少女はC158H251N39O46Sの海で舞う
名取
授業開始
授業開始のチャイムの音がして、反射的に背筋を伸ばした。
「それでは、始めます」
先生が黒板に国語の問題を書いていくのを見て、私はホッとした。よかった、居眠りしてたの、バレてなかったんだ。
私はそっと机の中からノートと理系の問題集を取り出し、こっそりと解き始めた。これは学校の宿題ではなく、両親から特別に課されたノルマなのだ。企業の研究室で働く有能な科学者である両親は、私にとっては、誰より頼りになる家庭教師だ。将来、二人のような優れた科学者になるためには、私は努力を惜しまない。
「この問題、わかる人?」
先生がそう言っていたが、私は手を挙げなかった。この先生の授業では、手を挙げた人以外は絶対当てられることはない。学期始めに、先生自身がそう宣言していたのだから間違いない。引け目を感じないことはないが、これで安心して内職ができるというわけだ。ときおり時計を見ながら、問題集を黙々と解く。今回の問題集はいつもより難しいが、両親はいつも私をこんな言葉で励ましてくれる。「わからない問題に出会った時は、思いついたことを手当たり次第に試しなさい」と。
しかし、授業が始まって数分経った頃だろうか。
先生が、突然私の名前を呼んだ。
「では、葛西みのりさん」
私は驚いて顔を上げた。
「え? でも私、手を挙げてないですよ」
「だってここには、あなた以外に生徒はいません」
「え?」
そう言われて教室を見ると、確かに、室内には私と先生しかいなかった。机と椅子は人数分あるのに、誰も座っていない。
「え、本当だ。なんで……?」
「わからないんですか、葛西さん? 理系にばかり力を入れて、文系の授業をちゃんと聞いていないからですよ」
「え、そんな……だって、これは……」
私が言葉を失っていると、先生は困り顔になって窓の方へと歩いていき、カーテンを開いた。
「それでは葛西さん、この問題ならわかりますか?」
「え!?」
私は思わず後ずさって、椅子を倒してしまった。
窓の外は、海底になっていた。
「どういうこと……?」
私は恐る恐る窓に近づいて、外を観察した。
よく見れば、海底というには明るすぎる。なので窓越しに、光のさしてくる上の方も見てみたが、やはり水しかなく、プールで潜って空を見上げたときのような感じだった。水自体はまるで浅瀬のそれのように透き通っていて綺麗だったし、そもそも建物は底についていない。見た感じ、これは、校舎そのものが海の中に浮いているとしか思えない。しかし、教室内はわずかな揺れもなく、足場は安定している。
「なにこれ……?」
私は窓ガラスから顔を離すと、震える足で後ずさった。この状態でもし窓ガラスにヒビでも入ったりしたら、海に突っ込んだ自動車がそうなるように、水がどんどん室内に入り込んでくるに違いない。この水の量なら、水泳経験者でもない私は、間違いなく溺死してしまう。
「と、とにかく、どうにかして帰らなきゃ……」
「おや、早退ですか?」
先生が私の顔を覗き込んできたので、思わず「ひっ!」と叫んでしまった。
「は、はい。でも先生、家に帰るには、どうしたら……?」
「鍵を探してください。鍵は職員室にあります」
私は急いで職員室へと走った。廊下に出ても、誰もいない。恐ろしさに膝が震えそうになるのを必死にこらえ、やっと職員室の前まで来ると、ふと、掲示板が目に入った。それを見た瞬間、さああっと顔から血の気が引いていくのがわかった。
写真が二枚、貼られている。
私の家が燃えている写真。そしてもう一枚は墓場の写真。そこにある名前は、私のよく知る、二つの名前。
「うそ……」
私はその場にくずおれた。
「私の両親はもう……この世にいない……?」
二枚しか貼られていなかったはずなのに、それらとは別の一枚の写真が、またひらりと床に落ちてきた。そこに写っていたのは、頭に包帯を巻いた私自身の姿だった。それを見て、私はすぐに思い出した。思い出してしまった。
火事で両親を亡くして絶望した私は、校舎の屋上から飛び降りたのだ。
幸い、葉の生い茂る木の上に落ちたこともあり、一命は取り留めたものの、脳には記憶障害が残った。いっときの気の迷いによって、科学者として働く道は、永久に閉ざされたのだ。
ああ。
私は、自分自身の未来でさえ、この手で破壊してしまった。
ここがどこで何なのかはわからない。夢の世界か、天国、あるいは地獄なのかもしれない。けれど、このことだけは事実だとわかった。私の人生は、もはやとっくに終わっている。
「なら……」
無意識に、乾いた笑いが込み上げて来た。自分のあまりの愚かさに、もう笑うしかなかった。
「もう、生きてたって、意味ないんだ」
「意味がないなら、どうします?」
いつのまにか、隣には先生がいた。振り返る気力もなく、俯いたままで答える。
「意味がないなら、なにをしたって、無駄でしょ」
「無駄だとしても、意味がないとしても、あなたにはきっとまだ一つ、やりたかったことがあるはずです。この謎の校舎を目にした時から、ずっと、あなたは気になっていたはずですよ?」
「そんなの、ないよ……どうでもいいよ、もう」
「でもあなたのご両親は言っていたそうですね。『手当たり次第に試せ』と」
「……」
「どうせこのまま死ぬというのなら、それを試してみてからでもいいのでは?」
「……それもそうだね」
私はふらりと立ち上がると、窓のところまで歩き、勢いよく鍵を外して開けた。ものすごい轟音とともに透明な海水が流れ込んでくる。あっという間に、私の体は海に飲み込まれた。流木のように私はただ、水の流れに身をまかせる。
意識を取り戻した時、私は砂浜に打ち上げられていた。
燦々と降り注ぐ南国の日差し。頭上にはヤシの木まで見える。おまけにこの浜辺、泥湯のように暖かくて心地いい。なんだこの突然の楽園は。
ゆっくり上体を起こすと、海では楽しげにイルカたちが泳いでいる。マリンスポーツに興じる人々や、海の家っぽい建物まである。水着姿の男女がそこかしこでいちゃついている。やっぱここ地獄か。
「なんなのよ……?」
和やかなリゾート風景に困惑しながら、あたりを見回す。すると近くの砂に、古びたメッセージボトルが埋まっていた。中にまた写真が入っている。瓶を開けて見ると、それは少年の顔写真だった。
「この子って、私の……」
そこで私は、やっと、すべての記憶を思い出した。
目覚めた数分後、私は、怯える男たちの前で金属バットを振り回していた。
「お、お前今の今まで、殴られて気絶してたろ! 病み上がりでそんな動きができるわけが……」
「やかましい!」
ビクッと男たちがたじろいだ。私は天を仰いで叫んだ。
「今私は! 脳内麻薬ドバドバで! 誰がなんと言おうと! 最っっっっっっっ高の気分なんだよ! はっはっは!」
目覚めてすぐ、狂犬のごとく暴れた私に不意を突かれて武器を奪われ、あっさりと伸されたリーダー格の男はピクリとも動かない。そいつを踏みつけながら悪魔のように高笑いをする私に、グループの他のメンバーは怯んでいた。というか普通にヤバい女を見る目をしていた。犯罪者連中にそんな目で見られる筋合いはない。私がギッと睨み返すと、ヒイッと悲鳴が上がる。
中学時代の出来事によって科学者になる夢を諦めた私は、なんとか入れた地元の大学に通いながら塾講師のバイトをしていた。そしてある日の講義の帰り、見てしまったのだ。いつも一人ぼっちでいる教え子が、悪い男たちの車に押し込まれて、攫われていく現場を。気づけば私は自分の車で彼らを追いかけていた。
警察にもすぐに電話をしたが、間に合わなかった場合が気がかりだったし、ほとんど会話もしたことがない子だったが、放っておけないとなぜか強くそう思った。家で色々とあるらしく、クラスの誰にも心を開こうとしない彼が、どこか昔の私に似ていたせいかもしれない。男たちが車で入っていったのは廃校舎だった。男たちに気づかれずに忍び込んだつもりだったのだが、後方で見張りをしていた男に殴られてしまった。それで意識を失い、長い夢を見、そして目覚めて今に至る。
「で、あの子はどこにいるの? さっさと吐きなさいよ」
私は睨みつけながら尋ねた。目覚めはなぜかすこぶる良かった。痛みもない。教え子を守るという正義感に駆られていたし、ここまで無我夢中で車を飛ばして追いかけてきたことによって、脳内麻薬出まくりの超絶ハイな状態になっていたおかげかもしれない。あとでちゃんと病院に行かねばならないだろうが、今はそれより人命だ。
「ま、まだ車のトランクに入れたままですぅ」
震え声で答える犯罪者連中に、つい舌打ちが出る。まだトランクに入れっぱなしとは、一体こいつら何をしたかったのだ。人様を巻き込んでおいて。計画性という言葉を叩き込んでやりたいものだ。気分が良いついでにそいつらを軽くボコボコにしたあと、私は教え子のところへと走った。外に出ると、周りがうっすら明るい。もう朝日が昇ってきているようだ。
「生きててよね……」
祈りながら車のトランクを開けると、教え子が眠っていた。どうやら無事らしい。朝日の眩しさで目を覚ました彼は、混乱した表情でこちらを見ている。私はホッと息を吐き、彼の頭をそっと撫でた。
難しい問題にぶち当たったら、とにかく手当たり次第になんでもやるしかない。両親はそう言っていたし、確かにそれしかもう、私には残っていない。でもそれも、悪くはない。
私ごときの人生一つ二つ潰れたところで、化学式は永遠だ。
朝日を浴びたことで生み出されたセロトニンと、まだ少し頭に回っているβ-エンドルフィンの快楽に酔いしれながら、私はふやけた笑顔で言った。
「おはよう、少年。君が生きていてくれて、私は本当に嬉しいよ」
少女はC158H251N39O46Sの海で舞う 名取 @sweepblack3
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