佐多さん6
ママは余白が怖いみたい。だから私の予定もみっちり詰まってないと不安になるし、自分もパートやネットでの内職とか、人と会う時間をたくさん作って、何もしない時間がないようにしている。
疲れた。
私はママじゃない。そうだ、私はママじゃないから、別に空いた時間が怖くないし、ひとりでいるのも嫌いじゃない。
言葉にするとなんだかほっとした。私はママじゃない。
眠る時間だけ、私はママから解放される。でもなんだか結局ママのことを考えてしまって、割に合わない。ベッドの上で、白いシーツの上で、死んだように眠っているときだけ、私は本当に自由になれる気がする。私の意識があるときは、全然自由じゃない。死んでしまったら本物の自由を手にすることができるだろうか。それとも私はやっぱり、ママの所有物のままなんだろうか。わからない。
ママは私を綺麗に飾り立ててくれる。髪が乱れていたら直してくれるし、洋服だって靴だってなんだって買ってくれる。私は時々、自分が着せ替え人形にでも鉈ような気分になる。たとえママと買い物に行ったって、
「この服可愛いな」
そう呟いてもママは
「あなたにはまだ早いんじゃない?」
とか
「こっちの色の方がずっと似あう」
って言って、私は結局ママが着せたいものを着せられてしまうのだった。
いっそのこと人形なら良かった。人形なら意志なんか持たないだろうから。
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「先生は」
美術の時間にふと顔を上げてみた。鎌田先生はときどき私のことを、遠い世界の人を眺めるような、不思議な目をして見ている。
「先生はどうして教師になろうと思ったんですか」
すこし首をかしげて、成り行きで、と言ったのが聞こえた。へぇ、と私は低い声を出した。
ある日突然「大人になる」って宣言して大人になれたらいいのに。勝手に体だけ大きくなってしまって、でも私は自分が何をすべきなのか、どうしたらいいのか、まだ全然わからない。大人の人がどうやって仕事とかやるべきことを見つけていくのか、全然わからない。
死ぬことだけが私の自由意思を保証してくれる唯一の方法であるような気がしてきた。
そこまで考えて、そういえば今学期最後の美術の時間だったことに気がついて、愕然とした。夏休みを含めて一か月と少し。鎌田先生に会えなくなる。私、大丈夫なんだろうか。
大丈夫? なにが? 何言ってるんだろう、私、バカみたいだ。意味わかんないな。ママならきっと言うだろう。「何言ってるの?」「意味わかんない」私だって、自分が何を言ってるか、全然わからない。
やっぱり夏休みの間に死んじゃうしかないのかな。そうしたらもう、きっと、なにもかも、自由だ。こんなくだらない感情に心を悩ますこともないのに。
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夏休みに入ってママがあちこち、例えば博物館だったり、科学館だったり、映画だったり、美術館に連れて行ってくれる。あるいは習い事の夏期講習。短期集中講座。市民公開講座の陶芸。フラワーアレンジメント。
私には友達がいない。連れ出してくれるような仲間もいない。ママにも友達はいない。私に断られたときに、代わりに行ってくれるような相手がいない。だからママの誘いを断れない。
湿った粘土をこねながら、頭の中でがんがん響く声がする。
「死ね」
「お前みたいなやつが一番嫌いなんだわ」
その声はあの子、あの黒髪の男の子のようでもあり、それとも全然知らない声のようでもあった。頭の芯の方、奥底の方にずっと響いていて、こびりついて取れない。
「筋がいいですね」
陶芸教室の先生が声をかけてくれる。ママが何か話している。私はこういう雑談が苦手なので、黙っている。小さいころはお行儀がいいですね、と褒められたけど、最近では笑顔で何か一言二言話さないといけないような雰囲気を感じて怖い。
私は本当に死んだ方がいいのかもしれないな、とふと思った。ずっと触れていると粘土が温くなって、かさかさと乾いてきた。
頭の中の声が大きくなるにつれて、体中の水分が干上がっていくように感じる。声が体の中の水気を吸い上げて成長しているのかもしれない。まるで妊娠しているみたいだ。
*************
夏休みのある日、ふと気がつくと、学校に来ていた。グラウンドや体育館で部活に励んでいる生徒たちの姿が見える。職員室をこっそりのぞくと、数人の先生がクーラーの効いた室内で仕事をされていた。
「鎌田先生」
先生が呆けた顔で私を見た。
「え」
なんでここに、という顔だった。
「先生、ひまですか」
「見てわかるでしょ、忙しいです」
まぁでも、せっかく来てくれたし。と先生は席を立った。
「絵でも見ていきますか」
「はい」
先生が美術室のカギを手にする。
先生の側にいると呼吸が楽だなぁと思った。
「今日はどうしたの」
「学校が恋しくなりました」
「変わってるね、みんな学校なんか嫌いでしょ」
「嫌いだけど、恋しくなるんです。変ですよね。給食の、ごはんのときに出てくる牛乳みたいです。小学生の時はあの組み合わせが苦痛だったけど、ときどき思い出すときの、記憶の中の牛乳は、なんだかとても恋しい感じがする」
先生は美術部の描の描きかけの絵を見せてくれた。上手い子も下手な子も、みんなそれぞれ好きな絵を描いている。うらやましいな、と少し思った。
「先生は絵を描かれないんですか」
「最近は描いてませんね」
「なぜ?」
「忙しくて。って言ったらいいわけじみて聞こえるかな」
「大人は大変なんですね」
「実はそうでも、ないんですけどね」
怠けたくなるんです。大人になると。と先生は言った。
「絵を描くことをですか?」
「好きになることを。です」
先生の言っていることは私にはいまいちよくわからなかった。
「私、なにか描きたくなってきました。先生のこと、描いてもいいですか」
え、と先生は言って、困ったな、と鼻の頭を掻いた。
「そうだ。佐多さん美術部、どうですか。友達できますよ。君ならきっと」
「母が。反対するんです。ちゃんと勉強するのよって」
「それはもったいない」
「ですか」
私、はたからみても、友達のいない、正真正銘ぼっちですもんね。というと、先生は困ったように、そう言うことが言いたいんじゃないけど、つまりなんていうか、君には同じ年の友達が必要なんじゃないかなって。としどろもどろになりながら答えた。
「友達ね、欲しいと思うんです。でも、母に見つかると、ダメなんです。あの子地味ね、とか、気が強そうね、とか、もっときちんとしたこと付き合いなさい、とか、母が言うので、私、わからなくなってしまう。その子の好きだったところとか、素敵だったところとか、全部分からなくなってしまうんです。咄嗟に反論できないところも、まるで友達を裏切ってしまったみたいな気持ちになって、ダメなんです」
私はクロッキー帳を引きずり出して、先生の絵を描き始めた。柔らかくて色の薄い髪の毛とか、ごつごつした喉、薄い耳の形、すっと通った鼻筋、すこし小さくて、切れ長の一重の目、薄くて形のいい唇、ひとつひとつを確かめるように、鉛筆を動かした。
先生の目は戸惑っているようにも、呆れているようにも、困っているようにも見えて、だけど私は、せめて絵の中でだけでも先生の形をとどめたかったので、気づかないふりをして鉛筆を走らせ続けた。
「鳩のことなんだけど」
先生の唇が最小限の動きをする。
「はい」
あの時のことを話すべきなんだろうか。私はずっとこのことを聞かれるのを待っていたのではなかっただろうか。それなのに、いざ話題に触れられると、言葉が出てこない。待ちかねた先生が言葉を継ぐ。
「鳩って」
私は先生の語尾に言葉をかぶせた。
「怖い、ですよね」
「それはなぜ?」
「それは……。わかりません。あの目に見つめられると、からだがすくんで、動けなくなるんです」
「学校にも鳩がいてね。美術部の誰かが餌付けしているみたいで。普段はそこの杉の木で休んでるんだ。昼休みになると、近づいてくる」
「誰かに憎まれるのって、怖いと思いませんか」
「鳩に憎まれるようなことをしたの」
「いえ、でも、憎んでいるのかも。わかりません。私、わたし」
自分でも何を話そうとしているのかよくわからなかった。私はクロッキー帳を閉じて、先生の目を見た。
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