仁科君5
佐多さんに本を借りるようになって、時間の潰し方が分かった。本を読むといつの間にか夕飯の時間になっているのだ。不思議だった。タイムマシンにでも乗っている気持ちだ。吾輩のモデルが夏目漱石だと聞いて、なんだか面白かった。胃が悪いのに、ジャムを一瓶舐めてしまって、家の人に怒られている文豪を想像すると、面白い。
でも連載打ち切り漫画みたいに、ネコが死んでしまったのは哀しかった。
母さんは本を読んでいるぼくには何も言わない。これがスマホゲームだとほぼ確実に怒られていると思う。そうか、大人はこんな簡単なことで対応を変えるんだ、と思うと不思議だったけど、納得した。
母さんが想像する、いい大人というのは、ちゃんと大学を出て、名の知れた企業に就職して、お金を稼いで、親に仕送りしたりしながら結婚して、子どもを作る人のことを言うのだろうと思った。兄さんは、母さんが想像するいい大人になるのだろうか。わからなかった。もしも兄さんがいい大人になれなかったら、今度はぼくがいい大人にならなければいけないのかもしれない。
兄さんの代わりはぼくには務まらないのに。そんなこと、誰が見たってわかることなのに。なのに、母さんだけが、そのことに納得してくれない。
いい大人の暮らしを、母さんは実現しているはずなのに、それなのになんだか幸せそうじゃなくて、毎日とても大変そうだ。母さんが大変そうなのはもちろんぼくも辛い。辛いけどなんていうか、自分がいざやってみて、全然素敵でも楽しくもないような暮らしを、母さんはぼくたちになぞらせようとしているんだと思うと、とてもいびつに思う。
ちゃんとした、いい大人ってなんなんだろう。母さんはそれになれたんだろうか。父さんは、なれたんだろうか。ぼくも同じものを目指すべきなんだろうか。全然わからない。世の中はわからないことだらけだ。
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佐多さんが図書委員で貸し出し当番のときは、ぼくは必ず図書室に立ち寄るようにしていた。佐多さんが読んでいるものをさりげなく覚えて、メモする。読んでみようとして、挫折する。仕方なく、読みやすいものを教えてもらう、という行動を繰り返すようになった。佐多さんははじめ、ぼくのことをとても警戒していた。今もしていると思う。けれどもさすがに、少しずつ心を開いてくれているように思う。
もしも今ぼくが佐多さんに「好きです」と言ったら、佐多さんはぼくと付き合ってくれるのだろうか。ぼくは佐多さんと付き合いたいのだろうか。付き合ってセックスをしたいのだろうか。最終的には佐多さんみたいな人と結婚して子供がほしいのだろうか。クラスの連中が言っているみたいなことを、ぼくもするのだろうか。したいのだろうか。するべきなんだろうか。
性欲みたいなものがあるのは自分でもわかる。でもその先のことを考えると気持ち悪くてたまらない。佐多さんの手を触ったりすることも考えられない。ぼくが触ることで佐多さんの神聖さのようなものが失われてしまう気がする。触ってはいけない人だ、彼女は。
セックスの先には結婚があって、その先には子供を作ること、家庭を持つことがある。と小学生の時に母さんが言っていた。そのことを考えると気持ち悪くてたわまらない。不幸せな大人が不幸せな子どもを作る。そんなの絶対に間違ってる。子どもは生まれてくる環境を選べるべきだ。もしぼくが子供なら、ぼくを親には選ばないだろう。だからぼくは親になるべき人間ではない。
それならぼくは、恋愛もすべきでないのだろうか。わからない。この気持ちはそもそも恋愛なのか? 佐多さんを好きなのか? ぼくは、ぼくは。
母さんみたいになりたくないし、佐多さんを母さんみたいにしたくない。
「自殺は本当にいけないと思う?」
佐多さんがいつになく真剣な顔で聞いてきた。
「え?」
質問は聞き取れていたものの、なにを聞かれているか全くわからなかった。
「自殺って、いけないことだと思う?」
「いや、ぼくは」
なんて答えていいのだろう。わからなくて後頭部に手をやった。髪の間に手を入れて、地肌に近いところを触っていると安心する。
「こんなに人口が増えてしまった今では、人口を抑制することは正しいことではないかしら。私たちの食料は以前植物と動物に依存しているわけだけれども、すべて突き詰めれば植物が太陽光からエネルギーを得て生成した成分で賄われている。地球上のリソースはそもそも有限で限りがあるの。人口が無制限に増えてしまったら、いずれ水や食料が足りなくなる」
佐多さんはぼくに顔を近づけているけれども、ぼくの方を見てはいなかった。
「つまり宗教が自殺を禁じた時代とは状況が異なるということだと思うの」
佐多さんはドフトエフスキーの本を読んでいる。感化されたのだろうか。
「私は、自殺は悪ではないと思う」
「死にたいの?」
ぼくの質問に、佐多さんは一瞬唖然とした。おそらく予想外の質問だったのだろう。
「佐多さん、死にたいの」
ぼくはもう一度繰り返した。佐多さんはさっと目を伏せた。
「そうかぁ」
とぼくは間抜けな声を出した。
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