見えざる意識の底に

山羊のシモン(旧fnro)

見えざる意識の底に

 いつものように眠りについた筈だった。

 深い、とても深い闇へと堕ちていく感覚。

 現実からかけ離れたそれは、夢の世界であることを確信させる。


 底へ叩きつけられる感覚もなく、俺は降り立った。

 周囲を見渡しても光の粒すら見当たらない。


 茫然と立ち尽くしていることもできたが、目に見えない衝動に駆られて一歩を踏み出した。闇に眼が慣れていくことななかったが、迷いない足取りに驚く。

 デジャヴ──微かな記憶の欠片が脳内を通過する。しかし、想い出すには至らなかった。そんな暇もなく前へと進んでいく。


 しばらくすると、何かが爪先にぶつかった。

 徐に腰をかがめると、いともたやすくそれを拾い上げる。

 姿かたちは見えていない筈なのに、それが長身の日本刀であることを知る。知っていた。

 力強くその柄を握りしめると、刀身が切っ先から手元へ向けて一瞬光が走る。

 驚くほどに手に馴染んでいる。初めて手にしたとは思えないそれを一振りすると、再び歩み始めた。まるで目的地が分かっているかのように。


 どれほどの歩数を繰りだしたのだろうか。疲労感に襲われることもなく、一直線に向かった先で目にしたのは扉だった──正確には長方形の光の筋であり、それが後方から漏れ出ていた。

 どうして扉だと瞬時に判別できたのか。本能的なのか記憶なのか。

 澱みなくノブを回す。


 目に飛び込んできたのはビルのフロア。見飽きた光景だった。デスクとパソコンが所狭しと並べられ、隅には複合機がある。

 蛍光灯が不規則な瞬きをし、不快感を刺激した。じわりと肌が水分を含む。険しい顔をしている自分に気づいた。


 次の瞬間、視線の先に殺気立つ。その面を拝まなくても済めばどれほど穏やかに過ごせるのだろうか。自信の保身と体裁とプライドのために上に弱く下に強く振舞う彼を憎まない日はなかった。


 ブラックな職場ということは解かっていても、抜け出すのは難しい。疲弊した身体と精神は、退職という一歩を踏み出すことすら許してはくれなかった。それでも意を決して退職届を、「これは私が預かっておく」という言葉と共に薄汚い顔で握りつぶされる。震える俺の肩に優しく手を置いた。

 それからは死んだような日々。時折、退職したいという気持ちが沸き起こるたびに、彼は不気味な笑顔を向けてくる。瞬間、背筋が凍り、大人しく業務に没頭せざるを得なくなる。しかし、何故かすっきりとした気持ちで遂行していた。

 以来、ときどき深い眠りに堕ちることがあった。


 朝露の如く消えそうな記憶の破片が砕け散る。

 彼が目の前に居る。怪しく刀が光ったとき、身体が本能に従い動き出す。

 そして、目的を達成しようとした瞬間、意識が遠のいていく──


 ジリリリリリリ──聞きなれたアラーム音。

 うっすらと目を開けると、カーテンの隙間から眩しい朝日が射し込んでいた。

 気分は晴れやかだった。昨日までの不快感は消え去り、また一日頑張ろうという気持ちで布団から身体を起こす。

 どうしてこんなにすっきりしているのか分からない。また課長に嫌味の一つも言われるのだろうと思いつつ、それは仕方のないことなのかもしれないという割り切りと共に、身支度を整える。


     *


 繰り返される夢。その内容は目覚めと共に霧散する。

 どんなに憎くても、決してしてはいけないことがある。しかし、夢の中ではその枷が外されるのだ。こうして精神を崩壊から守り、日々を過ごしていく自己防衛本能。

 いつの日か、彼がとんでもないことをしでかさないためにも、限界を迎える前にしっかりと対策を講じた上で、再び退職という一歩を踏み出すことを心から願っている。

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