鈴木君5

 鎌田に呼び出されてビビった。こないだの、図書室の件がばれたかと思った。前々から本棚をいじって、ちょっとした刺激で板が外れるように細工しておいた。まぁでも嫌いな奴に嫌いって言って何が悪いんだよ。気にする方が悪いだろ。普通に。


 と思ったら一学期の後半の課題についてだった。そう言えば白紙に近いものを出したんだった。実のところ絵を描く事自体は嫌いじゃない。描いた絵についてごちゃごちゃ言われるのが煩わしいだけ。なんでお前に評価されないといけないんだよ。ふざけるなよ。


 佐多は鎌田が好きみたいだし、どうにかなったら面白いのに。ふたりとも真面目で詰まらなかった。最近なにもかも思うように行かなくて、面白いことがない。退屈だ。


「今週いっぱい待つから、描いて」

 鎌田は俺に画用紙を突き返してきた。

「描けないんすよ。なに描いていいかわかんねぇ」

「なんでもいいよ、他の生徒の作品見る? 参考にしてみなよ」

「いや俺は……」

 鎌田はごそごそと画用紙の数枚を引き抜いて俺の目の前に並べた。何のこともない絵が目の前に並べられていく。画用紙の中にアクリル絵の具が縦横無尽に塗りたくられていた。口唇。フロイト派によると性欲の象徴だと。笑える。あるいは手の中に描かれた目。無数の目。自我の芽生えと「見られている」個の自覚。いかにも中学生。という感じでこれはとても結構ですね。あくびを噛み殺しそうになる絵が美術室の机の上に並んでいる。

 他にも目線の辺りを黒い絵の具で塗りつぶされた自画像や、立ち入り禁止線の中で鳴っている目覚まし時計。どれもこれも、ああそうですか、それで? という感じだ。その中の一枚にふと目が留まる。



 あ、佐多の絵だな、と思った。ケガをして飛び去って行く鳩の絵があった。包帯を巻かれて手当てされていた。ちらりと鎌田の顔を見る。ほとんど表情に変化がない。頬の筋肉が一瞬痙攣した。

「鳩って平和の象徴なんですよね」

 俺の声に鎌田は黙って耳を傾けている。

「でもなんか、野蛮な感じしません? 鳩の目って」

「野蛮?」

「感情とかなさそうだし」

 それはどうかな、と鎌田は言った。意識があるとか感情があるとかないとか、人間を基準にして語るのはおかしいし、どんな生き物にもそう呼ぶべきものはあるでしょう。と続ける。

「絵のテーマが克服したい欠点とか、破りたい殻でしたっけ。俺そう言うのマジ無理なんで。ついていけないっていうか、え、それを書かせてどうするのw あまつさえ評価するとかどんな神経してんだよって感じです。描きたくないし、出したくない。成績、何つけてくれてもいいんで。俺は書かない。あんたは先生ごっこで楽しいかもしれないけど、付き合わされるこっちの身にもなってください」

「描けないんじゃなくて?」

「え?」

 立ち去ろうとしたのに、思わず振り返ってしまった。安い挑発に乗ってしまったようだ。よくない。

「自分の未来とか想像できる? できないんじゃないか? 自分を客観視するような課題を避けてる感じがする」

「いや、できます」

 できます、と言った瞬間心臓がぞわりと震えた。

「あえて今のことしか考えてない感じがする。過去のことも、未来のことも、考えられないんじゃないか?」

「そんなわけないでしょ、なに言ってるんですか?」

「じゃあ出せるな。三日で書いてきて」

「あんたちょっと無神経じゃないですか。俺は簡単に分かったようなことを言われたくない。あんたが俺の絵を題材に何か言おうとしていることが気に入らない。だから拒否します。描きません」

「お前描けるんだから。できるのにやらないのはよくない」

 大きなお世話だ、と思った。




 その日の放課後、担任に絵の具をもって美術室に行くよう声をかけられた。俺はもちろんすっぽかすつもりで、はい。と言った。ところが担任の久保は

「お前が逃げないように送り届けてくれって頼まれてるから」

 などと言ってなかなか教室から去ろうとしない。しぶしぶ絵の具を持って美術室に向かった。

「先生、約束通り連れてきましたよ」

「ありがとうございます」

 担任の久保と鎌田はしばらく談笑して、久保は俺に「せいぜい頑張れよ」と言い残すと美術室を出て行った。


 鎌田は俺を席に着かせ、俺の真正面にイスを持ってきて座って言う。

「お前の言い分ももっともだと思った。だから、テーマはお前が決めていい。画用紙一枚に、好きなものを書いていいから、今週中に仕上げて提出してくれ」

「そんな近くで見られてたら描けねぇだろ」

「でも見てないとお前帰っちゃいそうだから」

「うるせーな、お前は準備室で仕事してろよ」

 むかつく。ちゃちゃっと終わらせて帰るか。



 そのときなんかふっと描きたいものが下りてきて、俺は鉛筆を握った。 



 月面に立っている顔のない男。欠けた三日月の顔の男だ。顔がないから男は何も見ることができない。月面にはランプがともされていて、道沿いにただ続いている。画面の向こうには太陽が覗いている。


 描き始めるとだいたいいつもこうだ。夢中なのだ。気がつくと下校時間だった。絵はほとんど完成だった。仕上げに多めの水で溶いた薄い黄色で月の表面を塗った。太陽は赤と朱色と金色。男の体は黒。薄紫で影をつけて仕上げた。悪くない。


「今日はそろそろ終わりにしようか」

 声をかけに来た鎌田が絵を見て目を丸くした。俺の言う通り律儀に準備室から出てこなかったらしい。馬鹿正直な奴。途中で投げ出して帰ってやればよかった。

「できた」

「一日で?」

「これで満足だろ」

「いや、そうなんだけど。そう。そうだな。上出来じゃん」

「うるせぇな、だからごちゃごちゃ言われたくねぇって言ってんだろが」

 人の話聞けよ、死ね。俺はパレットを軽く洗って雑巾で水気をとった。雑に片づけていると、鎌田が「絵、好きなんだな」と呟いたのを、無視してそのままかばんを掴んで帰った。

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