鈴木君3
十一歳を過ぎたころから、母親は俺を殴らなくなった。その代わり、存在をほとんど無視するようになった。そのころにはもう、痛みはほとんど麻痺していた。正直なところ、幼いころほどつらかった。母親が俺の価値をほとんど認めていないことが。認められていないことが。疎まれていることが。辛かった。そのこと自体が俺を苦しめた。感情が。あることが。俺は自分の弱さを受け入れられなかった。直視できなかった。自分が愛される可能性がある、と信じたかった。信じられると思っていた。
最大限いつも努力はしていたつもりだ。愛されるべき存在になるための努力。愛、というと今では全身から力が抜けるような、倦怠感をもたらす間抜けな響きしか感じられない。けれども幼児は愛を求めるように習性づけられている。そういう個体以外生き残ってこられなかったからだ。
愛を望まない幼児は死ぬ。
愛を与えられない幼児も死ぬ。大半が死ぬ。
だから、生き物がこの世に生まれてから、自ら立ち上がるまでの時間は糞尿と恥辱にまみれている。
俺だって御多分に漏れず。あさましい、見るも無残な。連戦連敗の記録を打ち立て続けたわけだけれども、かといって挑むことを止めたら死んでしまう。生きるというのはそういうことなのだと思う。
けれどもその時は案外早くやってきた。
掴みかかってきた腕を振り払おうとした瞬間、母親の目に怯えの色が見えた。母親が怯えている。俺に? ずっとコケにしてきた、俺に、この女は恐怖を感じている。そう気がついた時、自分の中の何かが死ぬのを感じた。同時に何かが生まれてきた。生まれたというのは少し違うかもしれない。そいつは音もたてずに俺の背後に忍び寄って、気がついた時には体の中にいた。
「奪われないために奪うことは悪いことじゃない」とそいつは言った。
「お前が怯えているものなんかこんなものだ」
「ちゃんと目を開けてみろ。大したものじゃないさ」
たいしたことではない。それはその通りらしかった。
「簡単なことだ。奪われる前に奪えばいいんだ」
でも、一体何を?
「お前が今まで損なわれてきたものすべて」
例えば?
「尊厳、機会、金銭」
なぜ?
「奪われたものを取り返すのは当然のことだろ」
それもそうかな。
「そうだよ」
でもどうやって
「簡単だよ」
されたことをそのまますればいいんだよ。と聞こえた気がした。幻聴だったかもしれない。そもそもが幻聴なのに。おかしな話だ。
けれど実際そいつの言うとおりだった。それまで不安定で制御不能だった感情に少し手を加えるだけで、怖いくらい周りが思い通りに動く。目線を少し滑らせるだけで。声を張り上げずとも、ほんの少し囁くだけで。
俺の体は知らないうちに大きく成長していて、周りが勝手に俺を怖がる。こんな簡単なことだったのか。これだけのことに今まで。いつの間にか俺たちの立場は逆転していて、周りの世界がすべて変わってしまっていた。生まれた、というのは錯覚で、俺はずっとこのままで、周りの世界だけがぐるりと反転してしまったのかもしれなかった。
人間がこんなに簡単に動かせることを俺は今まで知らなかった。
それでも鮮烈な恥の意識は消えない。今でもまだ心臓の奥の方にわけのわからないぐちゃぐちゃの感情が居座っている気がする。俺はそれを完璧にコントロールする必要がある。わけのわからないものに蓋をして、表現可能なものに加工する必要がある。俺は自分自身を完璧に統率して、必要な時に、使わなければならない。
俺は、べきだ
するべきだ
統率するべきだ
自分自身をコントロールするべきだ
あの女みたいになりたいのか?
お前を産んだあの女みたいに。
感情を抑えるだけで、見えないように覆ってしまうだけで、面白いように人が集まってくる。俺にはそれが不思議だった。みんなまるで支配されたがっているように思えた。おこぼれにあやかりたいのかもしれない。甘い蜜を。蜜を?
褒める、なだめる、すかす、殴る、嗤う。
たったそれだけのことで、人間が思うように動く。なんて単純なんだろう。
体の中に、自動制御のモーター装置が入っているのかもしれない。
開いてみないことには、わからないけど。
こんなに簡単なのに、自分のことを複雑そうに思っている彼らがまるで、
木偶人形みたいだと思った。
人形なら、壊しても平気だろうか。
壊してもいいんじゃないか。
俺に所有権があるなら。
お前がそれを、望んでいるなら。
割りを食わされている分を、取り返して何が悪いんだ。
同じことだ、俺がしなくても誰かほかのやつが同じことをする。
なら、変わらない。
同じことなんだ。
望まれていることを、するだけ。
誰かが望むなら、俺はそれをする。
それだけのことだった。
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