拳で幽霊を語れ

 水平線の向こうへ夕日が落ちて、だいぶ時が過ぎた夕闇。太陽の残り火が遠ざかってゆくたび、夜色に近い青――ミッドナイトブルーが空へ広がってゆく。穏やかな熱を持つシャープなアッシュグレーの瞳に、その景色が映っていた。


 男らしい厚みのある唇に挟まれた赤茶の細長いもの。それは、青白い煙をゆらゆらと吐き出し、芳醇な香りを漂わせる。


「ふー」


 太いシルバーリング3つをつけた節々のはっきりした手。それが、口からタバコとは違うものを抜き取り、灰皿へトントンと灰を叩き落とす。


び売ったりよ」


 喧嘩っぱやそうな、しゃがれた男の声が響いた。厚い胸板は、迷彩柄――カモフラシャツの下で熱く燃えている。気だるく壁にもたれかかるのは、203cmのガタイのいいスタイル。


ようぇふりするような女郎めろうだったら……」


 何かを迎え撃つようなギザギザの丸い金属――ウェスタンブーツのかかとについているスパー。ヴィンテージジーパンの長い足が組み直されると、カチャカチャと喫煙室に音を歪ませた。


「……守ってる暇はねぇんだよ」


 男が体を少し傾けると、胸元で他の金属音がチャラチャラ入り乱れた。それは、羽根型と雄牛のツノをデザインした、2つのペンダントヘッド。


「人さまに迷惑かけねぇで、てめぇで立ちやがれ」


 頬に絡みついた長めの髪。それは藤色の剛毛。太い指先でそれを払った衝撃で、柔らかい灰がポロッと床へ落ちた。白ではない、赤茶の吸い殻を灰皿ですり消し、ウェスタンブーツは自動ドアから、クリーンエリアへ出てゆく。


 近くを通っていた、ラフな格好をした若い男が礼儀正しく頭を下げて、入れ違いに、喫煙室へ入ってゆく。


「お疲れさん」


 歩き慣れたオフィスビル。吹き抜けのロビーを横切ってゆくたび、次々と頭を下げてくる人々。


「お疲れさん」


 ポケットに両手を突っ込んで、黄昏れ気味に歩いてゆく男。彼のねぎらいの言葉は、人々のハートに重いパンチのように響き、彼らは目を輝かせて去ってゆく。


 男は慣れた感じで壁際へやってきた。向かいの最上階――数十m上の回路を、鋭いアッシュグレーの眼光で、獲物のように捉える。 


「♪〜〜♪〜〜」


 何かのタイミングを計るように、男の鼻歌がパーソナルティースペースだけで舞っていた。しばらくすると、吹き抜けのロビーから誰もいなくなった。ふとした静寂が合図する生成プロローグ


 アッシュグレーの瞳は左右を注意深く確認。壁と向き合うように、180度振り返り、ターゲッティングした廊下に背を見せる。


「誰もいねぇな」


 口の端でニヤリとすると、ウェスタンブーツが床を強く蹴りつけ、スパーが激しくカチャッと叫んだ。男の近くの床で綿埃が真上から強い風を受けたかのように、狂喜乱舞で飛び跳ねる。


「っ!」


 その場でジャンプするように飛び上がった。男の身につけていた金属という金属が激しくすれ合う。浮かび上がるアクションは、高いところから飛び降りた映像を逆再生したかのようだった。高い背面跳びをするように、1階のロビーから数十m上の最上階の回路へとビュッと登ってゆく。


 あと少しで天井に衝突するというところで、男は少しだけ身をよじり、転落防止用の柵を片手でつかんだ。


「ふっ!」


 そこを軸にして、バク転するように回路の床へ向かって、少しばかりの、いやかなりの超常現象を巻き起こしながらも、順調に降り立とうとしていたが、


 ガシャーンッ!


 予想外の破壊音が、あたりに鋭く響き渡った。衝撃を感じたウェスタンブーツのかかとが床に着地すると同時に、アッシュグレーの瞳を天井に向け、


「あぁ?」


 熱くてどうしようもなくて、仕方がないといった男の声が響いた。瞳に何か落ちてくるたび、ガラスの破片が突き刺さったような鋭い痛みが増えてゆく。目の防御反応、涙が反射的に出てきて、今の事件を見極めるのが一苦労に。


 だがしかし、男の視界は一気に鮮明に変わった。それは物理的な視覚ではなく、別のものを使ったようだった。そうして、真相に迫った。闇――涙に隠された真実。それは、照明用の電気が原型をとどめていない、だ。


「壊しちまったってか?」


 本当にガラスの破片が目に刺さっていた。痛む瞳のまま、顔を真正面に向ける。藤色の剛毛の頭に、次々と危険物が落ちてくる。どうにも止まらない、破損事故。


「しょうがねぇな。おい、リオン! 直しやがれ!」


 誰もいないはずの空間に男は問いかけた。返ってくるはずもない返事だったが、


「こちらで貸しは、178回です」


 丁寧な物腰の声は、耳から入り込むものではなく。自分の内側から聞こえてくるが正しかった。だが、そんなことは男にとってはよくあることで、カウントされている数字に、こう対処しようとしたのである。


「オレのキスで、それチャラにしろや」


 なぎ水面みなもをギリギリで通り過ぎてゆくような、音があるような、ないような微妙な静寂が広がっていた。


「……………………」


 いつまでたっても、どこまで探してもさっきの声は見当たらない。男はこの結論に到達した。


「返事なしで、放置ってか? 相変わらず、ドSだな」


 不思議なことに、男の瞳に刺さっていたガラスの破片も傷もなくなり、頭上にある照明は、さっきの崩壊劇が嘘のように、平然とした顔で明かりを注いでいた。


「キスはジョークだ」


 しゃがれた響きが吐き捨てられるように、声帯で奏でられると、男の姿はすうっと消え去った――――



 ――――オフィスビルのワンフロアーに規則正しく並ぶデスクたち。その向こうの端が煙るような広さ。いつもは、PCの画面に向かって、パチパチと作業をし続ける、静かな空間。だが、今は違っていた。


 社員たちの視線が殺到する、入り口から1番離れた奥にあるこげ茶の壁板。向こう側の部屋で、ガサツな男の声で激怒という色が今もまた轟いた。


「てめぇ、どういうつもりだよ!」


 それとほぼ同じくして、フロアを震撼させるがごとく、


 ドガーンッ!


 という何かを蹴りつけたかした音が、人々に襲いかかった。大荒れになっている別室。ガラス張りのそこは、ブラインドカーテンがいつもつながりという隙間を作る。だがしかし、今はぴったりと何かをガードするように完全にシャットアウトされていた。


 それでもできる、紙一枚の隙間。向こう側で何かが投げつけられたのが見て取れた。さっきから様子をうかがっていた男は、PCのキーボードに乗せた手の上に、ため息を降り注がせる。


「兄貴がマジで怒ってんの、初めて見た」

「俺も」


 いつものことではないことが起きているようだ。目の前の席の男が同意すると、その横にいた男が、原因となっているPCの中の共有データにちらっと視線をやった。


「けど、無理もないよな?」

「そうだな。兄貴が一番、こだわってるとこ、破ったんだからさ」


 右回りに4人の男たちで会話のバトリレーがめぐると、最初に話し出した男は缶コーヒーを一口飲んで、表情を曇らせた。


「俺も、これはどうかと思うよ。人として」

「確かに、正気の沙汰じゃないよな。この買い付けは」


 もし、自分たちがこの渦中にいたらと思うと、今の激怒は仕方がないと、フロアにいる全員が満場一致だった――――



 ――――締め切られたブラインドカーテンに囲まれた別室。立派な机の上に、ウェスタンブーツの足は放り投げられていた。ギャングのボスが手下を叱るような殺伐とした空気。カモフラシャツがペンダントヘッドが、抑えきれない怒りで、小さく怯えながら陣取っている。


 所在なさげに立っている若い男に靴底を見せるように、机の上に乗せられていた長い足のジーパンが組み替えられると、スパーがデスクに引っかき傷を作った。アッシュグレーの瞳は今はどこまでも鋭かった。


「何度も言っただろ。宝石買う時は気をつけろってよ」

「はい……」


 散らばった紙が、絨毯の瑠璃色を白くところどころ染めている。藤色の剛毛と日に焼けた頬を持つ、男がメスを入れる。なぜ、こんな叱りを入れなくてはいけないことになったのか。


「どこの国から買ったんだよ?」

「タスタワ共和国です」

「その国どうなってんのか知ってんのか?」

「知らないです……」


 個別に呼び出されている。いつも怒らない人がいかりをぶちまけている。堪忍袋の尾が切れるには、それなりの理由があるはずだ。それなのに、若い男の言葉はどこか他人事のようだった。


 兄貴と呼ばれ、慕われている男。すぐに怒るようなうつわの小さい人間に人がついてくるはずがない。ガサツで乱暴な声が、厚みのある唇から、怒って当然だと誰でも思う内容を告げた。


「貧しい国からよ、ガキども奴隷みたいに連れてきて、掘らせてんだぜ、その宝石はよ」


 この国は平和で豊かだ。だがしかし、広い世界には、そういう厳しい現実が毎日続いている国もあるのだ。買う人がいなくならない限り、奴隷制度は存続する。部下の男は言葉をなくした。


「…………」


 さらに、この国は悲惨であり、非生産的な背景が欲望の渦の中に鎮座していた。太いシルバーリング6つは、男の腰元で軽くひしめき合う。


「によ、その宝石、売った金どうなんのか知ってんのか?」


 天下の回りもの。お金。行き先が必ずあるだろう。そこまで聞かれるとは思っていなかった若い男は、びくりした顔をした。


「えぇっ?」


 容疑者を取り調べる刑事のような、隙のない鋭い眼光がアッシュグレーの光を放つ。


「隣の国、カディラ帝国に渡んだぜ」

「かでぃら帝国……?」


 こんなに発展した国で、しかも仕事。それなのに、曖昧な部分――不思議な表情をする。無責任としか言いようがない。男の収まっていた怒りが再燃し、少しだけ声を荒げた。


「ネットがあんだから、調べろや。そこは、軍事国家なんだよ」

「はい……」


 軍事国家などにお金が渡ったら、どうなるか目に見えている。兄貴と呼ばれていた男は、目の前にいる若いのに罪状を突きつけた。


「そこに金が渡るっつうことは、軍事資金になる。戦争に使うんだぜ。つまりはよ、人殺しの金なんだよ。てめぇは、それに加担したってことだ。宝石買ってよ」


 あんまりな買い付けだった。


「知らなかったです……」


 肩を落とした若い男に、容赦なく兄貴の説教は続く。


「無知は罪って、よく言うだろ? 人殺しがいけねぇって知らねぇから、殺しちまったって言ってんのと一緒だぜ。てめぇが今言った言葉はよ」


 言い訳だと、はっきりと言われて、若い男はとうとう言葉をなくした。


「…………」


 ドスンと、ウェスタンブーツは絨毯の上に落とされ、男は立ち上がり、閉めていたブラインドカーテンを指先で押し開ける。アッシュグレーの瞳にオレンジ色の街灯に映し出された、テトラポットに波の白が砕けるのが映った。


「この世はよ、綺麗に見えるもんほど、裏はきたねぇんだよ。その宝石買った人間も、知らねぇうちに、戦争に加担してることになっちまうんだよ。罪重ねさせんじゃねぇよ、他のやつによ。てめぇの無知のせいで」


 誰もがやめなければ、負の連鎖は続いてゆく。知らないから、を言い訳にして、自分の欲だけ満たす。許すわけにはいかないのだ。この熱いハートを持った男は。どうしても譲れない理由が、空から差し込む聖なる光のように君臨していた。


「はい……」


 同性でも惚れ込んでしまうような、黄昏感の漂うガッチリとした大きな背中。今の熱い言葉、信念。男のロマンといっても過言ではない。それらが身にしみて、若い男は目頭がふと熱くなった。


 藤色の少し長い横髪はふと振り返って、1円でも使われる前に先手を打った。


「すぐに返品しろや。うちじゃ、そういう品物しろもんは扱わねぇんだ」

「わかりました」


 ぺこりと頭を勢いよく下げて、若い男は散らばっていた紙を全て拾い上げる。兄貴の机の上にそれを戻し、部屋から弾丸のように出ていった。


 誰も傷つかないうちに、誰も罪を重ねないうちに、自分の手で止めなければ……。その想いを胸に、デスクまで全力で走った。


 部屋に残された男は横目で追う。部下のプライド傷つかないようにと配慮して、閉めたブラインドカーテンの隙間を。


 30秒が経過したころ、ウェスタンブーツもスパーの音をカチャカチャさせながら、出ていった。フロアーに出て、すぐそばにいた他の部下たちのそばへ行って、さっきの若い男が懸命にキャンセルをしている姿をチラッとうかがう。


「てめぇら、あれが終わるまで、待機ウェイトしやがれや」


 さっきから心配していた男たちの1人が、ささやき声ながら粋にうなずいた。


「おっす! 店に電話入れときやす! 遅れるって」


 携帯電話をポケットから取り出して、パスワードを解除しながら、通話できるエリアまで走ってゆく。その風圧を頬で感じて、男はガサツな声で一言断りを入れた。


「席はずすぜ」


 ウェスタンブーツのスパーは、人の気配を背にして、行き止まりの廊下へ向かって、急ぎ足で歩いてゆく。もう少しで壁にぶつかるというところで、203cmもの体格のいい体は、そこへ吸い込まれるように消え去った――――



 ――――男がさっき、テトラポットを眺めていた部屋の外側に、長いジーパンの足とカモフラシャツは、建物と直角――地面と平行になるように、壁を大地でも歩くように立っていた。


 滑り落ちることもなく、屋上まで浮遊するように登り切る。背中からダイブする映像を逆再生したように、建物の縁を90度曲がった。


 転落防止用の柵から、ストンとコンクリートの上に降り立つと、スパーやペンダントヘッドたち総動員で金属音がひずんだ。


 最高点の南へ移動してゆく月の光が優しく降り注ぐ。誰もいない。今は登ってはいけない時間帯の屋上。


 薄暗くて役に立たない腕時計。それなのに、男にははっきりよく見え、文字盤は18時をちょうど過ぎ、秒針が新しい旅へ出発したところだった。


「人生、何が起きっかわからねぇな。出遅れてんだろ、6時からだろうがよ、オレの時間は……しょうがねぇな」


 男も色々と忙しいのだった。ジーパンのポケットから慣れた感じで、2つのシルバー色が取り出される。ゴウッという、火が勢いよくつく音がすると、青い炎が姿を現した。灼熱色が丸く出来上がってゆく。


 それと反対側を厚みのある唇から中へ放り込む。すると、香水のような芳醇な香りが、青白い煙とともに舞い上がった――――



 ――――信号を左に曲がった瑞希は、人ごみに飲み込まれそうになりながら、白いローヒールで、駅近くの石畳を歩いていた。もう少しでくる、左隣へ入る脇道。紫のタンクトップとピンクのミニスカートは自然と車道とは反対側へ幅寄せしてゆく。


(よし、ここから横にずれて……)


 大通りから外れると、どこかずれているクルミの瞳に映る景色は一変した。店などの派手な明かりはどこにもなく、街灯がどこか寂しげで、触れたら異界へ連れ去られそうな怪奇的な色を落としている。


(やっぱり人通りが少ない……)


 あたりが急に肌寒くなったような気がした。瑞希は肩を抱くように進んでゆく。風はやけに重く、自分の髪をアスファルトへ引きずり落とすようにまとわりつく。


 白いローヒールサンダルは、引き返せない世界へ誘い込まれるように歩んでいた。だが、足元で何か細い糸のようなものを引っ掛け、切ってしまったような感覚が広がった。ふと立ち止まる。


「ん? 今、何か通り過ぎた?」


 下を見てみるが、何もない。アスファルトと短い自分の影だけ。


「ビリッとした気がした」


 肩がけのバックを真正面に持ってきて、両手で抱きしめた、それが頼みの綱のように。今来た道を振り返る。


「戻った方がいいのかな?」


 1歩踏み出したままの足が、重心がなくなっては戻ってきてを繰り返す。瑞希は目的地の小さなトンネルの闇をのぞき込んだ。


「でも、向こうの高架下通らないと、終わらないんだよね?」


 瑞希のブラウンの髪が、今度は暗い脇道の奥に向く。


「そう言えば、こんなに人がいないのって、何だか変だなぁ」


 気づけば、誰も自分と同じ道を歩いている人がいない。自身の声だけがやけに大きく聞こえ、吹いてくる風はやたらと生暖かい。


「まわりの音もこんなに小さいかな? だって、大通りが見える場所だよね」


 平和な街灯りをじっと見つめて、首をかしげる。


「もしかして、何か手違いが起きてる……?」


 ――胸騒ぎ、虫の知らせ。

 

 瑞希は来た道を戻り始めようとした。だが、大通りのにぎわいは、狐に化かされたようにどこにもなく、暗い夜道がまっすぐ広だるだけ。


「え……?」


 方向を間違えたのかと思い、反対へ振り返ると、また夜道が広がっていた。どうやら、空間がループしてしまったようだった――――



 ――――男のウェスタンブーツは、ついさっき瑞希が歩いていた、駅近くの大通りを、たくさんの靴に囲まれながら歩いていた。すぐそばを歩いてい若い男に、しゃがれた声をかける。


「さっきの件、なぐさめておけや」


 叱られていた部下の背中を、若い男はチラッと見て、目をキラキラ輝かせた。


「さすが、兄貴っす!」

「オレからは言えねぇからよ」


 叱り役は叱り役。甘い顔はできない。そこが辛いところだ。


「経営者は孤独ってやつっすね!」


 ジーパンの長い足はあと数歩で、瑞希が曲がった脇道までと迫っていた。


「行けたら行くからよ」


 これから、会社の飲み会だというのに、抜けようとする上司。


「どこ行くんすか?」


 若い男が不思議そうな顔で聞き返すと、ウェスタンブーツはふと立ち止まった。瑞希が消えていった脇道を横で見る形で。


「野暮なこと聞くんじゃねぇよ」


 厚みのある唇からふっと笑い声がもれたのを聞いて、若い男は暗い夜道の意味をこう変換させた。


「女っすか?」


 男はそれには答えず、ウォレットチェーンを腰元から引き上げる。財布から1枚のカードを取り出し、


「これで払っとけや」


 3つのシルバーリングで握られた、黒いキャッシュカードを、若い男は賞状を受け取るように手にして、頭を礼儀正しく下げた。


「ごちそうさまっす!」


 それがスタートの合図と言うように、男は瑞希が歩いていった方へ走り出す。スパーとペンダントヘッドの金属が歪む音が、吸い込まれていくように、あっという間に遠ざかってゆく。


 歩いていた他の男たちも立ち止まって、203cmのガタイのいい背中を不思議そうに見送る。


「兄貴が女をナンパ……?」

「そんなこと今までに一度も聞いたことないよな?」

「兄貴、硬派だから、野郎どもに慕われてるのに、何だか変だな?」


 後ろに立っていた男の1人が両腕を広げて、ふざけた感じで肩に抱きついてきた。


「アラサーの兄貴にも、やっと春がきたってことじゃないか?」

「マジか!? うほぉーっ! 兄貴、かっこいいっす!」


 船乗りの掛け声のような威勢のいい声が大通りに炸裂し、無関心な人ごみも一瞬だけ、彼らに視線を向けた。そんなことは御構いなしの、兄貴命あにきいのちの野郎どもは大盛り上がり。


「飲み屋に早く行って、祝いの準備しておこうぜ!」

「おう!」

「兄貴に乾杯っ!」


 彼らが歩き出すころには、あのカモフラシャツと長いジーパンの足は、闇の中で輪郭を持つこともなく、誰からもはぐれてしまうかのように消え去っていた――――



 ――――行き先の選択肢を奪われてしまった瑞希は、とにかく前へ前へと進み、とうとう人気のないトンネルのそばへやってきた。


「よし、高架下にきた。ここをくぐって――」


 何かが強く警告する。そっちへ行ってはダメだと――


 瑞希の白いサンダルは、石臼いしうすいたようなジャリジャリという砂の音を立てて、戸惑いの線を描く。


「ん? やっぱり変だ」


 塗装がはがれ落ちた半円を描く天井。首都のはずなのに、整備のいき届いていない公共の場所。偽物みたいな街灯の明かりの下で、どこかずれているクルミ色の瞳は入念に取り調べる。


「それに、このトンネル、数mなのに、向こうにたどり着けない感じがする……」


 何の変哲もない夜道が広がる向こう側。瑞希は神経を研ぎ澄ます。空気がある場所ではなく。遠くの銀河を通り越して、もっと離れた場所まで、自分のテリトリーとするように。


「人がいないのに、気配がいっぱいある。自分をたくさんの目が見てる視線を感じる……。誰もいないのに……」


 背筋が凍りつく、冷たいものなどないのに。瑞希は思わず身震いした。その瞬間。フラッシュバックする。ある光景が。


「それとも、最近起こるようになったことと、関係する?」


 姿形なき、いくつも気配と、瑞希は1人対峙する。ブラウンの髪を無防備な背中で左右に傾けながら――――



 ――――アッシュグレーの鋭い眼光はあちこちに向けられていた。途切れがあるはずなのに、ない高架の脇。人の乗っていない、カラの電車が時折、辻つま合わせのように走り去ってゆく。古びたビルの壁と窓がずっと同じ景気のまま。男までループさせられていた。


「どこにいやがんだ? さぐれねぇ……。こんなこと、朝飯前だろ。普通ノーマルならよ。がよ、あっちも躍起やっきになってっからよ。見つからねぇんだよ」


 偽物じみた細い路地で、ウェスタンブーツのスパーは時折現れる、街灯の光に照らされては色を失いを繰り返す。


「手遅れになったら、取り返しつかねぇだろ。しょうがねぇな」


 時間ばかりが悪戯に過ぎてゆく、ループした空間。すぐ近くにいるのに、それさえもループさせられていて、見つけられないのかもしれない。男は立ち止まって、空を見上げた。


「おう! リキョウ!」


 誰もいないはず。だが、間延びした声がやってきた。


「どうしたの〜?」

「女んとこに飛ばせや」


 親指を立てて、日に焼けた頬と藤色の髪の横で、後ろへ引く動きをする。


「これで貸しは、201か〜い」


 ここでも、カウントされている数字。男は空に向かって、人差し指を突きつけた。


「オレのキスで、それチャラにしろや」


 さっきと同じネタ。今度はこう返ってきた。


「あっかんべー!」


 名前が違う。もちろん、相手も違う。子供が舌を出して、指先で目を下に引っ張ったみたいな対応だった。男は鼻でフッと笑う。


「相変わらず、クールに悪戯坊主だな。キスはジョークだ」


 しゃがれた声が黄昏れ気味に響くと、ガタイのいい体は踏切の遮断機が降りるように上から下へ向かって、細い路地からすうっと消え去った――――



 ――――ミニスカートの下に出ている膝に両手を当てて、瑞希はトンネルをさっきからのぞき込んでいた。だが、ふと体を戻して、背後へ振り返る。


「ん〜? 待ってみたけど……出てこないなぁ。男の人」


 待ち人来ず。駅からこの道へ入るまでに、考えていたネタも忘れてしまいそうな、時間の経過。ポツンと差している街灯の小さな丸を眺める。


「くぐったら出てくるのかな?」


 さっきから、誰も通らないトンネルの向こうをじっと見つめ、瑞希はとうとう決心してしまった。


「とにかく、行ってみよう。よし、勇気を出し――」


 あの世への口がパックリと開いているような高架下。そのエリアに、白いサンダルが1歩入り込もうとした時、


「おい、そこの女」


 しゃがれた声た背後からかかった。正義の味方でも現れたかのようだった。瑞希は足を引っ込めて、目を大きく見開く。


「来たっ!」


 ブラウンの長い髪を横へ滑らせながら、彼女は振り返った。そこには、ガタイのいい人影が金色の光に包まれて、面倒見がよさそうで熱い男が立っていた。


 背丈は203cm。瑞希よりも、43cmも高い。


 異様な身長は、さっき会った御銫みせね秀麗しゅうれいも一緒だった。紫のタンクトップの下にある胸のうちで、確信が生まれる。


 男らしく大きく左右に開かれているウェスタンブーツ。

 ヴィンテージジーパンの長い足。

 羽根と雄牛のツノのペンダントヘッド。

 穏やかな熱さだが、鋭いアッシュグレーの瞳。

 藤色の長めの短髪。

 日に焼けているが、滑らかな肌。


 この世のものとは思えないほど、整った顔立ち。瑞希はイケメン衝撃で、ムンクの叫びへと追いやられそうになった。


 だがしかし、ガンガン行こう! モードを忘れてはいけない。


 瑞希の中で、即座にギアチェンジする。空想の世界、RPGゲームへと。白いローヒールサンダルも仁王立ち。勇ましい戦闘時のミュージックが、迫り来る戦慄せんりつのように奏でられ始めた。


 レベル33の敵が現れた! 


 瑞希のターン――先制攻撃。

 男に人指しを勢いよく突きつけ、大声でわめき散らした。


「酒を出せっ! シラフでこれ以上やってられるかっ! もう3回目だっっ!!」


 男のターン――防御。

 金色の光はスッと消え失せ、厚みのある唇の端から、あきれたようにフッと笑い声がもれた。


「キラハよりも気がみじけぇな。おい」


 瑞希のターン――コントローラーのボタンを誤って押して、痛恨のミス。防御のみ。

 いきなりまた出てきた名前を繰り返し、ただただ戸惑いに見舞われ、立ち尽くすだけ。


「キラハ? 男の人? 女の人? どっち?」


 男のターン――通常攻撃。

 瑞希の腰の少し下を指差してきた。


「短ぇついでによ。そのスカートの下、何か履いてんだろうな?」


 瑞希のターン――会心かいしんの一撃狙い。


「パンツは履いてます!」


 親指だけを立て、バッチリです! みたいに歯をキランと輝かせて、渋く微笑んだ。何だか、問題ありな話だ。ミニスカートにパンツだけ。アバンチュールな香りが思いっきりする。


 男のターン――カウンター攻撃。

 さらなる追求が、ガサツな声でやってきた。


「階段登る時、隠してんだろうな?」


 瑞希のターン――敵に混乱させられ、まさかの相打ち。

 何の恥じらいもなく、何の躊躇もなく、こんな言葉をお見舞いしてしまった。


「いや、見られても減るもんじゃないんで、そのままです!」


 男のターン――属性つき攻撃。

 必殺技。受けろ! シャイニング ブラスト!

 世にいる野郎どもの代弁を、瑞希に突きつけた。


「てめぇ、見たくなくてもよ。下から見えてんだよ」


 相手の立場にならないとわからないものだ。他の人の気持ちとは。瑞希はハッとして、髪の毛をグシャグシャにした。


「あぁっ! そうか。見たくない人もいましたね。あぁ、今まで公害をまき散らしてた。すいません。今度からは隠して登ります」


 戦闘終了。瑞希の敗北。勇ましいBGMは消え去り、現実世界へ戻ってきた女の前に、男のウェスタンブーツのスパーが近づいてゆく。


「色気、ナッシングだな」


 瑞希はまだ興奮冷めやらぬ様子で、男を迎え撃つ。


「色気などいらない! そんなものがなくても、人生は生きていける!」

「色気がねぇのが、てめぇの色気なんだろ」


 鉄っぽい男の匂いがほのかに押し寄せた。


「いいこと言いますね。年幾つですか?」


 瑞希が見上げる先には、鋭いアッシュグレーの眼光があった。男は鼻でフッと笑い、彼女に言葉でカウンターパンチ。


「――っつうかよ、話元に戻せや。てめぇ、しょっぱな別んとこ飛ばしやがって、責任取りやがれ」


 さっきまでのおどろおどろしい雰囲気は帳消しだった。背後に広がるトンネルが放置のままである。瑞希は大慌てて咳払いをした。


「あ、あぁ……んんっ!」


 白のローヒールサンダルは、砂埃の上でジャリジャリッと180度振り返り、高架下をのぞき込み、わざとらしく棒読みする。


「ここ、進んでも大丈夫かなぁ。それとも、戻っ――」

「そっから先に行くんじゃねぇぜ」


 しゃがれた男の声が背後からふとかかった。さっきの戦闘シーンは亡き者にして、普通に会話が再開。


「どうしてですか?」


 振り返った瑞希の視線の先には、大きな満月を背負ったような男が1人立っていた。まるで西部劇で銃を撃ち合う前のような隙のない、鋭いアッシュグレーの眼光をトンネルの中にやった。


「死が待ってるからよ」

「し? ……ん〜〜〜? よし、来た!」


 瑞希の頭の中で、電球がピカンとついた。そうして、また寄り道――シンガーソングライターの道へ旅立ったのである。


「ドレミファソラシド〜♪ のシが待ってる! ということで、シから始まるメロディーを考え――」


 全然進まない会話。このどうしようもない女を前にして、男は鼻でフッと笑う。


「笑い取ってきやがって、珍しい女郎だな」

「珍しい?」


 瑞希のまぶたは激しくパチパチ。


「真面目にやるとこはやらねぇと、人生ゲームオーバーになんぜ」


 ――ゲームオーバー。


 RPGゲームに意識が傾き気味な瑞希には、この言葉が気つけ薬となった。急に真剣な顔になって、後ろにゆっくり振り返る。


「死ぬ……。このトンネルの中で……? どういうこと?」


 何もない。誰もいない。普通の高架下。罠を隠せるような死角はない。曲がっているわけでもなく、向こう側の景色は平和に広がっている。ただ、おかしな気配がするだけ。


「とりあえず、下がれや。こういう時は、女は男に守られるもんだろ?」


 瑞希の横をウェスタンブーツが通り過ぎてゆく。43cmも背の高い男の背中にすっぽり隠れた彼女。何かが始まりそうな予感だった。


 だが、オーバー気味で飛んできたボールをキャッチするように、瑞希が片手を大きく上げた。


「はい!」

「何、手ぇなんか上げてやがんだ?」


 かろうじて、男の視界の端に瑞希の手が入った。節々のはっきりした手が前ポケットに親指だけ引っ掛けて、両肘を横に大きく開けている男は、首だけで振り返し、日に焼けている横顔を見せた。


 御銫みせね秀麗しゅうれいに散々引っ張り回された瑞希から、こんな言葉が出てきた。


「発言権を手に入れようと、手を上げたんです。でも……」


 意見する隙もなく、許可を求めるタイミングもなかった、あの2人には。やっとめぐってきた、まともに話せる人が。瑞希は喜びの渦の中で、少々壊れてみた。


「……これで足りないのなら、手を出す、手を汚す、手が早い、手を下す、手を替え品を替え、手――」


 手がつく熟語のオンパレード。男はまた鼻でフッと笑って、


「よく覚えてやがんな、そんなによ」

「ありがとうございます」


 話を拾ってくれる人の到来。瑞希は満足げに微笑んで、礼儀正しく頭を下げた。だが、しかし、トンネルがまた放置の運命をたどっている。男が3つの太いシルバーリングをつけた手を、顔の横でヒラヒラさせた。


「――っつうか、話ずれてってんだよ。意見があんなら、ノーマルに言いやがれ」


 こうして、瑞希はあの強引な男2人のペースという呪縛から解放されたのである。


「どうして、男の人が女を守るって決まってるんですか?」


 さっきから規格外な女。彼女を背中でかばいながら、男は気だるそうに聞き返した。


「あぁ? 世の中、変な女郎がいるから、男はそう言わざるを得なくなってんだろ? 需要と供給でよ」


「変な女の人?」


 男が言う女に属さない瑞希は、本当に不思議そうに聞き返した。男は一旦、勝算込みで、トンネルに背を向けて、小さな女を正面で捉える。


「女ってのはよ、その実、ストロングな生き物だろ?」

「どういうとこがですか?」

「野郎はよ。基本的に体も精神も弱いぜ。から、寿命短ぇんだろ。血を見て気絶するやつもいるしよ。注射が怖くて、病院から逃亡ラナウェイするやつもいんぜ。あとはよ、株が大暴落して、何億の借金背をった時なんかはよ、耐えきれなくなって、自殺するぜ」

「あぁ、確かに聞きますね」


 瑞希は頭の中に残っている記憶を必死に引っ張り出してきて、納得の声を上げた。


「女郎の社長も世の中いっぱいいやがんだよ。がよ、同じ目に遭ってもよ、開き直って、平気で生きていきやがる。色恋沙汰はそのたんびに上書き保存だろ? 女郎はよ」

「色恋沙汰に関しては、ちょっとピンときません」


 どんな意味で言ったきたのか。乙女思考でなさそうな言葉。どこかずれているクルミ色の瞳と、情に厚いアッシュグレーのそれは一直線に交わった。


「…………」

「…………」


 どうもさっきから価値観が個性的な女を別の角度から、男は眺め、彼の脳裏に、ある映像が数値が、どこからか浮かび上がってきた。この女の人生がなぜか垣間見えて、男はあきれたため息をつく。


「そっちってか? マジで珍しい女郎だな」

「あれ? 何か言ったり、思ったりしたかな? 今」


 小さな声を聞きとる。とかでもなく、心を読み取るでもなく、別のことが関係しているような男。


「世の中よ。ようぇふりして、媚び売ってくる、くだらなねぇ女郎が多いんだよ。からよ、わざと言ってみたんだけどよ。てめぇには効かねぇ――つうか、そこの女郎――いや、女だな」


 男の中で瑞希の格上げがされて、緊張感がそこで一気に溶けた気がした。


「いいぜ。向こうにいんの、本気で倒してやってもよ」


 男らしい胸板の向こうに広がっているトンネルを、脇からのぞき込み、瑞希はよくわからないながらも、願い出てくれていることに、素直に頭を下げた。


「あ、あぁ、はい。お願いします」


 ウェスタンブーツはスパーの音をカチャッとさせて、また180度背後に――何の変哲もないトンネルの真正面に向き直り、


「地獄に落ちやがれ」


 しゃがれた声が合図というように、張り詰めていた空気が一気に崩れた気がした。左右合わせて6つのシルバーリングが、拳につける武器――ナックルダスターを思わせ、鋭いパンチを繰り出す。


「うわっ!」

「ぎゃあっ!」


 銀の線が敵へ向かって引かれてゆくたび、悲鳴がトンネルの中にこだまする。


「っ! 誰かいた?!」


 瑞希はびっくりして、後ろに下がりそうになったが、自分のために、この男は何かを倒している。そこから、逃げるわけにはいかない。グッと堪えて、彼女の白いローヒールサンダルはそこに居残った。


 男はトンネルに半身を見せ、ウェスタンブーツの足をねじり回し、左足を軸にして、右足をバファローのデザインがされたベルトの位置――腰の高さまで蹴り上げ、そのまま横向きに回し蹴りバックをお見舞いしようとする。


「っ!」


 左から右へ時間差で、次々にまた悲鳴が上がるかと思いきや、男は口の端でニヤリとし、


「ジョークだ」


 足蹴りはせず、右手をそのまま上へ勢いよく上げた。次の瞬間、


 ザバーンッ!


 杞憂きゆうの法則が当てはまるはずの空が、落ちてきたのかと思うような爆音が響き、青白い光が閃光のように降り注ぐ。


 バリバリバリ!


 世界を引き裂くような勢いで、トンネルを上から貫通して、


 ズドーンッ!


 地面がグラッと揺れ動くような、地鳴りをともなって、破壊音が生まれると、トンネルの中から、脳裏にこびりつくような断末魔が一斉に上がった。


「うぎゃぁぁぁぁぁっっっっ!!!!」


 ループに切り取られた空間。あと1歩先に進んでいたら、瑞希がご愁傷様になるところであっただろう。


「えぇっっ!? こんなにいたんだ!」


 自分たちを取り囲んでいた空気が、ガラスが割れたようにガシャンと音がして、何かから解放されたようだった。


 男は何事もなかったかのように、上げていた右足を地面につけると、砂埃のジャリッという音が響く。


「オレはこれで十分イナフだ。電話すっか」


 いきなり出てきたアイテム。瑞希は我に返り、自分の目の前に立っている男の藤色の長めの短髪を横から見上げたが、


「誰に電話?」


 それには構わず、男はどこから取り出したのか、急に出てきた光る携帯電話を耳に当てて、こんなことを言う。


「おう。オレはもういいからよ、次に回せや」

「何がいいんだろう?」


 瑞希が疑問を持っている向こうで、かすかに誰かの声が返ってきた。だがしかし、男には内容が予想外で、喧嘩を売りつけるように突っかかったが、


「あぁ? ――ったく、切れやがった」


 用済みと言うように、光る携帯電話は後ろにポイッと投げ捨てられたが、地面に落ちる前にすっと姿を消した。


「ハルカ並みに融通きかねぇな。――っつうか、笑い取ってきやがって、フランの野郎」


 また出てきた『ハルカ』


「ハルカは女の人だったよね? フランは誰? 男の人?」


 しかも、別の人の名前がプラスされている。瑞希は意見求めます的に見ていたが、男は取り合わなかった。諦めて、男の背後に広がるトンネルをのぞき込む。


「何を使って、倒したんですか?」

「電気ってとこだな」


 しゃがれた男の声が返ってきて、このまま順調に話が進みそうだったが、瑞希が自ら崩壊させた。


「あぁ〜、あの人の一生を書いた伝記……」


 男の大きな手が、ブラウンの頭の上に軽めのチョップを放ってくる。


「次々に飛ばしてきやがって――っつうか、てめぇ、わざとやってんだろ? さっきから」


 瑞希は兄貴の手をつかんで、珍しく微笑む。


「もう、何度目かなので、バリエーションをつけたほうがいいかと思って……」

「てめぇが気遣うとこじゃねぇんだよ、そこはよ」


 男が手を自分へ戻すと、瑞希は真剣な顔に戻って、こんなことを言い出した。


「性別関係なく、守ったり守られたりが平等だと、私は思います」


 何を言ってきているのかわかった、男はあきれ顔。


「まだ、さっきの話続いてたってか?」

「はい、続いてました!」


 カウンターパンチさながらに、男は口の端でニヤリと笑い、


「じゃあよ、飲み会やってっからよ、ついて来いや」

「まだ、さっきの話続いてたんですか!」


 負けじと返した瑞希。


「行くぜ」


 彼女を置いて、人がまばらな脇道へと、ウェスタンブーツはゆっくりと進み出した。白いローヒールサンダルは小走りになることもなく、のびのびとついてゆく。


「会費いくらですか〜?」


 トンネルから離れ、細い路地を左へ曲がってゆくと、瑞希のやる気満々な声があたりに響き渡った。


「よし、飲むぜ、飲むぜ!」


 2人が立ち去ったトンネルの中では、これで終わらせないと言うように、真っ赤な瞳がいくつも現れ、闇が血のような赤に染まりきった――――



 ――――大通りに戻ると、歩道側に自然とされた瑞希は、男の歩みに引きずられるわけでも、慌ててついてゆくわけでもなく、普通に人ごみを抜けてゆく。


 男は瑞希の背丈に配慮して、いつもよりもかなりスピードを落として歩いていた。203cmの長身。遠くを見渡せる。自分たちにどんな人の流れが次に来るのかの予測は簡単。


 衝突を避けるために、時折、瑞希の腕を引っ張っては離すが繰り返されながら、2人は歩いてゆく。その度に、自分を気遣っている男に、瑞希が頭を下げていた。


 まわりを歩いている人たちが立ち止まっては、男を目で追って、コソコソと話し合うが始まった。写メのフラッシュが焚かれ、青白い光の雨が瑞希に降り注ぐ。


(何を撮ってるんだろう?)


 灯台下暗し。隣にいる男に、人ごみの視線が奪われているとは気づけず。


「てめぇ、ここ1週間ばかり、突然、違う場所に立ってる時ねぇか?」


 厚みのある唇をふと動かした男に、瑞希はまわりを忘れて、驚いた顔を向けた。


「どうして、それを……」


 人ごみの中で立ち止まる。それは迷惑であり、危険である。男は腕を引っ張って、白のサンダルを無理やり連れてゆく。


「ビンゴってか……」

「…………」


 少しもつれ気味の瑞希は返事もせず、どこからか自分を消し去ろうとする黒い霧が出てきて、それが体中に巻きつくような、まとわりつくような寒気がした。


 自身の身に急に起こるようになった出来事。

 怪奇現象。

 心霊現象。

 どちらにも当てはまるし、当てはまらない。言い表す言葉がない。


 瑞希は男に腕をしっかりつかまれたまま、どこを見ているのかわからない瞳で前に進んでゆく。


 脳裏でなぞる。別の場所にいきなり立っている現象を。


 どんな時に起こるのか、法則性が導き出そうとする。たとえば、信号待ちをしている時。バイトをしている時。駅のホームで電車待ちをしている時。家でくつろいでいる時……。


 探してみるが、どうにも原因がつかめない。


 とにかく、始まりはいつも耳鳴り。自分へ迫ってくる猛スピードの乗り物から警告のクラクションを鳴らされ続け、それがどんどん大きくなってゆくようで。


 音という風圧で飛ばされてしまうような、飲み込まれそうな気持ちになり、目を閉じずにはいられない。そうして、音は用済みというように消え去る。


 何かからの危険は去ったのだと思い、瑞希は目を開ける。だが、そこに待っていたのは闇。自分の輪郭さえも見えない真の闇。


 誰もが試みるだろう。ここから逃げて、光のある場所へ行こうと。だが、手足が体がどうにも動かせない。これはおそらく、金縛りというやつだろう。幽霊が仕掛けてくるもの。どうやっても、人間の自分にはその呪縛の鎖ははずせない。


 そうこうしているうちに、静寂は打ち破られる。


 こんな風に。脳裏にこびりつくような音、いや声が聞こえてくるのだ。真っ暗な独りきりの空間に。それらは、悲鳴、うらつらみ、人が死ぬ最期に上げる断末魔。


「きゃああっっっ!!!!」

「殺せ……殺せ……」

「死ねばいい……」

「うぎゃあぁぁぁぁっっっ!!!!」


 暗闇で動けない状態で聞こえるものだから、瑞希にとっては恐怖でしかない。逃げ出すにしても、まわりが見えない。たとえ、逃げたとしても、自分がさっきいた正常な空間に戻れるとは限らない。


 そうこうしているうちに、次の怪奇現象が襲いかかるのだ。ビュッと空気が咆哮ほうこうするような鋭く強く何かが自分へ向かって振り下ろされる。


 暗闇のはずなのに、なぜか瑞希の瞳というレンズに迫ってくる。それは刃物という鋭利な鉄色。


 闇の向こうにいる誰かに、自分の身がバッサリ斬られそうになる。想像もつかないほどの痛みが待っているだろう。血飛沫ちしぶきがあがるだろう。そう予期して、瑞希は思わず目をつぶる。


 だが、いつまで経っても、痛みも衝撃さえもやってこない。


 不思議に思って、目を開けてみると、鉛色の鋭い線を引く刃物の数は増えているのである。次々に悲鳴じみたビューッと空気を勢いよく切る音を上げて、自分に振り下ろされ続けている。


 金縛り、知らない闇の中。逃げる手立てがない。瑞希はただただ、ノーダメージの攻撃を受けるしかない。


 幕引きのように、真っ白な光にいきなり包まれ、まぶしさで思わず目をつぶる。すると、生活音や人の話し声が聞こえてくる。まぶたを開けると、この死の匂いが立ち込める体験をする寸前へ時間と空間が戻っている。風景もまわりにいる人も何もかもが、幻だったかのように正常に動いているのだ。


 瑞希は1週間前から急に自分の身に起こるようになった、この事件を考える。


 居眠りして、夢を見たのか。

 それにしては、リアルすぎるのだ。

 それでは、心霊現象、怪奇現象か。


 それも少々おかしい。なぜなら、瑞希は幽霊を普通に見る。それとは感覚が違う。


 男に問われて、ただ正直に話してみた。今も歩き続けている人であふれかえる歩道に、男のしゃがれた声が混じった。 


「だろうな」


 ただのうなずき。瑞希は気にした様子もなく、信号待ちの人ごみを右に左に見ようと、男から視線をはずしそうになったが、


「自分が斬られるんです。でも、痛みはないから平気――」

「じゃねぇんだよ。しっかり魂は切られてんだよ」


 男のシビアな声が途中でさえぎった。


「魂が切られる?」


 聞いたことのない話。瑞希は青信号で動き出した人の流れに、スタート遅れになりそうだった。彼女の腕が、男のカモフラシャツの半袖から出た素肌に連れていかれる。


「よく無事で生きてたな、今日までよ」

「無事……?」


 何の話やらさっぱりの瑞希。彼女の斜め前に、地下の店へと続く下り階段が見えてきた。相変わらずのフラッシュの嵐。彼らには聞こえないように、男は瑞希の方に少しだけかがみ込んだ。


「それは、てめぇじゃ倒せねぇんだよ。いいから、オレに守られていやがれ」

「え……?」


 鉄っぽい男の匂いを間近でかいだ瑞希が立ち止まると、ちょうど店の階段が背後に広がったところだった。


「着いたぜ」


 男は腕をすっと離し、瑞希の背中をそっと後ろから押した。すると、物騒な怪奇話は終わりを告げ、平和な日常が戻ってきた――――



 ――――遅れてきた兄貴。しかも、瑞希がそばにいる。先に飲んでいた男たちは目を輝かせて、2人を出迎えた。靴を脱いで座敷に乗る前に、部下たちが待ち望んでいた言葉を、兄貴は口にする。


「オレの女だ」


 瑞希が即行付け足し。


「友達がつきます」

「オレの女だ」

「友達がつきます」


 野郎どもの瞳は兄貴と瑞希の間で、右に左に動いていた。


「オレの女――」

「――友達です!」


 瑞希してやったり。言葉をかぶせて撃破。だったが、若い男たちが納得の声をなぜか上げ、


「さすが恋人同士っす。息がずいぶん合ってるっすね!」

「え……?」


 まさかの展開、敵と恋仲に……。みんな仲良く暮らしましたとさ。RPGゲーム、無事クリア。


 エンディングロールが頭の中で回想されている瑞希を先に座敷へ上げて、長いジーバンの足があとから畳の上に立つと、若い男から声がかかった。


「兄貴、単独OKだそうっす!」

「そうか。すまねぇな」


 男はそう言うと、畳の上にあぐらをかいて座った。習慣はそうそう変わらない。パンツが見えてもOKな、瑞希は正座ではもちろんなく、ミニスカートでも足を崩して腰を下ろす。


「単独って何ですか?」

「酒の話だ」


 日に焼けているのに、滑らかな頬に寄り添う藤色の、長めの短髪を瑞希はじっと見つめた。


「ん?」


 だが、返事は戻ってこず、斜め向こうのテーブルに座っていた若い男が代わりに告げた。


「兄貴、飲み屋には普段はこないっす」

「お酒飲まないってことですか?」


 理論がまったくない瑞希であった。タバコを灰皿に置いた部下が、手を自分の顔の前で横に振る。


「違うっす。洒落たバーに行くっすよ」

「そこで、兄貴がいつも頼むのが、エギュベル のジン。それを、ストレートで飲むっす」


 瑞希の隣にいた男が続きを言うと、みんなに慕われている男に、顔を再び向けて、親指を両方とも立てて、渋く微笑んでみた。


「兄貴、かっこいいっす!」

「てめぇは、オレのこと、兄貴って呼ぶんじゃねぇよ」


 太いシルバーリング3つがついた手で、男は瑞希の指先を封じた。下から引きずり出すように、男の手から逃れた彼女は、


「呼びたいです! 人生、ノリが大切〜〜!」


 右に左に畳の上で、紫のタックトップとピンクのミニスカートは、リズムを取って踊りくねっていたが、ぽかんとした男たちを前にして、瑞希は我に返った。


「あぁ、話またずれた……」

「ノリを求めってっから、それてんだろ。少しは落ち着きやがれ。さっきから、別のとこに話飛ばしやがって」


 兄貴の大きな手が、瑞希の背中をバシッと叩いた。彼女は座り直して咳払いする。


「んんっ! でも、飲み屋には、ジンのストレートはないですよね? 普通、ジン トニックで、トニックウォーター入るし、あっても、ジン ライムでジュース割り……」


 ジンベースの酒の銘柄を、片っ端から上げそうな瑞希の話に、刺身の前に座っていた男が割って入ってきた。


「なんで、金は同額払うから、ジンだけもらえるか確認取ったってことっす」

「そんなことできるんですね」


 枝豆を口に入れていた若い男が、感心している瑞希に声をかけてきた。


「姉さん、何にするっすか?」

「生中1つっす!」


 酒のチョイスが渋すぎて、兄貴が思いっきりぼやいた。


「オヤジかよ」

「今はビールで、このモヤモヤをスカーッと爽快にしたいんです」


 意味不明なタイムループから抜けたいのだ。それでも抜けられず、3回目をプレイ中。酒でも飲んで、うさ晴らしといきたところである。相手は交代している。だが、瑞希はずっと出ずっぱり。


 男は壁に大きな背中をもたれかからせた。


「てめぇはてめぇで、大変ってか」

「名前、何て言うんですか?」


 兄貴に春が来たと思って、せっかく盛り上がっていた野郎ども差し置いて、聞いてしまった。だが、男もそんなとはどうでもいいことで、


「オレってか?」


 聞き返していたが、野郎どもがなぜか目を輝かせて割って入ってきた。


「名前も知らなかったすっか!」

「運命だったんすね。それでも、こんなに気が合ってるんだから」

「兄貴、あねさん、イカスっす!」

「2人に乾杯っっっ!!」


 盛り上がりまくりの野郎どもの、ビールジョッキがかかげられて、カツンと心地よい音を弾かせた。


 話がよく飛ぶ、今回のターン。それでも、瑞希は今までの失敗を繰り返さないように、男に正面を向けて、人差し指を勢いよく突きつけ、


「今度は逃さない! 名前をよこしやがれ!」


 男は瑞希の指先を大きな手で包み込むようにして、押さえ込んだ。


「オレの真似しがやって。そうだな?」


 次々に笑いを仕掛けてくる女。男は口の端でニヤリとし、


「ふっ! グラディアール ランデ13世だ」

「そうですか。じゃあ、ランデさんって呼びます」


 瑞希はうなずいて、渡されたビールを受け取った。野郎どもを見渡して、


「お疲れ様です。カンパ〜イ!」


 前で押し出したジョッキに、他のそれが近づいてカツンカツンとこだまする。すでに馴染んでしまっている飲み会がスタート。だがしかし、男はショットグラスをクイッとあおって、料理をゲットしに行った瑞希の背中に、斜め後ろからツッコミを入れた。


「スルーして笑い取りやがって。どう見たって、偽名ディファレントだろ」


 ランデさんではないようだ。それさえも、聞こえていないふりをして、瑞希はビールから手をパッと離し、アウトレットのバックを引き寄せた。


「あっ、お酒といえば、これ……」


 鍵が入っている場所と並ぶ、左側のポケットから四角いものを取り出す。割り箸のそばに置くと、野郎どもの話し声がピタッと止んだ。


「おう?」


 男たちの視線の先には、シルバーのシガーケースが2つ。しかも同じ柄の。色形大きさの違う、瑞希と兄貴の手が同時に、ケースのロックをはずす。パカッと開くと、赤茶の縦の線が並んでいた。


 それが何か知っている若い男は、瑞希に興味津々。


「姉さんもミニシガリロっすか !?」


 知らな人は知らないもの。葉巻の葉っぱの余りで作った、タバコサイズの細く短いタイプの葉巻がミニシガリロ。瑞希は葉巻を取ろうとしていた手を止めて右隣を見た。


「も? あれ、兄貴もだ」


 そこには、本数は自分より多いが、同じものが並んでいた。様々な料理とグラスの向こうにいた男が、テーブルに身を乗り出す。


「もう、あれじゃないんすか?」

「あぁ?」


 ミニシガリロに釘付けになっている瑞希の横で、気だるいしゃがれた声が聞き返した。


「一緒に、銘柄を言ってくれっす」


 男と瑞希の声が抜群のタイミングで、同時に響く。


「ダビドフ プラチナム」


 ご名答! ダビドフが社名で、プラチナムが種類名。いくつも銘柄はあるはずなのに一緒。


「うっほぉーーーっっっ!!!!」


 若い男たちの拍手喝采と歓喜が、瑞希と男にライスシャワーのように降り注ぐ。


「出すタイミングまで一緒。銘柄も一緒。結婚するかもしれないっすね!」

「兄貴と姉さんの運命の出会いに乾杯っっ!!」


 また、ビールのジョッキグラスがカツンといい音と立てていたが、瑞希は気にした様子もなく。というか、ジョークだと思っているため、スルーしていってしまった。


 青白い煙を2人で上げながら、瑞希は料理に箸を伸ばそうとする。


(よし、サーモンとハマチゲット!)


 だが、隣からこんな会話が聞こえてきた。


「そうそう、で、あの面、部屋から廊下にすぐ出ると、背後から攻撃が来るんだよ。だから、一旦待ってから出ないと……」

「俺も最初そこでやれた」


 瑞希は手を止めて、思わず話に割り込んだ。こんな言葉を平気で並べて。


「それって、TPSですか? FPSですか?」


 右隣から、兄貴のツッコミが即行かかった。


「おいおい、シューティングゲームの話だろ? 今のってよ。何で知ってやがんだ?」


 女子力なしである。だが、彼女にとってはこれが常識なのだ。どこかずれているクルミ色の瞳は、情の色を濃くしているアッシュグレーのそれを見つめ返した。


「あぁ、自分はやりはしないんですけど、背後から見てるのは楽しいので、よく見てます」


 ゲームをかじったことがないと知らない単語。兄貴は瑞希の方へ少しかがみこんで、略語の正式名称を聞く。


「でよ、その何とかPSってのは、何だよ?」


 瑞希は持っていた箸をテーブルの上に転がした。


「あぁ、シューティングゲームやったことないんですね。TPS はThird Person Systemの略です」


 藤色の剛毛の中にある脳裏で即座に翻訳。


「3人称ってか?」


 瑞希の香水をつけた両手首は、身振り手振りで激しく動き出す。


「そうです。だから、ゲームの画面の中は、自分のキャラクターがほぼ全身映ってて、そこで、ズダダダダッ! と銃とか構えて、敵をやっつけるんです」


 ミニシガリロの灰を灰皿にトントンと落とすと、太いシルバーリングがかすかにすれた音を出したが、店の喧騒にかき消された。


「っつうことは、FPSは、First Person System……1人称ってか?」

「そうです。だから、ゲームの画面の中では、プレイしてるキャラクターの腕と武器しか映ってない状態です。人それぞれだと思うんですけど、私はこっちの方が操作しづらいと思います」


 冷えたジンがのどで熱に変わる。高いアルコールが気化する時に作り出す、ジリジリとした灼熱。真逆のマゾ的な酒。噛みしめるように飲み込む男は、高い空の上から見下ろすように野郎どもを眺めた。


「てめぇの立ち位置がわかりやがれねぇからな。ノーマルはそうだろ」


 2人だけの世界を壊さないように見守っていた男たち。話がひと段落したところを見計らって、掛け声みたいなものがテーブルの上に舞った。


「姉さん、かっこいいっす!」

「ありがとうございます」


 瑞希は頭を小さく何度か下げて、シューティングゲームの話に花を咲かせる。


「オンラインのサバイバルだと、他の人を狙ってる自分が、実は背後から狙われてたとかも起こりますよね?」

「そうっす! 自分がトリガー引こうとしたら、画面が揺れて、ゲームオーバーとか、よくあるっすよね!」


 みんなが主人公のゲーム世界。そういうことも起きるのである。


 瑞希は無事にサーモンとハマチを醤油の海につけて、口の中で幸せを味わう。ビールを流し込む。葉巻の煙を吸い込むと起こる現象。臭覚が鋭くなり、息を潜めていた自分の香水が一花咲かせた。


 紅一点。女は自分だけ。それでも気にした様子もなく、瑞希のビールがお代わりされる。媚びを売る女など、どうでもいいと思っていた男。彼の前で、焼き鳥を串に刺したまま、口で横に引き抜く瑞希の小さな背中があった。


「俺は、やっぱり、PX-7だな」

「小回りきくの好きだな。俺は断然、MD2だな」


 野郎どもの会話をしっかり聞きながら、フライドポテトを食べようとマヨネーズをつけていた、瑞希の手はふと止まった。


「私は、ラビンです」


 参戦している会話。何となくわかるような話題だったが、兄貴から細かいツッコミ。


「車の話だろ。しかも、走り屋のよ。どうなってやがんだ?」


 普通に乗りたい車ではなかった。兄貴の言葉が届いていない若い男は、瑞希に振り返って、同意を求める。


とうげの車っすね?」

「あぁ、そうよく言われますよね」


 すんなり会話が進んでゆく。相手に合わせているのではなく、自分の趣味を真面目に話しているだけの瑞希。兄貴の太い指先が、瑞希の素肌の腕を引っ張るように引っ掛けた。


「ノーマルは、エイプリルとかじゃねぇのか? 女が乗んのはよ」


 もう3杯目のビールジョッキを持ち上げて、瑞希は熱く語る。


「いや〜! あんな3ドアの丸いボディーの車には、絶対に乗らない! 2ドアのスポーツタイプがいいです! こう、風圧をすり抜ける、低めのボディー、滑らかな曲線美。私を官能の渦へとおとしいれる――」


 言葉のチョイスが少々おかしかった。兄貴は手の甲で、暴走気味な瑞希の腕をトントンと叩く。


「また話ずれていきそうになってんぜ」

「はっ! そうでした」


 瑞希は片腕を振り上げて、


「ラビンで公道を200kmで走ってやる〜〜!」


 そんなことをしたら、免許取り消しである。瑞希のかかげている腕を、兄貴が大きな手で封印して、畳の上に引きずり下ろした。


「事故ったらどうすんだよ。人さま、巻き込むようなことすんじゃねぇよ」

「そうか! じゃあ、レースに参加しよう!」


 兄貴の方に振り返って、瑞希は魔法でもかけるように、人差し指を顔の横で突き立てた。


 会話終了というように、パッとテーブルへ振り返り、フライドポテトを口に入れてほとんど噛まず、ビールをゴクゴクと飲む瑞希。新しい葉巻を取り出して、炎色にジェットライターであぶりながら、男は独りごちる。


「ずいぶん素直じゃねぇか。さっきはあんなに意見してたのによ。まったく、どうなってんだ? 刻彩ときいろ 瑞希さんはよ」


 おかわりのビールを受け取った瑞希に、はす向かいにいた男が声をかけた。


「姉さん、イカスっすね、遊びの趣味が」

「小さい時、何して遊んだっすか?」

「やっぱり、お人形さん遊びとかっすか?」


 次々にきた質問に答える前に、瑞希はビールをグビッとあおった。取り皿の縁に当たって、ガチャガチャと音を発しながら、ジョッキはテーブルに何とか無事に置かれる。


「ん〜? したことないですね。何が面白いのかわからないです。あと、おままごとも。何で、こんな食べられないもの並べて、夢のない現実的な遊びするんだろうって思ってました」


 しゃがれた声が背後から不意に響き渡った。


「何して、遊んでやがったんだ?」


 瑞希はテーブルに肘で気だるそうにもたれかかり、頬杖をして振り向きざまに、鋭いアッシュグレーの瞳を見つめ返した。


「おもちゃの車に乗って、サッカーして、窓ガラスに逆立ちして、割ったりとかしてました……」


 おおよそ、女の子のする遊びではない。だが、こんな瑞希なのである。そばで聞いていた若い男は感心した声を上げる。


「なかなかいないっす。姉さんみたいな女の人。さすが、兄貴が惚れただけのことはあるっす」


 ここでやっと突っ込もうとしたが、


「いやいや、だから、兄貴は惚れてなんか――」


 瑞希の右腕に男のシルバーリングが巻きついてきた。紫のタンクトップがカモフラシャツに寄り添うように引き寄せられる。急接近したが、瑞希は特に気にした様子もなく、彼女の耳元で、兄貴のガサツな声がささやいた。


「言わせておけや。すぐ変わっちまうんだからよ」

「あぁ、はい……」


 瑞希は戸惑い気味に返事をして、鉄っぽい男の匂いを少しだけかいだ。だが、ビールを求めて、畳の上をまたはってゆく。あの毎朝鳴る目覚まし時計を止めるために、布団の上を移動するように。 


(ん? 変わる? 何が?)


 何もかもが霧に包まれたようにかすみ始めた。瑞希はジョッキの端に口をつけて、その硬さを感じながら、黄色い液体を体の中へ機械的に流し込む。


 なぜ、イケメンがこんなに次々と自分のところへ来て、時間を繰り返し――答えを見つけようとしたが、今度は意識が聖水に泥水が入り込んだようににじみ出した。


 斜め後ろで、アッシュグレーの瞳はじっとうかがうだけで、何かをつけ足すわけでもなく、説明するわけでもなかった。


 しばらくぼうっとしていた瑞希は、いつの間にかカラになっていたジョッキの取っ手を握りしめていた。すると、今度はささやき声の、男たちの会話が入ってきた。


「……俺はそこが好きだな」

「お前、本当に胸好きだよな」


 ニヤニヤしながら話している野郎ども。瑞希はグラスについた結露を指先で拭うが、テーブルに人差し指をバンと強打した。


「お前だってそうだろう?」

「まあな」

「俺は断然、背中だな」

「お前、マニアックだよな、そういう趣味もさ」


 男が自分の太ももをさすりながら、軽めに話をふってきた。


「姉さんは、男の体のどこが好きっすか?」


 セクハラと言われても仕方がないレベルの会話。怒るまではしなくても、嫌がる女は多いだろう。だが、瑞希は違った。見る見る笑顔になって、親指を立てて、渋く微笑んだ。


「私は腰骨のラインが好きっす!」


 性癖暴露。男たちが口をそろえて、楽しそうに言う。


「姉さんもマニアックスっすね!」


 そんな瑞希には受難があった。


「でも、残念ながら、服を脱いでいただかないと、おがめな――」


 不純異性交友をしない限り見えない場所。マニアックすぎである。暴走しまくりの瑞希の斜め後ろから、青白い煙を吐きながら、兄貴のしゃがれた声がやってきた。


「何、真面目に答えてやがんだよ。恥じらいなん――」


 瑞希はパッと振り返って、満面の笑みで、男のジーパンの腰元を指差した。


「兄貴、腰骨をどうか見せてください!」


 やってしまった。飛び火してきたエロ話。今日会ったばかり。服を脱げと言ってきた女。さすがの兄貴の返す言葉が見つからず、気だるそうに聞き返したが、


「あぁ?」


 瑞希はそのままの格好で、カモフラシャツの腕に倒れこんできた。瞬発力で、持っていた葉巻を灰皿に投げつけ、力強く受け止める。


「っ!」


 布地でももたれかかるようにクタッとしていた。顔をのぞき込もうとするが、ブラウンの長い髪が邪魔をしてできない。自分の体から一旦離して、


「っ……」


 瑞希を座らせようとしたが、瞳はすでにまぶたの裏に隠されていた。何が今まで起きていたのか、兄貴はわかって、あきれたため息をつく。


「酔っ払ってっから、様子がおかしかったってか」


 投げ置くわけにもいかず、カモフラシャツに瑞希を埋もれさせた。2つのペンダントヘッドがチャラチャラとかすかに色をなす。部下の男たちが意味ありげな視線を送ってきた。


「兄貴は明日、朝帰りっす!」

「うほぉーーーっっ!」

「兄貴、かっこいいっす!」


 自分を置いて盛り上がりまくりの野郎ども。テーブルの足を自分のそれで、ガツンと蹴りつけた。


「うるせぇな。たくよ、野郎どもが大勢いるとこで、酔い潰れやがって」


 瑞希を抱き寄せたまま、兄貴は吸いかけの葉巻を太い指に挟み込んで、


「ジョッキ4杯でノックアウトってか。弱すぎだろ」


 ジンは、アルコール度数が30度後半から50度近くまである。兄貴の好きなエギュベルは、42%。ビールは通常、5%ぐらいだろう。自分と比べてはいけないのである。


 女慣れしていない男を前にして、若い衆が苦笑した。


「兄貴、女の人は体が小さいから、そんなもんで酔うっすよ」


 テーブルに身を乗り出していた野郎どもは、一旦座り直して、顔を見合わせた。


「にしても、兄貴、アラサーになっても、結婚もしないどころか、浮いた話もなかったから、俺たち噂してたっすよ」


 瑞希の頬に、兄貴の声の振動が厚い胸板を通して伝わった。


「あぁ?」

「ゲイなんじゃないかって……」


 思われても仕方がない。


「あはははっ! そうっす!」


 テーブルのあちこちから大爆笑が起こった。兄貴の厚みのある唇の端からフッと笑い声がもれて、野郎どもにカウンターパンチをお見舞いしてやった。


「案外、バイセクシャルかもしれねぇぜ」


 両刀使い――


「えぇっっっ!?!?」


 全員びっくりして、箸が何本か畳の上に転がった。してやったりで、兄貴はボソッと渋い声でつけ足した。


「ジョークだ」


 ホッとして、男たちはまたそれぞれ話したり、飲み始めた。兄貴は野郎どもの会話をBGMにしながら、瑞希を膝の上に乗せる。


 エアコンが強めにかかっている飲み屋。タンクトップだけの瑞希。まさか、ここで眠ることになるとは、本人も予期していないことだった。家に帰るものだと思っていた。上着など持っていない。


 青白い煙が横へゆらゆらと揺れるのを見つけて、男は長いジーパンの足を片方だけ立てた。


「シャツかけといてやるか。さみぃだろ」


 カモフラのシャツを男らしく脱ぐと、ライラック色の太い線のタンクトップが現れた。鍛え上げられた腕と胸が綺麗なラインを表したすぐそばで、シャツは瑞希の小さな体にかけられる。


 タンクトップの濃淡の違う紫色が混じって、別の色になってしまうほど、瑞希は兄貴の膝の上で眠りこけていた――――



 ――――飲み会も無事に終了し、地下から出てきた歩道で、人ごみの邪魔にならないようにしていた野郎どもが次々と頭を下げて、それぞれの家路についてゆく。


「兄貴、ごちそうさまっす!」

「おう、お疲れさん。気をつけて帰れや」


 最後の1人を見送ると、男と正体不明になっている瑞瑞希だけ取り残された。人通りの多い街角。お姫さま抱っこするわけにもいかない。ミニスカートで、おんぶすることもできず。肩に担ぎ上げるように、スカートの裾はしっかり押さえられて、頭を背中の方に向けていた。


「無防備すぎんだろ」


 アッシュグレーの鋭い眼光は、人ごみから頭1つ半出た状態で、左右を見ていたが、やがて歩き出した。男のヴィンテージジーパンの長い足は、駅とは反対方向へ。


 ――――鉄っぽい男の匂いと、靴音のやクラクションの音で、瑞希はふと目を覚ました。ぼやけた視界で2つの感覚を抱く。自分の太ももの裏にある温もりと、お腹のあたりに広がる頑丈な肩。


(ん? そうか。運んでくれてるんだ。優しい人なんだな。みんなに慕われるのもわかる気がする……)


 初対面とか。男とか女とか。相手が誰とか。自分の状態がどうなってるとか。他の人がどう見てるとか。そんなことは今はどうでもいい。


 自分の体が他の人に連れて行かれている。こんな出来事は、あの狭い1K6畳のアパートで暮らす毎日にはなかった。瑞希はぼんやりしながら、脳裏で過ぎてきた日々をつづる。


(1人暮らしをするようになってから、誰にも頼らないで生きてきた。どんなトラブルが起きても、全部1人で片付けてきた。机も本棚も……自分で組み立てた。2人で作業してくださいって書いてあっても、自分しかいなかったから。立ち止まる暇もなくて、どれだけ進むしかない日々を送ったんだろう?)


 人の優しさに、こんな形で触れるとは思っていなかった。予告なくやってきた男の背中が腕が、瑞希の心を涙腺をもろくする。


(今だけ、頼ってもいいですか?)


 思っただけ。それなのに、しゃがれた男の声が瑞希だけに聞こえるように、喧騒に入り混じった。


「いいぜ、頼りやがれ」


 瑞希のクルミ色の瞳は苦しそうに閉じられると、男の背中で、1粒の涙が石畳を落ちていった。それは誰にも知られることなく、あとから来た靴底に踏み潰されてゆく。


 安心というように、瑞希はまた眠りの底へ落ちていった――――



 ――――大通りを歩いていたが、男はどこへ行ったらいいかわからなかった。瑞希を探すことはできても、自分の番だと知っていても。


(名前は知っててもよ。住んでる場所がわかんねぇんだよな)


 普段、電車という公共機関は使わない。駅がどこにあるかも、微妙に覚えているくらい。しかも、自分もジンのショットを数杯も飲んでいる。つまりは、酔っ払っているのだ。


(瞬間移動はよ、行ったことねぇ場所には飛べねぇんだよ。それ、できるやつに頼むってか。また、貸し増えちまうけど、しょうがねぇな)


 貸しだらけの兄貴。


(リキョウ!)


 力の限り、あのクールな悪戯坊主の名を叫んでみたが、


「…………」


 応答なし。本気で返してこない。男はふと振り返って、遠くの高層ビル群を眺める。


「やっこさんも、ビジーってか?」


 帰れない。どこにも行けない。どこへ連れて行けばいいかもわからない。途中で強制終了もできない。人の川がしばらく、岩肌の両脇を過ぎてゆくように流れていた。


 藤色の長めの短髪が日に焼けた頬にかかる、顔を人ごみにさらし続ける。まるで映画のワンシーンのような立ち姿。とらわれのお姫さまを、手練てだれのナイトが助け出したみたいな瑞希と男。


 どこまでも、その2人きりの世界が続いていくように思えたが、あたりからふと声が立ち上がった。


「あの人ってさ……」

「えぇっっっ!」

「すごっ! こんなところにいるなんて……」

「あの人だよね?」

「やっぱり、かっこいい!」


 フラッシュの嵐の前触れ。青白い閃光をもろに浴びる前に、退散しなければいけない。男のウェスタンブーツのスパーは、人ごみの中をカチャカチャというささやき声を上げながら、駅とは正反対の方へどんどん進んでゆく。


(目立つんだよな、今のこの格好はよ)


 人ごみで、女を抱えて歩いていたら、それだけでも注目されて当然だ。


(じゃなくてもよ、オレの顔は知られってからよ)


 有名人慣れしている都会でも、大通りではさすがに見逃してくれない。野郎どもの顔が次々に頭の中をよぎってゆく。


(かたよったイメージ着いちまうと、商品の売れ行きに関係してくっからよ。そうすっと、野郎どもが食いっぱぐれかもしんねぇだろ。それは、上の人間がすることじゃねぇんだよ。しょうがねぇ、脇道入っか)


 ジーパンの長い足はとにかく、下の人間を守りたいという気持ちで、すっと横道に入り込んだ。だが、ガラリと雰囲気が変わった。電球の色はピンクが多く、カップルがやけに多い通り。


 ウェスタンブーツのスパーは不意に立ち止まり、カチャッと戸惑いの音を響かせた。鋭いアッシュグレーの瞳は珍しく、右に左に落ち着きなく動く。


(どうなってやがんだ? ホテル街にビンゴで入りやがって……)


 2人はとうとう行き着くところまでいってしまった、である。戻ろうかどうかと、後ろに向きかけたが、自分の左肩にかかる重みを強く感じた。


(このまま、かかえておくわけにもいかねぇだろ。それに、瑞希も疲れんだろ。運ばれたままじゃよ)


 起きているかどうかわからない瑞希に、しゃがれた男の声が断りを入れた。


「後悔すんなよ、入るぜ」


 2人の姿はホテル街の奥へと消えてゆく。男の時計は、22時半を回っていた――――



 ――――入口がわからなくて、入るのも一苦労だったホテル。ウェスタンブーツはカツカツと大理石の上を歩いてゆく。


(あぁ〜っと、来たことねぇんだよな、ラブホ)


 初体験なのである、兄貴は。路上からここまでも散々迷った。だがまだまだ、ゴールには遠い。狭いロビーみたいなところで、アッシュグレーの瞳は鋭く対象物を見ようとするが、とにかく明かりがやけに少ない。


(どうすんだ? どうやって、部屋に行くんだよ?)


 わからないのだ。誰かに聞くにしても、瑞希と男の他に客はいない。


(隠れて入っとこだから、人がいやがらねぇ)


 右の方に、20cm弱の通常の灯りが差している場所を見つけた。


(あぁ? あの小せぇとこか?)


 支払いへ行きそうになっている。まだチェックインもしていないのに。左側へ視線をやると、パネル状のものに、番号と写真が写っているものがあった。


(ん? こっちか? これで部屋、選べってか?)


 203cmの背丈。もちろん見上げるのではなく、見下ろす位置で、部屋選び。


(あぁ〜と、どうすっかって、どこでもいいんだよ。瑞希、寝かせるだけだからよ)


 お楽しみをするわけではない。部屋を選びたがる女子は伸びている。瑞希が肩から落ちないように気をつけながら、ボタンを押し込む。


(適当にチョイスすれば……。次、どうすんだ?)


 どこからどうやって行くかもわからない。この狭い空間に何があるのかも、よく直視できない、薄暗いロビー。目の高さと同じ場所で、青く点滅するものを見つけた。


(あぁ? エレベーターに電気ついて……案内ってか?)


 光を追って、部屋へと、2人は進んでゆく。色気もなく、下心もなく――――


 ――――全開でついている灯りの下にある、大きなベッドの上に瑞希の体はそっと降ろされた。


「っ!」


 寝返りを打った瑞希は放置して、面倒見のいい兄貴は、寝るのに最適な環境を作ろうと奮闘する。


「電気、どうやって消すんだ?」


 ボタンが多すぎて、ここでもまた戸惑い。とりあえず、押してみた。


「これか?」


 遠くの方で灯りに動きがあって、


「あぁ? 入り口だけ消えやがった」


 次々に押しては見るものの、間接照明になったり、ダウンライトになったり、バスルームだけになったりで、悪戦苦闘。


「オール、消せねぇのか? どれだ?」


 ようやく、すべての灯りが消え、真っ暗な中に、ネット回線の小さなランプが蛍火のように黄緑の点滅を繰り返す。


「……はぁ、やっとってか」


 お疲れ様の兄貴。ベッドの隅に、男らしく長いジーパンの足を大きく左右に開いて、そっと腰掛けた。見えないはずなのに、男のアッシュグレーの瞳には瑞希の無防備な寝顔が映っていた。


「人間の男だったら、どうすんだよ?」


 ベッドサイドの絨毯の上にゴトンと何かが落ちた。男が見下ろしたそこには、白いローヒールサンダルとアウトレットのバックが、はっきりと何の色の損傷もなく乱雑に広がっていた。


「指は触れてねぇけど、脱がせてやったぜ。寝んのに余計な靴とバックはよ」


 両肘を膝の上に乗せて、藤色の剛毛をため息まじりに大きくかき上げる。


「セ×××も惚れたれたも、感情エモーションが大事なんだよ」


 足でリズムを取るように動かすと、スパーがカチャッと、冷蔵庫のモーター音と入り乱れた。


「心もつながってねぇのにするくれぇなら、1人で映画見てたほうがマシなんだよ。そんなつまらねぇ時間と労力、消費するくらいならよ」


 それは、欲望という燃料に踊らされた、ただの肉塊である。


「あぁ?」


 真っ暗な中で、バックが落ちた時に衝撃で外に飛び出た、四角いものを取り上げた。何がおかしいのか、口の端でフッと笑う。


「これってか? 取り合いになったCDってのはよ」


 男の脳裏に浮かぶ。自分といい勝負のあの鋭利なスミレ色の瞳と、銀の長い前髪がサラサラと不機嫌に揺れるのが。あの男が怒っているのが容易に想像できて、兄貴は珍しく笑った。


 見えないはずのCDの曲名。このアーティストがどんなものなのかは知らない。だが、兄貴にもこの文字は響き渡った。すぐさま、頭の中に流れ出す。あの印象的なサビのメロディーが。


「Can't Take My Heart Off You……てめぇのハートから消えねぇ。ノーマルはそうなんだろうな。がよ、消えち――」


 瑞希の寝顔をもう一度眺めようとすると、


 ガシャンッ!


 窓ガラスが割れたような派手な音がした。2人きりの部屋では、破損したものは何もない。だが、別次元の世界では、空間が壊れていた。ブラックホールも顔負けな真っ暗な闇の扉が不気味に開いているのが、アッシュグレーの瞳にだけ映った。


「敵さんがお出ましってか?」


 203cmの長身はさっと立ち上がって、1人敵と対峙する。黒い影が現れては、消えてを繰り返しながら、あっという間に自分との間合いを詰めてくる。そうして、剣を振りかざした敵が飛び上がって、斬りかかってこようとした。


「っ!」


 右のストレートパンチを鋭く食らわす。


「ぐふっ!」


 敵の顔面にもろに入り、後ろへ跳ね返りながら、すうっと消えてゆく。鉄球が頭を砕こうと横殴りに迫ってくる。素早く上半身だけかがみこんで、それと一直線になるように足を上げると、


「っ!」


 相手の腹深くに、キックが見事に決まり、


「ぐはっ!」


 敵が半分に折れたたむようになったのもつかの間、ビューッと離れ飛んでゆく。そのまま背後からくる、敵へ回し蹴りバックをお見舞いする。


「っ!」

「ぎゃあっ!」


 武器を落とす暇もなく、横滑りしてゆく敵を見送った。何かを誘発するように天高くへ右手を上げ、空を支えるような角度で力をぐっと入れると、


 ザザーンッ!


 青白い閃光が大地を砕くように、破壊的に敵全体へ襲いかかった。


 バリバリ、ズドーンッ!


「ぎゃぁぁぁぁぁっっっ!!!!」


 凄まじい断末魔が上がるが、瑞希が目を覚ますことはなく。いや、どうやら聞こえていないようだった。不浄なものが全て浄化されたように静まりきった空間で、男のしゃがれた声が黄昏れ気味に響く。


「オレに近づくと怪我すんぜ。――っつうか、落雷すんぜ」


 当面の危機は過ぎ去った。暗闇で見えないはずのソファーへ向かって、普通に歩いてゆく。どさっと身を投げて、慣れた感じでミニシガリロに火をつけた。赤オレンジの小さな丸が浮かび上がり、それと反対側が厚みのある唇の中に放り込まれる。


 そうして、くわえタバコならぬ、くわえ葉巻で言葉を口にするため、よく聞き取れない響きになった。


「いい……がよ。先に……よく……よな。……守ってやってもよかったけどよ」


 しばらく、瑞希から遠く離れた場所で、ミニシガリロの青白い煙と、芳醇な香りが立ち上っていた。


 やがて、ウェスタンブーツはローテーブルをガツンと蹴りつけ、


「――っつうか、オレの名前、最後までスルーしやがって、どうなってやがんだ?」


 笑いの前振りだけで、酔っ払ってしまった瑞希は、ベッドの上で寝返りを幸せそうに打っただけだった。兄貴が誰だかわからないまま、夜は更けてゆく――――

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