明日を夢見て夢を見る

三条 荒野

明日を夢見て夢を見る

 かつてこれ程までに明日が待ち遠しかった事などあっただろうか。

 断言できる。十余年の人生の中で、これに勝る一日の終わりはなかった。


 初恋が成就した。

 想い続けたあの人が、私に応えてくれたのだ。嬉し泣きなど初めてで、夢ではないかと他人に聞いて回り、実際に頬をつねってみたのも初めての事だった。


 告白が受け入れられ、いよいよ明日からは恋人同士。だからこそ、こんなにも待ちわびているのだ。私の新たな門出に相応しき、晴れやかな朝の訪れを。あの人の隣を歩んで行ける、夢のように幸せな明日を。



 照明を落として暗くなった部屋の中、布団の中に横たわる。眼を開けていても、瞑っていても、見えるのは黒一色。いつもはその味気無さに欠伸が出てくるのだが、こと今日に限ってそれはない。弾む心と身体を抑えられず身を揺すってしまうから、うっかり地震と勘違う程だった。そんな真似を長々と続けて、疲れが見え始めてようやく、私の意識はゆっくりと、部屋を満たす黒の中に溶け出していった。




 目に見えたのは、変わらず黒だった。

 おかしい。目覚めた筈なのに部屋の天井が見えない。夜中に起きてしまったにしても、既に暗順応しているから輪郭が捉えられるようになっている筈なのに。

 身体を起こそうとするも、思うように動かせない。いや少し違う。動けないと言うよりも動かない。最早身体の感覚がない。呼吸も、瞬きも、手触りも、重力さえも認識できない。意識と肉体とが完全に切り離されているようにすら思える。

 何なのこれは。一体何が起きている? 私は今どうなっているんだ?



「おや? 君は……」


 声がした……のだろうか? 確かにそう言っていると思ったのだが、今の私には肉体がないのだから、何かが聞こえる筈もない。"感じ取った"とでも言うような、身に覚えのない不可思議な感覚で、先の声を認識した。


「本来ここに意識が入り込む事なんでないんだけどなぁ」


 声の主を探そうとするも、不可能だとすぐに悟る。今の自分には何もない。五感のすべてが消失しているのだから、ただ感じ取る事しかできない。そして肉体を介さない感覚の正確な認識なんてできる筈もない。


「ここは、そう……夢の中だ。まぁ君たちが想像するようなものとは違うけど」


 そう聞いて安堵した。何だ、夢か。じゃあ何でも有りだ。肉体がなくて意識だけになってても何の問題もないな。私の内から不安は消えたが、声は止む事なく発され続ける。私の事など気にも留めていないかのように。


「人はね、有限なんだ。肉体や命だけじゃなくて、記憶もね。過去すべての事を覚えていられないのは、容量が限られているから。つまり、今日の体験を明日に持ち越す為には、思い出のいくつかを消して、忘れて貰って、空いたスペースに保存しなくちゃならないんだよ。それがこの夢の中で、私が行っている作業って訳」


 作業って。人の記憶を消す行為を作業って。て言うか、こっちの承諾も得ず? 相談してよ。「これ消しますけど大丈夫ですか?」くらい確認してよ。忘れちゃいけない事だってあるんだから。その位気を配ってくれたっていいんじゃないの?


「今日の君は――随分と良い事があったみたいだねぇ。大した容量もないくせに、よくもまぁこんなデカデカと。これはかなり消さなきゃなぁ。こっちの身にもなって欲しいよね、まったくさぁ……」


 ストレートに罵倒されたし、嫌味まで言われた。やかましいわ、こっちの台詞だわ。しかも"かなり消さなきゃいけない"って大丈夫なのか? こいつもしかして、目に付いた記憶を片っ端から消して回る気か? じゃあもしかして課題や約束を忘れてしまうのは、私の物忘れの激しさはこいつが原因なのでは?


「まずはいつも通り、重要度の比較的低い記憶から消していこう。幼稚園の卒園式の記憶とか今更どうでもいいよね? 消去」


 嘘でしょマジで私に許可なく消しやがった!

 いや確かにどうでもいいけど! 正直まったく覚えてない記憶だけど! 折角この場にいるんだから確認くらいしてよ! 折角だから!


「あっ、いつもこんな感じで作業に取り組んでいます。卒園式の記憶を消しました。別にいいですよね?」


 事後報告ゥ!!


「家族旅行で親とはぐれて半泣きで探し回った記憶かぁ。今となっては恥の記憶だよね。消去」


 あっまた無断で消した! こいつ……でもその記憶も別にいいかなぁ。はぐれた原因は私が親から離れた事だし、家族旅行の記憶自体が消える訳じゃないんだし。


「空きはまだまだ必要なので、引き続きじゃんじゃん消していきまーす」


 軽っ。人の記憶取り扱ってるくせに態度軽ぅ。大丈夫なのこれ? うっかり「大切な記憶まで消しちゃった☆」とかしないでしょうね?


「小学生時代に見た演劇の記憶、消去」


 …………うん。


「遠足で行った動物園の記憶、消去」


 はい。


「小学校の卒業式で隣の子がマジ泣きしてるのを見て冷めてしまった記憶、消去」


 ……………………。


 見事にどうでもいい記憶ばっかり消してるわ。

 むしろ私って容量少ないのにそんなのばっかり記憶してたの? 何で?


「深夜アニメにハマって言動の端々に好きなキャラの特徴を織り交ぜていた記憶、消去。欲望だけで構成されたヤマもオチもない自作小説を書き溜めていた記憶、消去。数学で人生初となる赤点を取ってしまった記憶、消去。」


 あっ、優秀……。

 自らが招いた恥辱塗れの中学時代がみるみる内に浄化されていく。


「クラスメイトと喧嘩した記憶、消去。部活で結果を残せなかった記憶、消去。親友と別々の高校になった記憶、消去。進学先の高校への失望、消去。うぅむ、まだ足りない――あっ」


 凄く間の抜けた声がした。先程まで聞いていた口調とは余りにも違う、まさに「やっちゃった☆」って感じの声。こいつ……まさか、こいつ、もしかして――!!


「今日の恋に関係する諸情報を記憶するには、君の容量じゃまったく足りてないねこれ…………」


 えっ。

 そんな馬鹿な!! 今日一日分ですよね? 初恋を自覚してからとかじゃなくて! 思い出の数々より更に容量食うってどういう事? 告白成功の記憶が凄いの? それとも私の今までが薄っぺらかったの? あるいは私の容量が凄まじくショボいって事なのぉ!?


「取り得る選択肢はふたつだね。今日の記憶を維持する代わりに、過去の様々な思い出を失うか。それとも、今まで通りの君を維持するけど、今日の出来事に関する記憶を失うか――君はどうする?」


 突然迫られた二択。ある意味、究極の二択。そしてここに来て質問して来やがった。さっきまで独り言みたいな口調だったのに。


 華々しき青春の1ページだけを残すか、今まで積み上げてきた私そのものを残すか。

 今を取るか、過去を取るか。

 幸せな今さえあれば、私は生きていけるのか?

 私が私であるために、初めての恋を捨てるのか?

 私にそこまでの価値があるか? いやそう言うならば、むしろ恋にそこまでの価値があるのか?

 10年そこそこしか生きちゃいないけど、それでも沢山の出来事があった。悲しい事があったし、辛い事もあった。けれどそれと同じ位嬉しい事があったし、楽しい事もあった。

 それらがあるからこそ、今の自分があるのではないか? そんな自分だったからこそ、あの人を好きになって、あの人に応えてもらえたのではないか? 私が私である事は決して無価値なんかじゃない。易々と忘れ去っていい過去なんて、ひとつとしてありはしないんだ。


 でも、だからって、一度しかない初恋の記憶を捨てるなんて。忘れたくない。私の今までの積み重ねが手繰り寄せた成功だからこそ、忘れる訳にはいかないのに。


 私はどうすればいい? 私は、私は――――


 ……………………。

 あれ? そういえばこれ、夢じゃなかったっけ?




 目に映ったのは、薄暗い部屋に浮かび上がった、すっかり見慣れた白い天井。自室の天井だ。見間違えようもないし、疑う必要もない。


 何だかよくわからないが、凄く嫌な夢を見た気がする。汗で全身くまなくぐっしょり濡れて、髪も呼吸も酷く乱れているのはそのせいだろう。だが、肝心の内容がさっぱり思い出せない。

 脳内は靄がかったように不明瞭で、身体の気怠さが凄まじい。重い右手で頭を掻きむしりながら、左手を支えに身を起こし、よろけながらもベッドから抜け出す。後は意識するまでもなく、身体に従うままに、窓の前へと近付き、カーテンを左右に押し開いた。


 眩い光。

 大小様々な建造物によって凸凹に歪められた地平線から覗く、オレンジ色の太陽。

 朝日だ。

 新しい朝が来たのだ。


 

 …………朝?

 ……………………。


 あの人の恋人として迎える、初めての朝!


「おほぉっ、テンション上がってきたぁ!」


 脳内の靄は消し飛び、全身にくまなく活力が行き渡る。熱い血潮が迸り、生命の炎が燃え上がるのを感じた。

 危険だと知りながらも、太陽を直視する事を止められない。この栄光の始まりを、脳裏に焼き付けずにはいられなかった。


「雲ひとつない快晴にッ、燦然と輝く偉大なる太陽! これはふたりの輝かしい未来を暗示してるわ間違いなし!」


 身を翻し、ドアを開け放ち、廊下を駆け抜け、階段を飛び降りた。両足から伝わる着地の衝撃すらも心地良い。生の実感をこれでもかと伝達してくる。


「最ッ高のっ、お目覚めだぁぁぁぁぁ!!!!」




 嫌な夢を見た。

 でもその内容は忘れた。

 けれど別にそれでいいじゃないか。


 忘てしまうようなものなんて、きっと大した事じゃないんだろうから。

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