が吹き抜けるように穏やかに微笑む。


「可能性の問題」


 可能性――


 菫にとってはこれ以外に言いようがない。真面目に答えている。可能性だ。未だ理解していない瑞希は、セミナーを思い出した。


「え……? さっきの話ですか?」


 普通なら、まぁ20点といったところである。だが、ストゥイット先生は厳しかった。口調と印象は、子供みたいにふんわり微笑んでいたが、


「さっきって、いつのこと〜?」

「いつって、今の講座で聞いた話です」

「どの話〜?」

「雨の話です」


 瑞希の回答が何を意味しているか、本人がわからないまま、大先生から0点の答案用紙が突っ返された。


「あれ〜? ボクの話、そうだったかなぁ〜?」

「え、どういうことですか?」


 例えば、今ここにいない親友。和毅かずきに話したとする、瑞希の今の言葉を要約した内容を。そうなると、


 今の講座で聞いた雨の話だよ――


 だから、どうしたのだと聞き返されるだろう、瑞希は。菫が重ねた質問は当然だった。だが、世界的に有名な大先生はこう指摘した。


「事実の話」


 基礎は説明されたが、今は解説が何もついていない。瑞希は自分と同レベルで返された言葉の前に、ただただ立ち尽くした。


「ん?」


 待ったみたが、どこかずれているクルミ色の瞳は、スポットライトが消えた舞台の上を見て、開け放たれままのドアを見て、目の前にいる、凛々しい眉をした男を見上げただけだった。


 エアコンの乾いた涼しい風が夏を物語るのに、春香りを漂わせる、「ふふっ」と少し薄い綺麗な唇から笑い声がもれて、


「それよりも、キミがボクにとって、大切な人になっちゃったかも〜?」


 自身のことが疑問形。可愛げな言い回し。


 それなのに、見聞きしたことを、適当に記憶の引き出しにつめまくっている瑞希は、あきれた顔で、この人の名前を口にした。


「今度はランジェさんと一緒……」


 聡明な瑠璃紺色の瞳は、一気に邪悪さを持った。ニコニコの笑みが少し困った表情を作り、人差し指をこめかみに突き立てる。


「おや? そうきましたか。それでは、僕が池に入って溺死です~」


 湯けむりの向こうで、マゼンダ色の長い髪を持つ男の、りんとした澄んだ声色まできっちり再現されていて、瑞希は思わず吹き出した。


「あはははっ!」


 2人きりの会場に響き渡る笑い声。間髪入れずに、菫の雰囲気はガラッと変わった。


 切り込むような鋭い眼光になり、自分では再現がちょっと難しく、「んんっ!」と咳払いをして、出来るだけ、極力しゃがれた声を出してみた。


「――っつうかよ、話元に戻せや。てめぇ、しょっぱな別んとこ飛ばしやがって、責任取りやがれ」


 高架下を後ろにして、月影を背にかかげた、あのウェスタンスタイルの男と過ごした時間が蘇り、瑞希は掛け声をかけた。


「兄貴〜!」


 菫は居住まいを正して、冷静でもなく、穏やかでもなく、重厚感を漂わせる。今度はかなり、かなり! 再現が難しく、「んんっ!」と何度かわざとらしく咳払いし、最大限に低い響きにした。


 そうして、天までスカーンと火山噴火するように怒鳴り散らした。もちろん、鋭利な瑠璃紺色の瞳を持って。


「貴様、そこでおとなしく寝ていろ。俺に逆らうとはどういうつもりだ! 俺にこれ以上手間をかけさせないように、動きを封じてやった。ありがたく思え」


 秀麗の真似をして、突き出された指先に負けないように、瑞希は50cmも背の高い菫に、同じことを仕返して微笑んだ。


「海羅さんのす巻きだ〜!」


 菫の瑠璃紺色の瞳は聡明に戻り、ノリノリの瑞希姫に問いかけた。


「今までの話で、どんな情報が手に入ったの〜?」


 大先生は優しかった。これを聞かれなかったら、菫がただモノマネをしてきただけだと、瑞希は思っただろう。そうして、ただ笑ってスルーしていったかもしれない。


「……情報が手に入った? モノマネが得意?」


 瑞希は手を力なく落として、事実を1つしかすくい取れなかった。


 これだけわかりやすやられて、わからない方がどうかしている。それならば、世界的に有名な大先生の罠――企業戦略をライバル会社が回避できるだろう。


 突破口がどうにも見当たらない、瑞希を前にして、菫は可愛く小首を傾げた。


「あれ〜? ボクのセミナーの話、どこにいっちゃったのかなぁ〜?」


 ストゥイット先生、残念ながらここでバトンタッチ。別の策略家へ。ここから先は、瑞希にも厳しいが、解説はなくなった。


「え……?」


 未だ椅子に座ったままの瑞希は、放心状態になるばかり。思考回路などとっくにショートしていて、これ以上、菫の言っている意味など、理論的に考えることはできなかった。


「手つなごう?」


 一緒に仲良く原っぱに遊びに行こうみたいに、差し出された大きくて綺麗な手。瑞希はそれをじっと見つめて、聞き返す。


「何でつなぐんですか?」


 瑞希は未だに自分が何をしていて、何をされているのかわかっておらず、素直に正直に拒否した。


 手を伸ばしたまま、菫はエキゾチックな香の香りをまき散らしながら、前かがみで近づいてきた。


「教えてほしいの〜?」

「はい」

「それじゃ、ボクと一緒に、楽しい場所に行ったら教えるかも〜?」

「はい、わかりました」


 即行、ストゥイット先生から教育的鉄槌。


「あれ〜? 可能性の話なんだけどなぁ〜」


 この指摘のカテゴリーを、仮にAとしておこう。菫先生にやっつけられないように。


 A-1回目。


 漆黒の髪が残念そうに、白い薄衣の肩からサラッと落ちた。一度習っただけでは、瑞希はどこを今指摘されたのかわからず、目が点になったが、


「え……?」


 それさえも罠であり、無防備な瑞希の手を引っ張って、菫は自分の腕の中へさっと引き寄せ、


「ふふっ」


 クルミ色の瞳の視界は白一色になった。わざと目隠しした、白。


 2人のまわりで、金の光が打ち上げられた花火のように、無音のままいくつも広がり、部屋が眩しいほどのきらめきで包まれ、収縮するように消え去ると、瑞希と菫の姿はどこにもなかった。


 忘れ物をチェックしにきた警備員が、何も残っていないことを確認して、部屋の明かりは全て消灯された――――



 ――――耳に入り込んだ楽しげな曲。ジリジリと焼きつけるような何かが、素肌に差しているのがわかる。その感覚は夏の陽射し。


「えっ? 今度はどこ?」


 瑞希のクルミ色の瞳が真っ白な光から解放されると、綺麗に整えられた緑の植え込みが広がった。


 空を見上げると、どこまでも続いてゆく青空。太陽の乱反射が、痛いくらい目に差し込んできて、思わず目をつぶる。


「ボク、話してたから、のど乾いちゃったぁ〜。キミはどう〜?」


 右隣のかなり上の方から、ふんわり落ちてきた菫の声に起こされたように、瑞希は目を開けて、顔を上げると、彼の白い服からはるか遠くで、童話に出てくるような洋風の城がたたずんでいた。


 突然どこかへ連れて行かれるのは、これで4回目である。もう慣れた。もう驚かない。どうやら、どこかのテーマパークだと、瑞希はチャチャッと判断。


 彼女なりに真剣勝負だったセミナー。何も飲み物など飲んではおらず、


「あ、あぁ、乾きました」


 仕事からの解放なのか、菫の瑠璃紺色の瞳は冷たさよりも穏やかさがにじんでいた。


「ふふっ。キミは水でいいの〜?」

「あ、はい。どうしてわかったんですか?」


 白いモード系ファッションは瑞希を置いて、近くのショップワゴンへ歩いてゆきながら、可愛く語尾をゆる〜と伸ばす。


「事実の問題もんだ〜いかも〜?」

「まだセミナー続いてる……?」


 慌ててあとからついていった瑞希の斜め横にあった時計は、3時――いや15時過ぎを指していた。それに気づかず、ぼうっとしていると、菫の言語が激変。


「Hey? Give me a bottled water ’n’ tea one each」

「え? また外国?」


 秀麗の時は夜。

 ランジェの時は昼。


 その違いがなぜ起きているのかさえも、聞いてこなかった瑞希。アウトレットのバックの肩紐に指を引っ掛けて、あたりを見回す。


 人がやけに少なく、確かめようにも、ワゴンの中にいる従業員しか近くにいなかった。あとは、遠くの蜃気楼の海の上で、浮かんでいるような人影だけ。


「どこだろう? よし、ストゥイットさんに聞いてみよう」


 赤く細い縄のような髪飾りと、漆黒の髪が美しいなびきを風の中で踊っている方へ振り返ろうとする。その刹那、閃光が走った気がした。


「ん? 雷? 今光った気がしたけど……」


 急な夕立にでも遭ったようなフラッシュ。だが、雲はどこにもなく、パークのまわりを囲む木々の、さらに遠くを見ようとするが、夢を壊さないようにと配慮されているものを、追い越すことはできず、一応全て快晴。


「ん〜? でも晴れてるよね? 気のせいだった?」


 陽光のシャワーを浴びているような瑞希の耳に、流暢な英語が入り込んできた。


「Thank you〜」


 とりあえず、物事は先に進んでいる。誰もおかしいとも思っていないし、誰も反応していない。


 瑞希はささっと片付けて、ペットボトルだけ店員から受け取り、去ってゆく菫にまた置いていかれ気味で、目をパチパチさせた。


「あれ?」

「♪〜〜♪〜〜」


 舞踏会でワルツを踊っているように、右へ左へゆらゆらと揺れる、白いモード系ファッション。


 その背中で、イニシアティブを握っている漆黒の髪と、赤の髪飾りを追いかけながら、瑞希は呼びかけた。


「ストゥイットさん?」


 鼻歌は不意に止んで、振り返ると、陽だまりみたいな柔らかな笑みを引き締めるような、凛々しい眉がこっちへ向いた。そうして、可愛くおねだり。


「菫って、呼んでほしいなぁ〜」

「あぁ、菫さん?」


 場所移動をしてから、ここまでで菫が何をしてきたのかわかっていない瑞希。ランジェの言動に無駄はなかった。彼は占い師だ。こっちはビジネスのプロだ。オールマイティー。全てが罠なのだ。


「どうしたの〜?」


 不思議そうな顔で見てくる菫、と、ショップワゴンを、瑞希は交互に見た。


「お金、払わなくていいんですか?」

「ボクとキミの貸切だから、払わなくていいの」


 さっき蜃気楼の上に立っていたのは従業員。広いパークの中で、客の姿が他に見えない理由は納得がいった。だが、瑞希は喜ぶわけでもなく、1人取り残されたように立ち尽くす。


「え……?」


 プレゼントされた遊園地の貸切。

 優越感。

 人気アトラクションにも並ばなくて済む。

 1人きりではなく、イケメンと一緒。

 特別な時間。

 背が高くて、凛々しい眉で。

 着物みたいな白のモード系の服。

 香のエキゾチックな香り。


 あんなにカッコいいと。ここで死んでもいいと。浮かれ気分になるほどタイプの菫 ストゥイット。地位も名誉も金も持っている。頭もずば抜けていい。好青年で陽だまりのように穏やか。それでいて妖艶。


 だが、ランジェの突きつけた刃物を素手でつかみ、押し飛ばす女だ。瑞希は。彼女は珍しく怒りをぶちまけようとした。しかし、それでもまだ怒るところではなく、確認したいことがあった。


 ただいきどおりが消え失せることはなく、握りしめた両手の力が少しずつきつくなってゆく。


 立ち止まったまま、怒りで歪んだ表情の瑞希。菫から見ても、何かあったのは手に取るようによくわかった。だが、彼の口調は相変わらずで、春風のように穏やかで、間延びした語尾。


「どうしたの〜?」


 瑞希の声は怒りで、少しだけ震えていた。


「いつ、予約したんですか?」

「今朝だけど?」

「取り消してくださいっ!!」


 抑えていたが、瑞希の怒りはとうとう爆発し、従業員しかいないテーマパークに大きくこだました。


 それでも、菫は驚くこともなく、本当に不思議そうな顔で聞き返す――疑問形を放ってきた。


「どうして〜?」


 セミナーの初めの方で大先生が言ったことを聞き逃している瑞希は、白のモード系ファッションにつかつかとつめ寄り、怒りで声を震わせながら、聡明な瑠璃紺色の瞳をきっとにらみつけた。


「今日、来たかった人もいたかもしれないじゃないですか! その人たちの気持ちはどうしたんですか?!」


 この日を楽しみに、仕事や勉強をしてきた人もいるだろう。当日突然行けなくなった。その人たちの残念がる心を、瑞希は見たくもないし、起こしたくもないのだ。この変わった女は。


「どうしたかなぁ〜?」


 相手が何をしてこようと、冷静な菫。

 熱くなっている瑞希。


 2人は対照的、感情はどちらも持っているのに。何がこうさせているのか、怒っている瑞希には、判断することは困難だった。


 菫は今にも自分につかみかかってきそうな瑞希の問題点を、クールにデジタルに心の中で指摘する。


 ――事実と可能性の問題。

 パークが元々休園日という可能性があるかもしれない。

 そうなったら、キミが怒ることは違ってしまう、かも?

 休日出勤してるスタッフの気持ちを大切にしないといけない、かも?


 大先生の物事を見る視点が人と違っていることなど、穏やかで好青年な笑みをしている菫からわかるはずもなく。瑞希はまだまだ怒り心頭中。


「こんなお金の使い方間違ってます!」

「どう間違ってるのかなぁ〜?」

「神さまが与えてくださった、みんなのお金です! 自分たちのためだけに使うのはおかしいです!」


 彼の少し薄い唇から「ふふっ」と笑い声がもれて、こんな言葉が出てきた。


「ボクの可能性が上がったかも〜?」

「え……? 菫さんの可能性? どういう意味ですか?」


 ――事実と可能性。それで、菫はできている。それに囲まれて、彼は生きている。


 今までの話の流れならば、


 ここは瑞希の心根を試す――審判だった。


 となるだろう。


 菫に戦況を見事にひっくり返された瑞希。怒っていたこともすっかり忘れ、いや彼女の怒りをしずめられる可能性が高いと踏んで、菫は話していたのだ。


 さらに、漆黒の髪を持つ男の思惑通り動かされる。大きな手に持っていたペットボトルを近くのベンチに寝転がして、


「それよりも、貸切を取り消したいんでしょ?」


 菫の中の可能性が何なのかを知りたかった。


 それなのに、その前の話に戻されてしまい、聞くことを忘れさせられた。この手口が菫の会話のベースになっているとも知らず、瑞希は我に返り、大きな声を上げ、


「あ、あぁ、そうです! お願いします」


 ちょうどそばを通りかかったスタッフを、菫は慣れた感じで呼び止めた。


「Hey! Tell the owner, my reservation is canceled」


 瑞希にも何となく何を言っているのかわかるが、話すスピードが異様に早いため、黙って話しているのを見守っていた。


 太陽の光を浴びている薄衣の白は、菫の大きな体の線を儚げに映し出して、ある意味チラ見せの効果を持って、そばに戻ってきた。


「取り消したよ」

「よかったです……」


 安堵のため息だ。瑞希はみんなの幸せが戻ったことを知って。ポンと、菫の超長身は椅子に腰掛けて、クリアなボトルを差し出した。


「はい、み〜ず!」

「あぁ、ありがとうございます。ごちそうさまです」


 瑞希もベンチに腰掛ける。つられて座ってしまったと気づかずに。なぜ、水を差し出されているのかも知らずに。


 菫の瑠璃紺色の瞳は、今は青空の淡いブルーが混じって、明るい色になっていた。のんびりとした時間が流れてゆく。瑞希はキャップを開けて、ゴクゴクと水を飲み、同じように空を仰いだ。


 その時だった。真昼よりも強い閃光が走ったのは。


(あれ? また光った気がする……。何だろう?)


 飲んでいる手を止めて、どこかずれているクルミ色の瞳は空を見渡す。2回目の出来事。晴れているはずの空に、雷光みたいなフラッシュが焚かれるのは。


 瑠璃紺色の瞳の端には、落ち着きのない瑞希がしっかりと映っていた。ベンチにもたれかかっていた漆黒の髪はすっと起き上がって、


「あ、そうだ。ボク思い出したぁ〜」

「何をですか?」


 この言葉に違和感を持たないまま、瑞希は菫の端正な横顔を見つめた。風上に座っている彼の香の香りが、彼女の鼻をくすぐる。


「瑞希ちゃん、さっき、『色恋沙汰に関しては、ちょっとピンときません』って言ってたよね?」

「あぁ、兄貴の時ですね?」


 瑞希またスルーである。モノマネの構造をわかっていなかった。大きな矛盾は通過点として過去へ去ってゆく。


 自分の爪を見る癖を菫は少しだけして、可愛く小首を傾げると、腰までの長い髪はベンチをくすぐった。


「どうして、そう言ったの〜?」

「恋って何ですか?」


 おおよそ、23歳の女子が言う言葉ではない。それでも驚くことなく、菫は不思議そうな顔をするばかり。


「何だろうなぁ〜? じゃあ、その話しよう? ね〜?」


 瑞希の恋愛履歴が公開される。いや菫の手によって、公開させられてゆく。


「あぁ、はい。わかりました」


 即行、ストゥイット先生から教育的鉄槌。


「あれ〜? 可能性の話なんだけどなぁ〜」

「え……?」


 これで、A-2回目。


 白い袖口が広く開いた腕は気だるそうに背もたれにもたれ、「ふふっ」と春風みたいに微笑んで、妖艶に足を組んだ。


「瑞希ちゃんは、今まで彼氏とかいなかったの〜?」

「いましたよ」

「あれ〜? それは、恋じゃなかったの〜?」

「その時は、好きだと思うんです。でも……」

「でも〜?」


 瑞希は残念ながら知らなかった。このダラダラ〜と伸びた短い言葉。


 ――でも〜?


 の本当の意味が、自分にチラシを渡してきた男と菫が話した時の、


 ――ただ?


 と同じだったと。


 ペットボトルを膝の上で握りしめて、瑞希は自分のサンダル見つめるばかり。


「ドキドキしたりとか、切なくなるとかはないんです」 


 恋愛=感情。この方程式から抜けられない瑞希。 

 恋愛=事実+可能性=理論。この方程式が菫。


「ドキドキしたりが恋だと思うのは、どうして〜?」

「映画とかドラマとかで、よくそう言ってるから、そうなのかと思うんです」


 他人の尺度で自分を図ろうとする。感情に流されているばかりに。あんなに個性的な意見をする瑞希の、恋愛観の輪郭はひどくぼやけていた。


 細いシルバーのブレスレットをする手で、菫は紅茶のペットボトルを悪戯っぽく前後に降り揺らす。


「瑞希ちゃん、ドキドキしたことないの〜?」


 赤茶の綺麗に舗装されたパーク内の歩道を、瑞希は力なく足でズルズルとこすった。


「ないです。だから、恋愛ものを見ても感動もしないし、泣いたりもしないんです。だから、本気で恋をしたことがないんだと思います」


 わざと多めに取ったおくれ毛を、菫は指先ですうっとなぞる。彼にしては、こんな不自然な言葉を口にしながら。


「そうかぁ〜。恋に恋しちゃってるってことなのかなぁ〜?」

「そうかもしれないです」


 即行、ストゥイット先生からお褒めの言葉。


「今度は可能性の話」


 センチメンタルになっていた瑞希には、何気なく言った言葉。その原材料がわかっていない。


 聡明な瑠璃紺色の瞳の奥に、どんな頭脳が鎮座しているなど、彼女が知る由もなく。どこかずれているクルミ色の瞳でじっと見つめ返した。


「今度? どれの次のこと?」


 わざと単語が抜かされている言葉たち。


「ふふっ」


 菫はペットボトルのキャップを外した。


 聞かれてばかりの瑞希。恋愛を知りたい瑞希。自分と同じ歳くらいの男に問うてみた。


「菫さんは、恋をしたことがあるんですか?」


 飲もうとしていた手を止めて、瑠璃紺色の聡明な瞳ははるか遠くの空を眺めながら、右に左に傾く。


「どうだったかなぁ〜? あったかなぁ〜? なかったかなぁ〜?」


 その時だった。空の青が金色に一瞬変わったのは。


「ん?」


 瑞希の視界から菫は消え去り、青空が映ったり、パークのアトラクションが映ったり。


(あれ? 今もまただ。何かがおかしいのは気のせいかな?)


 ブラウンの長い髪は無防備に、あちこち揺れ動く。急にキョロキョロし出した女に顔を戻して、菫は柔らかな春風みたいな声で聞いた。


「何がどうおかしいの〜?」

「え……?」


 瑞希は違和感に気づいた。


(あれ? 今、声に出して言ってたかな?)


 セミナー中散々おかしかった。瑞希の回答にばかり、大先生は答えていたのだから。菫は紅茶を一口飲み、癒しの香りを体のうちへそっと落とす。


「言ってた気がするなぁ〜? あれ〜? 違ったかなぁ〜?」


 幻聴でもなく、現実だったと。瑞希は今ようやく気づいて、パークの隅々に届くような大声を上げた。


「あぁっ! そうだ!」

「ん〜? どうしたの〜?」


 自分の爪を見る癖をするだけで、平常運転の菫。瑞希がどんな反応を見せても、驚かなかった策士が今までにもいた。彼らの中で、どんなことが起きて、平然と会話を続けられるのかを知らなくてはいけない時。


 だが、瑞希はこう解釈した。


 さっきの貸切を取り消してほしかった時もそうだった。瑞希が怒りをあらわにしようと、菫はクールな瞳で、間延びした声で聞き返してきた。だから、こんな人なのだろうと。


 細かいところは気にせず、目の前にあること――ストゥイット先生から情報収集しようとする。


「何で、みんな、私が思ってることがわかるんですか?」


 瑞希は忘れてしまった。1つ前の話の内容を。そして気づいていなかった、次への会話へと続く罠を仕掛けられていたと。


「教えてほしいの〜?」

「はい。聞きたいです」

「教えてあげるから、そばに寄っていい?」


 接近の予告――


 さすがの瑞希も一瞬ためらった。


「え……?」


 だが、そこには菫なりのきちんとした理由があった。彼はそばにいるスタッフをチラチラうかがいながら、


「他の人には聞かれたくないんだよなぁ〜。だから、近くに寄りたいんだけど……」


 瑞希はこう判断した。


 秘密っぽところは今まであった。だから、誰も話してくれなかったのだろう。


 夏風で頬に髪が乱れつき、瑞希は指先で落としながら素直にうなずいたが、


「わかりました。どうぞ」


 即行、ストゥイット先生から教育的鉄槌。


「あれ〜? 可能性の話なんだけどなぁ〜」


 A-3回目。


 ランジェのターン時のある失敗に気づいていない。理論的に瑞希は。


「え……?」


 固まっている瑞希の背後から、たくさんの人が歩いてきた。菫はそれを見つけて、「ふふっ」と嬉しそうに微笑み、彼らを指差した。


「あぁ〜、お客さん来たよ〜」


 薄手の白い袖が、夏の陽射しに反射をして、眩しさを振りまく。瑞希はそれにつられて振り返り、安堵のため息をもらした。


「……あ、あぁ、よかったです!」


 緊張からの解放で、のどの渇きを潤すために、ミネラルウォーターを飲みながら、そっと目を閉じ、子供たちのはしゃぐ声を肌で感じる。


(みんながいるから、自分がいるんだよね。たくさんの中の1人なんだ、自分は……)


 真っ暗な視界の中で、エキゾチックな香の香りが急に色濃くなって、


「ふふっ」


 タンクトップから出ている瑞希の素肌に、柔らかい感触が広がった。慌てて目を開けると、菫の着ていた薄手の白いロングシャツだった。男性的な腕の硬さがぴったりと寄り添う。間合いゼロである。


(あれ? 何でこんなに近くに来たんだろう?)


 瑞希は上体をそらして、腕の感触から逃げようとするが、ベンチの端の方に座っていたため、逃げ場がなかった。


「あ、あの……」


 困惑気味で、言葉にまったくなっていない。当然、菫は不思議そうな顔で聞き返し、


「どうしたの〜?」

「何で、こんなに近くに来たんですか?」


 即行、ストゥイット先生から教育的鉄槌。


「あれ〜? 可能性の話なんだけどなぁ〜」


 事件ファイル3が起きた原理と一緒。ランジェは親切にも、きちんと説明してくれていた。そのため、ここは、


 B-1回目。


 それでも、感覚の瑞希が、理論として応用できるはずもなく。


「可能性の話?」

「瑞希ちゃん、教えてほしいの〜?」


 菫は何度この言葉を言ったのだろう。なぜ繰り返されているのか。瑞希は気づくこともなく、またうなずいてしまった。


「はい」


 すると、こう返ってくるのである。結い上げた漆黒の黒髪は、シルバーのブレスレットをした大きく綺麗な手で、胸の前に連れてこられた。


「じゃあ、ボクの髪なでて〜?」


 菫からの策略攻撃。


「え? 何で、髪をなでるの話に変わったんですか?」


 まぐれで瑞希ははじき返した。だが――


 今度は別の意味で、即行、ストゥイット先生から教育的鉄槌。


「あれ〜? 事実と可能性の話なんだけどなぁ〜」


 雨の話です――


 これと一緒。何かが抜けているのである。判断する材料が故意に減らされている。そこを瑞希は聞き返さなくてはいけない。新しいカテゴリーへ分類。


 C-1回目。


「事実と可能性……? どの話ですか?」


 疑問形を放ってみたが、菫の方が上手なのだ。こう返ってきた。


「教えてほしいの〜?」


 間隔がどんどん短くなってゆく。そろそろ、いい加減気づくところなのだが、瑞希はまた素直にうなずいてしまった。


「はい」


 そうして、こう来るのである。次の言葉は。


「じゃあ、こうさせて〜?」


 指示語。聞き返さないと、菫の言わんとしている意味がわからない。回避できない。しかも、これは瑞希を戸惑わせるためのものでもある。


「え、何を……?」


 その通り、ぽかんとしている瑞希の腕を伝って、漆黒の長い髪がすうっと下へ落ちてゆく。


 そうして、瑞希のピンクのミニスカートから出ている足に、身――いや頭を預けると、聡明な瑠璃紺色の瞳の視界には、青空と瑞希だけになった。


「はぁ〜。空が綺麗……」


 瑞希の膝の上に、菫の頭が乗っている、事件。


「え……? 何で、膝枕するんですか?」


 大先生――いや男にしてやられてしまった。


 事件ファイル5。膝枕された、である。菫は頭をスリスリしながら、瑞希の質問を、ランジェと同じ方法で交わす。


「女の人の足、柔らかくて気持ちいい〜。ボク、大好きかも〜?」


 瑞希は菫の頭の重さを感じながら、即行ツッコミ。


「いやいや、答えてないです!」


 大先生にそんな言葉が通じるはずもなく、陽だまりみたいな穏やかな瑠璃紺色の瞳が可愛げに見上げてきて、こう言う――いや疑問形を投げかけた。


「瑞希ちゃん、答えてほしいの〜?」


 ――教えてほしいの〜?


 これと同じ原理の言葉。瑞希はまた従いそうになったが、


「は――ん? さっきと同じになる気がする……。どうしてだかわからないけど……」


 やっと気づいた。だが、


 気がする――


 感覚であって、理論ではない。何がどうなって、どういう順番で来ているから、今までの会話が起きていたのかを突き止めなければいけない。


 世界的に有名な大先生は、こう指導してきた。


「その原因を知りたいんだったら、ボクに質問したらいいんじゃないなぁ〜?」


 言葉は違うが、これと効果は一緒。


 ――教えてほしいの〜?


 巧妙な手口。質問をしろと言ったのに、瑞希の言葉はお願いだった。


「あぁ、そうですね。教えてください」


 そうして、またこうなる。


「じゃあ、教えてあげるから、チューして? ボクに」


 この言葉の意味――を、1つしか見出せないのなら……。

 さっきのセミナーから学んだのは、0.3だろう。

 ここから、2つの可能性が導き出せるなら、0.7学んだだろう。

 ここから、3つの可能性が導き出せるなら、1学んだだろう。

 ここから、4つの可能性が導き出せるなら、3学んだだろう。

 ここから、5つの可能性が導き出せるなら、5学んだだろう。

 ここから、6つの可能性が導き出せるなら、10学んだだろう。


 菫の言動は、このレベルで起きているのだ。チューを求められ、話をすり替えられてしまった瑞希は、両手を頭の上で大きく横へ振った。


「いやいや、だから答えてないです!」


 即行、ストゥイット先生から教育的鉄槌。


「おかしなぁ〜? さっきからボクは教えてるんだけど……」


 大先生は最初から、真面目に指導していたのだ。


 可能性と事実――


 例題を何度も出して、出来のよくない生徒の気づきを待っていたのだ。


 のらりくらりとかわしている。

 エロ話ばかり。


 そう思うのならば、やはり0.3の学びなのだ。瑞希は他の可能性などあるとも知らず、自分の膝の上に寝転がっている男を見下ろした。


「え……?」


 この言動は、菫にとっては、瑞希からの情報なのである。さっきから、ずっと情報漏洩していた彼女の膝の上で、菫は陽だまりみたいに微笑む


「ふふっ。キミはそういう人かも〜?」

「どういうことですか?」


 この情報が1つ渡ってしまっていたのである。


「キミは感覚で物事を捉える人――」


 同じ罠をしかけても、引っかかっているように見えた――


 という事実がいくつも発生。


 理論を使って導き出せば、菫でなくても、少し頭のいい人間なら、この結論に容易にたどり着くだろう。


「…………」


 あんなに気合いとやる気という、感情――言い換えれば、感覚で学んだつもりだったのに、ザルに水をためるように、素通りしていた。が、瑞希の2時間の結果だったのだ。


 理論立てられない瑞希に、「だって、そうでしょ?」菫は聞き返して、1つ前の話題を提示する。


「どうして、会話がおかしくなってるのかを、ボクに聞こうとしてたのに、もう忘れてる」

「あぁ、そうか……」


 そうして、一番最初へ戻った。


「それから、セミナー後のキミの目的はどこに行っちゃったのかなぁ〜?」


 感覚で対応されていたのなら、菫がひどく気の毒だ。彼は嘘は言っていない。全ての言葉に意味があって、動いているのであって、その原動力は、親切な教えなのだから。


「あっ! そうだ! 次の講座の話聞いてないです!」


 即行、ストゥイット先生から教育的鉄槌。


「あれ〜? おかしいなぁ〜? さっきからボクはキミに教えてたんだけど……」


 相手から情報を得る方法――


 その基本中の基本を、さっきから散々、瑞希と菫でやってきたのだ。彼の言葉の言い回しを、彼女は自分の言葉に置き換えられない。聞けば、当たり前のことなのだ。


「教えてた?」


 何者かに命を狙われている瑞希姫。平和な日々ではもうなくなっている。間違えることは、彼女にはもう1度だって許されていない。


 菫を包んでいた陽だまりみたいな穏やかさも、聡明さも、好青年な雰囲気も一瞬にして、ブラウザーの画面を切り替えるように、デジタルに消え去った。


 今はただただ、氷河期のように冷たくなり、本気の菫が顔をのぞかせた――


「俺はお前みたいに優しくないよ」


 間延びした声。

 セミナー中のよそ行きの話し方。

 ランジェの1人称の相違。


 これらを、事実と可能性で捉えていたら、瑞希は驚かなかっただろう。だが、感覚の彼女はびっくりして、たった一言発しただけだった。


「え……?」


 人の真似ができるということは――


「今どんな気持ちだい?」


 言葉どころか性格もデジタルに変えられるということだ。今の菫はどちらかというと、御銫みせねの皇帝みたいな威圧感を持っていた。


「……驚いてます」

「どうして、そう思うの〜?」


 事実と可能性――


 だったが、瑞希なりに一生懸命考えて、言葉を吟味したが、文章も内容も中途半端だった。


「え〜っと……? 菫さんはふんわりした感じだと思っていたので……」


 即行、ストゥイット先生から教育的鉄槌。春風と穏やかな陽だまりのような笑みに激変して。


「あれ〜? おかしいなぁ〜? さっきから話してる、事実と可能性なんだけどなぁ〜?」


 瑞希の言葉は、事実でも可能性でもなく。


 思い込み、決めつけ――


 またここも別、次のアルファベットを使用。


 D-1回目。


 自分の言葉の原材料が何なのか。瑞希は考えようとしたが、もううる覚えだった。たどれない、自身のあやまちの道筋を。


「…………」


 ただただ沈黙が広がるだけ。


 とうとうこの言葉が、大先生から瑞希に言い渡されたのである。


「事実と可能性を使って説明できないのなら、キミはボクのセミナーを本当に理解してない。学ぶっていうのは、自身で気づいて、直したり、新しいことを取り入れたりすることでしょ? だから、ボクは基礎は教えても、そこから先は教えない。ただ、本人が口まで出かかった時に、正解は伝えるけどね」

「指摘してくれて、ありがとうございます」


 瑞希は真剣な顔で頭を下げた。だが、もっと単純な間違いは、他にあったのだ。菫は子供が楽しくて仕方がないというように微笑んで、


「ふふっ。お礼を言えるのは素敵なことだけど、俺は味方じゃないんだけど――」

「え……?」


 菫 ストゥイットは敵だった――


 瑞希の中にその事実が戦慄まじりで、体の隅々まで焦燥感と疑惑をはらみながら膨らんでゆく。


 なぜこんなことになったのか……。

 どこで、間違ったのか……。


 逃げることも忘れて、考え始めようとしたが――


 パパッ!


 と、金色の光が何度かあたりに走った。


 もっと早くに気づいておけばと、後悔の波が何度も押し寄せる。他の人たちの時は起きていなかった。あたり一帯に閃光がほとばしるなど。


(あの悪魔みたいな……ううん、敵だったから光ってた? それが原因だった? それとも何かの攻撃? それとも――)


 信じられない顔で、考えている瑞希の膝の上に乗せられた、漆黒の髪の中の脳裏では、しゃがれた兄貴の声と自分のやり取りがのんびり再生中だった。


「オレのキスで、それチャラにしろや」

「あっかんべー!」


 瑞希を探せなくなった兄貴のご要望に応えて、このどうしようもなく感覚的な姫のそばに、菫が飛ばしたのだ。


 菫 ストゥイットの異名は、クールな悪戯坊主――


 今ももれなく指導中の、ストゥイット大先生は頭を瑞希の太ももの上で少しだけ傾げて、


「なーんちゃって、嘘だよ。瑞希ちゃん、どうして、信じちゃったの〜?」


 どうして、ボクが敵だと判断したの?

 どうして、ボクが味方だと判断したの?


 という質問の可能性が2つある。ここまでわかれば、1学んでいる。


「え〜っと……? 今までと同じだったから、そうかと思って……」


 今日会ったばかりの人に返す言葉ではない。もちろん……。


 即行、ストゥイット先生から教育的鉄槌。


「あれ〜? おかしいなぁ〜? さっきからしてる、事実と可能性の話なんだけどなぁ〜?」


 D-2回目。


 事実と可能性を使って、理論的に回答するように、なのだ。さらには、なぜ、人の言うことを毎回真に受けて、嘘と本当で自分が踊らされているか。その原因を知って、もう2度とこうならないようにする、なのだ。


「…………」


 そのままの意味でさえ、瑞希は対処する方法がなく。それでも、考えようとする。だが、菫の言葉の意味はいくつもあり、


「もう1つ、教えるよ」

「あぁ、ありがとうございます」


 1から丁寧に指導し始めた。


「この可能性は3つ。

 ――ボクが味方。

 ――ボクが敵。

 ――もう1つは、別の何か。

 だから、この3つのどれが起きても、対処できる方法を見つける。ボクが敵だった時、どうするか決めてたの?」


 あの岩みたいなゴツゴツした肌を持つ、真っ赤な血のような瞳。鋭く醜い牙の間からダラダラと粘液を垂らす存在。緑色の血が白いドレスを染めてゆく、おぞましい感覚。


 守ってくれる人が今までいたからいいものの、瑞希の言葉はあまりにも無責任だった。


「いえ、決めてないです……」


 人生は予告なしに変化する。環境が変わったのなら、自身の言動を合わせなくてはいけない。性格が大雑把だから適当。しかし、死は容赦なく迫ってきて、命を奪ってゆくのである。


 菫は顔の前で自分の爪を見てから、瑞希のどこかずれているクルミ色の瞳と瑠璃紺色のそれを一直線に交わらせた。


「キミの生き方は戦場で例えたらこう。武器も持たないで何の作戦もなく、敵地にやる気を持って、相手のちらつかせた罠に誘われて、1人で向かって行く。そんなことをしたら、どうなるかわかるよね?」

「はい、倒されます……」


 人の真似ができるということは――


「いい? キミは守られるだけの存在になりたくないんでしょ? 守ったり守られたりがいいんでしょ?」


 なぜ、他の人と話した内容を今、菫がこうやってすんなり持ち出せるのか、の理論が瑞希にはなく、スルーいってしまう。


「はい、そうです」


 策略をするには、事実と可能性が基本。だが、それだけでは、メソッドを学べば、誰でもできてしまう。同レベルならば罠を仕掛けても、回避される可能性は高いまま。


 御銫みせねもランジェも菫も、何かもう1つを持っているから、瑞希は引っかかってしまうのである。このヒントは、モノマネしてきた言葉の内容なのだ。


「だけど、今のキミじゃ、誰かを守るどころか、自分も守れない。そうでしょ? ボクが味方だったからよかったけど、敵だったら、キミはもう殺されてるかもしれないんだから。全ての基本は、傘を持って行く行かないの話」


 瑞希は考える。もっと簡単な2択の可能性を。


 雨が降るか。

 雨が降らないか。


 3つ目はない。これができなければ、実生活でも、合理的に進ませられない。とうとい想いだけあっても、願いは叶えられない。


 セミナーの最初で、菫が説明した通り、現実はいくつもの可能性が同時進行する。命がかかっているのなおさら、慎重に進まないといけないのだ。


「どこで、どう判断を間違ったのか自分で気づいて、直すことが大切〜」

「わかりました」


 即行、ストゥイット先生から教育的鉄槌。


「あれ〜? 可能性の話なんだけどなぁ〜」


 A-4回目。


「可能性の話?」


 聞き返す瑞希の前を、子供たちがはしゃぎ走り去ってゆく。


 指摘はした。気づくのは瑞希。


 可能性と事実の話がどれだけ重要かを伝えた。菫はもう一度問いかける。怒りもせず、自身の弱点を必死で受け入れ、前に進もうとしている女に。


「ふふっ。傘の話はどこでどう間違ったの〜」

「え〜っと……? 問題文を見た時に、雨が降らないと思って、傘を持っていかないと決めた時です」


 少しできるようになってきた。何とか合格ラインギリギリ。「そう」と、菫は短くうなずいて、現実の問題を突きつけた。


「じゃあ、ボクを信じてついきちゃったのは、どこでどう間違っちゃたの〜?」

「質問に答えてくれると思って、ついて行こうとした時です」


 できたのなら先へ進もう。ストゥイット先生から教育的鉄槌。


「事実の話」


 ――くれると思って。

 ――ついて行こうと。


 これは事実ではない。瑞希の感情だ。


「いつの何ていう質問〜?」

「セミナーが終わったあとの、他の人から情報を得る方法です」


 順調のように思えたが――


 即行、ストゥイット先生から教育的鉄槌。


「あれ〜? 事実と可能性の話なんだけどなぁ〜」

「え……?」


 D-3回目。


 瑞希の今の回答は、セミナーの例題1に置き換えると、


 ――傘を買おうとしたら売り切れだった。


 と同じ箇所なのだ。もうすでに1手打ち間違えているのである。


 自分が重要だと思っていなかったことは、最後取り返しのつかないことにつながっていた。


 そこから学ぶべきことを、菫が親切丁寧に告げる。


「ヒント〜、もっと前だよ」

「もっと前? どこだろう?」


 瑞希は懸命に思い出す。セミナーの内容を逆順番でたどって行く。だが、見つからない。


「事実と可能性の話」


 全部つながっている。現実はいつでもそう。


「ん〜?」


 唇に指を当てて、テーマパークも青空も忘れて、必死で探し出す。それに比べて、菫は漆黒の髪をツーッと空に向かって引っ張っては、サラサラと落とし、弄びをしながら、何気なく疑問形。


「瑞希ちゃん、もう降参こうさ〜ん?」

「はい、ちょっとわからないです」


 即行、ストゥイット先生から教育的鉄槌。


「あれ〜? 可能性の話なんだけどなぁ〜?」


 A-5回目。


 まだ気づけない感覚の瑞希は、自分に膝の上で、のんびり日向ぼっこしているみたいな男の顔をじっと見つめた。


「ん?」

「いいよ、教えてあげる」


 ひとまずは。重大なことは。瑞希が命を狙われているということである。危険性はどこに潜んでいるかわからないのだ。それが最優先。


「キミにチラシを渡してきた男の人いたでしょ? あの人、ボクたちの敵の1人なんだけど……」


 菫はここにつながる可能性があると踏んで、わざとあの男を選んだのだ。これが言動を決めた理論的な理由の1つ。


 彼と同じような判断材料を瑞希は持っていない。敵の情報がほとんどない。菫の言っていることが正しいと限らない。それなのに、感覚姫は、


「あぁ、そうだったんですね」


 即行、ストゥイット先生から教育的鉄槌。


「あれ〜? 可能性の話なんだけどなぁ〜」


 A-6回目。


「あぁっ! その言葉、指摘してくれてたんですね?」


 今ごろ、こんなことに気づいた瑞希だったが、どこで教育的鉄槌が入っていたのかは覚えていなかった。いや同じ単語の羅列でも、種類があるなど、これっぽっちも思っていなかった。


 疑問形を投げかけられた時のお手本の1つが、菫大先生からやってくる。


「そうかも〜?」


 何がどう違うのか学ぶ機会だったが、瑞希は先に進んでしまった。


「どうして、こんなに親切に教えてくれるんですか?」

「それは、ボクがキミの望みを叶えてあげたいと思ってるからぁ〜?」


 菫のシルバーの細いブレスレットをした手が、瑞希のブラウンの髪へ侵食するように伸びてきたが、手の甲で乙女の鉄槌を食らわせた――元に押し戻した。


「あぁ、ありがとうございます」


 この言動が菫にどう映っているのかも知らずに、お礼を言った瑞希。


「ふふっ。可能性が事実になっちゃったかも〜?」


 今でも事実と可能性を理解していない、素直で正直な生徒にこんな言葉を投げかけたら、


「どういうことですか?」


 フェイントなどできるはずもなく、また質問してしまった。そうして、今度は1つ言葉を抜かして、大先生は1人の男として、エロ罠発動。


「教えてあげるから、パンツ見せて〜?」


 また伸びてくる菫の大きな手。瑞希は素早くつかんで、ポイッとベンチからできるだけ遠くに投げ捨てた。


「見せないです!」


 菫は瑞希の膝の上で、彼女から少しだけ遠ざかり、瑠璃紺色の瞳をスカートの裾へと倒して、視線が目の縁を横に行き来する。


「あぁ〜、瑞希ちゃん、黒だぁ〜」


 再び乙女の鉄槌。凛々しい眉を描く菫の顔を両手で挟んで、反対側、他の客たちが歩いている通路へ向けた。


「違います! 紫です!」


 こうして、瑞希はチビッ子の予言通り、菫先生にやっつけられてしまったのである。


「自分で答えちゃったぁ〜。ボク、見てないんだけど……」


 事件ファイル6。自分から言ってしまった、パンツの色。である。セミナーを応用できていなかった。


 椅子に座った――

 ではなく、椅子に座ったかもしれない。


 見られた――

 ではなく、見られたかもしれない。なのだ。


「いや〜、やられた〜!」


 瑞希は両手で顔を覆った。だが、菫の長い腕が肘の間に割って入ってきて、お互いの視線の敷居を取り払う。


「キミのこと大切だから、きちんと理論を覚えてほしいなぁ〜?」


 そうして、瑠璃紺色の瞳とクルミ色のそれは一歩近づいた感じで見つめ合った。


 近くを通る人々の足音も、少し離れた場所から聞こえてくるパレードの音楽も、全てが瑞希と菫から遠ざかり、2人だけの世界に――


「はい、わかりました」


 なりそうだったが、いいムードは消え失せた。瑞希の返答によって。


 即行、ストゥイット先生から教育的鉄槌。


「あれ〜? 可能性の話なんだけどなぁ〜」


 A-7回目。


「えぇっ!? また? どういうこと〜〜!」


 びっくりして立ち上がろうとしたが、菫の頭が邪魔して、大声を上げただけだった。


 全然わかっていないおバカな生徒に、膝枕を今でもしている先生が大きく両腕を広げて、春風のような柔らかな笑みで出迎える。


「瑞希ちゃん、好きだよ〜。今すぐチューしたいくらいに〜!」

「いやいや、何で、そこに話が戻るんですか!」


 即行、ストゥイット先生から教育的鉄槌。


「あれ〜? 事実と可能性の話なんだけどなぁ〜」


 C-2回目。 


 瑞希はがっくりと肩を落とした。


「はぁ〜、今はわからないので、学びます……」

「瑞希ちゃん、ボクの目的が何だか知ってたぁ〜?」


 そんなものは初耳で。今までのシナリオがどんな構成だったかわかっておらず。


 しかも、通常の順番ではなく、デジタルにわざと前後させているところもあった。菫が今聞いてこなかったら、何も知らずに、瑞希はスルーしていっただろう。


「え? 菫さんの目的?」


 即行、ストゥイット先生から教育的鉄槌。


「あれ〜? 事実と可能性の話なんだけどなぁ〜」


 C-3回目。


 策士のランジェが言ってきた、


 告白。

 と、

 プロポーズ。


 は、当然別の意味もあった。ということになる。可能性と事実を使って考えるのならば。だが、瑞希はそれさえも逃して、チャチャッと白旗を上げた。


「ダメだ。必ず、このオチにきてしまう〜!」


 即行、ストゥイット先生から教育的鉄槌。


「あれ〜? 事実と可能性の話なんだけどなぁ〜」


 D-4回目。


 決めつける=事実×感情。この方程式。


「笑いですか?」


 瑞希、情報ダダもれ中。菫が味方だからいいものの、敵だったら大変である。


 即行、ストゥイット先生から教育的鉄槌。


「違うよ。ボク、さっきから、キミにきちんと理論を教えてるんだけど……」


 D-5回目。


「ん?」

「正しく事実として捉える話」


 例題2の話。瑞希はこう取っていた。


「感情を入れない、でしたよね?」


 同意を先生に求めた。だが、2人は見つめ合ったままで、沈黙ばかりが過ぎてゆく。


「…………」

「…………」


 どこまで待っても、相手から言葉がやってこない、お互いに。菫先生、お手上げである。


「あれ〜? 瑞希ちゃん、もう忘れちゃったの〜?」


 わかっていない人に、忘れたのかと聞いたら、どうなるか目に見えている。しかも、瑞希はオーバーリアクション。空高くまで突き抜けるような、素っ頓狂な声を上げた。


「えっっ!?!? どいうこと?」


 混乱している隙に、菫からこの罠が再びやってくる。


「教えてあげるから、ギュ〜ッてさせて〜?」

「またですか?」


 瑞希はあきれた顔をした。だが、菫先生を甘く見てはいけない。


 人の真似をできるということは――


「ふふっ。事実を順番に覚える、もあったでしょ〜?」

「あぁ、そうでした」


 ――記憶力。


 もちろん、ただの記憶力ではない。策士のそれとは。

 これが今の言葉の意味、1つ目。


 2つ目。

 またですかと聞いてきた女。ここから得られる情報を使うと。

 さっきまでとは違う可能性が高くなった、になるのだ。

 ということで、当然、菫先生は対策を即座に変更。


「教えたから……」


 3つ目以降は彼の頭脳の奥にしまったまま、白い薄衣からはみ出た大きな腕は、瑞希の背中に回されて、自分の胸に素早く引き寄せた。


「ギュ〜ッ!」


 ゴーイングマイウェイにではなく。理論的に、抱きしめられた事件に再び見舞われた。瑞希は菫の手をはぎ取りながら、


「あれ? おかしいなぁ〜。何で、菫さんの言う通りになっちゃんだろう?」


 5段ある階段を、瑞希は1番上をずっと見て、頭を悩ませている。

 菫はその階段だけではなく、他の階段も同時に見ている。


 範囲――規模が違うのである。


 理解していない瑞希が青空をバックにして首を傾げている。彼女の残り香のような香水と、菫の香が仲良く混じり合う。楽しげに笑う、春風みたいな穏やかさの声に乗せられて。


「ふふっ。それは、瑞希ちゃんが感覚で、ボクが理論だからだよ〜。ボクにキミはずっと負けてるの〜」


 成功したいのなら。

 何かを手に入れたいのなら。

 誰かを守りたいのなら。


 ――勝ちにいかないといけない。

 負けるが勝ちも――結果は勝ち。


 そのためなら、菫の罠は何重にでも仕掛けられてゆく。


「絶対、いつかは勝ってやる〜!」


 瑞希は右手を大きく上げて、気合いを入れた。まだまだ、理論には遠い教え子。先生は膝枕をしながら、空を見上げる。


(瑞希、知ってた? ボク、青空が好きだって……)


 本当は呼び捨て。だが、今はしないのだ。


 2人はアトラクションに乗ることもなく、ただただ、楽しげなBGMや人の声が響き渡る中で、ずっとベンチに座ったまま。瑞希が時々何か聞いては、菫が交換条件で、自分のしたいことを要求するが繰り返されていた。


 そうして、何度か目の、菫が自分の爪を見たあと、言葉がずいぶんと間延びして――あくび混じりになった。


「だからこそ……ふわぁ〜! ボクは……キミに好きって……言う――」


 菫の頭が急に重くのしかかった気がした。瑞希は何かあったのかを思って、彼を見ると、


「え……?」


 聡明な瑠璃紺色の瞳はまぶたの裏に完全に隠されていて、少し薄い唇はまったく動かなくなっていて、


「…………」

「菫さん?」


 返事を返してくる代わりに、健やかな寝息が聞こえてきた。


「……zzz」

「寝てる……。忙しいのかな? 仕事が」


 気持ちよさそうに寝ている人を起こすわけにもいかず、白のモード系ファッションが風で揺れるたびに、自分の素肌をなでるのを感じながら思う。膝枕で眠ってしまった男、菫のことを。


 ――優しくないとか言ってたけど……。

 本当に優しくない人は、わざわざ言わないと思う。

 自分の手の内もバラすようなことはしないと思う。

 それは、親切に教えてくれてるんだよね。

 だから、菫さんは優しい人なんだ。

 冷たそうに見えるけど、とてもあったかい人……。

 助けたいって気持ちがあるから、真剣に考えて、成功を勝ち取ろうとするんだ。

 理論を覚えて、同じ考え方をしてみたい。

 どんな世界が広がってるんだろう?


 ペットボトルの最後の一口を飲んで、瑞希はすがすがしい気持ちで、空を見上げた。まだ見ぬ世界に想いをせながら。


 そんな彼女の心を聞いている人がいた。瑠璃紺色の瞳はまぶたに隠されたまま、菫は思う。


 ――本を読んでるじゃなくて、見てるの話。

 ボクは寝てるんじゃなくて、目を閉じてる。

 だから、寝てるふりをしてる……。

 感覚を理論に直すには時間がかかる。

 それまでは、ボクがキミを守るよ。

 たくさんの人の命がかかってる以上、一度でも失敗するわけにはいかないんだ。

 そのためなら、ボクは嘘もつくし、性格も仕草も変える。

 瑞希、気づいてた? 

 俺が爪を見る仕草は――


 御銫みせねがやっていた、何重にもかけたペンダントヘッドの1つに混ぜたもの。

 ランジェがやっていた、こめかみに人差し指を突きつける仕草。


 菫の右の手のひらには、銅色をした丸いものがずっと握られていた。それは、アラビア数字が12個で円を作るもの。


 ――懐中時計を見て、時間を計ってたって……。

 あと3秒で、ボクの前からキミはいなくなる。

 だから、キミの膝の感触をもう少し味あわせて……。

 2、1――


 時計を持っていた人たちが策略家だという情報が渡されないまま、瑞希のまぶたは急に重くなり、


(……ん? 急に眠くなって、もしかして、24時になっ――)


 正体不明になって、ベンチの背もたれにぐったりと寄りかかった。


 あたりは金色に包まれて、瑞希の輪郭が見る見る消え去ってゆく。膝枕をしてくれていた女は、もう存在していないのと同じで、漆黒の髪はすうっと起き上がった。


 ガラスが割れたみたいに、金色の光がなくなると、瑞希はどこにもおらず、カラのペットボトルがベンチに、忘れ形見みたいに置いてあった。菫はそれをそっとつかんで、自分の膝に乗せる。今度は、瑞希を膝枕するみたいに。


 だが、感情に流されることは、そうそうなく。出来のよくない生徒の問題点を、菫は上げ始めた。


「瑞希ちゃん、ボクのもうひとつの名前、聞くの忘れちゃったかも〜?」


 後れ毛をすうっと縦にすいて、


「どうして、ボクの話し方がこうなってるのか気づいてないかも〜?」


 瑠璃紺色の瞳にあま色が映し出されて、


「どうして、空が光ってたのか質問するの忘れちゃったかも〜?」


 赤く細い縄のような髪飾りが風で揺れて、


「どうして、敵が襲ってこなかったのか気づいてないかも〜?」


 ワイドパンツのポケットにずっと入っていた、紫色の扇子を出して、


「ボクの武器に気づいてないかも〜?」


 バッと広げて、パタパタと仰いで、


「どうして、ボクがみんなの真似をしたのか気づいてないかも〜?」


 笑ったり、はしゃいでいた瑞希が脳裏をよぎって、


「どうして、ボクが先に歩いていったのか気づいてなかったかも〜?」


 全力で怒っていた彼女の記憶がくっきりと浮かび上がって、


「どうして、今朝なのか疑問に思わなかったかも~?」


 カラのペットボトルを持ち上げて、


「どうして、ボクが水って言ったのか、気づいてなかったかも〜?」


 事実と可能性の大先生、春風いっぱいの穏やかさでふんわりと微笑みながら、好青年の少し高めの男の声を可愛く響き渡らせ、


残念ざ〜んね〜ん! 瑞希は、ボクのセミナーテストでは赤点あかて〜んっ! ふふっ」


 菫 ストゥイットと同じ土俵に、刻彩ときいろ 瑞希が立つには、まだまだ遠い未来のようだった――――

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