第九話:勝手に震えております

 スマホの通知の名前欄をもう一度よく見直す。やはり杏からだった。杏から連絡が来るなんて珍しい。何かあったのだろうか。




 とは思いつつも、もうすでに純奈ちゃんに気持ちが傾いているからか、杏から連絡が来たところで飛び跳ねるような気持ちにはなったりしなかった。自分は意外とあっさりした性格で、やっぱり冷たい人間だなと思った。付き合えそうな女性の方に向かってしまうなんて、ただ彼女がほしいだけの人間のすることだ。自分がそんな風になっていたなんて思ってもみなかった。




『今日仕事帰りに野球見に行ったんだよ! そしたら長澤がしっかり働いてるとこ見えたけど、忙しそうだから声かけるのやめといた。しっかりやってんじゃん! がんばってフラワーズにお金落としてね』




 杏も野球を見に来ることあるんだな。初めて知った。それよりなぜ杏は俺が球場でバイトしていることを知っているのだろう。蘭しか知らないはずなのに。まさか蘭と一緒に見に来ていたのか。だとしたら蘭にも杏にも俺が純奈ちゃんと目配せしたり会釈し合ったりしていたのを見られていたかもしれない。そう考えると、まだ何も始まっていないのに何か悪いことをした気分になった。




 純奈ちゃんに返信する前に、とりあえず杏に返信しておく。あまりに間隔が空きすぎるのも良くないということを俺は知っている。




『そうなんだ! 声かけてくれたら良かったのに。しっかり働いて“俺の”野球道具購入資金にします』




 これでよし。さて、純奈ちゃんへはどう話をしていこうかな。




『純奈ちゃんは、こんどいつバイトはいるの?』




 当たり障りのない会話。こういう普通ので良いだろう。ウザがられず、普通の会話。こういう普通の会話から徐々に仲良くしていって、いつの間にか毎日連絡し合うようになっていて、気がついたら付き合ってました。みたいなのができれば理想なのかもしれない。




 純奈ちゃんとの妄想を膨らませていると、杏から返信が来た。




『でもビールの売り子さんだけはしっかり見てたね。嬉しそうに会釈してたの見えたよ』




 やっぱりそこも見られていたか。タイミングが悪すぎる。杏は彼女でも元カノでもないのに、なぜか杏に対して後ろめたい気分になった。浮気がバレたときの気持ちってこういうことなのだろうと思った。俺はそうかなぁとテキトーに返して、ちょうどきた純奈ちゃんの連絡をゆっくりと読んだ。




『多分、今シーズンは次が最後ですね。ていうか良くんってタメじゃない? しかも高校も一緒だと思う。ハナコウじゃなかった? 多分、クラスは同じになったことがないから覚えていないかもしれないけど……。実はなんか見たことある顔だなぁと思って見てたらよく目が合うようになって、いつかお話できたらなぁって思ってて』




 驚いた。まさか同じ高校で同じ学年だったとは。同い年にしては童顔で少女みたいな雰囲気だったからてっきり年下だと思っていた。おそらく純奈ちゃんが言うようにクラスが違っていたからどう、全く見覚えがない。今度実家に行くことがあったらアルバム開いてみよう。いや、実家に行く用事なんて最近は全く無いし、今度の仕送りと一緒にアルバムも送ってきてもらうことにしよう。




 全くの赤の他人だと思っていたのに、急に共通点が出来るとぐっと距離が近くなる気がする反面、高校時代の俺のイメージが付いちゃってるだろうからもしアレだったらどうしようとかいろいろ考えてしまう。




『まじで!? 俺達タメだったんだね。ハナコウだったよ。こんな再会ってあるんだね!』




 こう純奈ちゃんには返事しておいた。最後の一言で運命的な出会いだと思わせたい。これが伝わるのかどうかはわからないが、とりあえず祈っておいた。




『売り子さんばかりに気を取られてないで、真面目にバイトしなさい。マネージャー命令です』




 杏はやっぱりマネージャーらしいマネージャーだ。おせっかいで母親みたい。はいはい了解とだけ返しておいたが、もしかして冷たかったかなと送信直後に少しだけ後悔した。




 しかしこうして交互に相手していると、時々送信相手を間違えてしまいそうになる。慎重にならないと相手を間違えて“これ誰に送ってるの?”なんて言われてしまったら言い訳するのがなんだか怖い。二股ってこういう気分なのかなと感じた。




『ホント? やっぱりあの長澤良だったんだ! たしか野球部だったよね? だから野球関係のバイトしてたんだね。あたし野球部にも友達何人かいたんだよ。石川杏とか覚えてる?』




 杏の友達だったのか。蘭とも知り合いだし。純奈ちゃんに突き進もうと思っても、二人の影はどうしてもちらついてしまうということか。まだ本当に何も始まっていないのに、いきなり三人の美女の間にいる俺の今の状況は、偶然なのだろうか、それとも運命なのだろうか。そしてこれが運命だとしたら、この三人の中で、誰が俺の運命の相手となるのだろうか。




 蘭は過去さえ忘れれば付き合えるほどだが、そのハードルがとてつもなく高い。しかもお互いに過去の記憶を消去しなければ、おそらくこの先の関係というのはありえないだろう。




 杏は連絡先走っているし一緒に草野球のチームにいるし、何より俺の青春時代の中で唯一心残りだった思い出深い存在だから今回の草野球チームでの再会は大切にしたい気持ちはある。しかし同じチーム内に大川兄という元カレの存在もあるし、なんだかこの二人が微妙な空気感のおかげで恋愛っていうムードは現時点で全く無い。




 ということはやはり純奈ちゃんが現時点では最も俺の運命の相手に近い存在ということになる。タイミング良く出会い、タイミングよく話ができ、しかも実は高校時代の同級生だったなんて、考えてみたらドラマチックな展開ではないか。そう考えるとますます純奈ちゃんとの関係を深めていかなければと自分で自分を鼓舞した。




『覚えてるよ、うちの野球部唯一の同級生のマネージャーだったから、俺、高校時代は杏とくらいしかまともに女子と話せてなかった気がする。だから実はあんまり女子と話すの今でも慣れてない』




 一応こう言っておいて、下手なことを言ったとしても慣れていないからと言い訳できるようにしておく。結局、俺が高校時代から蓄積してきた知識というのは、専門分野の研究の蓄積以外にはこういうセコセコした場の切り抜け方やうまいこと嫌われないための方法ばかりである。




 そういえばさっきの返事から杏は送ってこなくなっていた。二人同時に相手する中で失敗することを恐れていた俺にとっては相手が一人になったことで少しは気持ちに余裕ができた。しかし杏から連絡が途絶えた途端に今度はなぜか寂しさが押し寄せてきた。やっぱりもうちょっと優しめに返信しておいたほうが良かったかな、やっぱりもうちょっと会話を続ける努力をしておけばよかったかな、純奈ちゃんには出来て杏には出来ていなかった少しの気遣い。いつの間に俺はこんなに冷たい人間になってしまったのだろう。俺が学んできたはずの嫌われない方法を、杏にも使うべきだったかもしれないと、後悔の念がまた押し寄せてきた。




『嘘でしょ! 今日あんなにスムーズに話せたじゃん。実は杏と付き合ったりしちゃってたんじゃないの?』




 杏と付き合うだなんて、高校時代は夢のまた夢の話だった。大川兄の存在を学校中が知っていたはずだが、純奈ちゃんは知らなかったのだろうか。それにしても純奈ちゃんは本当に積極的な女の子だ。連絡先を交換した日っていうのは普通、そこまで踏み込んだ話はしないのではないだろうか。こういう一歩踏み込んだ話も躊躇なく出来てしまう純奈ちゃんは、ある意味俺の話を引き出そうとしてくれて会話をしていくのが楽だが、その反面、話しすぎてなんでもかんでも知れ渡ってしまいそうでちょっぴり怖い。




『いやいやいや、杏は高校時代、うちのエースの大川善隆ってやつと付き合ってたよ。結構有名なカップルだった。知らなかった?』




 そして杏は俺の片思いの相手だった。なんて言えるはずもなく、その有名なカップルが今は微妙な感じだということもあえて言う必要はないと思い、伏せておいた。さすがにそれは、言い出せない。




『ああ、たしかにそんな感じだったかも。案外高校の頃なんて忘れちゃうもんだね』




 なんだ、ただ忘れていただけか。なにか特別なことでもあるのかと思っていたけど、そうではないようだ。俺みたいに高校時代の青春を取り戻そうとしているのとは対称的に、純奈ちゃんは予想だが今を精一杯楽しんでいるから過去にはきっとこだわらないタイプなのだろうと思う。




『純奈ちゃんは忘れっぽい性格なのかな?』


『かもね。ていうか純奈でいいよ、ちゃん付けって……なんか子供っぽくて違和感あるし』




 いきなり名前の呼び捨てで良いのか。なんだか進展が早すぎる気がしなくもないが、スピードというのは早ければ早いほど良いということが多い。ここは純奈ちゃん、いや、純奈のペースに合わせるとしよう。それにしてもちゃん付けが子供っぽくて嫌だとは。女子はみんな可愛らしいちゃん付けが好きだと思っていたから意外だ。それにお姉さんというより美少女のような純奈の童顔フェイスはちゃん付けがよく似合うと思っていただけに、逆に呼び捨てのほうが違和感がある。でもいずれこれにも慣れることだろう。




『じゃあこれからは純奈で。そろそろ寝るよ。おやすみ』


『はーい、おやすみ。おつかれ』




 おやすみだけでなく、おつかれまで言ってくれる。こういうほんの少しの心遣いが嬉しい。今日はとても良い夢が見られそうだ。布団に潜り込んで、純奈の可愛らしい童顔が目の前にあることを想像すると、なんだか興奮してきた。まだ付き合ってもいないのに、もう付き合えたような気分。そろそろ寝ると言ってしまったからにはもう連絡を取ることが出来ない。そこだけは失敗したな、と思った。




 その夜は目がさえて全くうまく寝付けなかったのは、きっと外を走る暴走族のせいだけではなさそうだった。


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