夢の中の彼

水鳥ざくろ

第1話夢の中の彼

 いつだって僕は夢の中で迷子になっている。

 夢だと分かるのは、自分のほっぺたを抓っても痛くないから。

 ここはどこ?

 どこから来たの?

 どこへ行こうとしているの?

 分からない。夢の中では、何も分からない。

 それでも僕は、だいたいどこかへ向かおうとして走っている。

 白い大きな建物の中を、ぐるぐる、ぐるぐると、駆け回っている。そして、最後には彼に巡り合うのだ。


「おはよう」


 彼が白い歯を見せて笑った。

 僕は彼に「おはよう」と返す。

 夢の中なのに、おはようだなんて変なの。


「今日の授業は朝から古典だね」


 彼は高校の制服を着ていた。そうか、僕は高校三年生だったっけ。赤いネクタイをしているから。

 受験が迫っていて、とても息が苦しい時期なんだ。彼も、綺麗な赤いネクタイを締めていて、学年が同じだということを示している。


「宿題やって来た?」

「宿題?」

「覚えていない? プリント三枚」

「……覚えてない。忘れた」


 そう言うと、彼はおかしそうに笑った。そして、綺麗な黒い瞳を僕に向けて首を傾げる。


「良かったら、写す?」

「えっ? 良いの」

「良いよ。タダでは駄目だけど」

「どうすれば良い?」


 そう尋ねた僕に、彼はまた白い歯を見せて笑った。


「いつもの、ちょうだい?」

「いつもの?」

「忘れたの?」

「忘れた」

「しょうがないなあ。キスだよ。キスしてくれたら写させてあげる」


 そうか、キスか。

 すっかり忘れていた。僕と彼は、キスをする仲なんだ。

 目を瞑った彼のくちびるに、僕は自分のそれをくっつけた。子供のキス。けど、良いんだ。僕たちは今、子供なんだから。

 しばらくして、彼は目を開けた。そして、嬉しそうに笑う。


「いいよ。はい、宿題」

「ありがとう」


 彼からプリントを受け取って、僕はそれを写し始めた。僕は今、教室に居る。

 廊下と反対側の窓際。

 出席順の机の並び。

 綺麗に磨かれた黒板。

 すべてが懐かしい。僕は時計を見た。あと十分で授業が始まってしまう。


「やばっ。間に合うかな?」

「良いんだよ。どうせ、先生は来ないから」

「……どういう意味?」

「だって、先生は俺だもの」


 そう言って、彼は僕のシャープペンシルを取り上げた。

 彼が先生?

 だって、彼は僕と同じ高校三年生で……。

 ああ、そうか……。

 僕は彼の中に居るんだ。彼の記憶の片隅。小さな隙間。

 いつか、彼の中に入り込んで、その目から見える景色を見てみたいと願ったことがある。神様がそれを叶えてくれたのだろうか。


「ねえ、もう一回、キスしてよ」


 彼が笑う。

 僕はそのくちびるに触れる前に、目を覚ました。


***


「う……ん」

「おはよう。寝坊助」


 つんつん、と頬を突かれて僕は目を開けた。

 狭いベッド。

 ここは僕の部屋。そう、昨夜は先生が僕のアパートに泊まりに来たんだ。


「うなされてたけど、大丈夫か?」

「あ、先生だ……」

「他に誰に見える?」

「先生の夢を見ました」

「へえ……どんな夢?」

「先生が、もっと可愛かった頃の夢です」

「なんだそりゃ」


 先生は僕が高校の時の古典の先生。

 卒業してから、互いに恋愛対象が男性だと知って付き合い始めた。これで三年目。長く続いていると思う。


「僕、いつも夢で同じ人に会うんです」

「不思議なことだな」

「たぶん、その人は先生です」

「おもいろいこと言うな。さあ、今日は大学の授業早いんだろ? 早く用意しろよ?」

「はい」


 のろのろと起き上がる僕に対して、先生はもうスーツをぴしっと着ている。先生、出て行くの早いから。高校まで車で三十分はかかるもんね、仕方ない。


「それじゃ、俺はもう行くから」

「はい。次は僕が先生の家まで行きます」

「分かった……それじゃ、ちょうだい?」

「えっ?」

「とぼけんなって」


 先生はいたずらに笑ってみせた。


「いつもの、ちょうだい?」


 その言葉に心臓が跳ねた。

 ほら、やっぱり夢の中の彼は、先生なんだ。

 僕は玄関まで歩いて、少し屈んだ先生にキスをした。

 夢の中でのキスの続き。

 僕は、これが現実なのか確かめるために、こっそりと自分の頬を抓ってみた。

 じんわりと広がる痛みが、僕がしっかりと目覚めていることを知らせていた。

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