In to the dark.

古海うろこ

In to the dark.

 ごうごうと滝のような音がする。清涼な松の香りとひたすらに広がる闇。体が熱くて気が狂いそうだ。深夜三時の公園で私は死にかけている。まだ数学の宿題が終わっていないな、と思った。

「もう三分もすれば、君は失血死するよ」

 どうする、と声が降ってきた。視界に入った大きな革靴へ、縋るように、私の血がゆるやかに近づいていく。

「……死にたくない」

 泥水を啜るように生きてきた。食事もまともに与えられず、暴力に晒され、こうして逃げ出した最中で母さんに刺されても、生を諦めきれない。私をないがしろにした人のせいで死にたくはなかった。

「そのまま死んだ方が幸せかもしれません」

「助けて、大都議先生……」

「中御堂ミノリとしての人生を捨てる?」

「私は、約束を……守りました」

 大都議先生の秘密をこの町で私だけが知っているし、私の傷を大都議先生だけが知っている。先生は人間ではない。一ヶ月前この場所で見たことを誰にも言っていない。だからこの地獄から救い出してほしい。

「助けて」

 口から血がこぼれた。刺された場所が悪すぎた。母さんは随分前から少しおかしくなっていたけど、娘を刺したことがまずい、ということはわかったみたいですぐに逃げ出した。でもやっぱり思考力が低下していたんだ。私をここに放置するべきじゃなかった。車ですぐそこの海にでも捨てに行けば、私は母さんの望み通り死んでいたのに。そして、今日が満月じゃなかったら。

「わかりました」

 そう言って、大都議先生はスーツが汚れることも気にせず地面に膝をついた。長い腕で私を抱き起こす。死にかけの私よりも冷たい手が襟元に触れる。先生の目は、昼間教室で見る時と違って赤かった。首の皮を突き破る牙。

「……っ、い、ぅ」

 吸血鬼がこんな冴えない田舎町に存在しているなんて、きっと誰も信じない。残り少ない血を吸われてより一層死に近づくにつれ、私の中身が作り変えられていくのがわかる。細胞の一つ一つが叫んでいるようだった。どくどくと脈打つ腹が徐々に落ち着きを取り戻して、私は先生と同じ生き物になる。

「これは、元に戻らないんですか」

「流れた血はどうしようもありません。早急に食事を」

「どこで……誰を襲えばいいんですか」

「それはもう、決まっているのでは?」

 その通りだった。血まみれの服を隠すように、大都議先生は私に背広をかけた。体温の残留していない、無機質な布。私に残った人の温度もすぐに薄れていくのだろう。

「きっとあの人は家にいます」

「食事が済んだら、町を出ましょう。そして名前を捨てなさい」

「なんて名乗れば」

「苗字は私のものをあげます。名前は新しいものを。好きなものはありますか?」

「わかりません……でも、この香りは好きです」

「松? それはいいですね、あり余る生命力に祈りをこめて」

 大都議先生が私の手を引いた。清涼な松の香り。ごうごうと響く滝のような音はもう聞こえない。

「君はこれから大都議マツバと名乗りなさい」

 満月の下、二人で公園を出る。

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In to the dark. 古海うろこ @urumiuroko

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