幸せだったはずの私は、今はそう言い切れなかった。

 宗人とはお付き合いを続けているけど、全く幸せじゃない。

 むしろ、不幸のどん底に落ちていた。


 つい一週間前まで、私は幸せだったのに。

 何故急に、こんなことになってしまったのか。

 私が変わったんじゃない。宗人が変わってしまったのだ。


「ねえ。さっきの男、誰?」


「宗人。違うよ。あの人は、道を聞いていただけで」


「嘘言うな。道を聞く人なんて、そうそういるわけがないだろ。ナンパでもされていたんじゃないか? そうなんだろ」


 最初は、小さな束縛。

 あまり男と話さないで、とか。可愛すぎる格好をしてると心配になる、とか。

 私はそれが逆に嬉しくて、愛されていると実感していた。


 しかしその束縛は、だんだんエスカレートしていった。

 私の近くに男が近寄るだけでも嫌がり、少しでも話したら怒って手がつけられなくなる。

 でも、どんなに怒鳴られてもそれ以外の時は優しかったし、好きという気持ちの方が大きかった。

 今までの思い出があるからこそ、宗人は本来はもっと違うんだと分かっていた。

 だから、不安にさせてしまう私が悪いんだ。

 そう思ってしまった。


 これがDVの被害者の思考と全く同じなのを、私は全く気付いていない。

 自分は被害者ではなく、加害者。

 そんな考えだったから、誰かに相談しようということすらも思いつかない。

 私は手をあげられるようになってからも、しばらくは我慢していた。

 叩いた後に私を抱きしめる宗人は、子供のように涙を流していて後悔しているようだった。

 そしていつもより優しくしてくれるから、ほだされてしまう。

 悪い人じゃないんだ、私のせいで辛い思いをさせてしまった。

 だから、そのうちきっと昔のように戻ってくれる。


 どんどん駄目な方向に考えがいってしまい、気が付けばどつぼにはまっていた。

 こうしている間にも、宗人の暴力はエスカレートしていく。

 最初は見えない位置。服で隠れる場所を狙っていたのに、最近は顔を殴ってくるようにもなった。

 だから私は生傷がたえず顔にあり、周囲の人に心配されるようになる。

 転んだ、ぶつけた。そんな言い訳は、すぐに通用しなくなってしまう。

 私が誰かに暴力を振るわれているのではないか。そんな噂が飛び交い始めた。


 必死に否定しても、傷が増えるばかりだから説得力がなかった。

 心配をしてくれるのは嬉しかったけど、これに関しては余計なお世話だった。

 私は人と関わるのが面倒になって、避けるようになる。


 そうして周りに誰もいなくなって、ようやく宗人は安心してくれたみたいだ。


「あはは。これで俺と姫は二人きり」


 私の頭を撫でながら、毎日満足そうに呟く。

 従順な犬のようにそれを受け入れて、大人しく撫でられていた。

 孤立してから暴力は振るわれなくなったけど、どんなきっかけでまた始まるか分からない。

 そう考えたら、私は彼を怒らせないように行動するしかなかった。


「姫……好きだよ」


 私の気持ちを知らないのか、あえて見ないふりをしているのか。

 彼は昔と随分変わってしまった笑顔を、私に向けてきた。

 それを見ていたら、なんだか無性に涙が出てきそうになって。私は下を向いて鼻をすすった。

 彼が何かを言ってくる声は聞こえたけど、私の脳は解読する気力すらもなく、右から左へ流れていった。



 宗人といて幸せを感じられなくなったのに、どうして今でも一緒にいるのだろうか。

 人間関係を壊してからは、時間を持て余すようになって、よく考えるようになった。

 最初の頃は、好きだったから一緒にいた。

 でも今は、そんな理由で一緒にいるわけじゃない。


 ……ただの惰性だ。


 私は今更、宗人が近くからいなくなるのが怖くて、それなら逆らわない方がいいと我慢していた。

 しかし、こんな風にしていて本当に正解だったのか。

 答えを知っているわけじゃないけど、今の私がしていることは絶対に間違っている。


 そう思ってしまったら、一気に愛が冷めていった。

 私の人生を宗人中心にする理由が、全く無いのになぜ一緒にいるのか。

 このまま孤立して、気に入らないことがあれば暴力を振るわれ続けていたら、最後には死んでしまう。

 彼のために死ぬなんて、そんなの絶対に嫌だ。


 パッと目が覚めるような気分だった。

 私は急に自分の状況を冷静に理解して、そして逃げようとまで考えた。

 ここまでで、時間は数秒もかかっていない。

 今まで宗人にかけられていた洗脳が、切れたみたいだ。


「そうだ、逃げよう」


 声に出して言えば、その考えは現実味を帯びてきた。

 しかも都合のいいことに、現在宗人は出かけていて、逃げようと思えば簡単に逃げられる。

 まるで神様が逃げろと言ってくれているみたいで、私はゆっくりと立ち上がった。


 部屋を出て、のろのろと廊下を歩き、そして向かった先。

 それは久しぶりに入るところだった。


「あれ? 姫、家に来ていたんだ。また宗人と遊んでいたの?」


 ノックもせずに入れば、部屋の主が驚いた顔で出迎えてくれる。

 その変わらない様子に、自然と私の目から涙が溢れてきた。


「え、姫? どうしたの?」


 何も言わずに部屋に入って、そして急に涙を流す。そんな不審な私の行動を見て、何かがおかしいと思ったみたいだ。

 私の方に駆け寄って、背中を優しく撫でてくれた。

 久しぶりに感じる人の優しさに、さらに涙が溢れ出す。

 そして、いつしか私は、今までのことを話してしまっていた。



「そう。そんなことがあったんだ……大変だったね」


 私はずっと背中を撫でられ続けながら、全てを話し終えた。

 聞き終えた宗久は、優しく私を抱きしめる。


「大丈夫だよ。姫のことは俺が守るから」


 その言葉は力強くて、私は安心して身を委ねた。

 宗人と同じ顔をしているけど、宗久は全然違う。

 そう感じていた。


「あのね……宗久……私……」


 この時何を言おうとしたのか、自分でも分からなくなったので二度と言葉になることは無かった。

 私の言葉を遮るように、大きな着信音が鳴り響いたからだ。

 何故か慌てて離れてしまい、ポケットの中に入れていたスマホを取り出す。


 バイブで震えているそれは、画面に『宗人』と書かれていた。

 その名前を見た途端、私は時間が止まるのを感じた。

 宗人が電話をかけてくることは、ほとんどない。

 それなのに今、かけてくるなんて。

 この状況で見透かされているような気がして、怖くなった。


「大丈夫?」


 顔を青ざめさせた私を心配して、彼は画面を覗き込んでくる。

 そして画面の名前を見ると、手を握ってくれた。


「嫌なら出なくてもいいんだよ」


 彼は私のことを思って、逃げてもいいと言ってくれる。

 本音を言えば、逃げたかった。

 でもそれじゃあ、何の解決にもならない。


 私は握られた手に勇気をもらい、電話に出た。


「もしもし……」




「……え?」




「宗人が、事故にあった……?」

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