光の道

双子椅子

第1話

 答辞、卒業歌、在校生校歌斉唱。

 二年間、事あるごとに歌わされたおかげで、頭を空っぽにしたまま口を動かしていると、後ろから背中を叩かれた。

「佐野、早く準備して!」

 女子の列からわざわざやってきたのか、部長の紺野が叩いた拳をグーのまま、小声で短く言った。

 黒い人混みを静かにかき分けて体育館の端を進み、卒業式のスケジュール表が貼ってあるホワイトボード裏に隠れている細階段を上がる。

「卒業生の歌で吹奏部員は移動って、昨日連絡したでしょ」

「……そうだっけ」

 ずんずんと前を行く、馬の尻尾のように束ねた長髪がピタリと止まる。

「アンタね、坂梨先輩に振られたからっていつま――むがぐ!」

「どこから漏れてんだよ、その話」

 踊り場とも呼べない狭い通路では、紺野の口だけを塞ごうにも、小柄な彼女を壁に押し付ける体勢になってしまう。

「リハーサルの日。体育館の裏で佐野と坂梨先輩を見たって。クラスの人から聞いた」

 批難がましい目をむけられて思わず顔をそらす。客観的に見れば事実かもしれないし、違うと説明するには切迫した今だと時間がない。口を開きかけては言葉に迷っていると、紺野は体をよじって二階に上がっていった。


 普段は屋内の観戦時にしか使われない狭いキャットウォークに、他の部員が各自楽器を準備していた。紺野は不安そうな一年部員に手順を確認させ、上階に視線を向けられないよう同級生たちに静かに移動を細かく指示する。

 すでに他の男子部員は一年生と共に通路の奥で待機しており、ずらりと並んだ楽器と部員のただでさえ場所を取る配置を通ることはできなかった。

 校歌斉唱が終わってサクソフォンを持ち上げた佐野は、クラリネットを携えた紺野の隣で座奏することになった。

「閉会の辞――」

 司会の教員が短く閉会式の言葉を締めくくると、無言の館内が慌ただしく流れていく。

 指揮棒を持った顧問が吹奏楽部から対岸のキャットウォークへ移動し始める。出だしを外さないように、全体の意識が指揮棒へ集中していく。

「卒業生、退場」

 パイプ椅子の軋みが響き、立ち上がって振り返った卒業生が花道に列を作ると、演奏が始まった。

 担任に先導されて在校生の拍手に見送られながら、春の陽射しに輝く体育館の外へゆっくりと去っていく。

 退場曲は今年の流行り曲のメドレーで、長めの演奏時間なのもあって催し事のたびに演奏していた。間奏中でも曲に馴染みのある女子生徒たちは泣き腫らした赤い目のまま感動しっぱなしで退場していく。

 トランペットの独奏。つかの間、クラリネットとサクソフォン組が同時に楽器を下げる。佐野の視線が思わず引き寄せられた。

 坂梨部長。良く笑い、初参加の全国コンクールに緊張する佐野たちを励まして、落選したときも顧問に怒られながら一人だけ笑って、音をミスして号泣する部員を慰めて、一度も涙を見せたことはなかった。

 隣で紺野が身じろぎする気配を感じた。

 どうして全国コンクールでミスをした紺野を次の部長に指名したのか。あの日、佐野はリハーサルの見学にやってきた坂梨先輩に訊いた。

 プレッシャーに弱い紺野を、わざわざ目立つ場所に引き上げたのは何故なんですか。上手い人は他にもいたのに。

――コンちゃんなら大丈夫。まっすぐに自分の気持ちを出せる人は、周りを巻き込んで成長できるはずだから。

 艶やかな黒髪をなびかせて、坂梨先輩は今日も笑顔で歩いていく。光の差す方へ。

――それに、佐野君もコンちゃんの隣で支えてくれるでしょ?

 拍手の海を、春の陽だまりへ緩やかに泳いでゆく卒業生の波。そこから突然、卒業証書を大きく掲げた彼女が飛び出した。

 円筒の卒業証書を指揮棒のように大きく振り回す。リハーサルで一年生が何度も躓いたパートを知っているから。対岸のキャットウォークからでは、細かい指揮が見えにくいと懸念していた紺野たち二年生の不安を知っていた。

「あんな度胸、俺には無理だな」

 囁くと、控えめに紺野が笑った。

「佐野にできなくても、私は部長なの」

 隣に映る横顔は、昨日まで佐野が憶えていたよりも大人びていて、階下の光の道より輝いていた。


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