佐多さん3
あんまり学校に行きたくない。なんでだろう、しんどい。体が重い。なんか変になってしまったのかな。わからないけど。
担任の山本先生は相変わらず親しみやすくて優しい。クラスのみんなも優しい。でもなんていうか、なんだろう。わからない。違和感があって、ぬぐえない。表面をなぞるみたいな、会話とかやり取りとか。様子を見ている、見られている感じがして、気持ちが悪い。
自意識過剰なんだよ。そうなのかな。そうなの?
「あ、あの子」
「背高いねー」
「大人みたい」
自分のこと言われてるの気になるのって、普通のことじゃないの?
わからない。見た目の話はもうたくさん。たくさんなんだって。
「きれいねー」
「髪さらさら」
「あしなが」
なんで、
そんなに
みんな
吐きそうだ。
お願いだから、黙っててよ。黙って通り過ぎさせて。
好きだったはずの美術の時間もなんだか苦しい。時間が過ぎるのが遅い。
生徒の絵を見回っていた鎌田先生がふと私の机の側で足を止めた。
「どうした? 具合でも悪い?」
「いえ」
男の先生に話しかけると、つい、あからさまに距離を空けてしまう。別に殴られたりしない。わかっているはずなのに。押し倒されたときの感覚がまざまざと蘇る。ぎゅっと耳の奥で音が鳴る。死んだら、痛くも悲しくもない、じゆうになる。男の子の声が耳に残っている。だから殺してあげるって、そんな、横暴な。
誰もそんなこと頼んでない。
気がつくと私は画用紙を一面同じ色で塗り固めていた。「わたしの花」。課題では将来咲かせたい花を描かなければいけないのに、私はいつまでたっても下地から進めない。先生が「悩みでもある?」と聞いてきたのも当然な気がした。これは少し、異常だ。一色で塗ってはまた次の色で、それが終わればまた別の色で、私はいつまでも同じ作業で足踏みしている。このままではいけない、なにか書かなければ。
震える手で茎を描いた。少し歪んでしまったけど、節っぽくてかえってリアルかもしれない。今度は葉を。思っていたより小さく弱弱しい葉になった。でも売っている切り花の葉は、たしかこんな感じだ。大丈夫、合ってる。間違ってない。そして花を。花を―――――――――――
何色を使えばいいんだろう。手が震える。恐る恐る白色の絵の具を絞り出した。画用紙の上に塗り付けるけど、乾ききらなかった下地の赤色の絵の具が少し混じって、表面に出てくる。
あ、やってしまった。
赤――――――――――――
頭の中に血で汚れた白い羽がちらつく。
私がもう少し早く気がついていたら、空に飛び立っていたかもしれない、鳩。
先生の手が私の肩に触れて、はっと正気に戻った。
「行き詰ってるね、気分転換する? 教材の荷解き、手伝ってくれる」
美術準備室に呼んでくれて座らせてくれた。段ボールの中の教材をビニールから出して、数を確認する作業を頼まれる。先生はすぐに美術室に戻って、準備室のドアを閉めた。たぶん、私の具合が悪いことを察してくれたんだと思う。申し訳ない。私は先生のデスクの前で椅子の上に丸くなって、うずくまった。膝に顔をうずめる。恐怖心とか、罪悪感、みたいなものがぐるぐると体の中に居座っている。どうしよう、鎮まれ、鎮まれ。って思うんだけど止まない。
疲れていた。学校の宿題と、塾の宿題。習い事と家の往復。考え事をする時間もない。どんどん違和感が溜まって、頭の中で冷たく重い岩みたいになる。死んでしまいたい。バン! 家の窓を叩いた鳩のことを思い出す。怖い。鳩が怖い。見張られているような気がする。いい子でいるかどうか。私があの事を黙っているかどうか。鳩はきっとあの子のしもべなのだ。私の頭の中では、そう言う風になっている気がする。
子どもの頃はあのときのことをうまく言葉にできなくて、誰にも言えなかった。でも今なら? 私は誰かにあの事を言いたいのかもしれない。でも、あの子に、あの男の子にばれたらどうしよう。今度こそ、殺されてしまうのではないか。
どうしよう。
「大丈夫?」
鎌田先生の声がする。
顔を上げると、先生が心配そうにのぞき込んでいた。
「すいません、寝不足で」
私は何とか嫌悪感をにじませないように、答える。
寝不足なのは本当だった。私は疲れている。
疲れているから、こんな風になるんだ。
「保健室行こうか」
「いえ、すいません、あの……大丈夫です」
「もう少し休んでたほうがいいと思う。ひとりになりたいって、顔に書いてある」
「顔に……?」
「他人が見てもすぐにわかる状態ってこと」
「あ……。」
鳩が。先生、鳩が、せんせいが、怖いです。
そういうふうに顔に書いてあったら便利なのになぁ。
言葉を通さなくても、通じる魔法があったらいいのに。
先生は机の上からプリントの束をとって、また準備室を出て行った。
準備室の音は、教室の音とすこしちがう。反響の仕方が、違う。
ものが多いからだろうか? それとも壁が違うのだろうか。
音が吸い込まれるみたいで、少しだけ、安心する。
窓を閉めているから、ここなら鳩も入ってこられないと思う。
卒業生の残した絵や、棚に飾られた、見本のため? の作品群。
気配や残響であふれていて、落ち着く。
人といるのは苦手だけど、人の気配には触れていたい。
触れていたいのだ。
美術の作品は、確かにそこに誰かがいて、これを作っていた。
という気配だけを忠実に今に伝えてくれる、タイムカプセルみたいなものだ。
一緒にいるとすごく、守られている気持ちになる。
そこまで考えて、なんだか自分のおかしさに乾いた笑いが漏れた。
気配ってなんだよ。それにそもそも、鳩は被害者なのに、どうしてあの子に力を貸したりするんだろう。私を見張っているなんて。
変だよ。変なの。
私おかしいのかな。
目を閉じて、自分の膝にピッタリ耳をつけて、体の音を聞いていた。
体の中から響いてくる音に、耳を澄ませていた。
チャイムが鳴る。
もう、ここを出ないといけないのだと思うと、なんだかすごく寂しかった。
人の視線がないってこんなに安心するものなんだ。
不意に呼ばれて体が震えた。
「佐多さん」
「はい」
鎌田先生が私の絵の具や教科書、筆箱を持って立っていた。どうやら代わりに片づけてくれたらしい。何から何まで。恥ずかしくなってお礼が言えない。申し訳なくて、体が縮んでしまったような気分になる。穴があったら入りたい。先生はプリントを見せながら、テスト範囲と次回以降の授業計画について説明してくれたけど、全然頭に入ってこない。声を言葉として認識することができない。
「最近様子が変だけど、なにかあった?」
無意識に、はと、という言葉が口をついて出て、私は慌てて手で口を押えた。
「鳩?」
「何でもないです」
私は立ち上がって、先生の手の中から荷物を奪い取ろうとした。ばらばら、と荷物が床に落ちる。先生の手をひっかいてしまって、みみず腫れを作ってしまった。赤い線が入る。腫れやすい体質なのか、見る間に傷が膨れ上がった。先生の皮膚は薄い。見るからに痛々しい傷が、罪悪感を刺激する。
「すみません」
私は慌てて荷物を拾い集め、何度も頭を下げて、逃げるように準備室を出た。
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