もしも吹部顧問がメフィストフェレスに魂を売り渡したら

内田夏穀

Friday, 22 March 2019

 男が一人、学校の廊下を歩いていく。どこにでもある来客用のスリッパを履いているのに、足音はぱたりとも立てずに。

 くたびれたスーツもシャツも色は黒。ひょろっとした長身にぼさぼさの髪。その髪も真っ黒といいたいところだが、ところどころに年齢不相応の白髪が混じって、余計に男の佇まいを不調法に見せている。


 波佐見高峰中学の本館1階は校内で最も古びた建物だ。教室はなく、下駄箱、事務室、用務員室などの他には校長室と職員室より他にない。男は突き当りまでずんずんと進み、そのドアを叩いた。すばやく4度。

 「どうぞ」

 バリトンの声が遠くから呼びかける。


 「失礼します」

 窓のほうを向いていた人物がくるりと振り返った。意外そうな表情をしている。

 「ああ、来たね」

 「はい」

 「そんなに神妙な奴だとは誰も思っていないから、楽にしたらどうだい」

 ぷっ、と黒い男が噴き出し、よく響く笑い声を立てた。その声ときたら、まるで悪魔が地割れから這い出てきそうな笑い方である。開いた口からのぞく大きな八重歯が、余計にその印象を強くしている。

 「校長はさすがに話のお分かりになる。ありがたくそうさせていただきますよ。新年度から、どうぞお世話になります」

 校長は苦笑いを浮かべつつデスクを立った。

 「ふん。相変わらずだね。まあ、かけなさい」

 「ありがとうございます」

 二人は向かい合って応接セットに腰を下ろした。

 

 「……君は2年の担任だ。組分けは主任が今作っている。」

 「承知しました」

 「ああ、あと、部活は吹奏楽で頼む」

 打合せを進めるなか、こともなげにそう発言した校長の言葉に、男は眉をひそめた。

 「斎木はどうしたんですか」

 「彼女は今年度いっぱいだ」

 男の眉根にはますます深い溝が刻まれた。

 「休職だ。診断書はでている」

 男は黙ったまま、ゆっくりソファから立ち上がり、窓の方へ向かう。

 「ほう。そうですか。それはそれは……」

 校長が弁解するように言葉を継ぐ。

 「1年もってくれたのがせめてもの救いだ。君も来てくれたことだし」

 「……そうじゃないでしょう、校長」

 男は振り返る。言葉のやわらかさとは真逆の険しい表情に、校長が身じろぎする。


 「エラい人たちはいつもそうだ。ご自分の部下よりもっと大切なものがたくさんおありになるようで。あいつも浮かばれないでしょう」

 校長が縁起でもない、と口の中で歯切れ悪く呟き出すのを声量で制して男は続ける。

 「あいつの骨は私が拾ってやることにしましょう。まぁ彼女も、甘いところがあったのは事実ですがね」

 にやり、と不敵に笑い、なおも言葉を継ぐ。

 「私はそうはいかない。校長、先程貴方は私に吹奏楽部の顧問を、と言った。確かに承りましたよ。承ったからには、私のやり方でやらせてもらいますがね」

 校長も負けじと、ふくよかな腹を突き出すようにして声を張る。

 「おお、期待しているよ。好きなようにやってくれ」

 「……聞きましたからね、確かに。校長のいまの台詞」

 更に邪悪な笑みを深くして、男はくつくつと笑い声を立てた。その声は次第に大きくなっていくのであった。

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