第二十四話:昼も短し走れよおっさん

 内野にいる俺と、外野にいる杏。あのマネージャーの杏が本当に決心して守備についてくれたんだ、俺らがカバーしてあげなきゃいけない。でも、ちょっと距離が遠すぎる。ちょっと心配ではあるが、今は仲間を信用するしか無い。俺が送り出したのだから、俺が消極的になってどうするんだ。




 と、その時。打球がフラフラっと空高く上がり、ちょうど杏の方へ飛んでいった。なんでこういうときに限って杏の方に飛ぶんだ、と思うがどうしようもない。杏のカバーをしようと数人が打球めがけて走っていき、結局そのちょうど間のスペースにぽとりと落ちた。棄権よりはマシだが、これでは試合になるかどうか。杏が申し訳なさそうにしているのを見て俺も少しだけ後悔しそうになる。




 杏はバッティングでも結果が出ない。チーム全員で杏の応援をするが、打席には一人しか入れないためどうすることも出来ない。結局シンクロ打法はおろか、バッティングセンターとは質が全く違う相手投手の球にかすりもせずにベンチに帰ってきた。




「ごめんね、力になれそうにないなぁ」




「大丈夫大丈夫! これからこれから!」




 口にはするものの実体は全く無い。点差は離れていくばかり。このままずるずる行ってしまうと何も出来ないまま終わってしまう。なんとかしなければ。




 俺に打席が回ってきた。とにかく塁に出ないことには始まらない。バッティングセンターを思い出して、相手投手に合わせて始動する。足を上げ、足を付き、腰を回し、手で掴みに行く感じで。フルスイングしたけど、ボールは当たらず。相手投手は余裕の表情。なんとしてでもその余裕綽々な顔を変えてやらないと。




 次はもっと引きつけて逆方向に打たないと。そういう意識で構え、今度は少しタイミングを遅らせて振り出してみたが、今度は内角をえぐるような変化球でこれも当たらず。やはりシンクロ打法を完璧にマスターできていない状態ではどうすることもできそうにない。次の球も勢いよく飛んできたが、バットの根っこの方で打ってしまい、手がしびれたまま走り、そのままアウトになった。




 しかし情けない俺だ。野球漫画の主人公が簡単にホームランをかっ飛ばして、テレビの中の甲子園球児はいとも簡単に勝っていくのに、なんで俺らはこんなに何も出来ないんだろう。無力感の塊である。




「ごめん、全然ダメだったわ」




「もっとボールを引きつけないとね。焦ってたら打てるものも打てないよ! ……ま、人のこと言えないですけど」




 ベンチにいる杏はグラウンド上の杏とはまるで別人で、非常に的確に客観的な意見をくれる。それでいてこの美貌。同じチームで本当に良かった。バッターの方を見てバインダーにメモしながらカメラの位置を修正したりする杏。その横顔は、何時間でも見ていられる。でも横顔だけじゃ嫌なのは俺のエゴイストなところ。




 いつまでも眺めていられる横顔はもういらない。いるのは正面だけなんだ。もっと俺の方を向いて、俺のことを見てほしい。そのためには、俺がこの試合で自信をつけて、俺からしっかり告白しないといけない。このままでは何もアピールすることが出来ない。




「でもさ、不思議なんだけど、男の人が野球してるところって、なんで格好良く見えるんだろうね。空振りとかへなちょこ守備とかさ。まぁ私も言えたもんじゃないけど、そんなのばっかりな草野球でさ、なんで格好良く見えるのか、不思議なんだよね」




 俺の横でそんなことを言われて、俺はどうして良いか分からなかった。当然それも目の前で構えているカメラのマイクにしっかり入っている。数日後にはYoutube上でそれが公開されて、全国の野球人に届くだろう。杏のきれいな声でそんなことを言われたら、もうたまったものではない。きっと今日イチの名言はこれだろう。しっかり字幕まで入っている動画の画面が容易に思い浮かぶ。




「でもさ、一つだけ言えることがあって。高校の頃からそうなんだけど、みんな本当に野球が好きで一生懸命やってるよね。なんかそういうの、良いなぁって思うんだよね。どうしても応援したくなっちゃう。実際自分でやると本当難しいのに、なんであんなに簡単に捕ったり投げたり出来るんだろうって。うらやましくなるよ」




 そういう視点だったのだと改めて気付かされた。俺らがプロや甲子園球児や漫画の主人公をうらやましく思うみたいに、杏は俺らみたいなへなちょこ素人をうらやましく思ってくれていたんだ。その視点が意外だったし、ハッとした。俺らがやっていることは自信になりうるものなんだ。高校球児みたいな大きな感動を与えられるわけじゃないけど、小さな感動なら与えることが出来るんだ。




 それに気付いてからは少しだけ思い切りがよくなれたような気がした。思いっきりやってやれ、と。そんな気持ちになれた。さすがマネージャー、選手のコントロールが上手い。そういう風に自然な形でマネジメントしてくれる杏の存在感は大きい。高校時代から変わらない安心感。杏がいるからこそ、俺らは力を発揮できているのだ。




 そんな俺らだったが、5回裏終了時点で4−0とまだ1点も入れられていない。大川兄も決して調子が悪いわけではないが、不運なヒットや疲れから来る制球の乱れなどもあって、気づけば4点差もついていた。大会規定で9回までではなく7回までしかないため、あと2回しか攻撃のチャンスはない。俺が打席に立てる機会は、あと1回。そこで劇的な一打を打たなければ、チームは勝てないし杏にも何のアピールも出来ないということになる。




 そして俺の出番が来たのは最終回。高校時代と同じ、最終回の2アウトという場面だった。点差は同じく4点差。俺がここでホームランを打ってもまだ3点も差があるが、最後まで諦めてはいけない。野球は最終回の2アウトからとよく言われる。漫画ならここできっかけになるホームランを打って、チームメイトを勇気づけて逆転サヨナラを演出するはずなんだ。俺らがそれをやってのける可能性は、まだ零ではない。




 最後の打席に向かう俺。高鳴る鼓動。笑う膝。何度もひと息つき、バットを構える。しかし手汗で滑る手元を何度もユニフォームで拭き取り、再度構える。相手投手は俺のことを最後の一人だと思っているのかやはり余裕の表情。しかし疲れているのか肩で息をしているのを必死に隠そうとしているのは見て取れる。




 あれ?


 意外と俺、冷静に見れているかも?




 間合いを詰め、相手投手とシンクロすることだけを考えて始動する。来た、絶好球。タイミングもバッチリ。これは捉えた。やった、行ける。そう思った途端、ボールが急激に曲がった。直球だと思っていたのに、蓋を開ければ手元で鋭く曲がる変化球だった。




 またもバットの根本に鈍い音を立てて当たってしまい、内野に力なく転がっていく。くそ、また高校の時と同じだ。




 最後は思い切り凡打。まさかの結果だが、仕方ない。一塁まで頑張って走り抜けようとした。現実はそう甘くない。それを噛み締めながら。だが、次の瞬間、足が絡まってしまい、そのまま地面に向かってダイブした。それは高校野球でよく見るような感動的なヘッドスライディングではなく、膝を思い切り擦るような、格好悪いコケ方。地面についた手のひらからも血が出てきた。ここまで格好悪いことなんて滅多にない。そう思うとなんだか笑えてきた。しかしその時。




「走れー! 長澤ー!」




 高校時代と同じように、杏の叫びが耳に入ってきた。高校最後の夏、最後のバッターとなってしまう直前、一塁線上を走るときに聞こえてきた杏の声。あの時と全く同じ声が聞こえてきた。あ、これも高校の時と同じだ。一瞬だけそう思った。真っ赤に染まった膝小僧に手を付き、もうすでにボールが一塁手のグローブの中にあるのを分かっていながら、必死に一塁ベースを駆け抜けた。




 一塁ベース後方で腿に手を付き呼吸を整える。膝小僧はユニフォーム越しに滲んでくる血と乾いた土で汚れている。呼吸が安定し、視界が徐々にひらけてくると、川を挟んだところにある母校のグラウンドと土手に阻まれるような形で校舎の上の方が見えた。あの頃の思い出が一気に蘇ってくる。毎日の練習、杏への密かな片思い、そして最後の試合での杏の応援。




 もしもあのグラウンドで毎日のように白球を追いかけていなかったら、もしも杏の応援がなかったら、もしかしたら今のこの全力疾走はなかったかもしれない。みんなに支えられている。そう実感したのは、このあと迎えてくれたチームメイトを見たときだった。




 試合終了のために本塁に集まるチームメイト達に笑われながらも、その笑いは冷やかしでもなんでもなく、温かみのある笑いだった。そうやって迎え入れてくれるチームメイトの中にある杏の素朴な笑顔になんだが救われた。




「おつかれ。題名『走れおっさん』でさっきのを動画にしとくよ。絵面は悪かったけど、内容は悪くなかったよ」




 蘭と一緒にニヤニヤしながら、杏はそうたたえてくれた。本当は格好良く決めたかったところだったけど、結果は惨敗。もっと鍛錬が必要だ。杏への思いはまだまだ隠さなければならない。そうしないと、今の自分に自信がない俺じゃダメだ。俺から杏を迎えに行くくらいにならないと。俺から杏を支えられるようにならないと。それまでは、告白できない。まるで少年野球を見に来た母親のような杏。俺はまだまだ子供で、単なる野球少年で。とてもじゃないけど対等にはなれていないと思った。




 でも。暖かく迎えてくれて、包み込むような優しい笑顔を見せてくれた杏に、正直理性は働こうとしなかった。複雑な思いが俺の中で交差する。ベンチ前で試合後の片付けをしている最中でも、杏はマネージャーとして最後まで役割を果たすために俺の膝と手のひらの消毒をしてくれた。




 俺たちの短い冬はこうして終わった。こんな日は雪でも降ればまだ綺麗だったねと多少は良い思い出になっただろうに。ただ正午の冷たい風が吹いているだけだった。




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